2009年12月18日

南国・台湾でも毎年あるインフルエンザ予防接種。国慶節、16年ぶりの軍事パレード。書評の仕事、終了の連絡まったくナシに「異文化」感じる。礼節重視の日本を想う。

10月に入った。
保健所で乳幼児と老人へのインフルエンザ予防接種解禁のニュースを聞き、まず下のメイを連れて行くが、熱があり延期になる。暑い台湾でも毎年インフルエンザ予防接種は話題になり、実施される。
当時の日記を読んでいるが、ラン入園後は毎日のように娘たちの風邪やら体調不良を綴っている。39度を越す発熱あり、坐薬あり、あわてて小児科受診に家族中蔓延の嘆きありとサンザンである。

10月10日、その年の国慶節には16年ぶりに軍事パレードが行われた。
この祝日は政府の方針やら政権の云々で休みになったりならなかったりする不思議な日である。日本では考えにくいことだが。

それから、例のG出版社からの書評の依頼はぷっつり途切れた。
半年以上にわたり、55冊の日本語書を中国語で書評したことになる。
「ねえ、まだ書評の仕事来るのかなあ?」
とリーに訊いても、G出版社へ逆玉の輿でムコ入りした友人・小宏から何もその件については話がないと言う。まあ、担当者は女性社員で彼とは直接関係ないと言えばないのだが、何の音沙汰もなく引っかかっていた。

様子を見ることに決めたが、その後も結局「これでもう終わりです。ありがとうございました。」とか「またお願いすることがあるかもしれませんが、しばらくは該当書はありません。」などという節目というかケジメというか、そんなあいさつや連絡はまったくなかった。
日本ではまずまかり通らないことではないだろうか。
だが、このようなことは台湾ではめずらしくない。腹を立てるのもバカバカしくなるが、礼節を重んじる国・日本を改めて意識するきっかけになったと思えば、少しは気も穏やかになった。
ただ、せっかく興味ある仕事を広げて行きたいと望んでいただけに残念だ。
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2009年12月17日

義弟一家の上海移住完了。家財無料オークションも。小4の長男、上海では進級できず再度小4に。物価上昇する上海でもピアノレッスン継続。

さて、我が家のあれこれで遅れていた義弟一家上海移住のその後を報告したい。
5月、先に単身上海に赴いた義弟であったが、義妹はぎりぎりまで仕事を続け、小学4年生の長男、幼稚園年長組の長女は夏休みを待って、8月台湾を離れた。
リーも一部を援助して彼らが購入したマンションも解約し、しばらく3人は義母宅で暮らしていた。未処理の家財も一緒に居候しており「好きなの持って行って!」状態であった。もちろん欲しい物はもらったが、今まだ必要ないものも多く、置く場所もないしで、親戚にも声をかけ見に来てもらい、少しずつオークション会場も片付いて行った。

義妹たち3人は上海到着後、荷物の整理ばかりしていられなかった。
いちばんの懸案は長男の転校問題であった。住居地校区の公立小学校に入るのだが試験を受けねばならない。台湾の小学校で各教科どこまで勉強したかも調べられる。
その結果、9月より5年生に進級するはずの長男はもう一度4年生をすることになる。そうなのだ、小学校の学習課程は台湾より中国の方が進んでいるのである。可哀そうだが仕方ない。

また、その長男は台北ではYAMAHAでピアノを習っていたので、引き続きそのレッスンも受けられるよう整えられていった。物価が台北に追いつくほど高くなっている上海、聞いているといろいろ大変そうであった。
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2009年12月16日

家電製品を壊すのはすべて私?! 子育て、教育方針で衝突、口論増えるのは仕方ないのか。リーの会社もトラブル続き。

我が家の洗濯機は私がリーと結婚する前からあったもので、もう10年近いベテラン、老体であった。引退も仕様がないだろうと思うのだが、リーは私が毎日選択するから壊れたと主張した。
洗濯機だけではない。パソコンが時々うまく作動しないことがあっても私が壊したことになる。家電製品の不具合はすべて私の責任になり、時には天気や渋滞や娘たちの風邪の原因も私に持って来られた。
要するに、機嫌が良くないと彼は私の非にしたのである。いや、そう感じずにはいられなかった。

実にその年は家内の物がよく壊れたり、修理を必要とした。
また、どこの家庭でもそうなのかもしれないが、恋人・新婚時代にはなかったのに、子どもができるとそれをめぐることで意見が合わなかったり、教育方針を決める主導権争いのようになり、口論は絶えなかった。

傷心しつつも、私は主婦としても母としても立ち止まることはできなかった。幼稚園へ通うランは、だいたい月2回のペースで風邪をひき、だいたい小児科へ走らねばならず、それがリー、メイ、私の順に回ってくるパターンを繰り返した。
リーの仕事の方も順調ではなかった。いちばん良かった頃より収入が減るのは仕方ないにしても、社長の人柄や経営手腕そのものに問題があることで社内の士気が低下し、会社生命を危うくするような事態に常に瀕していた。


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2009年12月15日

ラン通園4日目、発熱でダウン。私の頻尿も悪化し受診。台北震度3強の揺れと洗濯機故障に泣く。

さて、幼稚園へ通い始めたランは社交的で物怖じしない性格ゆえ、予想通り毎日それは喜んで行ったが、帰宅後の疲れた様子は痛々しいほどで、通園4日目にして37・5度の発熱。朝、近所の小児科へ連れて行き、そのまま休ませることにした。「保育園や幼稚園へ行き出すと、ひっきりなしに風邪や病気をもらって来る」という話はやはり本当だったのだと早くも痛感させられる。

一方私は出産がもとで始まった腰痛とのつき合いは続き、顎関節症の機嫌をうかがいつつ暮らしていた。
またその頃、頻尿症状がひどくなり、夜安眠できず、たまらず医者に診せた。実は頻尿も以前から抱える持病のひとつである。
が、お腹が痛んだり、外出時に突然尿意を催すというような病的なものではなく「トイレが近い」体質だと言ってしまえばそれで済むようなものでもあった。
実際それまでも診察を受けたことはあったが、決定的な病名も治療法も明示されなかった。私とよく似た悩みを持った同世代の友人もいた。

お薬は7日分出た。飲むと効果はあり、その後も寝不足でつらくなるくらいになればその医院を受診するようになった。

そんな折、夜中に台北震度3強の地震。11階だとかなりの揺れで、その後の眠りを妨げられる。台湾の地震の多さにはまったく閉口する。
その2日後、洗濯機故障。かなり使い込んでいたので寿命が来たのだろうが、リーからガミガミ叱られる。
あの年は家内のものが実によく壊れた。
そして、それに比例してリーとの口論も増えた。
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2009年12月14日

二胡検定は甘くない?! 受験には様々な課題あり。台湾二胡専家委員会もよく考えたものだ。やっぱり「まずは古典」。

台湾の二胡検定は1級から10級まであり、日本人の感覚とは逆で10級が最も難しくなる。
課題曲を見ていると、私が既に習ったものは各級にまたがっている。練習曲と古典それぞれ10曲くらいあり、2曲ずつ選択可能で「え、この曲難しいのにたった3級?」とか、弾きやすい曲が7級だったりと驚きもある。個人の好み、得手不得手とも関係するらしい。

しかし、詳しく調べていくと、そう簡単でないことがわかってくる。
たとえば、こうだ。
6級を受験することにする。なら、その課題曲など数曲を猛練習したら良さそうなものだが、実はそうではなかった。
もちろん暗譜して猛練習せねばならないが、試験日、受験級のすぐ下の級すべての課題曲の中から1曲、試験官が指示する曲を弾かねばならないと書いてあるのだ。この場合だと5級に指定されている10曲くらいをみなマスターしておかないと6級は受けられないわけである。

うまくできている。
そう甘いものではない。二胡専家委員会もよく考えたものだ。
本当に受験するとなると、私のようなまだ初級〜中級者は1〜2年がかりで準備しないと事実上無理だろう。はーっ、遥かなる道のり。

長い目で見るしかない。
そして、まだ救われるのは、私はとても古典が好きなことだった。古典の曲は技術的に高いものが要求され難しい。流行歌やオールデイーズを二胡演奏にアレンジされているものも多く、それを好む人もいるが、私は早くから、まずは古典、と思っていた。
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2009年12月13日

二胡検定試験に意欲。台湾・中国音協全国楽器演奏考級委員会 二胡専家委員会編の楽譜集購入。二胡教授に資格、免許は要らない?

私が二胡検定試験受験を思いついたのも、実は遠くない将来の日本移住計画をより骨太にするためのものであった。日本にも日本二胡学会が検定試験を実施しているが、台湾では「中国音協全国楽器演奏考級委員会 二胡専家委員会」がその方面を取り仕切っている。
娘たちをリーか義母が見てくれる日、私は馴染みの楽器店へ出かけ、新しい楽譜を探していたら、その委員会なるものが編集した『全国二胡演奏考級作品集』という厚さ約1・5cm、A4版、薄ピンク色の本を見つけた。

それは一冊ではなかった。何でも、二胡検定では練習曲と古典の曲、それに課題曲や選択可能な楽曲などいろいろあるため、一冊では収まらず数級ごとに編集されているのだ。
私はそれらすべてを購入し、蔡老師にも検定試験について相談してみた。蔡老師自身は受験したことがないようで、ネットで調べたりしてより豊富な情報を提供してくれた。

二胡をやっている日本人仲間からも聞いたが、二胡を教授するために絶対必要な資格や免許はない。それは台湾でも同じらしい。
だが、ただ何年間二胡を弾いています、先生に習っていました、と言うよりは検定試験で何級に合格しました、などと明確に提示できる方が仕事をしたり、認められるためには近道のように考えたのである。

一冊250元(現在なら約750円)の楽譜を買い求め、吟味してみる。既に習い、弾ける曲は半分くらいある。
さあ、何級を受けられるだろう……
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2009年12月12日

9月新学年度スタートの台湾。ラン、幼稚園入園。保育料は1ヶ月9300元、私立幼稚園の相場。私は二胡検定受験を目指す。

台湾は欧米同様、9月に新学年度がスタートする。
よって、日本では同級生だが、台湾ではひとつ上とか下とか、その逆現象が起こる。ちなみに義弟は台湾では私より一級下だが、日本でなら同級生だ。もちろん、卒業・入学は桜の咲く頃、なんて風情は拝めない。暑〜い7,8月が新旧交替の時期、道端で売られることもあるお祝いの花束も高温ですぐぐったりしそうである。

さて、その年は9月1日は土曜日で、ランの永華幼稚園入園は翌々3日となった。ピカピカの新入生、身体に比して大きな黄緑色の通園リュックにはキリンの絵がプリントしてある。たくさん写真を撮り、リーはビデオカメラをまわす。
8時半までに園まで送る。夕方は4時に放課するので、それ以降ならいつ迎えに行っても良い。最長6時半まで預かってもらえる。だいたいそれくらいが台北の私立幼稚園の保育可能時間だ。
また、永華幼稚園1ヶ月保育料は6800元、あと半年ごとに「注冊費」と呼ばれる登録料みたいなものがあり、それを月で割り加えると1ヶ月約9300元ほど(今のレートでは少し安くなり約28000円)になった。これで私立の相場と言える。

入園当初は帰宅すると毎日ぐったりするラン。慣れず、相当疲れるらしかったが、喜んで幼稚園へ通うようになった。
一方私は二胡で新たな挑戦を試みることにする。
台湾には二胡検定なるものがあり、それを受験しようと思い立ったのである。
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2009年12月11日

会社にお弁当を持って行く習慣がついていたリー、その任務が私に。台湾では外食の方が安いかも。ラン、幼稚園入園間近、担任の老師決まる。

2日前に予約変更し、1日早く台北に帰って来てよかった。
本来飛行機に乗るはずだった翌8月18日は台北に台風襲来、この風雨では着陸困難のため欠航になっていただろうと思う。

私が日本にいた2ヶ月の間に、リーはお弁当を作って出勤する習慣がついていた。これは小遣い節約というより、会社周辺に飲食店がほとんどなく不便だからだ。真夏だと徒歩で往復するだけで満身汗だくにもなると言う。
「私がお弁当入れようか?」
これも妻の務めかと一応訊いてみた。彼は炊事ができる人なので「要らないよ」と答える可能性十分、それならそれで助かるのだが……
「じゃあ、頼むよ。」
私の料理に文句をつけることは日常茶飯事のリー。その返事にうれしいやら困惑するやら。が、仕方ない、やるしかない。会議などの関係で火・水・木のみでいいが、それ以後お弁当作りも家事に加わることになった。外食が安い台湾ゆえ、お弁当の方が高くつく気もするが、食堂がそばにないのだから仕方ない。

台風が去り、8月20日、入園が迫ったランの永華幼稚園へ母娘3人で遊びに行ってみる。ちょうど入園手続をしてくれたクレア老師が私たちを見つけ、「ランちゃんのクラスや教室はもう決まってますよ」と中に案内してくれた。
蜜蜂組、担任はヘレン老師。再度断わっておくが、この幼稚園では先生をすべて英語名で呼ぶことになっていた。ヘレン老師は陳という苗字の二十歳そこそこの若い先生だった。
また、その日、近いうちに入学金と9月分の保育料、そして戸籍謄本を持って来るよう言われる。
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2009年12月10日

日本の8月、娘たち初体験。台湾にはない「庭で花火」を楽しむ。棚経、夏祭り、畑の水遣りも。台風接近、予約変更して17日台北へ飛ぶ。

8月を日本で過ごすのは私にはとても久しぶりで、ランとメイには初めての経験だった。
幼い娘たちは家の庭でする花火が大好きになり、しきりに私や祖父母たちを誘う。「庭で花火」は台湾では絶対見られない光景、日本独特の「文化」だろう。台湾の花火は季節に関係なく、大規模な各種イベントの際の打ち上げ花火や新年のカウントダウンの時くらいだろうか。

梅雨明け後、雨が少なく、畑のトマト、茄子、きゅうりなどに水をやらねばならず、その仕事を娘たちは喜んで手伝ったりもした。
また、8月10日は例のご住職さまが歩いて檀家に棚経のため廻る日で一緒に念仏を聞いたり、お盆恒例のおはぎ作りに参加したりもした。
12日には母の実家へ、14日には村の夏祭りがあり、いずれも娘たちは元気に同行した。

日本への一時帰国も2ヶ月が過ぎ、8月18日に台北行きのチケットを取っていた。
が、台風8号が台湾に接近中。かなり大型の台風で、ちょうど18日頃が危ない様相を呈してきて、航空会社に予約変更を申し入れる。
そして1日早く17日、関空から台湾に飛び立った。あの時はまだ両親が関空まで私たち母娘を送ってくれた。
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2009年12月09日

何を信じるかで人の一生は大きく変わるものと実感。瀬戸内寂聴、玄侑宗久氏などの仏教書を読み続ける日々。水無月祭、船便発送、高校野球甲子園大会、日本の夏を感じる。

再度断わっておくが、私は未だに特定の宗教に安住できずにいる者だが、そのご住職の「罪は一生消えない」の言葉に、この世には様々な観念や教義があるものだと深く感じ入ったものである。単に、カトリック帰依者の「罪は赦される」と比べてもまったく反対の答えが返ってきたのだから混乱すらする。

菩提寺から帰ってしばらくは、やはりなかなか自分の考えを整理できなかった。第三者的に見ても、こう極端な2つの訓えのいずれを取り、我が道しるべにするかで、一生が大きく違って来るようにも思った。
とにかく私はご住職の祖父が著した『修証義通解』という本を4日間で読破し、その後も瀬戸内寂聴・玄侑宗久共著の『あの世 この世』、同じく寂聴さんの『釈迦』などの仏教に関する本を読み続けることになる。

さて、時は7月も下旬になる。横浜から従姉がやってきて10年ぶりの再会を果たしたり、31日は隣り町で水無月祭が行れ、幼い娘たちと星空を見上げながら歩いたり、台湾に帰る頃到着するように一箱分の船便を発送したりする。
また、子育てセンターで二胡演奏を頼まれたり、夏の高校野球甲子園大会が始まったり。台湾では準々決勝以上しかテレビで放送しないので、日本で見る甲子園に感慨深いものがある。
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2009年12月08日

トラウマを抱え、聞きに行ったご住職さまの答え、「罪は一生消えない」に涙する。何かが終わり、新たな挑戦始まる。

もうご記憶から薄れているかもしれないが、2001年2度目の台湾留学を果たして間もない頃、私は台北で思いも寄らぬ試練を味わい、毎日泣き暮らし、台湾人のルームメイトと暮らしていたマンションの隣りにあったカトリック教会にひとり通った。
それから、そこで働き、ミサにも与る50歳の何姐や神父さまたちとの交遊が始まり、カトリック高校卒の私には然るべき姿のように映った
神戸出身の日本人シスターとのご縁もいただいた。

ところが、私はずっと自分を赦せずにいた。そのトラウマから脱却できず、さまよっていた。それで般若心経に関する著書など仏教書に救いを求めた。それでも飽き足らず、とうとう故郷の菩提寺のご住職さまを訪ねることになったのである。

手紙でも、そのアジサイの寺でも、私はトラウマのもとになった事の詳細を打ち明ける勇気は起きなかったが、例を挙げてご住職さまに質問した。カトリックに寄り添う人々は皆「罪は赦される」と口をそろえた。仏教ではどうなのか。それが最も気になる点であった。
「一生、罪は消えません。」
それが、ご住職さまの答えだった。
懺悔はできる、罪滅ぼしに何か人や社会のために働く心がけは良い、
されど、罪は消えない、と。

そのひと言を聞いた途端、私の涙はこらえきれずポトポト落ちた。
いちばん怖れていたことなのに、一方で、ずっとそう言われることを待っていたような気もした。そして、何かが終わり、ほんとうの人生が始まったような気がした。
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2009年12月07日

マウスピースはおあずけ。顎関節症は早めの治療を!仏教書以上の「答え」求め、菩提寺にたどり着く。

目下のところ、顎関節症に対する治療法として主要なものはマウスピースを作ることらしい。なんでもその人に合ったマウスピースを就寝時つけて眠るということは、足に支障のある人が松葉杖をつくのと同じ原理で、その間だけでも顎の負担を軽減できるという。
その結果、多くの人が顎の痛みを抑え、症状の悪化を抑止できる。

だが、日赤というもののここは田舎なせいか、マウスピース作製には車で1時間ほどかかる別の病院まで行かねばならず、必要な日数を聞くと台湾へ帰るまでに間に合いそうにないため、ひどくなったら台北の病院へ行くことにすると伝え、なんら次の予約はせず帰った。

あれが7月半ば。
あの時はあれでよかった。
だが、放って置いたのがいけなかった。約半年後、台湾でえらいことになる。また、その時書くが、顎関節症の疑いがあり、気になりだした方は早めの治療をおススメする。20~40代の女性に最も多い疾患で重症になると大変つらい。

そして、いよいよその2日後、私は車でご住職さまの待つ菩提寺に向かった。よく晴れた爽やかな朝だった。
何度かお目にかかったことがある40代後半のご住職さまは、白いTシャツにグレーのジャージ姿で現われた。
窓外には大輪のアジサイが見え、出していただいた冷えた香ばしい麦茶がおいしい。
仏教書に飽き足らず、私はついに曹洞宗の菩提寺にたどり着いたのだった。
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2009年12月06日

ご住職さまから電話、面談日決まる。母、肋骨骨折。私は初めて顎関節症外来を受診する。

その菩提寺は、我が家から車でさらに奥へ5分あまり入った山里に佇んでいる。それほどの距離しかないにもかかわらず、山の面積がぐっと増えるからか、雪の量がここより多いことはよく知られた話だ。
幼い頃から何度か法事などの際に訪れたことがあるので、長らくご無沙汰であったが容易にその佇まいは目に浮かんだ。

封書を投函してほどなくしたある日、ご住職さまからお電話をもらい
7月20日午前中に会っていただける運びとなった。

それまでの2週間ほどは梅雨や台風の空模様がそのままうちに反映されたようで、母はボランティア活動中、足元が滑って肋骨を折り、私はラン出産後半年くらいから始まった顎関節症の悪化が顕著だったため
最寄りの日赤へ電話で問い合わせ、予約を入れたりしていた。

顎関節症は最近とみによく耳にする疾患で、歯科を受診せねばならない。
だが、歯科は歯科でも専門医を探し、専門的な治療が必要とされる。
日赤によると、月に2回顎関節症専門外来があるとのことだった。
果たして、その日日赤を訪れると女医さんがいろいろ検査をし、症状を聞いてくれた。発症から約3年を経て初めて医者に診せたことになるのだが、それくらい病気の進行はゆっくりしていたということだ。
その時もさほど重症とは感じなかったが、突然口が開かなくなった人の話を聞いたりして怖くなったので、日本にいる間に診てもらう気になったのだ。
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2009年12月05日

酒類の輸出入は高い関税で事実上無理。無念。7月、消えないトラウマに悩む私は、菩提寺のご住職さまに手紙したためる。「会っていただけませんか?」

結論から言うと、日本のお酒を台湾に輸出するリーと私の構想は未だ実現していない。
私は滅法アルコールに弱い方で、コップ1杯でデキアガッテしまう体質だが、昔お酒屋さんでバイトしていたくらいだから「お酒の世界」は大好きだ。リーの描いた夢にものった。
しかし、現実は甘くない。
日本国内でも酒税法などは改正されることがあるが、数年前WTO(世界貿易機関)の法改正で酒類の輸出入時にかかる関税が高くなり、採算を考えれば事実上そのテの商売は不可能に近いものになっていた。
私の知り合いの社長も「そりゃあ、できれば僕の酒が台湾にも渡ってくれたらうれしいけど……」と言い、一応私たちの計画を聞いてくれたが、結局前進できず、残念やら申し訳ないやらで苦い思いが残った。
でも、いつか社長のお酒を台湾に!との淡い夢は不思議と胸を去らない。

7月に入っていた。
さすがに日本もどんどん夏に向かい、気温を上げていた。
私はもう一つ、一時帰国前から描いていた願望を形にする。我が実家の菩提所である寺のご住職さんに手紙をしたためたのだ。封書にする。
父に、宛名書きは何とすればよいのか問うと、
「そら、ご住職様や。」
とのことだったのでそうする。
何度かここでも書いたが、私にはまだどうしても私を解放しないトラウマのような心の痛みを抱え、実生活の不如意も重なって長く親しんだカトリックを離れ仏教書に没頭していた頃であり、書物だけでは理解しがたい点は増え、ぜひ直接話を聞いてみたいと考えるようになっていたのだ。
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2009年12月04日

子育てセンター、まちの子育てひろばに通う。ハローワーク惨敗、厳しい就職事情。リーの日本酒輸入構想、既知の酒蔵社長に電話。

あの年の日本一時帰国も毎日多忙で、盛りだくさんだった。
町の子育てセンターへはまた通わせてもらったし、「まちの子育てひろば」という取り組みが浸透し、各保育園や幼稚園が月に2~4回園を開放し、未就園児とその親の交流の場を提供しているので積極的に娘たちを連れて行ってやった。

また、早々と市のハローワークへも行った。
だが、こちらは完敗。中国語ができる、と言っても、それだけで優遇されるわけではないし、中国人がいる会社や工場でも通訳専門者を雇う余裕はないとのことだった。それもそうだろう。
想像はしていたものの、想像以上の手応えなしにかなり落ち込む。看護師だけはたくさん求人票があるのを見て、複雑な心境になる。
そして、これからは介護やヘルパーの需要は高まるだろうが、あれも体力は要るし、資格も必要だろうし、豊かな人間性と強靭な忍耐力が求められることを考えると、私には務まりそうもない。

それから、リーの命を受けて市内にある酒造会社に電話をかける。
数社あるなかに、以前中国語の関係で知り合いになった酒蔵があり、そこの社長とは面識があった。懐かしい社長の声に和む。
リーは来日するたび日本酒を楽しみ、うまい!と評していた。起業を夢見るリーは、日本のおいしい酒を台湾に輸入できないか、と考えたのだ。
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2009年12月03日

日本のグルメ番組で何度も観た憧れの海産物を舞鶴で。リー滞在中、娘たちはばーちゃんとじゃがいも掘り。夜は蛍。

土曜日で好天ということもあってか、舞鶴・道の駅とれとれセンターは活気づいていた。広い駐車場には各地のナンバーが並び、お昼前には大型観光バスも続々入って来た。ここで昼食兼おみやげ拝見という寸法だろう。
とれとれセンターの周囲にもレストランはあるが、せっかくだからとセンター内で決めることにする。
迷ったあげく、2人とも海産丼にする。大きなウニものっていて感激。

後日談だが、リーは後半かなり苦労してその海産丼を押し込んだらしい。台湾に輸出された日本のグルメ番組で何度も観た海の幸に憧れはあったものの、もともと日本のように海産物を生で食す習慣がほとんどない台湾人にとって、生食の量が許容範囲を超えたのだという。

団体客で混み合う時間帯を避け11時半頃には食べ終わり、点在する各館を見て回る。海産物のみならず、地元農産物や工芸品を販売するコーナーを見つけ、何品か野菜をいただいてから帰途に着いた。東舞鶴まで足を伸ばせば港や赤レンガ倉庫などがあるのだが、娘たちのことも気になり観光はやめ。そうそう、舞鶴は肉じゃが発祥の地というのも聞いたことがある。肉じゃが専門店などあるのだろうか。

その後、リー日本滞在中にはばーちゃんと娘たちが畑に実ったじゃがいも掘りをしたり、夜は飛び交う蛍を眺め、神聖な気分に浸ったりした。
6月20日、リーは先に台湾へ帰って行った。
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2009年12月02日

日本一時帰国の日、近畿地方梅雨入り。リー、父の関西訛りにタジタジ。舞鶴へドライブ、道の駅とれとれセンターで楽しむ。

台北から飛行機に乗っている時間より、空港から実家にたどり着くまでの方が長いが、無事夕方我が家4人はじーちゃんばーちゃんの待つ実家へ。その6月14日はちょうど近畿地方が入梅した日でもあった。
気温22度。
すでに35度近い真夏日のあった台北に比べるととても肌寒く感じる。

あの当時、ランもメイもまだ保育園や幼稚園に行く前で、私が家で守していたため、日本語と中国語は半々くらいだった。よって、日本の祖父母たちともわりと早くコミュニケーションできた。
リーは毎年上達も退化もしない日本語で義理の両親と話している。私の父が話す関西訛りがあまりにひどいと、私に助けを求めた。リーが台湾の大学時代に学んだ標準語とはかなり異なるのはよ〜くわかる。

さて、娘たちがだいぶ成長したため両親に預け、リーをどこかへ連れて行くことにする。リクエストを訊くと、
「海の幸とか漁港なんかがあるところがいい。」
と言う。
うーん………この辺りで言えば……… 
舞鶴だ。京都府舞鶴市が最寄りでふさわしい。
朝9時半、私は助手席にリーを乗せ、北目指しハンドルを握る。
だんだん晴れて26度を超えた。気持ちよいお天気だ。
さすがに漁港へは行かなかったが、道の駅とれとれセンターで新鮮な海産物の昼食をとったり、市場さながらに並べられた海の幸を見て回った。
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2009年12月01日

昭和41年生まれのリーの家族、年長者に対する観念は台湾人特有? 日本移住構想生まれる。リー、花粉症を避け、6月中旬一時帰国。「就活」に意欲。 

そもそもリーとの間で日本移住話が出るようになったのも、私がひとりっこである所以だ。リーは昭和に換算すると41年生まれだが、その年齢だからか、その年齢にしてはと言えばよいのか、年長者をとても敬い、家族を大事にする観念が強い。台湾に生まれたからか、中国人だから然り、とも言えない。よって、それはリーの長所の一つだろうと思う。私の日本の両親がだんだん年老い、いずれ若夫婦の手を借りることになるだろうことはリーにも明らかで、それゆえ日本移住は彼にとって懸案でもあったのだ。たしかに、リーの農業酪農志願にはまいったが、日本での活路を真剣に考えてくれること自体はとても感謝に値することであった。

この物語もどんどん現在に近づいてきて、私自身力が入っている。
早く「今」に追いついてほしいと毎朝更新している次第である。

さて、この年の日本一時帰国は6月14日だった。前年リーが花粉症で苦しんだため、時期を遅らせた。もともとひどいアレルギー体質のリーであり、また台湾には花粉症なるものがないので仕方ない。ラン3歳8ヶ月、メイ2歳5ヶ月の頃だ。
この一時帰国中に私はいわゆる「就活」に励むつもりでいた。私のトシもリーとさほど変わらず、教員免許もない。田舎で女性が安定した収入を得やすいのは教員や看護師などで、珠算や普通自動車免許に英検くらいしか履歴書に書けない私の苦戦はだいたい予想できたが、希望は抱いていたものである。
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2009年11月30日

2段ベッド、玩具に衣類など義弟家族から運び込まれる。6月を前に台北酷暑、子育てさらに激化。日本移住構想出るも、リーの農業酪農志願に困惑する。

5月19日、リーが義弟を台北国際空港(桃園国際機場)まで送る。
約2ヶ月間彼は上海で単身赴任、義妹と子どもたちは夏休みを待って台湾を離れる。

義弟が台北を発った後も彼ら一家の引越し準備は進行し、5月末には子ども用2段ベッドをリーが解体し、苦労して運び帰って来た。大人でも眠れるサイズの立派なもので、娘たちはめずらしさに大喜び。
その後も自転車や玩具、教育教材などなどがどんどん義弟家から送られて来た。ランより2歳年長の従姉からは洋服のお下がりも多数もらい本当に助かった。

6月を前に、台北は早くも34度まで気温を上げた。動き回る幼い娘たちはすぐ汗だくになるので、昼間にシャワーが必要になる時期で、私の子守り負担は増大、何度諭しても同じイタズラをくり返す彼女たちにキレることしばしば、本当に心身ともに毎日ギリギリだった。

ちょうどそれはリーと日本移住について真剣に考え始めは頃でもあった。それはひとりっこの私にとってはありがたい成り行きだったが、
日本へ行くなら農業や酪農をやりたいと言うリー。今や有機農法や農業経営たるものに彼は興味があり、また、台湾では一般的に食するアヒルや鴨を飼育するとか、ヤギもミルクは栄養価が高いし、肉もおいしいとか、私からすれば寝言か妄想のように聞こえる発言をして、意見がかみ合わず困った。

父に話しても私と似たような反応である。たしかに農業酪農は人類が生存していく中で不可欠なものだが、家族を食べさせ、蓄えを増やすところまで利益を出すのにどれだけ大変かわかっていない。趣味ならいい。しかし、それ一本で食べていくことの難しさは田舎に住む者は切実に実感する。肉体労働のしんどさも、都会育ちのリーには本当のところ理解できないだろうと思った。
posted by マダム スン at 05:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 家運低迷期突入す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月29日

退職届にマンション売りに出す。義弟夫婦、上海移住準備スタート。こんなはずじゃ……結婚当初予想しなかった事態にがっかり。「長男の嫁」に悩む。

義弟夫婦は舞い上がるとは行かずとも、ひとつの目標をクリアしうれしそうだったが、小学生と幼稚園児の子どもたちは「転校したくない台湾がいい」と浮かぬ顔。
それ以後、義弟夫婦は互いに勤めている会社に退職の意思を伝えたりまだ購入して日の浅いマンション売却の計画も進めて行った。

暑い5月に入る。
ランが秋に入園する幼稚園が決まり、その園庭に時々娘たちを遊びに連れて行ける新たな子守り法も増え、上旬には毎年恒例・日本一時帰国用の航空券の予約も完了したが、私の気持ちは沈んでいた。
長女と次男一家が住むことになる上海へ義母も移住するのでは、との憶測が外れたのだ。台湾と中国の中国語には少しちがいはあるものの基本的に同じ言語だし、2人も子どもがいるなら、という私の考えは甘かった。やはり住み慣れた台湾がいいと言う。

義母自身が上海に越すのが嫌ならそれは彼女の自由だが、リーと恋愛・新婚当初は、義姉が義母宅からバスで15分くらいのところに住み義弟一家は義父母と同居していたので、長男とは言えリーの奥サンになるのに大きな抵抗はなかった。
だが、期待とは裏腹に、義姉と義弟は台湾を離れ、そこに残る義母の世話の多くをリー一人が負う格好になる雲行き……
誤解することなかれ。
私が憂いていたのは、私がひとりっこで、いつか日本へ帰り、老い行く両親の世話をしなければならぬ身。では義母はどうなるの?私の実家はどうなる?

どっと落ち込んでしまった。
posted by マダム スン at 05:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 家運低迷期突入す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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