2009年05月16日

おしるし? 明日の定期健診まで待てない!

披露宴を催すというと、確かに計画や準備に手間ひまかかるが、やらないよりは「入る」方が多いらしいのだ。

さて、赤ちゃんは「ママ」より「パパ」の方が発音しやすく、まずそちらを言えるようになるらしい。
ランもそうだったが、1歳と2ヶ月半ともなると、ちゃんと「ママ」と呼んでくれるようになっていた。義母が週に1泊2日、ランを預かってくれていたが、動きが激しくなったランを一晩見るのがしんどくなってきて、夜、日帰りすることも増えた。手はかかっても、私はその方がうれしかった。

動きが激しくなってきたのは、妹のメイも同じだった。
1月10日頃から、お腹や腰の痛みやだるさがいちだんと増した。胎動は相変わらず激しいし、やっぱり出産はまだなんだろうけど、、、、、

ところが、13日木曜日、朝「おしるし」に気づく。きっと、「おしるし」だろう。
リーが出勤の用意をしている間中、私はリビングのソファに腰掛けていた。身体がだるく、腰とお腹が痛い。明らかにふだんとちがう。おかしい。何もする気が起きないしんどさだ。リーにそれを説明する。
明日の定期健診まで待てそうにない。
「今日は午前中会議があるから、午後なら送って行けるよ。」
とリーが言う。
それでもいい。私はすぐ珂産婦人科に電話をかけ、謝医師・午後診の予約を入れる。
そこまでしても、まだ私は半信半疑だった。予定日まで、まだ20日あったのだ。
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2009年05月15日

メイ、2000g超す! 披露宴には紅包を持って。

新年初の定期健診は1月7日だった。36週一日目。いつもながら緊張して診断を受けた。
メイは前回の1788gから2114gになっており、ひと安心、とてもうれしかった。
その週は義母が体調を崩し、ランは実家に行かなかった。
また、木曜日の二胡レッスンは蔡老師の都合が悪くなり、土曜日の夕方に変更になる。こういうことは時々あったが、個人レッスンゆえ、互いの予定さえ合えば、いつでも補えるので負担にはならなかった。
初級者なりにちゃんと上達していると老師が言うようになったのは、初めて2ヶ月ほど経った頃からだった。
土曜日はレッスン後、一人歩いて義母宅へ行き、夕飯をよばれた。リーとランは先にバイクで到着していた。

翌日曜日、リーは同僚の披露宴に出かけた。いつも通り、真っ赤な封筒の祝儀を用意して行った。
台湾ではこの真っ赤な封筒を頻繁に目にする。文字通り「紅包」というのだが、その中に入れる現金も含めて、そう称することもある。
婚礼、お年玉から、職場の臨時手当や寸志などにも幅広く使用される。
日本でも披露宴にお呼ばれすると、相手との関係を考慮して祝儀の多少を決めるが、台湾でも然り。台湾では、1800〜3600元ほどが相場で偶数の金額が好まれる。
私も何度か披露宴に出席したことがあり、当時家族ぐるみで親交が深かった高雄の友人が結婚する時は、3600元を包んだ記憶がある。
札を紅包に入れるリーに、
「最近多いね、披露宴。毎回祝儀が要るし、たいへん、、、」
と声をかけると、
「だから披露宴やるんだよ。」
と笑った。
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2009年05月14日

台北で紅白観戦。台湾にも元旦寒波。

2005年は、寒波とともに明けた。
日本は全国的に雪だし、台湾でも高い山頂は冠雪、コートを着て、手袋をはいても冷たい風がぴゅーぴゅー吹く極寒。
例によって、台湾は新暦のお正月は元旦のみ休みになるのだが、こう寒いと例年なら無い、日本人ならわかる「お正月」の雰囲気をいくらかは味わうことができた。私はLIVEで紅白歌合戦を観て、大晦日の夜を過ごした。
日本を離れて久しいと、紅白で「へえ、今年はこんな歌が流行ったんだ」とか「これが最近ブレイクしたあの人かあ・・・」と感心したり、納得したりしながら観ることになる。
気に入った曲があると、歌手名や歌のタイトルをメモしておいて、ネットで詳しく調べたり、次日本に帰った時CDを買ったりするのだ。

ランが生まれて、ゆっくり落ち着いて紅白を観られなくなったが、毎年1月1日の早朝に早速再放送するので、「見直し」ができる。
ランは「イー、アー、イー、アー」が言えるようになり、「ママ〜」と甘えてひっつきに来るようになった。
イーは中国語で「1」、アーは「2」の意味だ。

お腹のメイは臨月に入った。
私は胃が圧迫されて、一度にたくさん食べられなくなり、お腹がひどく張ってつらかったり、腰のだるさもぐんと重くなって来た。
相変わらず推定体重は軽く、せめて2500g以上に育ってから生まれてほしいなあ、とリーと話し合った。
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2009年05月13日

産婦人科医は女性がいい? 私は謝医師に決める。

院長の珂医師の診察はほとんど皆無に等しかった。大学や大学病院等で講義したりするくらいの年齢であり、経験の持ち主のようだった。
それで、実際は総勢4名の医師がほぼ常時、一診と二診とで一名ずつ診察に当たっていた。
産婦人科医といっても、出産に強い人、婦人科の病気治療に長けている人といろいろあるのだろう、受付女史は一向に女医先生を薦めてはこなかった。産婦人科医院や産婦人科のある病院の看板に「女医」などと書いてあるのを目にする。台湾でも、婦人科関係だけは女の先生じゃないと困る、という人はきっと少なからずいるのだろう。
よって、珂産婦人科の女医先生も既に多くの患者を抱えているのかもしれないし、得意分野が妊娠・出産でないのかもしれなかった。

不思議なもので、私は女の先生が主治医になるのは嫌だった。
眼科や皮膚科、もちろん内科でも外科でもだが、女医に診てもらうのに何の抵抗もないのに、出産が待ち受けていると思うとダメだった。
実に不思議だ。自分でも説明できない。どうにも、お産には男の先生、それも年を召したベテラン医師ほど安心できた。だから、陳医師は理想に限りなく近い先生だったのだ。

しかし、陳医師は本当に退職してしまった。腹をくくるしかない。
謝医師は若いからか、そういうヒトなのかわからないが、腰が低く、懇切丁寧に応対し、診てくれる印象を持った。彼自身、予定日が迫った患者を新たに受け持つ責任をしっかと感じている様子で、私はどんどん謝医師を信頼するようになっていた。
よし。謝医師にお願いしよう。
ランと同じ先生にメイを取り出してもらえないのは残念だったが、前進するしかないのだ。
そう、心は決まった。
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2009年05月12日

台湾医療事情とおススメは謝医師。

日本では医師不足、それも小児科と産婦人科医の減少は既に大きな社会問題になっているが、台湾に、厳密にいえば総人口の3分の一近くが集中する台北に住む限りではそういう危機感を味わわない。
台湾では、まず日本の多くの医療機関がとる「木曜午後、土日、祝祭日休診」態勢がない。土曜日に開けたり、その他の例外もあるが、いずれにせよ、日本より台湾の方が診療時間がずっと長い。平均すると、午前9:00〜12:00、午後3:00〜6:00、夜間7:00〜9:00だろうか。土曜日はだいたいの医療機関は開いているし、日曜日も診察する医院がある。
よって、夫婦共働きの家庭にも、急な不調の際にも大変便利で心強さを感じる。
また、風邪などの日常的な疾患なら医療費も日本よりずっと安い。
日本では、まず診察や検査代を含む診療費を支払い、薬局で再度その分も、という場合が増えたが、台湾では受付時に支払う「掛号費」(日本円でだいたい450円くらい)だけで、上記の一切がまかなわれることがほとんどだ。

数ヶ月だけだったが、私は日本の産婦人科でも診てもらった。定期健診でもとても高いので驚いたものだ。
さあ、陳医師の退職後、にわか主治医を決めねばならなくなった。
珂産婦人科にはあと院長先生、林先生と2人の女医先生がいた。陳医師は副院長だった。
電話で予約する際、受付女史たちが決まって薦めるのは謝医師。男性医師の中では最も若いようだったが、「謝先生はいいわよ。」と言う。
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2009年05月11日

「どこで出産、誰が主治医」は大事なこと。

2週間に一度から一週間に一度になった定期健診。
毎回前日には珂産婦人科に予約の電話を入れたが、そのたび「陳医師はお休みです。」と言われるようになった。
「え、またですか? いつ復帰されるんですか?」
と訊いても、どの受付女史も「さあー、、、」と頼りない返事をする。
「他の先生にしてください。えーっと、、、謝先生はどう?いい先生よ。」
まるで八百屋か魚屋に買物に行ったような会話になって来る。
謝先生というのもいい先生かもしれない。しかし、ランの時からずっと診てもらっている陳先生には絶大なる信頼があったし、気心も知れていて安心できるのだ。

妊娠、出産というのは女性にとって一大事である。
どこで、どんな医師の助けを借りて出産に挑むかは大きな関心事であり問題だ。理屈より一種、信仰にも似たような精神的依拠となるか否か。ならないと不安定になりがちな妊婦の情緒は乱れる。

陳医師に早く戻って来てほしかった。予定日までいくらもない。今更主治医が変わるのは困る。
本当に困るわ、とリーとも話していたが、あろうことか、陳医師がそれからまもなく、ほんとうに、正式に珂産婦人科を離職したことを知った、というのがこの件の真相である。
だが、未だに陳医師が辞めた理由は明らかではない。
産婦人科を替える気にはなれず、私は真剣に、メイを無事に取り上げてくれる医師を珂産婦人科の中で探さねばならなくなった。
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2009年05月10日

妊娠後期、動悸開始。主治医よ、何処へ。

12月後半、とうとう妊娠による動悸が始まってしまった。
ランがお腹にいた時もあったが、これには悩まされる。安眠しにくくなるからだ。
私はもともと貧弱な体型かつ太りにくい体質だが、妊娠してからも然りで、胎児もほっそり。>< それを散々家族に指摘され、咎められた。
しかし、吐き気、倦怠感、動悸、足のむくみ、極度に疲れやすくなるなど、多くの妊婦が経験する諸々の症状はしっかり現れた。

ランは一歳2ヶ月になる頃。自分のおもちゃで遊ばず、タンスの中の物を出したり、椅子を押して動かしたり、上がろうとしたりする。
その都度私は片付けて回らねばならず、危ないので目も離せず、それでも大きく、重くなって来たお腹で本当にへとへとになった。
だが、出した物は仕舞い、落とした物は拾うと良い、ということがランはわかっているようだ。

珂産婦人科での定期検診がちょうど24日、クリスマスイブと重なった。従来どおり、リーは自宅ー病院間の送迎を買って出た。
その日も超音波で推定体重を診てもらったが、なんと前回から150g増のみ、1788gしかなく、とてもショックだった。予定日まであと2ヶ月ちょっとしかない。言うまでもなく、リーは不機嫌になり、責められる。
その上、主治医である陳医師がお休みで、初めて別の医師に診てもらったことも私の気持ちを暗くした。
だが、それはその日だけのことではなかった。陳医師は珂産婦人科を辞めてしまったのだ。
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2009年05月09日

こんな医者あり?!と、台湾油飯のコト。

12月に入っても台北は20度以上あることは稀でない。
ランの突発性発疹後も続く赤いブツブツと軽い咳は良くも悪くもならないなか、今度は私が風邪をひいた。咳もひどい。また気管支炎ではないかと思うほどつらくなったので、リーの勧めもあり、台北市立和平医院へ行った。
案の定、いわゆる個人医院である「診所」より待ち時間が長く大仕事だ。それに、やっと診察の順番がめぐって来たものの、その初老の医師は聴診器を胸に当てようともせず、私の症状と経過報告にフンフンとうなづき、処方する薬をパソコンに打ち込むだけだった。
私は怒りをぐっと抑え、何も言わなかったが、名医と藪医者云々以前の問題を感じた。日本にこんな医者いたっけ・・・? 
せっかく大きな総合病院へ来たのに、あと味悪い思いで家路に着いた。 

もらった薬は3日分すべて飲み終え、いくらか楽にはなった。
ちょうどその日、リーが「油飯」を会社から持ち帰った。私のかつての同僚でもある阿昌の愛息が満一ヶ月を迎えたお祝いの品である。
ご記憶にあるだろうか。
台湾では赤ちゃんが満一ヶ月になると、親戚やお祝いをもらった知人友人などに日本で言う「内祝」なるものを贈る風習がある。
ランは女の子なので栗のケーキにしたが、阿昌の子供は男の子なので、もち米で炊く油飯だ。
台湾は日本よりもち米を用いる食べ物が多い。
「冷めてるから、チンじゃなくてもう一回蒸し直してよ。」
たしかに再度蒸す方がほっくりしておいしくなるだろう。日本人にすれば赤飯のようなもの。リーの気に入るように蒸してテーブルへ。
久しぶりに私は阿昌と電話で話した。8年の交際を経て結ばれた彼の愛妻とも社員旅行をともにしたことがある。私の大切な台湾の友人夫婦であった。おめでとう!
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2009年05月08日

小児科通い続く。第2子、8ヶ月に入る。

突発性発疹と思われる症状は約10日ほど経て、12月に入る頃にようやく治った。
しかし、ほどなくして、ランには顔や身体に赤いブツブツができたり、咳も時々出るようになった。
それで、かかりつけ医と決めた自宅から5分ほどの小児科へ診せに行く。最初診てもらったのが院長の陳医師(私の産婦人科医と同姓の陳。台湾では陳という姓が最も多いと言われる)だったので、彼の診察担当時間に行くようにしていた。
赤ちゃんはいろいろと体調を崩す。それにランはアレルギー体質なので、そっちの影響かもしれないし、これだと断定は難しいということだった。身辺を清潔に保つよう指示され、塗り薬と飲み薬をもらう。

それから、また10日ほどが過ぎた。
ランは相変わらずでスッキリしない。おかしい、このまま放っておいてよいのか、とリーと私は不安になり、再度幼婦医院へ連れて行くことにした。
結局その大きい病院で診てもらっても、納得、安心できる答えは得られなかったが、深刻な大病を患っているのではないことはわかり、ランの成長やそれに伴い強くなるであろう抵抗力に希望を持ちつつ期待するしかなかった。

お腹の第2子、メイも1600gを超え、まずまず順調に大きくなっていた。8ヶ月だというのに、私はそれほど太らず、お腹も小さかったので、「え?8ヶ月?5ヶ月くらいかと思った。」と言われることはしょっちゅう>< 
(待った!リーの前で言わないで!)
と心中よく思ったものだ。リーが胎児のサイズを気にするのは、ランの時同様、凄まじいものがあった。
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2009年05月07日

看病疲れ。育児ノイローゼを理解する。

高熱は出なくなっていた。下痢は幾分マシになったが続いている。咳はたまに出る程度。
その頃から赤い発疹が顔と上半身にたくさん見られるようになった。
幼婦医院の女医が話した予想される疾患の症状をリーは反芻してくれたが、確かに酷似している。その後、父もメールで彼が調べたランの病気と思われるものの情報を伝えて来た。
それらを分析すると、ランは「突発性発疹」と思われる。4ヶ月〜1歳の子供がかかりやすいとか、6ヶ月〜3歳と書いてある医学書とまちまちだが、とにかくそれらしかった。

発病して6日目くらいから、ランはようやく回復の兆しを見せ始めた。
調子が良くなると、彼女のイタズラも復活、叱っても聞かず、同じ事をくり返すので、私がイライラし、看病疲れでヒステリックになって自己嫌悪・・・・・>< 子育てでひどく悩むママが少なくないとか、育児ノイローゼになる人もいることが実感として理解できるようになったのはこの頃である。

ランの体調はまだ万全ではなかったが、おじやではない普通の白いご飯を食べる練習を始める。市場で買って来た、おへそまで届く大きなよだれ掛けをつけてやる。
案の定、なかなかうまく食べられない。私にも根気が要る。
その週末、リーは珍しく2日とも用事があり、家を空けた。よって、私は外出できず、悶々とする。
あー、外の空気を吸いたい。それか、ぐーっすり眠りたい。
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2009年05月06日

病院で隣人とバッタリ。ラン、今度は赤い発疹。

医師が解熱剤しか出さないのも理解できた。病名が未だつけられないわけだし、高熱は危険だから、これは適切な措置に思う。不安だがそれ以上仕方なかった。
受付や薬局が並ぶフロアを歩いていると、リーが前から来る夫婦に会釈する。なんと、同じマンションの住人、それもすぐ下の階に住む夫婦がランよりまだ少し小さい長男を抱いているではないか。奥さんの方はベトナムから台湾に嫁いで来た人で、時々リーが家でその事を話していた。中国大陸、ベトナム、インドネシアなどからお嫁さんをもらう台湾男性は少なからずいる。外国人との結婚を仲介する業者があるので、そこを通じてご縁があったようだ。その夫婦も私とリーとほぼ同じ年格好と見えた。
聞くと、その男の子も熱を出し、慌てて診せに来たと言う。リーは乗せて帰ろうかと申し出たが、彼らも足があるようで、その廊下で別れた。
幼い子供がいると、本当に心配は尽きない。どこの親もがんばっている。私もオロオロしてる場合ではない、と自分を戒める。

その夜は2:00頃帰宅した。
依然、ランの熱と下痢は続く。私のメールを見た日本の両親も心配して電話をかけてきた。
病院へ行った翌々日、ランの熱はようやく下がり始めた。が、今度は赤い発疹を発見。
「医師が予想した症状にそっくりだな。」
リーは案外冷静につぶやいた。
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2009年05月05日

夜中の高熱。ランを抱き、急診へ。

電話をしたその日、リーが大陸から帰って来た。
だが、ホッとしたのも束の間、日付が変わったばかりの深夜0:30頃、リーがランを抱っこしたまま私を起こす。
「ランが目を覚ましたようだから行ってみると、39.1度あるよ。」
と言う。解熱用の座薬をもらってはいるものの、2人とも不安で仕方ない。ランのそれほどの高熱はもちろん初めてだし、やはり苦しいのだろう、ぐずったり、下痢気味にもなっている。
リーと相談し、「掛急診」することにする。急診で診てもらうということだ。

しばらく迷ったが、時間外でも小児科医が待機している可能性が高いと思われる台北市内の婦幼医院に決める。中国語で「医院」が日本の病院に相当するため、大型医療機関を想像してほしい。
私のかつて通った中国語学校がある地域で、何度かその前を通ったことがあった。
リーのパジェロは疾駆する。夜中なので駐車は楽にできた。
ランを抱きしめ、受付を済ませる。
果たして、小児科医は執務しており、若く聡明そうな女医がランを診てくれた。
採血の結果、白血球などに異常はなく、私たち夫婦とは対照的に落ち着いた女医は看護士に座薬を入れるよう指示した。その時、リーも私もまだ座薬を誰かに入れた経験はなく、今後のために質問しながら要領を頭に入れた。
原因がはっきりしないため、しばらく様子を見ようということになる。出された薬は2種類の解熱剤のみだった。
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2009年05月04日

かかりつけの小児科へ駆け込む。

極力重い物を持たないよう気をつけていたし、実際かなり動きにくくなっていたが、リーは留守中、バイクも車もない。でも、ランを放っておくわけにいかず、私は急いで用意し、タクシーで小児科へ駆け込んだ。
当初、ランを出産した珂産婦人科近くの小児科医院を受診していたが自宅から遠く感じるようになっていた。近所にもたくさん小児科があったので、私がそう感じるようになるのも無理はなかった。
かと言って、一か八かで飛び込むのもコワい。当然、台湾にも腕のいい医者とそうでない医者がいる。

そこで、私たちが選んだのは義弟の子供たちかかりつけの小児科だった。なんでも、義姉の友人の紹介で知ったらしい。
そこなら、バイクやバスで5分かかるかかからないかだし、親戚も通っているという安心感があった。実際に私も医師と会ってみて、とても好感を持ち、予防接種や体調を崩した時はお世話になっていた。
院長である長身で雰囲気のいい男性医師と、ショートカットでハツラツとした女医が交替で診察しており、ランは院長先生に診てもらっていた。

「風邪症候群」としか病名はつけられないようだった。
帰宅後、解熱剤など飲ませたが、翌朝も38.7度の高熱。昨日は喜んで薬を飲んだのに、ランはそれも嫌がる。
私は不安で、朝7時を待って、大陸にいるリーに電話をかけた。
やはり、特に子供のことで心細い時はリーが頼りだった。衝突しても、彼の人間性の清さに対する信頼が揺らぐことはなかったように思う。
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2009年05月03日

リーは大陸へゴルフに。ラン帰宅早々、発熱。

台湾にも「社員旅行」なるものがある。
私がリーと同じ会社で働いていた時、一度だけ参加する機会があり、プーケットへ行った。大きな会社だったので、たしか3〜4班に分かれて行ったのを覚えている。
しかし、その年は趣向を変え、社員旅行の代わりに「一万元支給制度」が採用された。期間が限定され、どこかに出かけたことを証明するもの、たとえば航空券や宿泊したホテルの領収証などを提出すると、一万元を上限に会社が負担してくれるというものだった。

そこで、リーは11月17日から四泊五日で大陸へゴルフへ行くことにした。大陸とは中国のことだ。台湾の人は中国を「ダールー(大陸)」と称する。リーの一番の趣味は釣りだが、ゴルフもできなくはない。気の合う同僚となら、うまい下手は置いといて、良いバカンスになるものと思えた。

リーや義母たちの相談で、四泊のうち3日間はランを義母宅へ預けることになった。私のお腹もそれなりに膨らみ、ベビーカーを押すのもしんどくなっていた。
私はその間、二胡のレッスンへ行ったり、久しぶりに公館へCDを買いに行ったり、やはり寂しく、心配になってランを見に行ったりした。公館とは国立台湾大学のあるにぎやかな学生街で、CD店が多く、種類も豊富に揃っていた。日本人アーティストのものも手に入りやすかった。
20日の朝、ランを義母宅へ迎えに行く。午後、お昼寝から覚めたランを見に行くと、あら? 赤い顔をして、身体中熱い。かなり熱があるようだ。咳もする。私は慌てた。
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2009年05月02日

台湾予防接種事情と、暑い11月。

満一歳を機に、全卵一個を食べてもよし、となったり、水痘の予防接種に行ったりした。
乳幼児諸々の予防接種は、台湾と日本では規定が異なる。
私はそれぞれの国でもらった母子手帳などを見比べながら、必要と思しきものにはきちんと対応した。
台湾では「衛生所」という、日本の保健所か保健センターに相当する公的機関のみで無料で接種可能なもの、保健所と一般の医療機関いずれでも接種できるもの、そして一般医療機関のみで接種すべきものといろいろあった。
いずれにせよ、一般の医院や病院の方が費用負担は大きいが、診療時間が長く、待ち時間も短くて済む最寄りの医院を選ぶ人はいる。うちもそうしたことがあった。赤ちゃんを連れて、連日大勢の人でごった返している衛生所で1時間も2時間も待つのはつらいものがある。ランが風邪をうつされるのも怖かった。

水痘の予防接種に行った際測ったランのサイズは、身長72p、体重8.5kg、頭囲45p。
テレビの中で誰かが手を振ると、それに応えて手を振る。ぺたぺた、ペンギンのように歩く。櫛で自分の少ない髪の毛を梳く。満一歳になったランはそんな成長ぶりを見せた。

その年の11月は暑かった。一度涼しくなっていたのに、再度25度を超える日が続き、私はノースリーブの服を着たり、ソックスを履かずに過ごしたりした。
また、日によって吐き気がひどく、ラン妊娠時同様、悪阻はどうやら出産までおさまりそうになかった。
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2009年05月01日

ラン満一歳の祝宴とお転婆な実態。

ランはだいぶ固形物を上手に食べられるようになった。幼児用の椅子にスポッと座り、口の周りやトレイにたくさんつけたり、こぼしながら食べる。私が近づいて見ていると、頭をなでに来る。「ママ、おいしいよ、うまく作れたね。」とほめてくれているようだ。ピーマン、にんじん、芋類、大根、ほうれんそう、きのこ類、魚に肉、卵などなどくまなく使ったおかげか、今なおランはまったく偏食しない。果物も大好きだ。

立って、歩き始めて約10日後、ランは晴れて満一歳の誕生日を迎えた。
その日はちょうど土曜日だった。近くに住む親戚をレストランに招待し、満一歳の祝宴を開いた。十数人が集った。
満一ヶ月を「満月(マンユエ)」といい、かなり大掛かりに祝うと書いたが、その時にも食事の席を設ける家庭もある。うちはちょっと高級なケーキを配っただけだった。
華やかなことがあまり好きではないリーと私は、もともと一歳の誕生日も慎ましやかに過ごすつもりだったが、すぐ近所に住む、ランとほとんど時期を同じくして生まれた従妹の家族が、一回宴を開いてはと持ちかけてきたため、重い腰を上げたのだった。

ランの行動範囲はどんどん広がり、タンスの中のものを全部出したりしてお転婆ぶりを発揮しだした。差し出したものの味が薄すぎると嫌がったり、「もしもし」と言うと、右手を耳にあてて電話するポーズをとる。
生まれてたった一年なのに、こんな知恵がつくものなのだ。

どうしたものか26度まで上がり、夏が再来したような陽気で11月が始まった。
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2009年04月30日

台風で「停止上課上班」、灰色の空を見上げて、、、

私にも言い分はあったが、もちろん反省もした。義母にも説明したり、謝ったりして、帰って来た。
私が本当に傷つき、通じぬ思いに心を痛めていることをリーに伝えたかっただけなのだ。手紙を書いても、口で説明してもラチがあかないので、明確な行動に出るしかなかったのだ。

その数日後、台風が台湾を直撃、台北も一日「停止上課上班」となった。
台湾に台風が襲来した時、みなが注目するのはこれだ。「上課」とは学校へ行き授業を受けることで、「上班」は出勤し仕事することだ。それらを「停止」せよという意味で、いわば警戒警報のようなものである。勢力が強い台風が来ると、天気予報やテロップでこの警報が知らされる。まず、南部の数縣に発令されて、数時間後それが北上するのが常である。台風の進路により、たとえば、東部数縣のみ「停止上課上班」になり、他は平常どおりということも多々あるわけだ。
私はその警報を嫌う者の一人だが、台北も文字通り一日「自宅待機勧告」の措置がとられた。
警報が出るくらいだから、外出には適さない。缶詰状態に近い一日を過ごす。
それに、リーに作る食事の回数が増えるわけで、特に味覚や調理法で衝突することが多い我が家の緊張感を高めるのだ。

ビクビクと過ごす台風の日。外へも行けず、つまらない。
灰色の空を恨めしく見上げる。
はーっ・・・・・
しかし、負けてはならない。ランがいる。ランがいる限り、私はここで踏んばらねばならないのだ。
そう自分を叱咤した。
posted by マダム スン at 05:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 第2子出産も台湾で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月29日

初家出、日帰りに終わる。

中国語学校を卒業して時間が経っており、クラスメイトなるものはいなかったし、仲良くしていた韓国人の同僚宅へ突然押しかけるのは気が引けたし、妊娠も後期にさしかかり、動きにくく、その上一泊できる可能性が高いところとなると実に限られていた。知人・友人と呼べる人が多いと言えるか否かはわからないが、いざ長時間とどまれる場所となると難しかった。

そんな中で、やはり足が向いたのは、かつて暮らしていた新店市の教会だった。あそこなら教会が所有、運営する公園、ホテル、多目的センターなどもあるし、そこで働く職員や関係者、神父さまなどにも知り合いが多く、少なくとも面識ある誰かに会えることは確実だ。ちょくちょく電話をしたり、都合が合えば会って話す何姐も近辺に住んでいて、うまくいけばちょうど教会内にいるかもしれなかった。何姐は独身で、事情を話せば自宅に泊めてもらえるかもしれないし、そこのホテルも空室があれば宿泊できるはずだった。

結構距離はあるが、バス一本、一区間にあたる15元ぽっきり、30分前後で行ける。OL時代何度も通ったコースでもあった。
果たして、幸い、何人かの知人と何姐にも会えた。やはり、心安らぐ「帰って来てよい、数少ない居場所」であった。
何姐には、その日急に出て来た理由を話はしたが、彼女から「うちに泊まる?」と訊かれなかったし、親しい仲だからこそ言い出せない遠慮があり、何姐宅泊構想は消えた。
ホテル泊も何度も考えたが、無断外泊はリーの怒りを助長する恐れがあるし、何と言ってもランが恋しかった。
結局、またバスで帰宅したのは9時15分頃。もちろんリーとランは義母宅から帰って来ていた。リーには叱られなかったが、翌日、義母に電話をかけるとかなり意気消沈しており、私はすぐ彼女に会いに行った。
posted by マダム スン at 05:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 第2子出産も台湾で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月28日

あやしい空模様の下、いたたまれず、初家出。

10月も末だというのに、時々台北は25度を超える日があったり、その週末には台風が接近し、風が強まった。
ランは毎週木曜日、義母が預かってくれたが、義母が希望し、ランを一泊させようとして夜泣かれ、どうあやしてもダメでリーがバイクで迎えに行ったりの頃だった。
そして、週末2日間は基本的に夕方義母宅へ帰り、義母の手料理をいただき、8時頃いとましていた。それがリーが好む休日の過ごし方だった。

土曜日、家族3人で近くの大型スーパーへ買物に行った帰りのことだった。リーがあれこれと私への不平不満を挙げ連ね始めた。
彼には理想の子育て観や夫婦像がある。それが必ずしも私のそれとは一致しない。それは仕方ないことでもある。ピタッと一致する夫婦の方が少ないかもしれない。私にも反省点があるのも認める。
それから、彼は確かに矛盾したことも言う。前回ああ言ったのに、今回はこう言う、ということはちょくちょくあった。いったい何を信じ、従えばよいのか混乱することも多々あった。

険しい表情で責められているうちに、私はいたたまれなくなってきた。そんな気持ちになるのは初めてではなかった。それまでも再三悩み、気に病んでいたのだ。
その日の午後2時頃、荒れた空模様ではあったが、リーがランと一緒に午睡中、私は急いで一泊分の身支度を整え、家を出た。行ってもよさそうな知人がいる場所を猛スピードで考えつつ、バスに乗った。
あれが初めての家出だった。
posted by マダム スン at 05:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 第2子出産も台湾で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月27日

良好な師弟関係と、二胡への熱い想い。

蔡老師は雲林縣出身。私よりひと回り以上年少だが、今なお文字通り「師」と仰いでいるし、二胡のみならず、恋愛や家族のことなども互いにいろいろと話をするようになった。師弟関係をとっても気が合い、彼女の教授ぶりからその人柄が伝わり、良き友人を得た感がある。
「妊娠中の日本人には教えたことがないな。」
と、蔡老師は言った。
お腹のメイは予定日まであと3ヶ月半ほど。出産後しばらくはレッスンを休まねばならないが、それでも私はこの機を逸してはならないと思い、二胡の世界に飛び込んだのだった。
最初は音らしい音など出ない。弓を持つ手や手首の格好、力の入れ具合でつまづき、何度も訂正され、同じ練習を繰り返した。メイはたまったものではなかったろう。至近距離でギーガーギーガー、安眠妨害もいいとこだったと思う。そのせいか、毎回私が二胡を弾くたび、メイは動き出した。毎回だ。

時々蔡老師の都合で、レッスンの時間が変わったり、一週間お休みになったりはしたが、師弟とも熱心に二胡に接した。どんな楽器や習い事でも総じて継続は力なり、毎日少しずつでもやる方が好ましい。
私は頑固なまでに、よほどのことがない限り、その鉄則に従った。遅いスタートではあったが、いつか人様に聴いてもらえる音を出したい。いつかランやメイに教えたい。二胡はバイオリンのように小型のものはなく、だいたい小学校高学年くらいからしか弾けないと言われている。よし、その頃には娘たちの先生になるぞ!
あの時の決意は今も新鮮なまま、この胸にある。
posted by マダム スン at 05:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 第2子出産も台湾で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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