2009年06月05日

青春映画さながらの友達の輪、今も。母子、我が家へ帰る。

中国語学校や会社から身を引いて、どんどん知人友人が増える状態から遠ざかったが、もともと広く浅い交友は苦手だったので、さほど寂しいとは感じなかった。信頼できて、気の合う人たちと深く、永くつき合いたいと思っていた。
ゴマくんなどは日本語がぺらぺらで、留学時学校で知り合った日本人学生の紹介で知り合ったので、今なおその「友達の輪」があり、結束は固い。彼女はゴマくんが学んだ日本の国立大学の先輩にあたった。先に日本語学校へ通った関係で、実際は年長のゴマくんが大学では彼女の後輩になっていたらしい。
私の一回目の台湾留学でできた、アメリカ人男子留学生を加えた4人の輪は、今想っても胸がきゅんとするほど純で、まさに青春映画を地で行くものがある。
思えば15年を経た今年、4人をモデルにしたあの当時を360枚の小説に仕上げた。ずっと描きたいと構想を練っていた忘れえぬ物語。記念碑にしたい。

さて、私の出産疲れは依然身体にまとわりついていたが、ついに退院の日がやって来た。
陳医師突然の退職で慌てたが、謝医師は懇切丁寧で腕も良く、何ら不足を感じなかった。
すっかり顔馴染みになった外来の看護師さんや産褥期ケアセンターのスタッフにも重々お礼を述べ、珂産婦人科を後にした。
1月13日以来の我が家。
引越したのがわかるのか、メイは夕方4:00頃まで泣いていた。
しかし、そんなのは序の口であった。メイとランは姉妹ながら、まったく別個の人間だとその夜から思い知らされることになったのだ。
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2009年06月04日

退院日時決まるも揺れる想い。ケータイで出産報告。

心配していたが、予定通り1月26日に母子そろって退院できることになった。
縫合の傷口は前回よりずっと早く回復したが、30分ほど人としゃべるとぐったり疲れるし、目が疲れていて本が読めず、読書好きの私を嘆かせる状態は続いていた。
それに、メイは長く保育器にいたし、2200gくらいにしかなっておらず、メイだけ退院を延ばすよう言われるかもしれないとも思っていた。
35歳から年子を出産するということは、やはり身体に大きな負担になっているのかと考えることは多かった。疲労感がなかなかとれないのだ。あれだけ食べていても、産後一週間ほどで体重はほぼ妊娠前に戻ってもいた。ランの時よりも速く、我ながら驚いた。
帰宅すれば、自分でメイの世話一切を担うことになる。この産褥期ケアセンターも我が家のように居心地が良い。去りがたい気持ちと、新しい生活を構築する希望が半々の複雑な心中だった。

落ち着いてきたので、病室から何人かの知人にケータイで出産報告する。
蔡老師と音楽教室に。奥さんと受付女史からはお祝いにベビー服をもらっていた。
教会を通じて知り合ったあの何姐にも。
台湾の大手テレビ局で働くゴマくんにもかけた。日本の国立大学を卒業したゴマくん(ゴマあざらしから来たゴマ)は、かれこれ10年来の交遊が続く大切な友人だった。関西で暮らしていた彼は、今もって流暢な関西弁で話す、頼もしい兄のような存在である。
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2009年06月03日

従妹家族はサザエさん型。暮らし向き良く、祭事重視。

リーのその従妹は同じ会社で働いていたし、彼女ら一家が住んでいるのも私たちのマンションから徒歩5分とかからないアパートだった。
彼女は2人姉妹の姉で、妹は中学校教師、そのアパートの4階と5階を二世帯住宅のように借りて暮らしていた。そう、彼女の夫はいわゆるマスオさん状態なのだ。IT関係の専門家で年齢のわりに高給取りだと聞いた。
台湾でも今は長男家族が両親と暮らすとは限らない。日本語の「嫁姑関係」に当たる中国語はちゃんとあるし、実際、険悪なそれがあったり、またそうなるのを避けるために早くから別居するケースも多い。
私も時々、「お義母さんとは同居?」と聞かれることがあった。
「いいえ、近所に住んでるだけです。」と答えると、「じゃあ、いいわね。」なんて言われるのがほとんどだった。
従妹の家のパターンは少数派だが、うまく行っているようだ。叔母(義父の義理の妹)は台南出身の朗らかな女性で、会話の多くを中国語でなく台湾語で話した。そっちの方がしゃべりやすいらしい。そうなると私はお手上げなのだが、気になることはそっとリーに、何だって?と訊ねた。

娘が満一歳になるその従妹はリーのことを「兄さん」と呼び、私を‘長男の嫁’にあたる呼称で「姉さん」と丁寧に呼ぶ子である。
中国語は親族の呼称が細かく区別されている。私もだいぶ習得したがいまだにリーに教えられたり訊いたりする。
そこの叔父たちは典型的な祭事を重んじる世代の人たちで、私たちが「まあこれはいいか」と省略することでもだいたいしっかり執り行う。従妹夫婦も共働きで暮らし向きがよく、イーハンは一人っ子。そういう行事は毎回華やかだった。
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2009年06月02日

台湾保育器事情。メイ、新生児室の仲間たちと並ぶ。

メイが保育器にいたのは8泊9日、ランの1泊2日よりずっと長かった。
体重がランよりさらに270g軽かったし、最も寒い時期だから用心のためもあった。
ところで、日本で保育器に入れる場合、費用はやはり別途かかるのだろうか。
台湾では別会計で、費用は病院によってかなり異なる。首都である台北は最も高く、田舎は安いのが相場だ。台北でも、台北市内の医師や設備が優れていると言われる病院は特に高いらしい。よく知らないが日本ではそういう基準で額が上下することはないように思うのだが、どうなのだろう。
滞在している産褥期ケアセンターも然りで、地方のそれは台北よりかなり安く利用できる。昨今の日本ではあまり見られない現象ではないだろうか。

何はともあれ、メイは無事保育器を出て、まさに「新生児室の同級生」たちと机を並べた感じで晴れやかだ。
私もようやく授乳室で彼女にミルクを与えられるようになる。
ランの時と同じで、哺乳瓶に搾ったものを飲ませる。小さいので吸う力も弱く、疲れて寝てしまったりして十分飲めないので、楽に吸える哺乳瓶からにした方がいいと指導された。
それでもメイはある程度満腹になるとすぐうとうと・・・・・ 一回の授乳に一時間、私は汗だくになることもあった。でも、なんとか全部飲んでほしいと奮闘した。

着替えを持って来てくれたリーは、従妹の娘の満一歳祝賀会に行くと言う。義父の実弟の孫にあたるイーハンはランと同い年だった。
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2009年06月01日

海を渡る出生届。安眠の恩恵と保育器脱出。

日本では大寒、実家からケータイに電話があり、雪が10cmほど積もっていると父が言う。
リーが撮ったメイの写真をパソコンから実家に送ってくれていたが、私と会話するために、時々両親はケータイにかけてきた。
父には先日、出生届の用紙を送るよう頼んだ。それが20日届き、リーが病院まで持って来てくれた。
私はさっそく指示通り記入し、午後1階に下りると、謝医師は快くサインして印鑑を押してくれた。これをまた日本に送り返し、父が市役所に提出すれば、メイの戸籍ができる。
少し前まで二重国籍を認めていた台湾もそれを廃止したという。ランとメイは18歳になった時、どちらの国籍を取るか選択することになる。

第一子ラン出産後と今回では何かと差があった。
まず、よく眠れる。前回はこの産褥期ケアセンターでツインルームを取り、リーのいびきに安眠妨害されたが、それを差し引いても、あれだけ身体は疲労していたにもかかわらず不眠状態が続いた。神経が高ぶっているような感じだった。なのに、今回は午睡までできる。
縫合した傷口の治りも早く、シャワーやお手洗いが楽だ。

そんなおかげか、心配していた母乳が徐々に出始め、ランの時をはるかにしのぐようになった。お腹の中で十分大きくしてやれなかった分、たくさん母乳を飲ませてやりたいと思う。
そして、1月22日朝。毎朝最寄りの小児科医院から往診に来てくれる林医師が新生児室より電話をくれる。
「今日、保育器から出ていいですよ。」
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2009年05月31日

母乳呼ぶマッサージ、初シャワー。ソウル転勤濃厚に。

胸が張って痛みを感じるが、3日目の夜やっと搾れたのが15cc。看護師さんには「まだ詰まってるみたいね」と言われる。温めてマッサージして、水分も多く摂るよう心がける。

産後4日目、初めて階下の珂産婦人科主催・ママのための離乳食教室に参加する。
この日はよく晴れて、暖かいのだろうと思っていたら、朝は12度しかなかったらしい。12度なら十分、台湾の気象予報士が「低温に注意しましょう」と呼びかける気温だ。1月17日、日本の多くの地域でこれだけあれば暖かいのだけど。

リーは毎日見舞いに来てくれた。要・洗濯の衣類を持ち帰っては洗い、私の説明にそっていろいろと持って来てくれた。
総じて台湾には日本より家事一般ができる男性は多いが、リーもそのうちの一人で、家を空けても心配無用、助かった。その日は夜7時に義母宅へランを迎えに行くという。リー曰く、ゆうべランは大泣きして一時間ほどリーを寝かせなかったそうだ。母親不在をぐずる子ではなかったが、まだ一歳3ヶ月、そんな日もあって当然だ。
この日は産後初めてシャワーを浴びた。義母やリーが知ったら「まだ早い!」と叱られるだろうが、看護師さんのお墨付きだった。私自身シャワーする気になったのも、今回は縫合部分の傷口の痛みが弱いおかげだろう。疲労感はまだあるものの、第一子出産時よりは楽なことが多かった。

リーのソウル転勤の件。彼の話を聞いていると、辞令受諾の方向へどんどん傾いている様子だ。私もソウル移住について考える時間が増えていった。
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2009年05月30日

台湾伝統の産褥期メニュー再び。香る薬膳たちの美味。

前回の教訓があるため、あらかじめしっかり携帯用ドライヤーを入院一式グッズバックに忍ばせて持って来ていた。シャワーはまだ怖かったが、出産翌日からシャンプーしてさっぱりした。
私が坐月子中心(産褥期ケアセンター)への入室を強く望んだのは、こういう「監視されない自由」獲得のためでもあった。第一子出産時に書いたように、産婦に対する恐ろしいオキテがある台湾、本当にそれらすべてを遵守すればいいのだろうが、日本人の私にとっては、そこまでしなくていいでしょう、と感じるものが多かった。

さて、さすがに階下の一般病室とはちがい、ケアセンターの部屋はいい。
広いベッド、テレビ、ロッカーも大きい。電気ポットもあり、トイレはウォシュレット、養生茶も常備されている。
そして、待ってました! 食事は一日6回。あの坐月子餐といわれる、中国・台湾伝統の産褥期メニューを10日間賞味できるのだ。
米酒、麻油というごま油、八角やクコの実、はと麦、ナツメなどの薬膳をたっぷり使う独特の品々。香りが強く、嫌う人も多いが、私は台湾人以上に坐月子餐をこよなく愛す外国人ではないかと自負する。
出産の疲れと授乳で、常時空腹状態。専属栄養士が毎日2400キロカロリーの栄養たっぷりな食事を提供すると聞いたが、実はもっと高カロリーではないかと思われる産婦食の美味に与るたび、坐月子中心に戻って来られたシアワセを感じた。

メイはまだ保育器の中。いつ出られるのだろう。
そして、まだ出ぬ母乳。少し焦る。
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2009年05月29日

台湾で里帰り出産、それまでの道のり。

リーの言い分も妥当ではある。坐月子中心に入室できる最低期間は10日間で、標準的なシングルルームでも日本円で10万円くらいかかるのだ。
もちろんそれは私もイタいところだったが、産後10日というと自分の休養と赤ちゃんの世話で大変な時期だ。まして、里帰り出産ではない。義母には頼みにくいこと、気を遣うことは山ほどある。自宅にいるより気が楽だ。
それに、ランが生まれた10月末と異なり、台北でも最も寒い時期に当たる1月のこと、不安も大きかった。坐月子中心の行き届いた看護とサービスは大きい魅力だった。

一ヶ月くらいその件は落着しなかった。私は粘り強くリーに希望を訴え続けた。
そして、ある週末、例によって義母宅に帰った時、その話題が出た。
私たちのやり取りを聞いていた義母が言ったのだ。
「入ればいいじゃないの、今回も。私だって病院へ行ったり、妹の手伝いに行く予定もあるし、ずっと面倒見てやれないもの。」
まさに鶴の一声であった。リーは本当にその場で折れたのだ。
念のために言っておくが、リーはマザコンではない。だが、あてにしていた母がそう言ってはミもフタもなかった。
私は思わず拍手喝采、「ママ、謝謝!」と喜んだ。

義母には3人妹がいたが、その時言及した妹とは真ん中のその人で、出家して寺で暮らしていた。近々そこで催しがあるらしく、義母は泊りがけで手伝いに行く予定も入っていたのだった。

こうしてめでたく私はその産褥期ケアセンターに再び帰って来た。
今回はシングルルームなので、リーのいびきに怯える必要もなかった。そのセンターにいることが、台湾で暮らす私の里帰り出産だった。
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2009年05月28日

ソウル転勤の攻防続く。再び坐月子中心へ。

ソウル支社転勤にまつわるリーと社長との攻防はその後3月頃まで続く。固辞するリーと、これでもかと好待遇を提示する社長との綱引きをうかがいつつ、私は否応なくソウル生活する自分の姿を思い描く時間も増えて来た。
当時は日本で「冬のソナタ」が人気を博し、韓国びいきは社会現象にもなっていたが、私はそのドラマを一度たりとも見たことがなく、ただ「寒い、日本人に冷たい」というマイナスイメージが強かった。夫婦だけならまだしも、0歳と1歳の子連れだ。不安の方が大きいのも当然と言えば当然だろう。
しかし、リーは単身赴任を嫌ったし、私も母子3人だけ台北に残るのは気が重かった。ソウル行きの可能性は五分五分のまま推移した。

1月16日。自然分娩した産婦が退院してよい日を迎えた。
出産後3日目のこの日、私は前回同様、珂産婦人科の階上にある坐月子中心に移動した。ご記憶にあるだろうか、いわゆる「産褥期ケアセンター」とでもいうべきところだ。受付にいるスタッフもランの時と同じで気心が知れており、とても懐かしい。
今回私にあてがわれた部屋は801号室、個室だ。前回はリーも泊まれるように、彼がツインルームを取った。
滞在期間は10日間。これは前回と同じ。
しかし、坐月子中心に入るか否かは今回もめた。「2人目で君も赤ん坊の扱い方は心得てるでしょう。それに、お袋はもう親父の世話をしてないんだし、入らなくていいよ」とリーは最初、私の申し出を拒んだのだった。
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2009年05月27日

早朝、新生児室へ。見舞い客でにぎわう。

安静に、と言われても、どこか痛んでも、翌朝7時前私はそーっと歩いて5階の新生児室へ行った。別に人目を忍んでいるわけではないが、傷口は縫合したばかりだし、身体はまだだるい。

メイは保育器の中にいた。他の子たちと異なり、オムツだけの裸んぼでいるため、2100gの小ささが際立ち痛々しいが、とても元気だと言われた。昨日は羊水を吐いてしまわねばならず、今朝初めてミルクを飲んだということだった。
それにしても、第1子ランとはいろいろな点でちがっていて興味深い。
髪が少なく細く、3歳頃まで一度も散髪しなくてよかったランに対し、メイはふさふさとした黒髪だ。肌も黒い方。ランは生まれながらに整った顔立ちをしていたが、メイは・・・・・ 親の欲目にも美貌とは言えなかった。
世の親なら理解できるだろうが、我が子の美醜などは結局どうということはなく、とにかく無事生まれてくれたことに感謝し、すこやかな成長を心底から願うばかりだった。亡くなった義父からの贈り物との意識も強い子だった。

1月半ばの土曜日。午前中に義母と叔母がランを連れて見舞いに来てくれた。続いて正午前、リーと義弟のチャンが次々に到着。チャンは3人きょうだいの中で一番早く結婚した。米国で建築士の修士号を取り、その道で働いていた。
しばらくして5人は連れ立って昼食に出かけた。私は前回同様、珂産婦人科の食事が気に入り、ひとりその時間を楽しんだ。先ほどリーは例の韓国転勤の件を口にしていたが、いったいどうなるのだろう。
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2009年05月26日

出産疲れジワジワと。リー、夜中に退室。

無事出産した直後の高揚感と爽快感は筆舌に尽くしがたいものがある。そんな中でいただく食事はまた格別なのだが、看護師さんが先に点滴してほしいと言うので、スミマセンとお弁当は中断する。
点滴は2種類あった。
その間、リーは新生児室へメイを見に行っていた。ビデオカメラを持参していた彼は早速メイを撮って来て、横たわる私に見せてくれた。
私も早く見に行きたくてたまらなくなる。

ようやく点滴が終わり、ベッドから起き上がり床に立つと頭が弧を描くように回る。? 目が回ると表現すべきだろうか。フラフラするのだ。メイが生まれてしばらく経ったその時、初めて自分がとても疲れていることに気づく。
やはり出産は大事業、大仕事なのだ。その疲労感は翌日もずっと続いた。
リーは病室の簡易ベッドで寝たが、夜も遅いのに何度もケータイに電話がかかって来て、日付が変わってすぐくらいに帰宅することにした。花金の夜。会社は忘年会をしていたのだから、あちこちからお呼びがかかるのも仕方ない。彼は出席しなかったから余計だ。

リーが出て行って、正直ホッとする。静かに休みたかった。
それでなくても、その夜はお腹、腰、骨盤が痛むし、出血は続き、なかなか安眠できなかったのである。
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2009年05月25日

待産室で凱旋弁当。

あまりにも痛かったのと安堵で、私は思わず右隣りにいるリーの頭を抱え込むようにしがみついた。
メイはすぐ泣き声をあげ、看護師さんに体重を量られているようだ。
そして、私の顔のそばまで抱いてきて、見せてくれる。あー、よかった。あの喜びは1人目も2人目も変わらない。
予定日より20日間も早く出て来て、案の定2100gと小さいメイは、謝医師の指示で身体を洗った後すぐ5階の保育器の中に連れて行かれた。

リーも退室した後、傷口の縫合に入った。
謝医師と看護師一人が残り、処置してくれる。陣痛と同じくらい怖れていた縫合。前回は本当に痛くて泣かされたので、あらかじめ謝医師に、「縫合前の麻酔は多めにお願いします」と頼んであった。
その甲斐あって、皮膚が引っ張られる感触はあったが、かなり痛みは和らいだ気がした。
何度も医師と看護師さんに礼を述べ、私は再度、待産室に戻された。

リーと病院との事務的な手続きが終わるまで、私はしばらくそのまま休むことになった。時間も時間、私は急に空腹感を覚えた。我慢できず、もうちょっと待ったら?というリーに頼んでお弁当を買って来てもらい、早速「いただきます!」。
様子を見に来た看護師さんに、リーは、
「出産なんて何もなかったみたいでしょ。」
と言う。
そんなことはない。しかし、闘いの後のごはんはなんと美味だったことか。
1月、花金の夜。南国・台湾でもいちばん寒い季節を迎えていた。
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2009年05月24日

陣痛は2人目でもやっぱり痛い!第2子誕生。

午後の往診で「今夜7〜8時頃かなあ。」と話していた謝医師。
子宮口3cmの状態が長かったが、一気に8cmまで開いたのだった。
看護師さんたちに押され、ホロつきベッドはスルスルと背中から動き分娩室に移動する。
夕方5時、1階で診察中なはずの謝医師が呼ばれ、上がって来てくれる。メイも臍帯血バンクに登録することになっていたので、リーはそれに必要なグッズ一式を医師に渡している。ヘアキャップをつけ、風呂上り風なリーが右手に腰掛ける。陣痛はぐんぐん勢いを増してくるが、その間の抜けた風貌には前回同様吹き出しそうになる。

妊娠のたびに悪阻(つわり)は軽くなる傾向にあるというのは本当だったが、陣痛はちがった。
なんだこれ、、、 初産に負けないくらい痛い、陣痛は何度来ても同じなの?!
心中思った。
謝医師と2人の看護師、リーの4人は呼吸を整え、力みやすいように声をかけてくれる。だが、あまりに痛くて一時力が萎え、ふーっと気が遠くなる。
「ダメダメ!力まないとダメ!」
ふだん穏やかな謝医師の厳しい叱咤が飛ぶ。
そうだ、もうすぐ、もうひとがんばりしたらメイに会えるんだ、と思い直す。
まもなく、
「あ、頭が見えてきたよ、がんばれ、がんばれ!」
と声援が聞こえる。謝医師も看護師の声にも温かみを感じる。
ようやくメイが下りて来た感覚がわかりだすと、あとは早かった。
1月14日午後5:38、2100g、44cm、第2子無事誕生。
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2009年05月23日

忘年会に出たくない理由は・・・ いざ、分娩室へ。

会社の忘年会は私も2度参加したことがあった。大きくて、成長中の企業だったので、それは盛大で、当たる賞金や賞品も豪華だった。台湾の忘年会はどこもこんなに派手なのかと思っていたら、後々そうでないことを知った。業種や業績により様々らしかった。
リーは「忘年会へは顔も出さずに、すぐ病院へ行くから」と言っていた。ああいう席が嫌いとは思えないが、いわゆる管理職にある彼は、賞品等をもらえることはなく、もっぱらもし抽選で当たっても、その権利を得たことを辞退し若手に譲り、その上ドネーションまでしなくてはならなかったから気持ちはわかる。ドネーションの額も日本円で3万円以上が相場だったのでなおさらだ。

ほんとに生まれるのかなぁ、とのんきに横になっていた私は、突然加速した陣痛にのた打ち回っていた。カーテンが閉まっていてよかった。
リーは5時頃ようやく会社から到着。ランを産む時、早朝にもかかわらず来てくれた義母はケータイにかけてもダメで、つかまらなかった。2人目ともなるとこうなのだろうか。
リーは看護師さんたちと事務的な話を始めていた。
その間にも、私のお腹と腰の痛みは増し、見かねた最年長看護師は、
「胎児は小さいし、早めに分娩室にはいりましょっ!」
と、さすがの判断と存在感で仕切った。
到着して間もないリーも、立ち会う準備に入った。
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2009年05月22日

痛みをこらえ、リーに電話。「もうすぐ生まれるよ!」

陣痛促進剤の点滴が始まった。
看護師さんは、ベッドの周りに隈なく白く薄いカーテンをひいてくれる。これまで見たことがない年配の看護師さんだった。おそらく最年長だろう。
ラジオもテレビもないが、退屈はしなかった。ケータイだけは枕元に置く。眠くなればうとうとし、カーテン越しに聞こえる声や会話をぼんやりうかがっていた。
待産室は20畳くらいの広さで、4つの隅にベッドが置いてある。
その日は私が一番乗りだったが、そのうち2人入室者があった。一人は明らかに私同様陣痛が始まり、お産を目前に控えていたが、もう一人は本人と付き添い人の会話から、流産して、そのために手術したような感じだった。

人の出入りや看護師さんの忙しそうな足音などで結構にぎやかだった。だいたい30分おきに看護師さんは様子を見に来てくれた。
お昼を過ぎ、2:00を過ぎ、はあーっ・・・・・ 遅い。「まだ痛まない?」と訊かれるようになるが、まったく痛くない。まさにメイはうんともすんとも言わないのである。本当に今日中に生まれるのかなあ、という極めて根本的な疑問がわいてくる。

ところがだ、4:00になる頃から来たのだ。お腹と腰のしびれるような痛みである。油断していた私をおどかすように、ズキンズキンとそれは増して来る。
看護師さんにそれを告げる。何とかトイレに行って戻ると、「あっ!ダメよ、もう自分で行っちゃ!途中で生まれたらどうするの?」と最年長看護師に注意された。そんなオーバーな、、、、、
震える手でリーのケータイに電話する。彼はまだ会社にいた。
「いつ来るの?もうすぐ生まれるよ!早く来ないと間に合わないからねっ!!」
他の2人には家族の者が付き添っているが、すでに苦しみ始めた私はまだひとりぼっちだった。痛くて落ち着いた話もできず、叫ぶように電話を切った。
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2009年05月21日

午前10:00、陣痛促進剤投与開始。

翌朝、リーと義母が見に来てくれた。
彼らが帰ってから、私は病室から最寄りのセブンイレブンに行き、野菜ジュースとサンドイッチと茶葉卵(あるお茶の葉液で作るゆで卵)を買って来て栄養補給した。陣痛促進剤の点滴が始まると昼食は摂れない。
続いて、シャワーとシャンプーし、約束の10:00に3階へ下りた。
病室を出る際、忘れ物はないか、振り返って再度チェックする。今度この部屋へ帰って来る時にはメイは生まれているんだと思うと不思議な気がした。
「点滴を10:00に開始したら、いつ生まれるんですか?」
ゆうべ謝医師に訊いた。
「明日中に生まれますよ。点滴は生まれるまでするんですから。」
突然破水して、あれよあれよと出て来たランの時とはまったく異なる成り行きに少し戸惑う。
まさに戦いに挑む思いで待産室へ向かう。ロッキーのテーマソングが似合う心境だ。

看護師さんが用意し、いろいろと注意すべき点を教えてくれる。お手洗いしか動くことは許されなかった。もちろん、点滴セットと一緒にゴロゴロ歩いて行く。
今日も雨。2月9日の旧正月が近づき、1月は忘年会たけなわ。金曜日のその日、職場の忘年会をする会社は多いはずだった。
リーは夕刻からのそれに参加せず、病院へ来ることになっていた。
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2009年05月20日

入院した途端お腹は痛まず。にぎやかな病室での夜。

リーは会社から帰宅し、シャワーを浴びてから、私にお弁当を買い、足りない物を持って珂産婦人科に再び来てくれた。急な入院だったので、病院での食事は翌朝からしか提供できないと言われたのだ。
今夜中にも生まれるかもしれないと思い、リーは徹夜も覚悟で来たようだった。
私は病室内にある洗面所でシャワーと洗髪を済ませ、病院指定のネグリジェ式お産服に着替えた。懐かしい。ランを産む時も着たことがあった。
リーと2人でいると、彼のケータイに電話が入り、同僚夫婦らが早くもお見舞い(?)に来ると言う。
しばらくして、夜市などでお馴染みの食べ物などを手土産に数名の知人たちが701号室を訪れた。決して広くはない個室はにぎやかになるし、メイは気が変わったのか大人しくなり、朝からのいつもとちがう体調の悪さはどこかへ行ってしまった。
「おかしいなあ、お腹も腰も全然痛くなくなったわ。」
我ながら拍子抜けする。
謝医師が夜、様子を見に来てくれた。私の変わり様にいささか驚く。
入院は無駄だったのではないかと思い始めていると、
「いや、明日かあさって中には必ず生まれますよ。で、問題は自然に陣痛が来るのを待つか、明日陣痛促進剤を打つかですね。」
しばらく謝医師と意見交換した後、翌日午前10:00に陣痛促進剤を投与することに決まった。どうせ一日しかちがわないなら早い方がいいと思ったし、謝医師もそれを勧めた。

この結果を受け、リーは病院待機を中止して自宅に帰ることにした。
ようやく静かになった。
私は、依然お腹に留まっているメイと2人、暗い病室のベッドに横たわり、眠りに落ちた。
明日かぁ・・・・・
明日はリーの会社の忘年会の日でもあった。
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2009年05月19日

子宮収縮開始。そのまま入院決定。

その日は朝から雨だった。気温15〜17度くらい。
1月中旬の台北としてはちょうど自然なところだ。

ランを産んだ懐かしさがよみがえる3階の「待産室」での検査の結果、子宮収縮は始まっていると確認された。
再び、謝医師がいる診察室に入り、リーと3人で話し合う。子宮の収縮が起こっているということは、胎児が私のお腹から出て来ようとしていることに等しい。しかし、その時点では陣痛が始まる時期を予測できなかった。
一度帰宅して、いよいよという時を待つか。
このまま入院するか。
協議の結果、即、入院が決まった。
というのは、もし陣痛が始まれば出産まではあっという間だろうという謝医師の見解があったからだ。
初産より2回目の方が胎児は出て来やすいものらしい。それにメイは小さい。大きい子に比べるとスルスルッと楽に生まれる可能性が高いので、珂産婦人科と自宅の車で15分ほどの距離、そして恒常的な台北の道路渋滞を考えれば、そのまま病院に留まった方が無難だと言われた。
私は、破水して、痛むお腹や腰で立っているのもつらくなり病院へ駆け込んだ前回を思い出した。
入院出産一式バッグも持って来ていることだし、よし、そうしようと3人の思いは一致した。
リーはいったん会社に戻って行った。私の部屋は701号室、そこで臨戦態勢に入った。
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2009年05月18日

ゲーム先進国・韓国、リーがソウル支社長?! 子宮口開く。 

私もかつて働いていたリーの会社は本社が台北にあり、当時は北京、香港、東京、ソウル、バンクーバーに支社があった。オンラインゲームの先進国は韓国で、ソウル支社の果たしている役割は大きかった。
韓国人がその支社のトップを務めていたが、公私混同のひどい沙汰になっており、社長は台湾人のまとめ役を送り込み、事態の収拾に当たりたかった。
リーはその前香港の支社長を務めていた。ランを妊娠していることがわかった時期だ。
社員の平均年齢が若い会社で、リーくらいになると最年長クラスに入るし、もちろんその分経験もあり、彼は英語ができたのでどうしても社長の目にとまりやすかった。
リーと社長はとても馬が合う方ではなかったが、結局社長にとって最後の頼みはリーだったのだ。
「単身赴任はいやですよ。家族一緒ならいいけど、今、2人目の子が生まれようとしてるんです。」
リーは珂産婦人科で受けた電話で答えた。
しかし、社長はひるまない。
「OK,家族そろって暮らせる好待遇にしよう。」
はーっ、困ったもんだ。

診察を待っている間はそれでなくても気分がすぐれずつらかった。
ようやく順番がまわって来た。
子宮口は2cm開いているという。これから3階へ上がり、子宮の収縮が始まっているか検査すると謝医師に指示される。
40分かけて診る、長い検査が始まった。
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2009年05月17日

第2子36週7日目、社長からソウル転勤の打診あり。

1月13日木曜日、メイは36週7日目。生まれても早産ではない。
足の付け根まで痛んで、なんともしんどい。
もともとランは義母宅へ預ける日だったが、念のためお泊りセットをリーに持って行ってもらう。
それから、午後は二胡レッスンだったが、朝のうちに蔡老師のケータイに電話をかけ、事情を話す。二胡を始める時に、1〜2月頃出産で一時中断することになる事は告げていたし、老師も教室のスタッフたちも心配したり、激励したりしてくれた。

つらいが、動悸がひどくて眠れない。
じっとしていられず、洗濯や片付けをし、二胡も弾いた。しばらく弾けなくなる予感がした。
食事はできるだけ残り物を使ってお味噌汁などを作る。

午後2時。リーが珂産婦人科へ同行してくれる。一応、出産入院一式バッグを持って行く。
謝医師の午後診、予約は7番が取れた。待合室で待っている時、リーのケータイが鳴り、彼は表に出てしばらく話していた。
戻って来るなり言う。
「社長から。ソウルへ行ってくれないかって言われた。ソウル支店長だって。」
は? よりによってこんな時に、、、、、 
韓国は訪れたことがなかった。すごく寒いイメージがあったし、何より2人目の娘がもうすぐ生まれようとしているのだ。
「いやだなあ、行きたくないよ。」
と私は言った。幼い年子に手がかかるまさにその時だった。
リーも同じ意見で、いかに断るか、考え始めていた。
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