2010年03月04日

8月25日、母娘日本へ飛ぶ。祖父母の出迎えに駆け寄る娘たち。翌日、ランが入園する幼稚園を訪れる。

というわけで、拙文におつき合い、誠にありがとうございました。
まあ、こよなく愛する物書き分野で一定の評価を得られたのだろうと解釈すると、これは実に興奮に値する体験であり、今後も機会と意欲と書きたくてたまらなくなる構想が生まれれば、生涯書き続けたいと思った。

 さて、このヨロコビ冷めやらぬうちに、8月25日がとうとうやってきて、ランとメイと私はリーと義母の空港までの見送りを受けて、日本へ向け飛び立った。
 日本滞在期間が半年か、1年か、それ以上になりランが幼稚園卒園までになるかははっきりわからないまま台湾を離れた。

 関空着は午後1:00。
到着ゲートを出ると、娘たちは私より先を歩き、いち早く電車とバスで迎えに来た祖父母(私の両親)を見つけ、駆け出した。
「じーちゃーん、ばーちゃーん!!」
高い天井の白い建物に響き渡る彼女らの声。周囲を気遣ったが、映画のワンシーンのような微笑ましい光景と言えるのだろう、にこにこと周りは眺めてくれた。

 とにかく日本へ帰って来た。先ははっきり晴れては見えないがやるしかない。
 ほとんど日本語をしゃべれなくなった娘たちと祖父母の通訳役にも忙しい日々が始まった。

 翌26日、さっそく幼稚園の主任教諭を訪ねる。
 この幼稚園は私が数十年前に通った母校でもあった。
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2010年03月03日

『客家の祖母より、綿々と』〜6〜

 家の周囲は祖母の畑で、ついこの間まで自力で耕していた彼女に代わり、今は苗栗の叔父たちが様々な野菜を育てている。
 帰り支度を始めた私たちのために、栽培者の一人、三女の叔母が畑に入り、キャベツ、大根、かぶらに似た大頭菜などを引き抜いてくれる。すべて無農薬だ。丸々とすこやかに実り、どう料理しようか、わくわくしてくる。いただく時には、祖母たちの顔や、苗栗の風景が浮かび、美味に芳香を加える。

 長らえば、喜びも多い分、苦労もついてくる。六人も子を持つと、彼らも苦難に遭い、老い、病む。そして、依然、母を慕い、彼らは還って来る。五聖宮の神仏の如く、ここで祖母は皆を迎える。畑でのびのび育つ野菜たちまで、祖母の血肉を分け与えられたように豊かで尊い。
 還るね、と告げると、正直すぎるほど祖母の表情は寂しさを表現した。それを直視する心苦しさを紛らわしたくて、私は祖母の細くやわらかい手を取り、大きく話しかけた。
「さくさん食べて、しっかり歩いて、元気でね。また来るから。」
 娘たちも、祖母に飛びつくようにバイバイする。土が付いたままの野菜たちを手に手に、車へ向かう。電話での会話もままならなくなり祖母の健康を願いながら、再会までの別れを惜しむ。
 車窓から、伸びぬ腰で立つ祖母たちにだるくなるほど手を振って、五聖宮をも後にすると、祖母の壁で止まったままの時間や日付けの魔法が少しずつ薄れ始める。おばあちゃん、また近いうちにね。我が胸に言い聞かせる声が、自ずと響く。
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2010年03月02日

『客家の祖母より、綿々と』〜5〜

 母の存在は甚大だ。子子孫孫まで呼び寄せる力は強い。
「でも、からだが弱って動けない。かわいそうねえ。もうすぐ死にます。」
 また来た。
「バカなこと言ってないで、もっともっと元気でいてよ。」
「ほんとよ、まったく。戯言ばっかり言うんだから。」
 別便で帰省した義母のすぐ下の妹が聞きつけて口を出す。この叔母も台北在住だが、一週間祖母に付き添うことになっていた。
 あまり長く話すと祖母が疲れないかと叔母に訊く。横になってるもの平気よ、と言うので、私はベッド脇に座り続けた。
 壁には相変わらず三つの時計が掛けられ、それぞれ異なる時刻で針を止めている。どういう基準で淘汰されずに残ったか定かでないが、カレンダーも二種類剥がされず、絵画のように誇らしげだ。祖母の皮膚の皺、モノクロ映画で観たような昔造りの住居とそれらが、私の中で時空感覚を麻痺させる。と同時に、ここに来るたび、台湾に嫁いだ縁に思い至る。

 昼食後、母屋の椅子に腰掛けた祖母にカメラを向けた。娘たちとのスナップを撮りたかった。
 すると、祖母は手で振り払うような仕草をして、やめろという。
「鬼みたいだから、撮らなくていい。」
また戯言だ。
 何度も説得して、ようやくおとなしく構えてくれた。小さな娘たちをもなだめねばならず往生した。
 しかし、祖母は撮り終えても、まだ決まり悪そうにつぶやく。
「鬼みたいだから、撮らなくていいのに……」
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2010年03月01日

『客家の祖母より、綿々と』〜4〜

「からだの具合はどう?」
小学生が国語の教科書を吟唱するような調子になる。
「足が弱って痛い。もうすぐ死にます。」
「は?なに言ってるの?痛くても歩かないともっと弱るよ。歩いてる?」
 隣の部屋にも丸聞こえだろうと思いつつ、会話を続ける。
「はあー、ときどき、近所の年寄りといっしょに散歩する。」
「それはいい!だれかといっしょのほうが安心だからね。」
 本当にそうだ。一人で転びでもしたら大変だ。
「ことしの冬は寒かったねえ。」
高温多湿な台湾の気候に合わせた造りのこの<老齢一條龍>では、すきま風も容赦なく吹き込むにちがいない。
「とーても寒かった。夜、ひとりはさびしいよ。でも、寝てしまったら何も感じない。」
 私は同情する一方で、祖母の言い回しにユーモアを感じ、おかしくなった。
「さびしいけど、おじさんやおばさんがよく見に来てくれるでしょう?」
 祖母は約二十年前に夫を亡くしたが、二男四女に恵まれ、そのうちの次男と三女が苗栗に住み、しょっちゅう老母を見舞いに帰っているのを知っている。
「今日だって、ほら、こんなにおおぜいおばあちゃんに会いに来たんだよ。」
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2010年02月28日

『客家の祖母より、綿々と』〜3〜

 土や草花は香りを放つ。これは本当だ。日本の実家にも似た田舎のそこは、来るたび精神を弛緩させてくれる。五感が生き返る。
 広がりゆく田畑を見渡すと、その中ほどに向日葵が集まり咲いている。十二月に来た時、たしかコスモスが満開だった。
 小川に入り、カラス貝をすくい取るおじさんがいる。その動きに見入っていた娘たちが「カラス貝!カラス貝!」と連呼するのをあわてて制止したが、老年に近づいたその男性は歓声に頭をもたげ、にっこり笑ってくれてホッとする。
 五聖宮の方角へ歩を進めると、水田を機械で鋤いている。田植えの準備だ。基本的に、南部では三毛作だが、その他の地域では二毛作だ。日本ほどではないが、台湾の人もお米に対する探究心は旺盛で、麺よりご飯派の私はその恩恵に与っている。

 まだ歩きたがる娘たちの手を引っ張り、やっと家にたどり着くと、祖母は自室のベッドで横になっていた。用事が重なり、ここ二回帰省に同行できなかった私と祖母との再会は、約半年ぶりだ。以前にも増して耳が遠くなっていることがわかり、さらに祖母の耳元に寄り、ゆっくり大きく離しかける。
「耳が遠くなって、なんにも聞こえない。かわいそうねえ。」
 と、祖母は日本語で答える。それで私も日本語に切り替える。
「日本語、ぜんぶ忘れちゃった。」
と、謙遜するが、日本による統治時代に教育を受けた祖母は、かなり正確な発音で話す。若い時期に刻んだ記憶がなかなか消えないことに感心する。
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2010年02月27日

『客家の祖母より、綿々と』〜2〜

 台湾北中部の3縣、桃園、新竹及び苗栗は客家人が多く住む地域だ。台湾総人口の3分の1以上が集中する台北を離れるや否や、緑が増え、山が近づき、空が広がる。苗栗縣も、山地がその面積の80%を占める、のどかな里だ。

 祖母宅から百メートルほど行った山麓に五聖宮が座している。いわゆる純粋な仏教と異なり、仏教、道教、儒教が複雑に融合して発展してきた民間信仰の廟で、赤や黄を基調とした複数階建てになっている。そこには数人の神像が祀られ、ひとつの廟参拝で、複数の神仏を拝める。
 神仏同士がケンカでもしはしないかと、と浅薄な危惧がよぎるが、台湾の人々はその合理性を優先した。
 義母がその日を帰省に選んだのは、五聖宮で当日催しがあるためだった。ふだんから披露宴なども行われ、私も上の娘を連れて、祖母に付き添い列席したことがある。何はともあれ、祖母を訪ねた時は必ず足を運ぶ、馴染み深い場所だ。
 五聖宮の立派かつ派手な鳥居は廟から遠く、そこを越えてから祖母宅や他の多くの民家が散在している。車中で眠気、退屈と闘っていた娘たちは、着くなり散歩に出かけたがった。例年より寒く長かった冬は、去る速度も鈍く、とりあえずしっかり上着を羽織って、我が家四人は散策に出かけた。
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2010年02月26日

『客家の祖母より、綿々と』〜1〜

無事メールで東京の編集長と連絡がついた。
限られた「入賞」受賞者の掲載だが、私の拙作を載せることは既に編集長の腹では決まっていて、私は喜びと光栄に胸が震えた。

僭越ではあるが、何回かに分けてこの場をお借りし、それを載せたく思う。

『客家の祖母より、綿々と』
 客家語で「妹」には<女の子>の意味がある。
 よって、女児が生まれると、「妹」の字を好んで用いる客家人は少なくない。
 葉心妹。私の祖母も、その字を授けられたひとりだ。

 三月上旬、ひかえめに晴れた日曜日、私と2人の娘を乗せた夫の車は快調に滑り出した。近くに住む義母も加わるとほどなく、通称北二高(北部第2高速公路)に入り、台北から1時間近く走って、竹南インターチェンジで下りる。そこからさらに二十分ほどを費し、ようやく祖母宅に到着。
 苗栗縣頭屋郷。簡易な伝統的住居<一條龍>に、八十六歳の祖母はひとり暮らす。
 日本の祖父母たちが皆他界して久しい。自分が母親になり、あらためて彼らの不在を残念に思うが、台湾で再び祖母を持てたことはとても幸いだ。私の義母、すなわち、夫の母親が十九の若さで嫁ぎ、子を儲けたのと、祖母の長寿のおかげだろう。  
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2010年02月25日

拙作『客家の祖母より綿々と』が「入賞」受賞。だが、東京から来た封書は切手不足で3週間かけて台北着。編集長にメールを急ぐ。

ブログのメンテナンスと私の操作ミスか何かで、少しアップが変則的になってしまっているが、気を取り直そう。

その東京の出版社から1ヶ月ほど前、エッセー3次予選通過の知らせはもらっていた。
よって、次に何か通知があるのは賞に入った者だけとはわかっていたのだ。
夕暮れの郵便受けの前でドキドキ、その場で白い封筒を破り開ける。
『客家の祖母より綿々と』のエッセーが「入賞」に選ばれた。

「入賞」はトップの「大賞」から数えて4番目の賞だったが、その出版社の定期雑誌に掲載される可能性は高く、賞状、賞品、授賞式出席など「副賞」もついている。
喜びに沸き立ちながらも、私はハッとした。
この封書は東京を8月1日に出たものである。受賞者への諸々の指示があるが、その期限をとっくに過ぎているではないか。今日はもう8月21日だ。

家に入り、さらに詳しく調べてみると、その封書はなんと切手不足でとことん道草をしてから台北の我が家に届いたことがわかった。
幸い、そこには出版社のメールアドレスがあったので、私は急いで編集長あてに手紙をしたためた。
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2010年02月22日

8月25日台北発関空行日本航空625便まで、カウントダウン開始。荷造りに精を出す。東京の出版社から封書、受賞を直感。

帰りのチケットは8月25日午前9:25台北発関空行、JAL652便だった。
さて、いよいよカウントダウン開始、22日にはスーツケースを開き荷を詰め始めた。

2008年のその時点で、大抵利用していた日本アジア航空は無くなり、親会社である日本航空がその路線を運航するようになった。
ちょうど世界的に原油価格が高騰し始めた時期で、各航空会社とも運賃値上げを余儀なくされたが、日本航空もご多聞にもれず、であった。
他にも数社、関空へ飛ぶ航空会社はあるが、幼い娘2人を連れてでは、料金低めながら時間帯が理想的でないそれらはまだ避けたかった。

すでに船便でダンボール14箱を日本の実家へ発送しており、着々と無事に到着し、母がだいたい箱から出したり、日に干したりしていてくれた。
それでも3人分の家財道具は多く、スーツケースもすぐいっぱいになる勢いだ。2本の二胡は2本入れられるケースを購入し、もちろん肩にかけて持ち帰らねばならない。まあ、これでも一人をベビーカーか負い紐、もう一人の手を引いて移動した頃に比べれば、ずっと身軽になったと言える。

ちょうどそんな折、マンション階下のポストに日本から封書が届いた。原稿用紙10枚のエッセーを登校した会社の封筒である。
白いそれを手にした瞬間、私は何かしら賞を得たと直感した。
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失業・在宅3ヵ月半にして、リーようやく転職を決める。勤務地は台北市内湖区。恒常的渋滞避けられぬ場所ながら、ひとまずホッ。

さて、5月から続いたリーの失業・在宅状態は、8月19日ようやく決定的な進展と展開を見せた。9月1日より、かつて私とリーが知り合った会社の共通の元同僚が紹介した会社に行くことを決めたのだった。
ここでも書いたことがあるが、台湾大手の映画会社社長夫妻がその息子に始めさせたケータイに何やら配信する新会社である。
もともとリーはそこをあまり気に入らず、断わっていたのだが、向こうが譲歩したり、ラブコールを送り続けたことでリーの気持ちも徐々に変化して行ったようだった。
それに私が思うには、8月25日には娘たちが日本へ去り、寂しくなってしまう。ずっと無職状態も良くないし、家にいても仕方ないと考えたのだろう。

それはそれで私は大歓迎だった。ひとりポツネンと家にいて妻子の日本移住を恨まれるより、毎日通う場所があるのは精神的にも時間的にもいい具合に紛れるはずだ。給与もまあまあだった。

リーがいちばん嫌がったのは通勤であった。
台北市の内湖区に会社があり、いわば台北を縦断して通わねばならない。空いていれば25分くらいで行けるが、例によって恒常的渋滞に悩む台北では、まずそんなスムーズに行くことはほとんどない。その倍は見ておかねばならないし、彼のせっかちな性格には、トロトロとしか進まない渋滞が事のほか厄介だったのである。

ちなみに、この内湖区は近年開発が進んだ新興商業地域と言える。
台北市中心部には遠いが、新しいビルや商業区域が設けられ、都心部から移転する会社も少なくないのだ。
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2010年02月21日

妻を長期海外へ出す台湾と中国事情その2。かつて男尊女卑濃厚な台湾でも、女性の地位は上っている。義母の寛大さに感謝。

もちろん、その間旧正月などに帰国したり、こちらの家族が彼女の留学先を訪ねることはあるが、女性が結婚後、夫を置いて1年以上留学、なんてめーったにあり得ない日本人からすると、最初驚いたものだった。出稼ぎではなく、こういう場合は子どもがまだいないのが前提みたいな風潮はあるが。

こういうこともある。
日本にお嫁に来た台湾や中国の女性が1〜2ヶ月実家へ里帰りする。
お産でもないのに、それほど長い間嫁いだ女性が実家に帰ることなど日本ではあまり考えられない。

たしかに台湾は今なお父系社会で、男性の地位は高い。
しかし、女性のそれは日本同様だんだん上ってきている。

だからというのもナンだが、ひとりっこの私が、年老い、持病も悪化しつつある父の世話や、娘が就学前に日本生活を体験させようと実家へ帰ることは、台湾ではさほど度の過ぎた行為ではなかったのである。
義父はもう亡くなったが、義母へはリーが報告し、事情を話しており
「お前がいいなら」という感じで義母は何も反対しなかった。途中からでも日本へ行けることになるかもしれない、との思いもあったと思う。

母娘3人の日本帰国を前に、平穏ではない時もあったが、義母の寛大な許しに感謝せねばならなかった。
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2010年02月20日

日本長期一時帰国、期限は不確定、リー次第。妻を外国に出す中国と台湾の感覚とは。

そうだ。
1〜2年の長期一時帰国が決まったことについて補足が必要だと思いついた。
自分が一緒に行けないことで機嫌を悪くしがちなリー。
その様子を見かねて、その計画自体を取りやめることも何度か申し出たが、もう半分ヤケになったように「2年帰れ!」と言い張る彼。状況を見ながら日本滞在期間を決めるしかないと思っていた。1年は大丈夫だろう、というところだった。

もう、?とお感じの方もいるだろう。夫のもとをそんな長く離れていいの?と。夫が単身赴任になるならハナシは別だが、妻が出て行くのだから。
これは台湾でも、私がかつて通訳をして接した中国人の慣習を見ても然りなのだが、こういう点、日本人の感覚とはかなり異なる。
たとえば、中国内陸部の比較的働き口が少なかったり、富裕層にない地域に住む家族の場合、妻を数年外国に出稼ぎに行かせることは多々ある。子供がいてもいなくても、その子を世話する人が見つかれば関係ない。

台湾では、貧しいゆえに妻たる者が海外へ働きに出ると聞いた事はないが、よくあるのは婚約中や結婚後に恋人または妻を留学させるケースだ。夏休みなどに1〜2ヶ月だけ短期留学、というのではない。1〜2年てのも結構あるのだ。
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2010年02月19日

観光名所・中正紀念堂はその名の地下鉄の駅があり便利。だが、駅から紹介石像までは炎天、高いマンモス展入場料にも泣く。

マンモス展へ行ったのは8月12日、「中正紀念堂駅」のある地下鉄なので便利だが、門からその蒋介石が座しているところまでがサッカー場のように広く、一望しただけでめまいがしそうだ。まだ朝9時というのにギラギラ太陽の光が降り注ぎ、娘たちはすでに汗。日陰などなく、まともに歩くしかない。

やっとたどりついたマンモス会場は夏休み中らしく結構にぎわっていた。
容赦ない陽光の次は高い入場料に泣いた。
大人200元、3歳以下は無料でメイはタダだが、ランは4歳で180元も要る。台湾のこのテの入場料としては決して安くない。

気を取り直し、娘たちの手を引き会場に入る。幼い娘たちを楽しませわかりやすくしようとあれこれ説明してやる。入場料の元を取らねばという使命感もあった。
3歳と4歳では無理なのか、娘たちはわかったのかわかってないのかわからない反応だった。はーっ。

日本長期帰国まであと2週間足らず。
実家の母から、ランの幼稚園入園準備について連絡が来るようになった。座布団、コップや歯ブラシやそれを入れる袋、箸に絵本を入れるバッグなど買うもの、手作りするものとあれこれあるようなのだ。
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2010年02月18日

上海移住1年、妊娠中の義妹たち親子が夏休みで台湾へ里帰り。中正紀念堂、蒋介石像のある建物の地下部分でマンモス展開催。

幼稚園を自主卒園し、毎日が週末になったランの子守りが増えたが、家族で上海へ移住した義弟一家のうち義妹と2人の子どもたちが夏休みのため台湾へ一時帰国してきたので、リーはたびたび娘たちを連れて彼らが滞在している義母宅へ行った。
例によって義妹は第3子を懐妊中で、もうそのお腹がかなり目立つようになっていたが、彼女は生来アクティヴで、遊びに出かけるのが好きなタチゆえ、しょっちゅう家にいなかった。悪阻がひどかった私は、リーに、
「彼女、あんなにウロウロして大丈夫なのかなあ?」
と言うと、
「悪阻なんてほとんどないみたいだし、3人目にもなると慣れたもんで何ともないんじゃない?」
……。たしかに。

が、上海の義妹たち親子が台湾へ里帰りするのはその後、旧正月の年一回になった。小学生の2人の子どもたちは学業やピアノ、サッカーの練習で多忙ながら台北へ帰りたがったが、家族は5人に増え、往復の飛行機代は大きな負担となってきたのだ。

さて。アウトドア派のリーは8月の酷暑にもかかわらず娘たちを連れ出したが、私は紫外線も怖くて同行しないことが多かった。
しかし、そんなことばかりもしておられず、リーが出かける日、私はバスと地下鉄で台北市内の中正紀念堂へ娘たちと向かった。
『長毛象特展 TAIPEI2008』〜沈睡18000年的氷原巨獣〜
というマンモスの展覧会が開催されていると友人から聞いたのだ。

中正紀念堂は有名な観光名所のひとつだが、蒋介石像がある建物の地下のような部分には、大小様々なホールがあるのを私はその日まで知らなかった。
マンモス会場はそこであった。
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2010年02月17日

台湾の保育園、幼稚園は8月に新学年度開始。ラン、7月いっぱいで自主卒園、8月25日日本帰国決まる。郵便局でダンボール箱買い出し。

台湾はアメリカなどと同様、各種学校は原則として9月始まりだが、幼稚園や保育園はなぜか8月に新年度を迎える。いわば、7月末日で3学期や学年が終了し、8月1日にはもう新学年や新学期が始まるので、保育士たちは旧正月休みしかまとまった休暇がない。
台北の多くは私立幼稚園のため、その旧正月休みでさえ1週間ほど。園児募集のノルマを課されるようだし、誠に頭が下がるほど気の毒で勤勉である。

ランは入園して約1年。
日本への帰国が8月25日と決まり、7月いっぱい、幼稚園の一学年が終わる7月いっぱいで自主卒園することになる。
担任のヘレンこと陳老師は妹メイの分まで、彼女らのイングリッシュネームを彫り込んだキティのキーホルダーなどをくれて、別れを惜しんでくれた。

ランはとても陳老師を慕い、友達とも活発に遊んでいたので、私は帰国までの間、できるだけ娘たちを幼稚園の園庭などに連れて行ってやった。園のスタッフも歓迎し、放課後教室の中にランたちを招き入れることも多く、ありがたかった。

私とリーは荷物の具合を見はかりながら、郵便局へ行って段ボール箱を買い足していった。3人分、1〜2年分の荷物となるとかなりの量になる。もちろんはじめから航空便など考えない、すべて割安の船便にする。どうやら10箱以上になる勢いである。
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2010年02月16日

母娘3人だけで長期日本一時帰国することに。買い出し、リーの所得証明、パスポート更新などを進める。

じわじわと日本移住の話は出ていたのだが、この頃には私が娘たち2人と日本の実家へ2年ほど帰ることに決まった。これはもともとリーが提案したことに端を発する。肺気腫の持病が徐々に悪化しかけた父が元気なうち、まあ、孫たちと遊べるうちにということだった。1〜2年だったら娘たちはまだ就学年齢に届かず、動きやすいから、今だ!との思いがあった。

とは言うものの、リーは元来大変な子煩悩。そう簡単に娘と長期的に離れることを決意できたりはしない。言い始めた頃は、日本で生計の道が開けるだろうとの楽観的観測があったからだった。
しかし、どんどんその観測は極めて甘かったことが露呈し始め、リーの機嫌が悪くなることがあった。私の両親から日本へ帰って住むよう言われたことは一度もなかったし、リーが嫌なら帰って来なくてよい、とのお達しが来たりした。
その旨リーに伝えても、もう意地になったように彼は母娘で日本へ帰るよう言い張るのだった。

7月。
気が狂いそうな猛暑の中、少しずつ帰国準備を進める。台湾の方がだんぜん安い物を買い出しに出かけたり、公立幼稚園に入るランは問題ないが、保育園は父親の所得により保育料が異なるため、リーの所得を証明する書類などを用意したり、有効期限が少なくなったパスポートの更新も早めにしたりと忙しくなってきた。
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