2010年01月06日

会社は遠からず破産?! リー、退職、失業を示唆する。そして、離婚はしない宣言。危機的でもあわただしく過ぎる日常。

5年に一度ひくか否かというひどい風邪、耐え続けた顎関節症の限界と治療開始で1月は過ぎて行った。
子育てでは一喜一憂、子どもを育てているのか自分が育たなければいけないのかわからない状態でバタバタと毎日は暮れた。
そして、また嫌な一件が舞い込んだ。例のインサイダー取引嫌疑未解決のまま、リーは今の会社が社長の経営手腕、道義心、計画性の欠如から今後いくらも持ちこたえられず破産するだろうから、2月いっぱいで退職する、そして娘たちのために離婚はしない、と言って来たのだ。

あきれるほどの社長の失態はかねがね聞かされていた。
しかし、次を考えず失業とは穏やかでない。
「姉貴も失業は経験したし、義妹だってしたんだから、そう目くじら立てることでもないよ。」
と言い放ったのには頭に来た。義姉は独身だし、義妹は夫のちゃんとした収入がある上での副業なのだから、リーとは立場が違う。
正直言って、その当時まで夫にボーナスがないことすら想像したこともなかった私は、夫が失業し、終日連日家にいることすら耐えがたいことに思えた。

そして、子どものために離婚はしない発言だが、彼にその種のことを考えさせ、言わしめるような状況に私たち夫婦は陥っていた。
「子どものために」………
娘たちは夫婦をかろうじてつなぐ、まさに鎹(かすがい)であった。私もリーもランとメイがいるからこそ家庭を顧み、日々なんとか笑顔を失わず過ごしていた。
危機的な危険性を孕みながら、日常の些事雑事に忙殺され、時間は過ぎて行った。
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2010年01月05日

顎関節症患者心得を聞いた後、こめかみに注射。会計に走り、薬をもらって地下鉄に飛び乗る。メイを迎えに行き無事帰宅。注射の威力はすごい。5日で激痛消える。

王若松医師が言う顎関節症患者心得はもちろん程度問題で、まったく話せないわけではない。しかし、しゃべることは顎に負担をかけており、しゃべることを生業とする人、たとえば学校の先生などはかなりつらいものと思われる。
やわらかいものを食べるのはだいたい心がけられる。硬くなくてもガムはいけない。これは何となく納得できる。
バイオリン禁止かあ。二胡と言われずホッとする。バイオリンは顎で挟むからだろうか。

そして、その日王医師の治療は注射だった。こめかみに打つという。ギクッ、痛そう。でも、この10日間の割れんばかりの頭痛を思えば何のその。実際、たいしたことなかった。
あと飲み薬が出ることになり、王医師に重々礼を述べ、会計へ走る。

この会計もすごい。奇数と偶数それぞれ5ブースくらいあり、女性職員がガラス張りの向こう側の小部屋に座って処理している。各科でもらった請求書番号により振り分けられ、各ブースの電光掲示板に自分の番号が出るのを待つ。
会計が済めば、中央玄関にほど近い薬局へダッシュ。ここでもおおぜい待っていて目まいがするが、薬剤師もわんさといるので思ったより長くかからない。正午少し前に台大医院を後にし、すぐ目の前にある地下鉄台大医院駅から電車とバスで帰る。

連絡よく、30分弱で義母宅到着。速い。
12:50にはメイと2人無事帰宅。
その日の夕方には痛みが和らいだ。4〜5日間はあの激痛の余韻みたいな感覚があったが、その後は嘘のように治った。
「痛くなければ薬は飲まなくていいよ。ちょうど旧正月も来るし、2週間後にまた来なさい。」
と王医師に言われたので、薬は飲まずに様子を見ることにした。
それにしてもすごい。あの注射はいったい何者なのだろう。
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2010年01月04日

初めて足を踏み入れる台湾大学病院。広い院内、歯科は一番奥。やっと会えた顎関節症専門外来、王若松医師。注意事項、バイオリン禁止にしゃべるのもダメ?!

大げさなように聞こえるかもしれないが、あの時の頭痛は本当につらかった。金属製の何かで頭全体をぐいぐい締めつけられるような痛みで、時折頭を抱え込むようにしながら耐えた。
顎関節症の症状や進行速度には個人差があるが、私のような最悪のところまで放置せず治療を始めてほしいと心より忠告する。

まさに、待ちに待った1月28日月曜日。ランは幼稚園、メイは義母に預け、リーが出勤時に台湾大学病院まで送ってくれた。
現地では台湾大学病院を「台大医院」と言う。地下鉄の駅名にもなっている台湾を代表する医療機関だ。
「医院」は日本語の総合病院に当たる中国語で、日本の個人医院のような規模のものを「診所」と称するのが一般的だ。
外観しか見たことがなかった台大医院だが、中に入ってみるとまるでそこが一つのコミュニティか村のように大きく機能している。売店、スターバックス、コンビニなども完備され、一日でも時間を潰せる感じだ。

予約を取っているので直接歯科まで歩く。歯科は中央玄関からいちばん遠く、散歩までできてしまう。
予約済みの患者の中で先着順に診察を受けるシステムで、ようやく私の名前が呼ばれる。四文字の名前が廊下に響く。それでだいたい私が日本人だとわかるだろう。中国語の姓のほとんどは一文字だし、漢字三文字の名前はまず存在しないからだ。

あー、夢にまで見た顎関節症の権威・王若松医師。60歳くらいだろうか。経過や症状を説明してから診察に入る。
できるだけやわらかいものを食べ、しゃべらない、頬杖禁止、バイオリンはダメと指示される。
「しゃべらない」? これは困ったことになった。
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2010年01月03日

台湾大学病院歯科外来の電話でねばり、一般外来パスで顎関節症専門外来の予約を勝ち取る。痛みはバナナを食べる時にさえ感じ、頭痛は片時も離れず。王医師、早く助けて!

台湾大学は台湾高等教育の最高峰で、その病院もほぼ同等の高い評価を受けている大規模な総合病院である。馴染みある名前だが、自分自身が受診したことはなかった。
歯科の予約を28日(月)に取ることができたが、それまで約一週間、文字通り息も絶え絶え、ギリギリ、我慢の時間を送った。それくらい恐ろしい頭痛が頭全体をとらえ、苦しいこと極まりなかった。
当初、顎関節症の症状が出たのは右側だけだったが、頭痛は右も左もなかった。鎮痛剤を飲んでもすっきりとはせず、不安は片時も離れなかった。28日よ早く来い、早く来い、とまさにすがる思いだった。

それにしても28日に顎関節症専門外来で診てもらえるだけマシであった。
というのは、歯科で電話に出た男性ははじめ、「まず一般外来で診察を受けて、顎関節症と診断されないと専門外来の予約は取れませんよ」と言う。
だが、一刻を争う私の病状は必死に食らいついた。
「実は私、日本人で、夏一時帰国した際、日赤の歯科で顎関節症と診断されたんです。でも、治療する時間がなく台湾に帰って来て、症状が悪化して困ってるんです。お願いします。」
ああ、そういうことなんですか、と意外に男性はすんなり理解してくれて、王若松先生の外来患者リストに入れてくれた。本当にうれしかった。

顎関節症で急に口が開かなくなってしまい、病院に駆け込んだ、などという話は聞いたことがあったが、私も似たようなものだった。その頃には口を大きく開けられず、好物のバナナにかぶりつく時にさえ痛みを感じるようになっていた。食事時だけだった痛みは終日口周りに居座り、気分まで沈ませた。
あ〜、早く王医師に会いたい。王先生、早く助けてください。
本当にそう祈った。
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台湾大学病院歯科外来の電話でねばり、一般外来パスで顎関節症専門外来の予約を勝ち取る。痛みはバナナを食べる時にさえ感じ、頭痛は片時も離れず。王医師、早く助けて!

台湾大学は台湾高等教育の最高峰で、その病院もほぼ同等の高い評価を受けている大規模な総合病院である。馴染みある名前だが、自分自身が受診したことはなかった。
歯科の予約を28日(月)に取ることができたが、それまで約一週間、文字通り息も絶え絶え、ギリギリ、我慢の時間を送った。それくらい恐ろしい頭痛が頭全体をとらえ、苦しいこと極まりなかった。
当初、顎関節症の症状が出たのは右側だけだったが、頭痛は右も左もなかった。鎮痛剤を飲んでもすっきりとはせず、不安は片時も離れなかった。28日よ早く来い、早く来い、とまさにすがる思いだった。

それにしても28日に顎関節症専門外来で診てもらえるだけマシであった。
というのは、歯科で電話に出た男性ははじめ、「まず一般外来で診察を受けて、顎関節症と診断されないと専門外来の予約は取れませんよ」と言う。
だが、一刻を争う私の病状は必死に食らいついた。
「実は私、日本人で、夏一時帰国した際、日赤の歯科で顎関節症と診断されたんです。でも、治療する時間がなく台湾に帰って来て、症状が悪化して困ってるんです。お願いします。」
ああ、そういうことなんですか、と意外に男性はすんなり理解してくれて、王若松先生の外来患者リストに入れてくれた。本当にうれしかった。

顎関節症で急に口が開かなくなってしまい、病院に駆け込んだ、などという話は聞いたことがあったが、私も似たようなものだった。その頃には口を大きく開けられず、好物のバナナにかぶりつく時にさえ痛みを感じるようになっていた。食事時だけだった痛みは終日口周りに居座り、気分まで沈ませた。
あ〜、早く王医師に会いたい。王先生、早く助けてください。
本当にそう祈った。
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2010年01月02日

「消炎」注射を打っても続くひどい風邪の症状、数年間放置した顎関節症も末期的重症、ネットで専門外来を探し、台湾大学病院歯科の王若松医師を予約する。その日まで市販の鎮痛剤で泣く泣くしのぐ。

めったにないことだが、私はほとんど物が食べられなくなった。なのに嘔吐する。熱は上がり、咳が出て、胸が苦しい。ベッドで休んでいてもその苦痛は変わらない重症で、翌18日金曜日、その窮状から自ら判断しリーは会社を休んだ。

なかなか快方に向かわないので、19日再度医者に診せる。あまりにひどいので「消炎」という注射を打ってもらう。
その午後は注射が効き、身体が軽くなる。
が、甘かった。
「消炎」の効力が消えると、また尋常でない苦しみが襲って来た。
週末は家事のできるリーが食事を作ってくれたり、娘たちと外食してくれたりしたが、週明けからはそうもいかない。ランは幼稚園だからいいが、義母も体調がすくれないし、メイは姉と異なりおばあちゃん宅へは行きたがらない子で、私が見るしかなかった。日本の母を想っては、しんどさと相まって涙が出た。

それと例の顎関節症から来る頭痛は、風邪に喚起されたようにどんどん悪化し、四六時中頭を締めつけて来た。1月23日頃には風邪が半分ほど治まり、私はネットなどで顎関節症専門外来がある病院を探した。
だいたい予想はしていたが、良い専門の医師がいるのは台湾大学病院の歯科であった。電話で予約を取る。忘れもしない「王若松」先生。王先生の外来は月曜日だけ。
私は市販の鎮痛剤を連日飲み、頭全体が爆発しそうな強烈な頭痛と闘った。放っておいた自分がいけないのだが、数年来抱えていた顎関節症はついにこんな形で私の忍耐の限界を突き破ったのだった。
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2010年01月01日

2010年開幕、今年もよろしく! ラン、メイ39度を超す高熱の風邪。顎関節症による頭痛再発、そして私も風邪でダウン、リー早退してくれる。

あけましておめでとうございます。2010年開幕。今年もよろしくお願い申し上げます。当ブログは2008年の1月、私の感覚から言うと、現在に近く、また記事カテゴリにあるように低迷期の最中にある重要な時期です。2008年8月には娘たちと3人で日本へ帰ることにもなります。では
続きを。

さて、あの1月はすさまじかった。
まず、ランは時折39度を超す高熱の風邪、幼稚園を休んだり早退したりが続き、案の定メイにうつってしまう。
そして、1〜2ヶ月おさまっていた私の顎関節症による頭痛が再発、「頭全体を金属で締め付けられているような痛み」と日記に記している。それでも私はなんとか我慢しようとする。

娘たちの風邪がだいたいおさまった17日、とうとう私はダウンしてしまう。木曜日だった。
午後異様な体調の悪さに文字通り座り込んでしまう。ランは幼稚園、メイは義母宅。ランを迎えに行く気力もなく、予定されていた二胡レッスンのキャンセルを電話で蔡老師に伝える。
そして、床に倒れこんだまま会社にいるリーに電話、早めに退社して帰りにランを迎えに寄ってくれるよう怖々頼んでみた。

5時過ぎにはランを連れ、リーが帰宅。ホッとする。ありがとう。
しかし、私の風邪は数年前香港で罹った重症の気管支炎を彷彿とさせる苦しさであった。
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2009年12月31日

メイ、モノもらい治療、メスに大泣き。顔半分包帯、薬3種類。王さんの胃潰瘍療養は1ヶ月以上、その間私はマック通い。台湾で紅白歌合戦、2008年明ける。

私も診てもらったことがある医師はメイのまぶたを見て「麦粒腫」だと診断した。日本で言うモノもらいに相当するものだろうと思う。
これを治すには、切って芯を出さないといけないらしく、どうする?
と訊かれる。
医師の「どうする?」の意図するものが最初解せなかったが、あと1ヶ月3歳に届かないメイ、そのミニ手術に耐えられるか、父親がいる時にするか、ということだとわかる。

リーがいてもいなくても痛さは変わらないのだし、今、お願いしますと言うと、医師は一人看護師さんを呼び、私と一緒にメイが動かないよう押さえてなさいと指示した。

案の定メイは泣きわめいたが仕方ない。顔の半分ほどを覆う包帯をされ、塗り、飲み、目薬の3種類もらって眼科医院を後にする。
4日後再診。それでだいたい治る。

一方、胃潰瘍で手術・入院の王さん。
結局1ヶ月あまり復帰できず、伊巴珈琲はその間ずっと休業のはめになった。近場で座って紅茶やコーヒーがいただけるところと言えばマックしかなく、仕方なく私はその間足繁く最寄りのマックへ通うこととなった。
私も胃潰瘍を患ったことはあるが、手術や入院など不要だった。何でも、王さんはずっと痛みを我慢していたらしく、ひどい状態になっていたそうである。

そんな中、2008年が明けた。NHK国際放送でその年も紅白歌合戦を見てわずかながら日本のお正月を感じ、ふるさとを想う。例によって旧正月を祝う台湾は12月31日まで会社も学校も通常通り、1月1日のみ休みとなるだけであった。
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2009年12月30日

小学校のグラウンドを借り、永華幼稚園運動会開催。伊巴珈琲、数日間シャッター開けず。王さんは胃潰瘍で入院、手術の報に心痛む。メイ、まぶたの異物で眼科受診。

その1週間後、同じ小学校のグラウンドでランの永華幼稚園の運動会が開催された。園児数は100人を超えているので、広いグラウンドを借りても場違いな感じはしない。
ランの幼稚園は大きい方だが、もっと小規模な幼稚園でも広いグラウンドを借りることは多々あることだ。
というのは、台北市内の幼稚園で立派な園庭を持っているところなどほとんどないからだ。いったん台北を離れると、田畑や緑に覆われているのに、台北は人口密集都市なのである。

転校に恵まれ、午前中2時間半の運動会が無事終了した頃、例の自宅前のカフェ・伊巴珈琲が2日ほどシャッターを下ろしている。週末にかかっても開店せず、数日後やっと陳さんだけが店を開けていて、ひとまずホッとして声をかけた。
「王さんが腹痛で救急車で運ばれ、入院したのよ。胃潰瘍が悪化してて手術になったの。ちょうどあの日、私も台中に行ってたし、お店開けられなかったの。」
というのでびっくりした。王さんは当分休養や治療が必要らしかった。心配だし、伊巴珈琲が開かないと本当につらかった。
王さんたちとは気も話も合ったし、喫茶店形式でなくテイクアウトしかないところが多いので座ってくつろげない。また、一般の喫茶店で紅茶などをいただくと3~4倍の値段はするのだ。

王さんの復帰を願いつつ過ごす日々。
もう一つの懸案はメイの目であった。右まぶたに丸いこりこりしたものがあり、長らく治らない。これはおかしい、一度医者に見せた方がいいということになり、私は彼女を眼科に連れて行った。
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2009年12月29日

初めて生で見る、総統選出馬直前の馬英九にうっとり。イベント会場は彼の登場で歓声の渦、最高潮に。国民党候補者そっちのけで盛り上がり、馬英九人気物語る。

その国民党選挙候補者の名前も顔もまったく記憶にないが、とにかく双眼鏡を手に最寄りの公立小学校のグラウンドに急いだ。引っ越さなければ、いずれランとメイが勉強することになる学校であり、また市場へ行く際、時々通り抜けさせてもらう馴染みのグラウンドでもあった。
グラウンドとしてはかなり整備された立派なもので、広さも十分だったが、私たち4人が到着した頃にはすでにかなりの人だかりであった。
入口付近には支持者たちが党首である馬英九や、その地域の候補者の名前入りの帽子や小旗を笑顔で配っており、私たちも喜んでもらい、娘たちも旗をうれしそうに振った。願いを同じくする者の集いという感じで和気藹々、みんな親しげに接し合う温かな空気に包まれている。

さて、候補者の演説などが始まる。
市場側に設けられたステージに向かい、人々は耳を傾ける。
しかしだ。目立ての馬英九はまだ姿を現さない。そわそわ、どきどき
きょろきょろ。娘たちも「まーいんじょうは?」と訊いてくる。まーいんじょう、とは馬英久の中国語による発音だ。

かなり待った。かなり待って、ようやく三つある門の市役所側のところから馬英久が入場!
「馬総統、ニイハオ!」
司会の女性が、まだ総統になっていない彼を早くもそう呼び、歓迎する。場内の観衆が一斉にそちらを向き、歓声を上げる。「待ってました!」、まさにそんな盛り上がりだ。
馬英九がやっとステージにたどり着いた後も興奮は冷めず、いったいこれは誰の選挙イベントかと思う。
「まあ、だいたい馬英九見たさに来てる人ばっかりだろうからね。」
とリーが言うが、本当にそうだろうと思った。
私は初めて生で見る馬英九にうっとり。双眼鏡は大活躍。
テレビで見るよりさらに長身で、声も甘く、マスクも然り。
「見えないよおー」
と小さい娘たちは不満そうだが、私は気もそぞろであった。
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2009年12月28日

台湾の総統をご存知ですか? 現総統・馬英九、当時国民党党首として応援演説にやって来る。近所の小学校は、準備や警備でにぎやか。家族そろって見に行く。

「師走」とは日本独自の12月を指す言葉で、中国語にはない。
それはいいとして、台湾も12月に入った。
8日、土曜日だった。リーが言う。
「今日、そこの小学校に馬英九が来るよ。見に行く?」
日本で台湾の政治や政権について詳しく報道されることは少ないが、今の総統(日本の首相に当たる)は誰かご存知だろうか。
李登輝、陳水扁と来て、現在は国民党の馬英九である。民進党から国民党へ政権移動した画期的な総選挙であった。

さて、この馬英九氏。
台北市長や国民党党首を歴任してきた人だが、長身かつ甘いマスクでかねてから特に女性に人気の高い政治家だった。「有権者が全部女性なら彼が勝つのに」と皮肉られることもあるほどだった。
しかし、ただルックスが良いだけではない。私が大学付属の学校で中国語を学んでいた頃、政治の話になると先生たちの中で馬英九をけなす人は一人もいなかった。ハンサムだけじゃない、人柄がいいのだ、と男の先生も話していた。そんなわけだから、私の馬英九に対する印象が悪いはずはなかった。

現に、義妹や叔母たちも彼のファンで「腕組んで写真撮ったことあるわよ」なんて自慢げに言っていた。
その晴れた12月上旬の土曜日、私が住む地域から出馬する国民党党員の選挙活動のイベントに、党首の馬英九が応援に来るということらしい。まだ彼が総統選挙を征し、総統になる前のことである。

「行く、行く!」
すでに娘たちも見知っていた馬英九を家族そろって見に行くことになった。歩いて5分足らずの小学校グラウンドは朝から準備や警備の警官などでにぎやかだった。
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2009年12月27日

弁護士費用70万円?! 本来不要な出費に泣く。ラン、自閉症のクラスメイトの世話を焼く。転園までの心温まる交流。

リーによると、やはりインサイダー取引の嫌疑をかけられた同僚たちはすべて弁護士を立てるという。その中には社長も含まれていて、彼などはもともと顧問弁護士がいるのだが、他の新たに弁護士を頼む友人には日本円で約70万円もかけて腕の良いというか高名なそれに依頼する者もいるらしい。

70万円である。
勝訴できるか否かわからないのに、である。
結局リーは知人の紹介で8万元(当時のレートで約26万円)で手を打った。それでも本来必要のない出費であることにはかわりなく、堅実な私たち夫婦はひどく心を痛めた。

さて、裁判云々の諸事は遅々として進まぬものである。
ランはその頃、すっかり我が物顔で幼稚園内を闊歩するようになっていた。なんでも、同じ蜜蜂組に自閉症の男の子がおり、ランはうまくしゃべれず、友達ともコミュニケーションのとりにくい彼の手をとって遊んだり、こまごまと彼のする作業を手伝い、世話を焼くとヘレン老師などから聞くようになった。
私はそんな話に心和んだ。たしかにその男の子の名前を家で頻繁に言っていたが、まさか自閉症を抱える子だとは思わなかった。
お転婆で、何ひとつ物怖じしないような元気なランの別の一面に、新たな光を見たような気がした。
それ以来、私も積極的にその男の子の様子を聞いたり、彼の見方でいることを奨励していた。

が、数ヵ月後、自閉症がもとで、そのクラスメイトは他の幼稚園に移ることになってしまった。症状としては重い方だったのである。
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2009年12月26日

財務担当者の奇行が原因?! 株価上昇とリーの株売却時が重なる。インサイダー取引など青天の霹靂、潔白証明する奔走始まる。

通常、企業などの財務担当者は、ある一定期間が終わるといろいろな財務書類を処分するらしい。
だが、リーも私もかつて勤めていた会社の財務担当者はご丁寧にもそれら書類を自分の物以外保管していて、何か情報を聞きつけてか、検察官のチェックが入った際、それらを見せて事が大きくなったというのだ。

その会社は急成長し、私を含め、全社員多かれ少なかれ株を配当されたのだが、幹部社員は当然その額も量も多かった。リーもそのうちの一人で、彼の慎重かつ保守的な性格ゆえ、大事に持っていた。

そのうち、父親が癌のため多額の治療費を要したり、私との結婚、出産などに伴い、まとまったお金が必要になった時、ある程度まとまった株を売却したのは事実である。
が、もちろんそういう正当な理由があり、またそのような状況にあったからであったのだが、それがたまたま後から見れば会社の株価が急に上昇した時期と重なり、嫌疑をかけられたというのだ。

リーにとっても、同様にまったく故意でも悪意でもなかった同僚たちにとってもまさに青天の霹靂である。泣くに泣けず、何とか手立てを考えなくてはいけない。
その会社を退職後も気が合い、つき合いがある元同僚たちとリーはしばしば連絡を取り合い、対策を練った。その一環として、今は亡き父親が癌のため長期入院していた病院に当時の医療費の証明書を発行してもらったり、リーの無罪を証明するための奔走が始まった。
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2009年12月25日

金山青年活動中心1泊旅行から帰り、ランは欠席返上、すぐ幼稚園へ。え?なぜ今……リー、インサイダー取引事件に巻き込まれる。

翌朝目覚めると、空模様はより台風接近を如実に示していた。
4人とも7時には早々と起き出し1階へ朝食に。豪華ではないが、中国式のバイキングを楽しめた。
外では散歩もできそうにないので、9時に金山青年活動中心をチェックアウトし、家路に着いた。1時間あまりで自宅に到着する。

車中で、半ば冗談でランに訊く。
「思ってたよりずっと早く帰れそうだね。今から幼稚園へ行く?」
すると、ランは行く!と即答、私はすぐ幼稚園へ電話を入れ、欠席と告げていたが今から行ってもよいか尋ねると、主任のクレア老師は
「どうぞ〜、来て下さい!」と快諾してくれた。給食も一人分くらい融通は利くのだろう。
10:45、ランを幼稚園へ送り届ける。
ちょうどその日から、母親は台湾人、父親は村上という日本人の兄妹が入園していた。うちと逆のパターン。以後、園でそのお母さんと時々会うことがあり、いろいろ二国をまたぐ生活の苦労話などを語り合った。

11月も末。
えらいことが起こった。
リーが以前勤めていた会社でインサイダー取引を疑われる事件。
当時、その会社の幹部で、会社株を一般社員より多く配当されていたリーなど10人近い社員にその嫌疑がかけられたのだ。
リー同様、すでにそこを退職している人も結構いたが、みな、急に今さら降って湧いたような騒ぎに慌てた。各自弁護士を立てるとか立てないとか、騒然となってきた。
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2009年12月24日

名物・鴨肉産地の金山での昼食にありつけるまではまさに修羅場。注文にひと汗かく。夕刻は活動中心敷地内の温泉に浸かる。台湾は温泉が豊富。

鴨肉料理にありつく工程はこうである。
まず、広〜い数階建ての食堂に入り、席を確保する。
円卓がたくさん並んでいるが、なかなか空席は見つからない。そろそろ食べ終わりそうなテーブルのそばで待っていて、店員さんが片付けに来る前に席を取ってしまうくらいの素早さが必要だ。

それから、また階下に下り、注文の作業に入る。
飯、麺などの主食
鴨肉
野菜類
などと分かれており、順番にいずれかを決め、手分けして取っておいた席に持ち帰る。その注文過程が豪快だ。もう、年末の築地市場かバーゲンセール会場のような混雑と喧騒で、鴨肉を賞味しに来た本旨を忘れるくらいのバトルなのである。

いささか(いや、ひどく?)上品さを欠いた修羅場にムッとしつつも、気を取り直してやっと鴨肉ランチが始まる。
味は噂どおりの美味で、鴨さんに手を合わせる思いだ。
私たちがごちそうさまをして店を出る際も、まだ下では初せりのような賑わいが続いていた。

その日は台風接近中で、お天気は良くなかったが、宿舎に帰り、夕方は敷地内にある温泉に行った。「温泉、温泉!」と幼い娘たちも楽しみにしていた。リーも温泉好きの一人だ。台湾は温泉が湧くし、そのファンも多い。ちっちゃな娘たちに水着を着せたり、拭いたりと骨が折れるが、温泉の設備は良く、私も結構楽しんだ。
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2009年12月23日

青年活動中心は台湾の公営宿泊施設。簡素だが清潔、リーズナブルで安心。金山青年活動中心に1泊、名物・鴨肉料理に挑む。

台北では毎年旧正月の頃、観光展なるものが開催される。
旅行代理店や航空会社、各地観光地にそれらの協会などがブースを埋める祭典である。
私は人混みが嫌いで、幼い子連れだと行く気がさらに起きなかったが、義弟一家はその年出かけたらしく、まだ上海移住が本決まりでなかったため、青年活動中心の宿泊券を購入していた。その1泊2日のチケットを使用できないまま、夏、上海に越してしまい、リーが譲り受けたのだった。

青年活動中心はいわゆるYMCAとか国民宿舎みたいな感じの台湾公営の宿泊施設で、全国に10ヶ所ほどある。豪華ではないが、清潔だし、一定のサービスが保証され、もちろんリーズナブル。繁忙期や人気のセンターでは予約が取れないこともある。
外国人でも利用可なので、参考にしてほしい。

義弟から進呈されたチケットは、どこのセンターを利用してもよかった。
リーと相談の結果、台北郊外の金山青年活動中心に日曜日の夜1泊することに決めた。土曜日の夜は予約でいっぱいだった。
この金山は鴨肉で有名なところで、いつか連れて行ってやろうとリーに再三言われていた。

昼食を金山の鴨料理と決めて車で向かうと、休日ゆえ、大型観光バスもわんさと集う盛況ぶり。市場のような場所に並ぶ鴨肉料理店も尋常でない混雑で、面食らってしまった。
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2009年12月22日

結婚・出産で外出が難しくなった私の心のオアシス・伊巴珈琲。王さんたちの存在、支えになる。幼稚園生活を謳歌するラン、日本語しゃべれなくなる。11月下旬、1泊2日の旅行へ。

王さんはあっけらかんとしていて、どこか肝っ玉母さん風な雰囲気がある人であった。彼女の方が私より少し年下ながら、伊巴珈琲を心のオアシスとし、彼女や陳さんとの関係や語らいをとても重視するようになっていく。
台湾にも元同僚や知人友人はいたが、結婚・出産後はなかなか出かけて会いに行くこともままならなかったので、自宅前にいる彼女らは貴重な友と言えた。
そのうち王さんも私同様、料理好きだとわかり、そんな話でも盛り上がったし、彼女の食譜(レシピ本、のこと)を貸してくれたりもした。
彼女はその店の2階に住んでいたが、どうやら恋人と同居しているようだった。
「あれ、私の彼よ。」
と教えてくれたし、たしかにその長身の男性はたびたび店に座っていたが、私から一緒に暮らしてるの?などと訊くことは気が引けた。
いずれにしろ、私を含め、いろいろあった3人であった。
また、だんだんリーとの夫婦の悩みを王さんに打ち明けるようになり益々伊巴珈琲は私の心の支えになっていった。

さて、すっかり幼稚園生活を謳歌するようになったランは、ほとんど日本語を話さないようになっていった。
台湾では娘たちに日本語で語りかける私であったが、ランは一日の多くを幼稚園で過ごすので、それは仕方ないことだった。
4時以降6:30までに園に迎えに行くのだが、そのうちランは「明日は5時に来て」と注文をつけたり、「なんでこんなに早く来るの?」とすねたり、とにかく園の先生や友達との毎日が楽しくてしようがない様子であった。
また、家では、ヘレン老師の口調を真似るように、妹メイ相手に幼稚園ごっこをするようにもなった。

11月下旬。25日我が家は1泊2日の旅行に出る。
それは……
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2009年12月21日

伊巴珈琲の王さん陳さんともにバツイチ、いち息子あり。離婚後、別居する我が子と会える「面会交流権」、日本では未だ法的効力なし。

王さんはその喫茶店のオーナーと血縁関係があり、店を任されることになったらしく、その際高校時代の同級生の陳さんに声をかけ、2人で切り盛りすることにした。色白でぽっちゃり、気風のいい王さんと、チョコレートの愛称が頷ける褐色の肌が可愛い陳さんとはすぐに打ち解け、カフェ通いが楽しくなった。

聞くと、王さんだけでなく陳さんもバツイチであった。
だが、王さんとは異なり、前夫は時々その店に小学1年生の息子と訪れ3人で結構楽しそうにおしゃべりしている。どうやら、夫は復縁を望んでいるらしかったが、陳さんは拒み、息子も夫が養っていた。

台湾も日本同様、離婚率は年々上がっている。それを裏付けるような伊巴珈琲スタッフの経歴であるが、王さんの方は笑えない経過があった。

結婚まもなく明らかになった前夫の酒乱と暴力に耐えきれず、王さんは東京に住む実母のもとに赤ん坊だった息子を連れ逃亡する。
そこで1〜2年暮らすが、夫に見つかり連れ戻され、息子の養育権を取られ離婚する。
失意に泣き暮らす王さんにある友人が「面会交流権」を得るよう裁判を起こすことを提案する。
そして、王さんは無事「月に2回の週末、息子と会い、過ごすことを許す」法的援助を得たのだ。
離婚後、別居する子どもに会うことができるこの面会交流権は、まだ日本では法制化されていない。
王さんが愛息に会ったり、プレゼントを贈る時の満面の笑みを思い出すたび、この権利の早期確立を望まずにはいられない。
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2009年12月20日

乳幼児特有・てあしくち病の存在知る。高温多湿な台湾でも各種風邪は流行する。子育て最盛期主婦の私の息抜きは週末のカフェ。雇われ店長・王さん愛息を想う。

ふつうの風邪に加え、てあしくち病という乳幼児特有疾患などに罹りつつも姉妹そろって大事に至らず暮らしていた。
台湾は日本よりずっと高温多湿で、風邪なんて流行するのかな、と甘い観測をしていたが、しっかりあるのだ、各種疾患が。
こどもたちは小さいマスク着用で幼稚園に薬持参で行くことも多く、ランの担任・ヘレン老師にもたびたび昼食後の薬服用を頼み、世話になった。

さて、バタバタ子育て真っ最中主婦の私にもひとつささやかな息抜きがあった。
それは、土日家にいて、午睡の習慣があるリーの習性を利用したカフェ通いであった。
台湾にも喫茶店は多いが、たとえばスターバックスで一杯100元(現在なら300円〜)ほどするコーヒーを25〜40元ほどで供する簡易タイプのカフェもある。
ちょうどわが自宅マンション向かいに、そのタイプの喫茶店・伊巴珈琲ができてから、週末1〜2時間のカフェのひとときは私の心を潤した。
そこで、読書、執筆などでくつろぐ。

また、雇われ店長の王さんとの語らいも楽しみのひとつとなっていく。
彼女は私より5歳ほど年下で、小学1年生の息子が別れた夫と暮らしている、事実上独り身の女性であった。
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2009年12月19日

1ヶ月以上続く頭痛は顎関節症のいち症状だと気づく。ラン、幼稚園生活に慣れ、習った漢詩念ずる。栗のケーキで祝・満4歳。

10月半ば、私は頭痛がかれこれ1ヶ月ほど続いていることに気づく。
幼い娘たちがいるし、リーの就寝時間は私より遅いし、日本の実家のように周囲が静かでもないから安眠が妨げられることは多々あり、寝不足や体調不良によるものだとばかり思っていたが、どうもおかしい。
痛みは主に頭の中央部にへばりつくような感じで、気がつけば慢性になっていた。

おかしい。
もしかしたら、とネットで調べてみると、果たして私の予想は当たった。顎関節症のいち症状だったのだ。
夏、日本一時帰国中に日赤の顎関節症外来を受診したが、手間がかかるのでマウスピースを作らず台湾に帰り、その後も放っていたのだが、新たな症状を発症し、ヤツは悪化していたのである。
しkし、物が食べられない、痛くて口が開かないなどの重症ではなく、また台湾では十分な専門的治療は受けられないだろうし、専門外来にある大きな病院へ半日がかりを覚悟で行く気にはなれず、私はまたしても我慢してやりすごそうとした。

10月は、ランがようやく幼稚園生活に慣れ、秋の遠足を楽しんだり、園で習った漢詩をしょっちゅう口ずさむようになり、それを妹のメイも聞いて覚えるようになった。漢字は読めない2人だが、耳から音で覚えるのだ。
また、月末ランの誕生日には白木屋のケーキで祝った。アイスケーキにしようかと思ったが、ワンサイズでしかも約4000円もする!台湾の物価からすれば、ゼイタクもいいところだ。もともと白木屋はおいしいながら高いチェーン店だが、度が過ぎる。
秋においしい栗のケーキでおめでとう。満4歳。

顎関節症の頭痛は小康状態に入ったのをよいことに、私はさらに我慢を続け、七転八倒の限界が来るまで手を打たなかった。
posted by マダム スン at 05:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 家運低迷期突入す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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