2009年10月11日

荷造りに勤しむ。ソウル最後の外食は寒鶏湯(サムゲタン)。林さん親子との悲しい別れ。

揺れに揺れたが、4月6日にソウルを発つことが決まった。
送別会が終わった翌日から、私は荷物の整理に多くの時間を費すようになった。あと5日・・・・・ そわそわ落ち着かず、整理すべき物もいっぱい。それでも食事は摂らねばならず、買物はまだ必要だし、休む間なしの忙しさだった。
3日に引越し会社の担当者が見積もりに来て、5日梱包、荷出しとスケジュールが組まれた。
4月21日には日本へ帰国することにしており、台湾経由でなく日本へ送るものは別に段ボール箱に詰め、ベビーカーに載せて郵便局へ行った。月曜日でリーは出勤。自分で解決するしかない。11kg、なかなかのものである。
郵便局窓口で、いつものように英語で奮闘。
船便で25000ウォン、当時なら2500円ほどだった。韓国の物価高からいえば、安いほうである。

そうそう、その前日の日曜日は、時々行っていた牡蠣の店へ足を運んだ。韓国で最後の外食だった。
そこは牡蠣がウリモノとは言え、一般的な韓国料理も豊富で、私はだいたい寒鶏湯(サムゲタン)を味わった。鶏の内臓を取り出し、もち米、ナツメ、にんにく、高麗人参などを詰めて煮る、あれである。一人前にちょうどよい半鶏分のものがあり、重宝した。もともと鶏肉好きな私、文字通りほっぺが落ちそうであった。その店は大根キムチもおいしく、ぱりぽりごちそうになったものだ。

ソウルで林さん親子と最後に会ったのは4月4日。
林さんとは気が合い、夫の愚痴などを言い合い、ランとミクちゃんは同い年、これからも末永くつき合いたいと思っていたが、その日以来彼女たちとは会っていない。
林さんの念願叶い、数ヵ月後ご主人は東京支社勤務となり、家族3人東京へ越したが、彼の浪費癖、暴力、浮気などが家庭の平和を脅かし、林さんは部屋を借り、別居。
以来、いくら私がメールしても返事が来ることはなかった。
「気持ちがすさんで、話したくないなら仕方ないです。でも、陰ながら応援してるからがんばって。そして、林さんにはソウルで本当にお世話になりました。たくさん助けてもらったこと、一生忘れません。ありがとう。」
心をこめて書き送った。
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2009年10月10日

韓国料理店で温かな送別会。切ない夜。こんなにソウルが好きになるとは思いもしなかった。

ランとメイは何度かリーのオフィスに行ったことがあり、秘書キミーだけでなく、他の社員たちとも面識があった。
それでだろう、送別会にはぜひ私と娘たちも一緒に、とのお誘いがあり、3月31日金曜日夕刻に集合、みんなで予約してある韓国料理の店へ歩いた。
穏やかな日で、風は冷たいものの美しい黄昏に恵まれた。COEXや現代百貨店を左手に見て、談笑しながらゆっくり歩いた。
私とリーがカムジャタンのファンというので、ソウル支社の面々も賛同、大鍋のそれをみんなで囲んだ。辛い料理なので、いつものように娘たちにはあらかじめ食べ物を用意し、持って行った。

10人ほどに減ってしまったソウル支社のメンバーは、湯気を立てるカムジャタン同様に温かかった。
異国の台湾から来た、ハングル語ができない支社長のリー。
本社命令に従い、断腸の思いでリストラを断行した彼の心中をすべて理解してくれていたのだろう、彼の退職をひどく惜しんでくれた。
送別会のみならず、リーと娘たちに洋服までプレゼント、申し訳ないくらいだった。

気心が知れ出したキミーに話したことがある。
韓国に来る前は本当に気が重かった。ソウルは寒いし、韓国人は日本人に敵意を持ち、冷たいらしくて怖かった、と。
「歴史的にはそういう事実も過去もあるけど、一般の人はもうそんなことないわ。敵意なんてとんでもない!」
キミーは笑って答えた。
ありがたかった。そして、こんなにソウルが好きになるとはまったく予想していなかった。
韓国と、この情厚い仲間とお別れかと思うと、あらためて寂しさがこみ上げる。切ない夜。
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2009年10月09日

3月下旬、リーの退職の意思固まる。マフラー、手袋、オンドルまだ活躍。ローソクでお風呂。

リーは同僚や、その日社長にも慰留されたようだが、退職の決意は固く、私の一縷の望みも結局絶たれた。
退職が決まり、もうすぐ台湾に帰るというのに、リーは3月25〜28日台北本社に出張した。
4月目前のその時期でも、朝の散歩時にはマフラーや手袋がないと寒く
オンドルを22度くらいに設定していた。ランは「ママ、眠いの?一緒に寝よ!」など、まとまったフレーズを話せるようになり、メイは歩行器に自らよじ登り、スポッと上手に座れるようになった。
そのマンションの次なる借り手はまだ見つからず、また大家さんがひと組の夫婦を連れて来た。毎回思うが、ここを借りるというのだから相当裕福な人たちなのだろう。

リーが台湾から帰る日の夜、いつものように私はランとお風呂に入ろうとすると、そこの電球が切れ、灯りがつかない!リーは不在、困ったぞ。
私はいただきものの立派なローソクがあったことを思い出し、それを灯して入浴することにした。ランはハッピーバースデーの歌を歌いだし、大喜び。2人で「きれいねえ〜」とうっとりいい気分だった。
ところが、いざ湯船に入ろうとする時、お湯がかかったのか、そのやわらかな光が消えてしまった。

真っ暗・・・・・

「コワいー!」
ランが半泣きになる。これまた困った。
私は大きな声で歌を歌い続け、なんとか乗り切った。得がたい体験。

翌日、電球は切れた実物を持ち、COEXの大きな雑貨屋に私が買いに行った。
またその翌日、3月31日、リストラで随分少なくなったソウル支社のみんなが送別会を開いてくれた。
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2009年10月08日

腰痛再び悪化、薬服用。乳幼児を持つ主婦は重労働。林さん、東京転勤に期待。社長がソウルにやって来た!

春の彼岸の頃、私の腰痛がまた重症化し長引いたため、日本から持って来ていた薬をしばらく服用する。
無職、30代半ばの女性がなんとヤワな、、、と思われるかもしれないが、家事は無限、0歳と1歳の子供を終日守りする心と身体の疲労と負担は、そうナメたものではない。元来ある私のストイックな性格ゆえ雨風激しくとも毎朝30分ほどの散歩に出かけ、腰痛を押しても二胡に励み、中国語や英語の勉強も続けていた。
1日3度の食事はすべて私の腕にかかり、掃除や食料品の買物と管理も然り。

ちょっと目を離していると、かろうじて歩けるようになったメイが玩具の戸棚を開け、全部引っ張り出していたり、紙おむつ頼りにトイレに行かず、部屋の隅でランがうんちに力んでいたりなどは日常茶飯事
で、ただでさえ手いっぱいな状態に、プラスαは容赦なく付加される。
乳幼児がいる主婦の運動量が多く、一日の必要摂取カロリーが高めなのも十分うなづける。

3月21日、約10日ぶりに林さん親子が遊びに来てくれた。ご主人や姑さんとの関係は相変わらずであったが、その彼がもうすぐ東京支社へ転勤になりそうで、その期待に支えられているように見えた。東京へ行けば、お給料はぐっと上がり、三重の実家にもちょくちょく帰れるだろう。林さんはうれしそうに話した。

その頃、台北から我が社の社長がソウルへやって来た。
彼は社員が出張時に利用するホテルではなく、オフィスに最も近く、五つ星のCOEXインターコンチネンタルに宿泊。
リーは23日、その部屋へ呼ばれた。
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2009年10月07日

一家で初散策。地下鉄で鐘路方面へ行く。景福宮を巡り、庶民の店で韓国家庭料理。

恥ずかしいハナシだが、韓国を離れることが決まって初めて、私たち一家4人は地下鉄に乗り、日帰り散策を決行することになった。
せっかく住むことになったソウル。近場でもいいから行って見ようかと言いつつ、娘たちの幼さやハングル語ができない不都合がついつい先に立ち、いざとなると気持ちが萎えていた。
私よりずっと方向感覚にすぐれたリーだが、道路標識にローマ字表記がない場合が多く、二の足を踏まざるを得なかった。

相談の結果、江北の鐘路方面へ行くことになった。観光名所・景福宮のある、70〜80年代にはソウルの中心街だったところだ。王宮に物資を納める店が集まり、古くから商業地域として栄えてきた街である。
3月18日、暦の上ではすっかり春とはいえ、冷たい空気が張りつめた晴天、吹く風は肌を刺し、娘たちの防寒を怠れなかった。

景福宮を歩いた時、ちょうど台湾からのツアー客に出会い、ガイドが中国語で説明しているのをさりげなく聞いたり、写真を撮ったり、ランは元気に走り回ったりした。
幼い子供たちが一緒ではショッピングをする気も失せ、とにかくお昼ご飯だけでも食べてから帰ることにする。
飲食街があるらしき方向へ、私はベビーカーを押しながら歩く。
だんだん庶民的な雰囲気が濃くなり、狭い路地で夫婦が営む小さな食堂に決める。ご主人が少しだけ中国語を解したので、なんとか意思疎通をはかれた。これだけでも私たちにとっては冒険、勇気の要ることだった。
気の良い夫婦はしきりにランとメイをあやし、可愛がってくれる。
おいしい韓国の家庭料理にも満足して、重々礼を言い、辞した。

ほんの数回だけだったが、車や電車で渡った漢江の流れが懐かしい。
思い出すたび、そこは晴れていて、碧く、キラキラと陽光を反射して
流れているのだ。

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2009年10月06日

保健所で3種混合、日本脳炎予防接種。マンション見学客、大家さん来宅にせっせと大掃除。

韓国の人気タレントも住む「宝くじに当たったような我が家」は15日に契約したため、一応4月15日まではいられるという話になっていた。
ところが、3月17日、来月でこのマンションを出るなら4月上旬に明け渡してほしいと大家さんから連絡が入ったらしい。そう、秘書キミーから知らされる。
一時はリーが3月25日頃に母子3人だけ先に台北へ帰ってほしいと言われたこともあったので、それよりはマシだが、とにかく落ち着かない時間を過ごした。

それでもすべきことはこなさねばならず、台湾の母子手帳をにらみつつ、幼い娘たちの諸々の予防接種にも忙しかった。
2月、初めて保健所でMMR(はしか・おたふくかぜ・風疹3種混合)をメイは受け、1ヶ月間を置いて、この日再びキミーに頼み、私の散歩コースにある真新しい保健所まで歩いた。今日は日本脳炎。1〜4週間あけてもう一度接種。ランは去年打っているので、今年は1回でよい。
明るく清潔な保健所。2階で親切な女医さんに打ってもらう。

また、その日は、このマンションの部屋を見たいという人が午後4時半に来ることになり、急いで大掃除。
以来、何度か大家さんが次なる借り手になるかも知れぬ人や家族を連れて来ることになる。
私もランもこの家が大好きになっていた。離れるのがつらかった。
だが、当初2年契約したマンションを急に、それもこんなに早く出ることになり、大家さんにはとても申し訳なく、キミーの通訳を通し謝らなければならなかった。
初老の大家さん夫婦は穏やかな善人との印象を受ける人たちでホッとしたが、複雑な心境、本当に胸は痛んだ。
胸って本当に痛むのだ。
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2009年10月05日

黄色いフリージアの花束の芳香広がる。愛車との別れ。メイの一歩に安堵。寒の戻り、3月の小雪。

3月10日、林さん親子が来宅。
地下鉄に乗って、COEXに隣接する駅で下車し、COEXモール内を通って我が家に来る林さんは、この日そこで黄色いフリージアの花束を買って来てくれた。
うちのランとミクちゃんは、ケンカっ早いミクちゃんに主導権があってしょっちゅう衝突してはいるが、這い這い中心のメイとも適度に交わりながらにぎやかに遊んだ。

4月の台湾帰国が決まり、実家の両親がSKYPE(パソコンで可能な無料通話)して来る。やはり彼らも突然のことで驚いている。

翌日の土曜日は恒例のWAL MARTへ買い出し。
会社はリーに高級な社用車を公私共に必要だろうと与えていたが、翌週には処分し、後任の支社長には社用車ナシ待遇で行くことを既に決定していたので、その日が乗り収めになるはずであった。
週に1度か2度とは言え、幼い娘たちとソウルの街並みを眺め乗った愛車、お別れかと思うととても寂しい。

奇しくもその日、メイが初めて3〜4歩歩く。
満1歳の誕生日10日前に歩いたラン、メイはその記録から2ヶ月以上遅れていただけに、うれしさと安堵いっぱいである。

私はCOEX内の大型書店へ足繁く通った。
ランには次に「母をたずねて」を買い、私は中山あゆみ著の「病院で死なない選択」に生きる勇気が湧いて来て泣いて、日本の両親に郵送したり、中沢新一著の「三万年の死の教え〜チベット{死者の書}の世界」を紐解いたりした。

3月13日、寒の戻り。
朝零下3.7度、少し雪が舞った。
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2009年10月04日

ソウルにあと1ヶ月、、、カウントダウン開始。三寒四温の頃、メイまだ歩かず。

2月20日頃には夕方6時を過ぎてもうっすら明るく、春の到来が近いことを感じるようになった。
しかし、韓国はやはり基本的に台湾より日本に気候帯が似ているため
その後も三寒四温をくり返した。

今回の台湾出張でとうとう転職を決意したリーは、その会社の製品を数点持ち帰った。コラーゲン等を使用した健康食品を扱う会社で、高校時代以来つき合いがあり、元同僚の友人から紹介されたのだ。

もともと2年ほどと言われたソウルでの任期が1年になるとかどうとかいう話はあり、ある程度心の準備はできていたが、3月末か4月初めには台湾へ帰ることになり、いきなり始まったカウントダウンに戸惑う。あと1ヶ月あるかないかなのだ。
リーの転職や起業への関心は数年前からあったが、本当にやってきてしまった。お給料も良く、私にも愛着が強い会社だけにとても残念である。
リーは台北にいる社長にメールや電話で退職の意思を伝えた。
私は内心、社長が慰留し、リーが思い止まることを願ったが、3月9日
社長がリーの離職を認める返事が来て、望みは絶たれた。

急に気ぜわしくなった。
毎朝の散歩の風景も変わる。一歩一歩確かめるように歩く。カメラを持ち出し、馴染んだ風景を収めたりもした。

満1歳になったメイは、明らかにランより成長が遅く、まだ歩けず、パパ、ママもはっきり言えない。
だが、なかなか笑わなかった無表情が徐々に改善し、ラン同様、なかなかのお転婆ぶりを発揮するようになっていった。
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2009年10月03日

リー、転職の意向強し。反対するも効果なし。ソウル3月うっすら雪、急な決断に動揺する。

娘たちにとっては閉鎖的過ぎる生活環境を常に気に病みつつも、せっかくソウル生活に慣れ、韓国に対し持っていたマイナスイメージをプラスに一新したにもかかわらず、不安定な状況が続いていた。
リーが支店長を務めるソウル支社は大幅なリストラを断行し、その心労で彼はひどく疲れ、嫌な役回りを悔やんだ。
時には、支社自体をたたむという話も出たし、以前からあった転職、起業への熱意もリーを迷わせていた。
実際、知人からいくつか会社を紹介されて、少しずつリーは「企業研究」を進めていて、私にも時々相談を持ちかけた。

私は転職・起業構想に否定的であった。
公務員の娘として育った私には、起業、経営というものは実に畑違いでコワいものに映ったし、転職が持ち上がっている会社はまだ駆け出しで将来を展望しにくく、給与も今よりずっと減るらしい。
今の会社は私も2年余り勤め、愛着もある。ソウル暮らしも続けたい。
リーにはそう答えたが、結局は彼が決断するままにするしかないことはわかっていた。

2月28日、朝7:00前にリーは迎えに来たタクシーで仁川空港へ向かった。恒例の台湾本社への出張だ。
翌3月1日、うっすらと雪化粧。日は長くなったが、まだまだ寒い日は続いていた。
台北で、リーに転職先を紹介した友人と頻繁に会っているようだったが、再度ソウルへ帰って来たときには、もう既に転職を決めていた。
あと1ヶ月ほどでソウルから撤退?!、、、、ちょっと待ってよ、、、、
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2009年10月02日

韓国でもバレンタインデー。THE FACE SHOPは人気のチェーン店。山口さん、日本移住決まる。

リー、ラン、そして私の熱や風邪の諸症状がなんとかおさまってきた2月12日、私は久々にCOEXに出かけた。食事のことなどで衝突することは多々あったが、もうすぐバレンタインデー。リーへのプレゼントを買いに行きたかった。韓国でもこの「行事」で盛り上がる。

少し迷ったが、私はTHE FACE SHOPに入った。
これは後に台湾へ帰って、台湾大学付近の繁華街に行った時、このチェーン店の支店なるものができていて驚いたのだが、韓国ではかなり有名な、手軽な価格で化粧品やメイクアップグッズを売る店である。
入浴剤や男性化粧品まで豊富な品揃え、パッケージのデザインもシンプルで色合いや被写体も植物や果物などナチュラル志向。かなり人気があるようだった。
白が基調の清潔な店内で、私はリーに髭剃り後のローションを贈ることに決めた。

それから、またしばらく歩いて書店へ行く。「アルプスの少女ハイジ」を皮切りに「名犬ラッシー」、「シンデレラ」など、私は徐々にランの本を買い足していった。
まだ字は読めないものの、ランは熱心にページをめくる。私やリーに読んでほしいとせがむ。
今もそうだが、とても本が好きであった。

2月半ばを過ぎて、林さんとミクちゃん親子、山口さんも来宅。
山口さんは、2月末、日本語が達者な韓国人のご主人と日本に帰ることになった。彼女は看護師の資格があり、その仕事を探すという。
また、お母さんが、
「若夫婦と暮らすのは気遣っていやだから、あんたたち家探して住んでね」
と言っているという。
山口さんは困っていたが、頼もしいお母さんもいるもんだ、と思った。
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2009年10月01日

韓国帰国早々の寒波、ラン高熱で急診外来。かぜ、我が家で暴れる。

ソウルに帰ると、またすぐバタバタした日常の渦に呑まれたが、1ヶ月ぶりに家族4人だけの静かな生活が新鮮で心地良い。台北の義母宅は、叔母や義弟一家の出入りが激しく、一人っ子ゆえかにぎやかな場があまり得意でない私は、連日気も遣い、なかなか精神的に十分休息することができなかった。

韓国帰国早々冷えて、2月3日は零下10度以下に下がる極寒。
寒波とともにやって来たのが、ランの痰まじりの咳と37.8度の熱で、秘書キミーにお願いして午前中小児科について来てもらった。
「ボクは健康。病院なんてほとんど行ったことがないよ」
というリーに早くも感染、真っ赤な顔をして帰宅した。38度以上ありそうだ。困った。

小児科の薬が効いているように思えたランだったが、その日の夜中、咳かうなり声かわからないようなへんな声をあげ、寝苦しそうだと思っていると、翌土曜日の朝からはほとんど声が出なくなった。
食欲や元気はあるので様子を見たが、午睡から覚めるとお腹が痛いと訴える。熱をはかると39度を超えている。
週末ながら、リーはキミーのケータイに連絡を試みた。祈る思い。

果たしてキミーは自宅には不在で、セミナーに出席しているところだった。それが済み次第、リーがマイカーで迎えに行き、急診のある大きな病院へ行くことになる。
キミー同行での診察が終わり、リーとランが帰宅したのは夜8時。
この風邪はその後私にも高熱を出させ、1週間以上我が家に居座ってしまった。
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2009年09月30日

娘たちとの雑魚寝、二胡レッスン、メイ満1歳の予防接種などに奔走。台北で新年を迎え、愛しのソウルへ帰還。

その年の旧正月は1月29日だった。
リーは27日にソウルから台湾に帰国、2月1日家族4人で再びソウルへ帰る予定になっていた。
よって、ランとメイを伴っての義母宅居候は2週間を超える長丁場となった。
幼い娘たちとの雑魚寝は当初私を戦戦恐恐とさせたが、畳敷きで10畳以上ある広さだったので、何とか彼女らの「蹴り」や「体当たり」から逃れて安眠するスベを習得した。

旧正月前、慌しく、浮かれ気味の台湾。
私はここぞとばかりに二胡を習っていた音楽教室に連絡し、レッスンを入れてもらったり、メイの予防接種に奔走した。まずは水痘。翌週には麻疹だ。
ちょうどあの期間、義母の機嫌があまり良好でなく、私は外出しづらかった。台湾にいる間にいろいろ用を足したかっただけに難儀したものだが仕方なかった。リーの帰りを首を長くして待った。いや、それ以上に、早くソウルの我が家に帰りたかった。

しかし、ランかメイをひとり台湾の義母に預ける、というオソロシイ構想は、この時期の子守りに前向きでない彼女の姿勢から立ち消えになったのは、私にとってありがたい収穫であった。
多趣味で家事育児にも忙しい私は、腰痛の悪化が気になりつつも、やはり娘たちを自分で育てたかった。海を隔てて義母に任せるなどとんでもないことだったのだ。

1月のその頃は義母の誕生日と結婚記念日が連なっており、ケーキやワインなどでお祝い。
そして、無事新年も迎え、待望の2月1日が訪れた。ソウルに帰れる。
心が躍った。ソウルはすっかり私にとって落ち着ける場所、あの家こそ「我が家」になっていたのだ。
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2009年09月29日

長女は文系、次女は理系? 義母と台湾へ。ソウルと台北の気温差に苦しむ。

つかみに行った物が体温計だった印象が深いからかどうかはわからないが、2人の娘を見ているとランは情緒豊かで感性で動く文系、そして、たしかにメイは諸事を冷静に観察してからどう対応するか判断できる理系の脳を持っているように思えてくる。それはソウル時代から数年経った今でも変わらない。

さて、旧正月が近づいていた。韓国も台湾もだんだん迎春モードに入りつつあり、リーも1週間ほど休暇をとれることになった。
そして、メイの誕生日の翌日、私たち母娘3人はリーより一足先に義母とともに台湾へ帰ることになった。
早朝7時にリーの会社が手配してくれたタクシーがマンション下の定位置に迎えに来て、仁川空港へ。
二胡を肩から提げ、2人の幼子をあやしながらの旅はいつものことながら疲れる。台北までの飛行時間は2時間ほどだが、荷物は重いし、娘たちは乗り物の中では寝ないし、、、、、

それでもなんとか台湾時間の正午過ぎに義母宅着。
日曜日で会社が休みの義妹が昼食を作ってくれていた。彼女は食品栄養学の修士課程を修了し、桂冠という台湾大手の食品メーカーに勤務していた。

例によって、台北の我が家には主要な家財道具がなく、義母宅に居候することになる。
帰国早々、最寄りの銀行へお金を出しに行ったり、娘たちのMとLサイズの紙おむつを買いに行ったりと忙しい。暑い。
それもそのはず。1月半ばなのに、台北22度。汗、、、、、
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2009年09月28日

魔の2歳の信憑性は? ラン反抗期突入。韓国は旧正月を祝う。1月半ば、メイ満1歳に。

「魔の2歳」と言う言葉を初めてあの頃耳にしたが、その信憑性を裏付けるかのようなランの行動が見られた。
1年2ヶ月ほど小さい妹のメイを抱っこしたり、世話を焼いたりする反面、たたいたり、大人から見ればいじめたりすることはしょっちゅうだし、義母に「走開!」とか「討厭!」を連発する毎日で冷や汗ものであった。
「走開!」は「あっち行け!」。
「討厭!」は「うざい」「うっとうしい」などという意味だ。
いくら2歳の孫とはいえ、何度も吐かれると気分は良いはずはない。
メイへのいじめ、祖母に対する失礼な言動で、ランはたびたび義母に叱られていた。

韓国は中国、台湾同様、旧正月を祝う。
だが、NHKだけは年末特集番組が増え、私は紅白くらいは、と家事育児の隙をねらって観戦してお正月を迎えた。

1月。
12日にパリス バゲットにメイのバースデーケーキを予約しに行く。
そして14日、メイはめでたく満1歳になった。
土曜日で、夜はみんなで外食。帰宅後、チーズケーキで祝う。主役の小さなメイも少しは食べることができた。義母もうれしそうだ。この日のために20日間ソウルにいたようなものだったのだから。

食後の、いわばメインイベントがまだあった。
満1歳の子に這い這いさせ、ズラリと並べられた物品のなかで何をつかむかを見る、中華圏ではお馴染みの行事だ。ランはケータイをつかんだものだ。
さて、メイは、、、、、
じゃじゃ〜ん、体温計である。
「これは医者だな。」
思わぬ結果に沸いた。
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2009年09月27日

義母はほとんど外出せず編み物。COEXの書店で、ランに「アルプスの少女・ハイジ」を買ってやる。夜の物語りもスタート。

ラン出産後始まった腰痛は、ソウルに来ても私を悩まし続けていた。できるだけ我慢したが、どうにも耐えられなくなると、日本から持参した薬を改善するまでしばらく服用した。
義母も腰痛を持っていて、身体のわりに足が細いせいか、年齢のせいか定かでないがよく転ぶ。また、リー同様、暑がりなのに南国育ちゆえ寒さに弱いのもあり、夏来た時とは一転して見事にほとんど外出せず家にこもった。風邪をひくと自分も困るし、幼い孫たちにうつしてしまっては大変、という理由もあったようだ。

トータルすると、義母が来て以来、私はいっそう忙しくなった。
娘たちの紙おむつ替えやメイの食事やりなどは任せたが、一人増えると食材が早く減るため、買物に行く頻度は高くなった。
義母が作ったり、義母に教えてもらえる新しいメニューに挑戦もできたが、基本的には私が台所の主のままだった。そう願うのが本音でもあった。

広いとはいえ、20日間もマンションの部屋にこもるのは想像しがたいかもしれないが、時々うっすら積もる雪道で転倒することを義母はとても怖れたし、なんといっても彼女は編み物が得意で、今回はたくさん毛糸を買って持って来ていたので、来る日も来る日も修行僧のように編み物をして過ごした。
私は義母が編み物をしている姿が好きだったし、それを終え、彼女が暇を持て余すようになるのがおそろしくて、台湾へ帰るまで持って来た毛糸がなくならないことを強く祈念したものだった。
義母が外へ出るのは、WALL MARTへの買物か外食の時のみであった。

義母が来た翌日、私はCOEX内の大きな書店で児童名作文学シリーズの「アルプスの少女・ハイジ」をランに買ってやった。日本語の本は充実しており、ありがたい。本好きな2歳のランは字は解せないものの、喜び、はしゃいだ。
読み聞かせるだけでなく、就寝時に物語りをしてやるのが習慣になったのもこの頃だった。
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2009年09月26日

厳冬でも雪が少ないソウル、大寒波でもたいして降らず。リー台北出張から義母を連れて帰る。

その後、パスポート受領時も林さん親子に同行させてもらった。
ご主人には運転手をお願いしたし、ビール、ビスケット、ドレッシングなどをお礼として渡した。

12月は18日に2度目の雪、そして4日ほどではないが積もった。
そして、20日夜からひどく冷え込んできたな、と思っていたら、天気予報は当たり、翌日に雪。
11月頃からどんどん気温が下がり始め、12月に入って早々積雪があったが、思ったより量は少ない。聞くと、韓国北部のソウルは雪が少ないのだそうだ。
確かに、気温は低く、プラスにならない日も多いわりには雪はあまり降らないし、大雪にもならなかった。

しかし、空気は乾燥する。肌質がちがうのだろう、メイはそれほどではないがランはほっぺや唇がかさかさ、赤くなり痛々しい。あれこれ工夫してやるが、なかなか回復しなかった。

クリスマスが近づいてきた。
その頃リーは6泊7日という最長の台湾出張が入った。
こう長いと食材不足に陥るため、秘書キミーの都合の良い時間に1時間弱留守番に来てもらい、現代百貨店などへ急いで買物に出たこともあった。娘たちもすっかり彼女になつき、喜んで遊んだ。感謝感謝。

さあ、12月26日。
実はこの日、リーは台北から義母を伴って帰って来た。1月のメイ満1歳の誕生日を一緒に祝い、15日に台湾へ帰国するというスケジュールと聞かされていた。

20日間。

義母は7月末、私たち母娘が初めてソウル入りする時も一緒に来て2週間ほど滞在したことがあった。
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2009年09月25日

日中でもプラスにならず、雪なかなか溶けず。ソウルの日本領事館へ林さんとパスポート申請へ。

日中でも気温はプラスにならず、降った10cmの雪はなかなか溶けなかった。
室内はオンドルで常春だが、外出時にはレッグウォーマー、耳ウォーマー、手袋、マフラー、ロングコートの重装備でちょうどよかった。
零下10度以下になろうとも、散歩は毎日欠かさなかった。早朝まだ暗いうちに家を出ると、夜明け、朝焼けの時刻と重なり、幻想的な風景に出会える。その美しさには思わず感嘆のため息が漏れるほどで、静寂のなか、世界が自分だけのものになったようなやさしい孤独と感激に包まれる。どうしても外気に触れてしまう顔の一部はとても冷たかったが、歩いていると温まり、一日の至福の時間とも言えた。

さて、そろそろ私のパスポート有効期限が終わりに近づいているのが気になってきていた。
たまたま林さんが来宅時にその話題が出て、ミクちゃんのパスポートを申請したいことがわかり、初雪の4日後、林さんのご主人の車に同乗し、一緒にソウルの日本領事館へ行くことになった。その日は木曜日ながら、ご主人は休暇をとることができた。そして、私もリーに正午のお昼休みからメイの守り兼留守番を頼み、ランと2人出かけた。

領事館も江北側にある。橋を渡り、だいぶ見慣れてきた街を走る。
ラン、ミクちゃん連れのこと、なかなか時間をとったが、無事受理されホッ。今回も10年間有効のもので、今あるパスポートはソウルで取得した記録が残っている。

リーが待つ家に急いで帰る。わ、午後4:20、彼とバトンタッチ。
疲れたが、休む暇なく家事になだれ込む。洗濯はまだだし、メイのお風呂も。加湿器をつけても乾燥し、娘たちにはお風呂上りベビーオイルやクリームを塗ってやっていた。
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2009年09月24日

12月4日、ソウル初雪、積雪10cm。韓国の冬は快適、オンドルさま様。

11月から12月にまたがるリーの台湾出張時、便箋びっしり4枚の手紙をスーツケースにしのばせた。
直接交渉のみならず、手紙やメールによる手段はたびたびとった。
今から思えばたいして効果は発揮しなかったが、何もしないではいられなかった。

4泊の台北滞在を終え、韓国・仁川空港に着いたリーが電話をかけてきて、雪が降っていると言う。
前日は昼間でもやけに寒いと思っていたら、12月4日、ソウルその冬の初雪。もちろん私たち家族にとっても韓国で初めて見る雪が降り、10cmほど積もった。
雪は降る前が最も寒いと聞くが、実に然りで、3日はオンドルをつけてもシンシンと冷えた。そうかあ。雪が近づいていたのだ。

台湾育ちのリーにとって雪は新鮮で珍しい自然現象の一つだが、ランとメイにとっても生まれて初めて見る雪となった。ソウルで買ってやった防寒ズボンや毛糸の耳まで覆う帽子を被り、リーがしばらく庭で遊んでやっていた。写真もたくさん。
日本育ちの私、2階の部屋から「わ、寒そーっ」とそんな彼らを眺めるのみ。雪はもうたーっぷり見てきた。

そうそう。オンドル。オンドルさま様。
予想に反して、私を韓国を好きにさせた最たる立役者と言える韓国伝統の床暖房。愛しのオンドル。
これは実にすばらしい。さすがに韓国の冬は冷える。日本の実家も山裾にあるため、毎冬零下にまで下がるが、いっても零下3度止まり。
しかし、ソウルは、ちょっと今日は冷えるな、と感じたら零下8度くらいだった記憶がある。私のソウル滞在中、最低気温は零下18度。
とにかくソウルの空は平気な顔していとも簡単に気温を下げるのだ。
ところがスイッチをONにしてオンドルを入れると、床がモアモアと暖まる。ファンヒーターの熱風による乾燥や石油ストーブの危険などどこ吹く風で、足元から温まり非常に快適である。
愛しのオンドルさえあれば、韓国の冬は暖かいのだ。
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2009年09月23日

2度目のインフルエンザ予防接種は気のいい同僚の車で。娘の成長を願い、喜びながらも傷心の日々。

親子そろって2度目のインフルエンザ予防接種は11月22日決行となった。
こういう日に限って、ランもメイもなかなか昼寝をせず、キミーに何度か電話して、結局午後4:30に例の小児科へ同行してもらうことに。
そして、その日は秘書のキミーと、ジェニーという35歳くらいの独身女性社員が自ら運転し、送って行ってくれることになった。
ジェニーも朗らかで、子供好きな様子。私が何度も申し訳なく礼を述べると、いいのよいいのよ、これくらいのこと、と明るく笑い、娘たちを見て、目を細めている。
ありがたいことだ。

リーの台湾本社出張は毎月一回のペースで続いていた。
だいたい2〜4泊だが、その間無事暮らせるよう気が張った。
週末に当たった時は、キミーの自宅の電話番号を再確認し備えた。
日課の早朝散歩は、8階建てのマンション内の階段を何度も昇降したり、ごく近場のみを歩いた。

リーはほうれん草、ニラ、オクラ、茄子などが好きではないが、まったく食べないわけでもない。
しかし、相変わらず会社でのストレスを自宅の私の前で発散する構図は変わらず、
「あまりキュウリは好きじゃないんだ」
とか、
「毎朝卵を食べてるんだから、昼に卵は使うな」
とか、それまで生活していて一度も言わなかった苦情を突然発するので驚いたり、腹が立ったりする日々であった。
あれはダメ、これも嫌い。
昼、夜ともに自宅で食事する彼にそんなことを言われると、何も作れなくなる。
道路が渋滞しても、ランが彼の午睡時にぐずっても、その原因を私の何かに結び付け、責めたてる。
日本の両親や林さん、親しい友人だけに、その苦しみを打ち明けずにはいられなかった。幼い娘たちの成長を見て、喜び、この子らをしっかり守るのだ、という戒めに支えられながら、心に傷みを負う毎日でもあった。
それまでほとんど興味がなかった般若心経に惹かれ、柳澤桂子氏の名著・「生きて死ぬ智慧」をすがるように読んだあの頃。
心の平安が欲しかった。
相手を変えられぬなら、自分がそれまでと異なる者になるしかなかった。
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2009年09月22日

韓国にポッキーの日?! 週末は外食。骨付き豚肉とじゃがいも、カムジャタンは絶品。

オンラインゲーム先進国の韓国。
ソウルでゲームショーが開催され、リーは連日台湾から来た同僚と会場を訪れたり、接待やつき合いやらで帰りが遅くなっていた11月半ば前、韓国に「ポッキーの日」なるものがあることを知った。11月11日
全部「1」。最も足繁く通ったベーカリー、パリス バゲットの店先にも特設売り場が設けられ、「1」の形のスペシャルなパンを売っており
可愛かったので一本購入した。

週末、土曜か日曜のいずれかの夕食は外食と決めていた。
台湾と異なり、韓国での外食は安くないが、気分転換や私が家事をひと休みするためにリーは惜しまずこの習慣を続けた。
しかし、毎回私はランのお弁当を作り、持参したものだ。
だんだん大人と同じものが食べられるようになっていたが、さすがに韓国、辛いものが多くてランは手が出せないのだ。

私が、おそらくリーもだが、韓国で一番好んだ料理は「カムジャタン」だと思う。骨付き豚肉とじゃがいもなどを用いた辛い煮込み料理である。
自宅から徒歩5分ほどのところに、それのおいしい店があり、畳敷きでランとメイの子守りもしやすくほぼ毎週通っていた。
12月だったか、その店がのれんを下ろしてしまい本当にがっかりしたが、リーがソウルの同僚に連れられて行き、おいしいとわかった別の店に引き続き通った。COEXよりも向こうになり、歩くとかなりの距離だったが、カムジャタンの美味には抗えなかった。そこも畳敷きなのも魅力だった。
大人数だと、大きな鍋で注文できるし、リーと私の週末のように、一人前の小鍋もある。例によって水同様に無料のキムチをバリバリいただきながら、熱々のカムジャタン。
韓国に行かれたら、ぜひご賞味を。
posted by マダム スン at 05:08| Comment(0) | TrackBack(0) | リー新任地、ソウルへ移住 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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