2009年03月19日

お義父さん、恨みますよ、、、

早朝6時半、病院で一夜を過ごしたリーから、義父が逝ったと電話があった。リーと夜、病院へ急いだ日の2日後のことだった。私がだいたい目を覚ましているだろう時間を待って、かけてきたらしい。
その後、ランを連れて実家へ行くよう連絡があったのが正午前。そそくさと準備をし、指示に従う。
台湾で親族の葬礼に臨むのはもちろん初めてだった。長男の妻として、本来なら雑事から表立った務めまで、いろいろ率先してしなければならないのだろうが、生後5ヶ月の幼子がいるのと私が外国人ということで、多くの高い要求は向けられなかった。まず、ランをしっかり世話して、できることを手伝うのに徹すればよかった。

やはり葬祭の手順や慣習は日本のそれとは大きく異なった。いわゆる告別式は、義父が亡くなった10日後行われ、それまで自宅で眠る故人のため、家族の誰かが順番に線香の火を絶やさないようつきっきりで見守る。四六時中なので、夜中にもその役目をする者が必要なのだが翌日出勤せねばならなくとも、リーも何回か夜のおつとめに行った。
リーの実家には、義父とゆかりのある人々がたくさんお別れにやって来た。つらい空気をランが和らげているように見える。多くの訪問客がこぞってランを抱っこしたがり、彼女の笑顔に悲しみの場が和んだ。私は内心ランが疲れてしまわないかと案じた。
とにかく黒い服を着ればよいと言われ、そのいでたちで私も告別式に参列した。日本から嫁いで何もわからぬヨメの私が、長男リーの傍ら、すなわち相当な「上座」に据えられてしまった。

義父の棺には、3月義父にあてて書いた手紙を入れた。その時義父はまだしっかり意識があり、義母が読むそれにうんうんと頷き聞いていたという。
大好きな義父だった。ランをもっともっと抱っこしてやってほしかった。出会ってわずか一年半ほど。ガン闘病4年。お義父さん、こんなに早く逝ってしまうなんてずるい、恨みますよ、、、、、 今でもそう思う。
義母は何度も何度もはばかりなく泣いた。私も義父を思うたびに涙がこぼれ、涙腺は緩んだままだった。
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2009年03月18日

4月、義父の容態悪化に憂う。

一年遅れの結婚休暇やそれに関係した行事が一段落して、平常通りの生活に戻る。ランは寝返りを打ったり、離乳食が食べられるようになり、順調に成長していた。
当時の日記を開くと、その頃、夜、蚊が出て来て安眠妨害されたと書いている。そういえば、ランのために蚊取り線香(やその類い)はできるだけつけないようにしたいと思い、ベビー用の蚊帳を設置してやったものだ。
年間平均気温が20度を超える台湾、蚊はほとんど年中出没する。自宅マンションは11階なので、アパート2階にある義母宅よりずっと少ない被害で済むが、それでも蚊に悩まされる期間は日本より長い。真夏はかえって減る。暑過ぎるのだろうと察するが、日本では考えられない2月とか12月などにも出て来る。蚊取り器具をONにして寝る日は多い。
しかし、リーがいる付近は安全だ。蚊は遠赤外線で温度の高低を察知できるらしく、体温の高いリーばかりを好んで集まるのだった。

会社にいるリーに、義父の容態が悪化したと連絡が入り、彼は夕方6時前、早々に帰宅。実家で留守を守る叔母にランを預け、リーと2人病院へ急ぐ。
義父は私たちの呼びかけに小さくうなづくことができた。だが、ほんの2週間前より衰弱の度合いが大きく進んだことは誰の目にも明らかだった。
リーは翌日も病院へ行った。義父はもう反応が小さくなり、目を閉じたままだと言う。
心配で、私ももう一度見舞いたかったが、前日叔母に預けた間ランがひどくぐずったらしく、やはり家でランの世話をしていた方がいいと言われた。

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2009年03月17日

主役はラン?! 4時間半、撮影ようやく終了。

ランにはふわふわ毛足の長い真綿のようなソファが与えられた。乳幼児用のものなのか、これならまだ自力で座れないランでも頭を起こすことができる。まぶしいライトで照らされる「主役席」にいても、彼女はぐずることなく、ふだん通りニコニコ微笑む。
「かっわい〜な〜」
カメラマンは同じセリフを連発し、バシバシ撮っている。助手の女性も絶賛だ。
あのォ〜、、、 第一子誕生記念撮影じゃなんですけど、、、、、
さきほどまで役者に仕立てられたリーと私は、舞台の袖で困惑した。
まあ、ランがこんなにほめてもらえるならいいか。
ランはその日、白とピンクの服に身を包んでおり、純白ふわふわのソファで笑うと、本当に絵になった。
「じゃあ、お2人も入ってください。ランちゃんはママに抱っこしてもらおうかな。」
ようやくカメラマンがリーと私の存在を思い出してくれた。

メークや衣装選びだけで一時間半ほどかかったし、撮影や着替えなど全メニューが終了したのは5時半。写真館入りしたのが午後1時だった。外の日差しはすっかりトーンを落とし、それを目にすると、どっと疲れを感じた。
写真が完成するまでに10日ほどかかる。私たち3人はバイクにまたがり
家路についた。
マイカーハネムーンからずっと結婚休暇をとっていたリーも、久しぶりに明日から出勤だ。
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2009年03月16日

不覚にも、役者になるリーと私。

3月末日午後1時、写真館2階に我々一家3人はいた。
担当のメークアップアーティストが私の顔や髪の毛を作り上げていく。男性もメークするが、女性よりずっと簡単なものなので、リーは別室で自分の準備をゆるゆると進めつつランを見てくれていた。
ウエディングドレスと色ドレスを選ぶ。たくさんあって、特に色ドレスは目移りした。何を基準に選べばよいのかわからなくなってきて、とにかく好きな紫や緑などを物色するが決まらず、スタッフの「あなたは色が白いから、こういう紅いものが似合いますよ」のひと声で、それが好きか否か判然としないまま、ワインレッドのドレスに決める。もう選び疲れていたのだ><

メークは続く。すごいなあ、ここまで念入りにするものなのかあ、、
正直な感想を会話が弾むメークの女性に伝えると、タレントさんはもっと時間かけますよ、とのこと。へえーっ、と驚く。私は撮影前すでに疲労を感じている。
さて、まずウエディングドレスでの撮影だ。それが終わると、私もリーもお色直し、私はヘアスタイルも変えて、再びスタジオへ。カメラマンはどちらかと言えばふくよかな体型の男性だった。
テレビで何度もご覧になったことがあると思うが、あの撮影風景を思い描いていただきたい。まさに、あんな感じで撮られていく。
そして、あろうことか、いや不覚にも、カメラマンの滑らかな指示に抗うことはできず、リーと見つめ合って笑ったり、肩に手を回したり
膝の上にのったりしている自分がいた。リーも戸惑いつつ、しかし、
どうしようもなく、役者にならざるを得ない状況に甘んじている表情である。情けない、、、、、
額入り大判写真とLサイズ版10枚コースを指定したにもかかわらず、バシバシ、ピカピカ、シャッターは下ろされた。
そして、終盤にはランも被写体に加わった。
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2009年03月15日

台湾・結婚記念写真事情。

撮影日は翌々日の31日に決まった。そして、その写真館が持つメニューというかパックの中で最も少数でシンプルな額入り大判写真とLサイズ版10枚コースを予約する。
「どこか撮影に出かけたい場所はありますか?」
ありません、このスタジオ内だけでいいです。
「こんな少なくていいんですか?」
いいんです。

あちらにすれば、めずらしい客だったに違いない。額入り大判は、大人が両手で持っても歩きにくいくらいのサイズだし、プロが撮ったL版が10枚もあれば十分だと思うのだが、額入りの小さいのも作ったり
L版96枚コースなんてのまであるんだから。結婚記念撮影に10万円以上かける夫婦はざらにいると思われる。そう言えば、OL時代の韓国人の同僚が会社で唯一の欧米人社員と結婚した際、結婚アルバムを会社に持って来て公開していたが、厚さ5cmほどのアルバムが3〜4冊あったように記憶する。彼らのマンションの壁には、特大額入り写真が飾ってあったし、、、、、
思い出の場所に撮影隊とともに出かけて屋外撮影するのも極々一般的である。私が中国語を勉強していた大学構内、有名な公園、海岸などで着飾ったアツアツの男女が寄り添い、写真を撮られているのを幾度となく目にしている。寒い日や炎天下では気の毒に思うものだ。あんなことはやりたくないと私は思うのだが、台湾の多くの人々には、結婚記念写真に傾ける情熱と思い入れが脈々と受け継がれているのだろう。
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2009年03月14日

いざ、フランスなんとか写真館へ。

私がその記念写真文化に最初に触れたのは、最初の台湾留学の時住んでいたアパートだったと記憶している。
知人から紹介されて、部屋をシェアしてもよいと言われた新婚夫婦のもとに身を寄せたのだが、その家の壁に大小いくつかの額に入ったウエディングドレスや色ドレスを着た新婦とタキシードの新郎の、文字通りラブラブを絵に描いたような写真が飾られていた。画質はきれいだし、2人のポーズや表情は板につき、サマになっていて、一見素人には見えない。タレントのブロマイドを想起させる出来ばえなのだ。日本人の私から見ると、なんともまあオーバーで、見ている方が恥ずかしくなるほどの、まさにラブラブなのだが、その後、それはうちの大家さん夫婦だけが度胸のある人間なのではなく、台湾に長く、深く浸透した文化、慣習なのだとわかり始める。

私は絶対ああいうことには向かない。あんなポーズ、できないでしょう、いいトシして・・・・・

そう思っていた。だから、ああいうポーズは避けるとして、とにかく記念写真は撮りたいなあと考えたのである。
もう、台湾のいち文化なので、そのテの写真館はごまんとあるが、家から近く、好印象があるというと、最寄の地下鉄駅前にある法国なんやら、というところしか思い浮かばなかった。法国、とはフランスのことだ。日本同様、台湾も欧州にある種の憧れがあるのだろう。
リーも同意したので、バイクで5分ほどの華やかさとシックがうまく調和したフランスなんたら写真館へ。
女性中心の豊富なスタッフに迎えられ、すぐ撮影の打ち合わせをする。ランは満5ヶ月、よく笑い、そのとろけるような笑顔は、スタッフたちの仕事の手を止めるほどだった。
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2009年03月13日

帰宅早々、風邪でマスクと結婚一周年。

全身がだるい。
だが、パジェロからどっさり下ろす荷物の中には、これまたどっさりの洗濯物>< 当然私がすべて洗い、干さねばならない。具合が悪いと実に恨めしく見えるその「山」だった。
どうにも気分がすぐれないのだが、やはり洗濯物を処理してしまわないと落ち着かず、さっそくよいしょと抱えてベランダにある洗濯機に放り込んだ。
2時間ほどかかってようやく一段落つき、夕方私は医者へ行くことにした。かかりつけの病院(医院)はなく、その日は徒歩で5分ほどの内科
小児科医院へ行ってみることにした。その前を通るたび、結構おおぜい患者がいて、悪くはなさそうだった。
普通の風邪と診断されたが、家に赤ちゃんがいるならマスクをするよう言われる。それは心得ている。

女医さんにもらった薬はよく効き、翌日はだいぶ楽になった。
リーとランと3人そろって実家に帰る。義父の容態が気にかかったし、おみやげを渡したかった。
実家には義母と、義弟の長女がいた。2人とも鼻水を出したり、ひどい風邪声をしているが、マスクをしてくれず、私は心中穏やかでなかった。
おかげでランにはうつらず、彼女の食欲は旺盛だった。うまくできたもので、生後半年ほどは母親からもらった免疫で結構抵抗力があるというのは本当なのだろうか。

ハネムーンから戻った翌々日、3月29日。
書類提出のみだったが、結婚一周年を迎えた。晴々しい事にさほど興味のないリーと私だったが、記念写真だけは撮ろうという点で意気投合、私がランを抱き、バイクで出かけることにする。
ご存知だろうか。台湾の結婚記念写真文化はおもしろいのだ。
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2009年03月12日

子連れハネムーン、最終日を迎える。

ベッド幅が農園コテージにあったものくらい広ければ、私がランと一緒に寝ればいいのだが、ここのはそうはいかない大きさである。
窓外に見える中庭を眺めながら思案していると、あっ!浮かんだ。
手置きから背もたれがスローな丸い弧を描くソファに目が留まった。私はそれをごろんごろんと私が陣取った壁側のベッドに運び、隣のベッドとの間に置いた。そして、私のベッドの側面にピッタリくっつけた。ソファとベッドの高さは絶妙で、手置きと背もたれが外柵になり即席ベビーベッド完成。ランをそこへ寝かしてみると、小さなランはちょうどすっぽり、これなら落ちる心配もない。このヒラメキに自画自賛した。

私もその夜はさらにぐっすり眠った。前日からのどが痛かったのだが子連れハネムーン最終日の天祥での朝はそれが一段と悪化しており、風邪薬を飲んだ。
ベビーカーを押して朝食に行く。種類豊富なバイキングが用意されていた。台湾の宿はだいたいどこでも、いわゆるパンやコーヒー、紅茶などの洋式と、粥やそれに付す様々な薬味、豆乳などの中国式朝食のどちらもが供される。リーは自宅で毎朝トーストでサンドウイッチを作り食べるが、粥があれば必ずそれをいただいていた。
渋滞が好きな人はいないだろうが、リーはそれが顕著だ。せっかちな彼の性格を考えれば無理ないだろう。
彼は渋滞を避けたいと、8時半にチェックアウト、台北を目指した。
旅中、やっぱり旅はいい、帰りたくないなあ、と感じていたので、最終日は道中切なかった。
午後2時、台北の自宅に無事到着。高いパジェロの後部座席から降りると、咽喉痛の不快さが全身に広がるように不調を強く実感した。
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2009年03月11日

天祥の賑わいの中、晶華酒店は聖域の如く。

天祥には午後3時に到着した。
山中、確かに何台もの車が行き交っていたが、そこへ着いて別世界にやって来たような錯覚を感じるほど、山頂付近とは思えないような賑わいぶりである。
まず目に入るのは、今夜の宿となる天祥晶華酒店の瀟洒な建物だ。晶華酒店は台北にもあり、あのリージェントホテルの中国語名である。
そこから広い駐車場が伸びており、鉄道駅や土産物屋、飲食店がかたまり並んでいる。
色とりどりの観光バスが午睡をしているように見える。土産物袋やカメラを提げて歩く人々、ホテル側の一角でソフトクリームを売る露店は大繁盛、その他土産物も観光地としてはかなり垢抜けたものが多く、外国人観光客の姿もちらほら。空気はひんやりし、緑がまばゆい。襲って来そうな怪物大理石も見えず、心安らぐ。

さて、チェックインだ。
それは何ら問題ないのだが、宿が変わるたびにリーは家財道具を車から運び入れたり出したり、かなりの重労働である。私も極力手伝う。
手続が終わり、部屋に向かう。ホテルのロビーから一歩客室空間へ入ると、外の喧騒は嘘のように遮断され、足に優しい厚みある絨毯や品の良い内装と色使い、中庭やその向こうに見える山の景色に癒される。観光客の多くは、一泊せずに山を降りるのだろう。
用意されたツインルームも広くゴージャスだ。しかし、ベビーベッドはないと言われた。旅中、睡眠時間が短く、お腹が減るのか、食欲旺盛なランを横目に腕組み。どうしよう、、、、、
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2009年03月10日

太魯閣着。大理石ごろごろ。

太魯閣国家公園は、日本の観光客にも馴染みの観光スポットと言えるだろう。花蓮縣に位置し、太魯閣はその地の原住民タイヤル族の首長の名前に由来している。総面積9万2千ヘクタールの巨大な国立公園で、花蓮と天祥間の険しく切り立った断崖絶壁が太魯閣渓谷だ。中央山脈から太平洋に流れる急流が悠久の年月をかけて大理石の岩肌を削りできた渓谷である。
絵葉書では幾度となく見たことがあったが、実際天祥に向かう峠に入り、すぐ見えて来る壮大な景観に息を呑む。大理石がごろごろ。
「あれ全部大理石の塊だよ。」
リーがハンドルを取りながら話しかける。
ごろごろ、本当に数え切れないほどだ。
「盗まれないの?」
ハハハ、、、 彼は笑う。
「あんな思い物、そう簡単に持って行けるヤツはいないよ。」
それもそうだ。さっきからどうにも背中が寒々とするのは山中にいるせいだけではない、あの岩々の異様な大きさが私の感覚の許容範囲を超えているからだと気づく。へえ、自然の成せる業とはすごいものだとか、美しい渓谷だと感心する類のものではなく、恐ろしくなってくる。
「私、昼間でも一人でこんなとこ怖くていられないわ、、、、」
正直な感想をリーにもらす。
パジェロはひたすら登る。今夜の宿は天祥にある。3月26日金曜日。
平日ながら、道中自家用車や観光バスに何度も出会った。
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2009年03月09日

台東で釈迦をひとカゴ買う。

二泊世話になった知本のリゾートホテルを後にし、一家3人と車いっぱいの荷物を乗せて、陽光の下走り出した。
私は幼い頃から、いわゆる「枕が変わると眠れない」体質で、修学旅行や外泊というと、楽しさと同じくらいの憂鬱が付いてきた。
だが、不思議なくらいこの旅では眠れた。喜びを感じるとともに、別人になった自分のようでもあった。出産すると体質が変わる人がいると聞いたことがあるが、私も好例のひとりになったのだろうか。

その日も晴れた。3月末、台湾は春を過ぎ、初夏の様相を見せ始める。パジェロが疾駆する道端に、今日もあちこち並ぶ露店。リーとは前日に相談済みだ、釈迦を買って帰ることにする。仏像ではない。釈迦は果物の名前である。
台東は釈迦の産地として有名だ。台北のスーパーや市場で見かける値段よりずっと安く、物は数倍立派なものが手に入る。幹線道路に数え切れないほど露店が出て、農家が畑から直接、どんどん収穫した釈迦を並べ、売っている。カゴ入り、箱入り、袋詰め、何でもOKだ。
リーが車を停め、農作業の途中であるらしいイデタチのおばさんとしばらく言葉を交わし、赤いカゴ入りの釈迦を提げて戻って来た。大粒、プリプリ、安い、新鮮! 釈迦好きの私の胸は躍る。
あ、忘れるところだった。なぜ、釈迦というのか。
それは、外観がお釈迦様の頭にそっくりだからだ。そう言われれば、と誰もが合点し、微笑んでしまう代物である。
大きさや種類は色々あるが、手で難なく割れるくらいに熟してから、ガブリと直接かじって豪快に食べる。黒い種がたくさんあって食べやすくはないが、甘くて食べ応えがある。おいしい。
台湾へお越しの際は、ぜひ釈迦をご賞味いただきたい。
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2009年03月08日

派手な客引き、温泉地の夕餉。

リーと2人して、まさに駆けるように部屋に戻ると、重厚なドアはしっかり閉まったままで、ランも窓際の清潔なベビーベッドでまだぐっすりお昼寝中だった。よかった、、、要らぬ妄想、取り越し苦労も一笑に付せた。
夕方、十分休息をとれただろうランをベビーカーにのせ、夕食に出かける。ホテルを出て左手に坂を上り行くと、日本でもよく見かけるような温泉地の繁華街がある。広くない道路の両側に、飲食店や土産物屋がズラリ。特にそこの郷土料理というものはなく、台北で食べるより観光地ゆえいくらか値が高い、馴染みの味からの選択を迫られた。
客引きのかけ声も観光地ならでは、という感じで、派手、しつこい。しつこい店ほど入りたくなくなるのは、リーも同様らしい。
ようやく決めた食堂で夕餉。覚えているのは「三杯鶏」を食べたことだ。他にも何品か注文したが忘れてしまった。
私は鶏肉に目がなく、その風変わりな名前と美味に興味を持ち、リーにいくつか質問した。それまでにも何度か目にしたことのある料理だった。
のちに台湾で本格的に炊事をするようになってから、三杯鶏がどんな料理の本にも載っている、台湾で大変ポピュラーなおかずだと知り、ちょくちょく自分で作るようになったが、そのレシピはまたの機会に伝授することにしよう。

台北よりは値が張るが、それでも日本に比べるとずっと安い台湾での外食に満足しながら、暮れた温泉町をベビーカーを押してホテルに戻った。
明日は再び北上し、花蓮縣の一大観光地、太魯閣へ向かう。
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2009年03月07日

スヤスヤ午睡のラン、リーと私は急いでspa

おそらく疲れたのだろう、ゆうべランは夜7:40にミルクを飲み、入浴後寝入ってしまうと朝まで起きなかった。今日は移動がなく、同じ宿での宿泊なので、ランをゆっくり休ませられそうだった。
車中よりずっと眠りやすいのか、ランは午後気持ちよさそうに午睡に落ちた。その間に、リーと私は宿泊客にプレゼントされる無料SPAチケットを利用しようとあわてて出かけた。ランの午睡と、無料になる限定時間がうまく重なったのだ。
不要だろうと持参しなかった水着。台北の家には2〜3着ある。もったいないので、適当に選ぼうと1階のショップを物色に行くと、ちょうどsale中のものがある。どうやらSサイズで、若者向けデザインのものばかりが値引きされている。
私は貧弱な体格をしている。リー曰く「未だ発育していない女」><
自覚しているだけに情けない。だが、いいこともある。若者向けデザインを着る度胸さえあれば、格安の値段で結構見栄えのする水着を購入できるのだ。
もちろんそれくらいの度胸はあった。場所も場所、リゾート地だ。

「あった、あった。安く買えたわ。」
と、レモンイエローと水色のツーピース水着を持って、リーと急ぎ足でSPAへ。
誰かが鍵を開けてランをさらって行ったらどうしよう、、、
そんな不安を抱えつつ、充実した施設での休養を楽しんだ。リーは現実的で、ランが起きて、僕たちがいないと泣いて可哀そうだから、早めに帰ろうと言った。
落ち着かず、バタバタ帰り支度をしながら、少しずつ「親」になっていく自分たちを感じていた。
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2009年03月06日

台東・知本、リゾートホテルの部屋で。

花蓮のコテージとは一変して、台東・知本ではカードキー使用の近代的な温泉リゾートホテルに滞在した。大自然の中のコテージもよかったが、そのホテルもそれなりに快適だった。
広いロビー。ベビーカー上でまどろむランと、リーのチェックイン手続きを待つ。チェックインカウンターから20メートルほど離れたところにいると、リーがやって来て言う。
「ベビーベッドを無料で貸せますよ、って。借りた方がいいよね?」
どうやら私たち母子が見えて、ホテルスタッフの方から気を利かして訊ねてくれたらしい。もちろんその方がありがたい。

洋風のツインルームに入り、しばらくすると、簡易なものではなく、立派な可愛いベッドが届けられた。窓際のベッドと窓の間にすっぽり収まる。
実際、5ヶ月のランを連れての旅行は、大人だけのそれとちがい、何かと神経を遣った。リーも私も新米パパママゆえ、常に様々な状況にうまく対処する臨機応変、柔軟、創造的脳を要求された。ベッドが来たら来たで、どうすればランが心地良く過ごせるかあれこれ協議した。
その日もよく晴れて、気温が上がった。台北より南の台東の方がもともと気温は高めのようだが、3月下旬というのに27度あった。リーに似てランは暑がり、汗っかきのようで、気をつけてやらねばならない。旅に出て以来、食欲や排便には変化はなかった。
ベランダに出ると、下を走る道路や、前を流れる川やその向こうの山並が見渡せる。リーは時々そこへ出て煙草をふかした。私も彼が吸っていない時に風にあたりに出る。気持ちいい。
リーの禁煙宣言を聞いたのは香港時代だった。なのに、結局やめられずズルズル、、、、、彼自身とランのためにも、どうか正念入れ直し、煙草を断ってほしい。
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2009年03月05日

台東、チェックイン前のドライブ。

花蓮と台東という台湾東部2縣は、台湾の人が好きな地方であるらしい。台北生まれ都会っ子のリーは都会嫌いで、その当時、どこまで本気かわからないくらい東部移住構想を熱く語っていたものだ。
私も初めてその2縣を訪れてみて、彼の言葉が理解できた。適度に拓けていて、自然も豊かで、町並みにうまく植物の美が活かされ、素敵な場所が多い。もちろん、首都台北よりずっと地価や物価も安い。
「しかし、僕がここでできる仕事がないのが問題だな、、、、、今から教職免許取って先生になるってのもテだなあ。」
と言う。私の父はかつて教師をしていた。それはいい!と一瞬思ったが、すぐ我に返り、思わず口を挟んでいた。
「あなたに先生は向いてないわョ。」
私に対してだけかもしれないが、めーったに、いや、ほぼ皆無に近いほど人をほめないリーの性格では、生徒が可哀そうに思われた。

台東で宿泊するのは知本という温泉地だった。
チェックインする前に、お天気もよいことだし、海岸線をドライブすることになった。花蓮も台東も太平洋に面しており、それを見て走る道路も整備されて、自然とお気に入りの曲がずっとBGMに流れてくるほど、映画みたいに美しい。紺碧だったり淡いブルーだったり、海の色も文字通り絵に描いたように鮮やかだ。
後に、台東出身の友人ができたが、彼女は台東での生活を「うんざりするほど退屈なのよ」と話していた。刺激の多い台北に比べれば確かにそうだろうが、やっぱり台東はいい、とあの海を思い出して、今あらためて思う。
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2009年03月04日

農園牧場には温泉もあり。

広大な敷地内には、レストランや土産物を売る店もあったが、車でいわゆるダウンタウンへ出かけて食事もした。その方が選択肢や、もっと安く食べられる物が多かった。
ランはまだ粉ミルクのみだったので、お腹が空くタイミングだけ気をつけていればよかった。だいたい時間を逆算して熱めにミルクを作って行ったりと、自宅よりは不便だったが、なんとか事無く過ぎた。
母乳はちょうど3ヶ月で終了>< ランには申し訳ないが、出なくなったのだからしようがなく、もっぱら粉ミルクに頼っていた。出生後すぐされた検査で、ランはアレルギー体質である可能性が高いと診断されたため、少し特殊で割高な粉ミルクを飲ませた。
粉ミルクは安いものではなかった。台湾でも生産しているらしいが、欧米からの輸入品がほとんどだった。リーに訊くと、
「うーん、台湾製のもあるけど、外国の有名メーカーのみたいにまだ信用がないからねえ。」
とのことだった。

農園牧場コテージ2日目の午後は、敷地内にある温泉に浸かることにした。そこへも車で行った。とにかく広いのだ。
宿泊客には無料入浴券が一回分贈られたし、リーは温泉好き。面倒くさがる私もつき合うしかなかった。硫黄の温泉で、色々な効能が紹介されており、付近の住民はちょくちょく通っているようだった。
その日の夜は、農園内のレストランで食事することにする。移動ばかりでランが疲れるようで心配だった。まだ5ヶ月、遠出は初めて。家にいる時より睡眠時間は減っている。
少なめに注文したが、案の定、量が多く、満腹になった。
静かな夜。明日は台東だ。
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2009年03月03日

子連れハネムーン、花蓮縣の宿に到着。

パジェロは大きな車だが、ランのベビーカー、紙おむつ、ミルク、哺乳瓶用の煮沸器などなどを積むと隙間なくいっぱいになった。
心臓が衰弱し始めた義父を気遣いながら、私たち3人は3月22日台北を出発、子連れハネムーン初日を迎えた。
宜蘭縣を通り、さらに南下、花蓮縣に向かう。峠越えが多く、車は左右に大きく揺れるせいか、ランは6時前起きで眠いようだがうまく寝つけない。うとうとしてはすぐ起きてしまい、かわいそうだった。

午後3時には花蓮縣の宿に到着。まず3人で横になり、休息をとった。
そこは大きな生命保険会社が経営する、農園と併設されたコテージ形式の宿で、丸太で造られた一軒家に泊まれる。
玄関と反対側の窓は森に面しており、童話に出てくるような風景が見えた。
静かでホッとする部屋がとても気に入ったが、ランの世話に何かとてこずった。慣れた自宅と異なり、お風呂に入れるのもリーと知恵を出し合い、工夫して入れてやらなければならなかったし、暖房がないので保温にも苦心した。

翌日の午前中はランをベビーカーに乗せ、農園をゆっくり散策した。早朝からよく晴れ、気持ちよい陽気になった。気温22度。
動物やら鳥がたくさん飼われ、花が咲き、野菜も栽培されている。牛たちの棲む区域傍には、そのミルクや、それを使ったアイスクリームなどを売る休憩所があり、一服した。
リーはかいがいしくビデオをまわし、清々しい風吹き抜ける農園やランを撮り続けた。
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2009年03月02日

マイカーハネムーン構想、進む。

義父が咳をし始めて、具合が悪いため、中規模程度の総合病院で受診したのはその4年ほど前のことだった。風邪と診断され、薬を出されたが、一向によくならない。もう効くだろう、少しは治まったような気がする、という期間を半年ほど見送って、やはりおかしいということで大きな病院で検査を受けると、ガンとわかったのだ。
リーはあの半年を悔やむ。のちに私が体調を崩し、自宅から遠くなく個人医院より大きいその病院に行ってみようか相談すると、彼は義父のことを持ち出し、NOと言うのはその所以だった。
ガンを発見した病院、すなわち義父が入院しているのがそこなのだが、余命半年と診断されたものの、それは良い方に裏切って義父はいわば病と共存していた。なんとかもっと元気でいたい、いてもらいたいと始めた新薬が合わなかったのである。

義父の容貌の変わりようを、もしかしたらリーより私の方が悲観的に見ていたのかもしれない。マイカーハネムーン構想にリーは積極的で義父の「行っておいで」をそのまま受け取り、道路地図を食い入るように見てプランを立て、それがほぼ完成すると、ネットと電話を使って宿の予約をした。今どき、だいたいがホームページを持っており、そこを開いてはリーは私に「ここはどう?」などと訊いた。私は何を訊かれても、はいはい、と同意した。リーは台湾東部の花蓮縣と台東縣行きと決め、宿はかなりグレードの高いところを選んだ。
私にとっては未踏の地だったし、リーも私同様倹約家だったので、彼の判断に任せておけばよいと思っていた。

こうしてランを連れてのマイカーハネムーンは、3月下旬、5泊6日の旅程で決行されることになった。
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2009年03月01日

闘病する義父を取り巻く人々。

義父の看病や世話は、義母と叔母(義母の実妹)がしていたが、入院が長引いていたその頃には、私がまだ出会ったことがない人も台北市内湖にある病院に詰める機会が増えていた。台北縣中和市から内湖は、いわば台北市を縦断しなければならない格好で、特に渋滞がひどい時間帯などにはとても遠く感じる距離だったので、通うだけでも骨が折れた。
義父の世話係だけに限らず、リー家には血縁関係がなくても、親戚同然のつき合いをしている人たちが何人かいた。たとえば、義父と親しかった友人の娘とか、義父が結婚に至る出会いを取り持った夫婦とか、義母の遠い親戚にあたる家の息子で、家の事情で学生の頃しばらくリーたちと同居していた青年とか、である。
それは、日本人の私からすると、感心するほど厚い友誼に満ちたものにしばしば映った。結婚や仕事の都合で、その種の知人たちが香港やアメリカにもいるのだが、時々台湾に里帰りする際には義父母の家に数週間居候することは珍しくなかった。台北に息子家族がいるが、義父母宅の方が広いし、かえって気兼ねしないで済むから、という理由が成り立ってしまうのである。
ふつう日本人なら、我慢してでもまず家族のいるところで寝泊りするだろう。ましてや数日だけではないのだ。長い時は一ヶ月ほど滞在する人もいる。
そこが中国人のすばらしい気質のひとつかもしれないが、とにかく是非は問わず、私には新鮮にさえ感じるナラワシだった。

義父はそれらの女性たちに見守られ、そのうち2人部屋から6人の大部屋に移され、治療を受けていた。
私ももっと看病に行くべきではないかと悩んだが、ランの世話があるため、もとからあてにされていないようだった。
時々見舞いに行くリーは、大部屋への移動は医者が事実上匙を投げたことの現れだと言った。
新薬の副作用はどんどん義父の身体を蝕み、腫れや皮膚のただれは彼の人相をも少し変えるほどだった。
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2009年02月28日

義父の病状に憂う春。

入籍前に香港で妊娠していることを知り、悪阻がひどかったり、台湾で婚姻届をぬかりなく提出するためにも日本へ帰国したり、休養が必要だったりで、ハネムーンどころではなかった。
だが、リーは、ランが5ヶ月くらいになったら3人で愛車パジェロに乗り、旅行したいと考えていたようだ。
私には気になることが二つあったので、彼に訊いてみた。
「ランはどうするの?こんな小さいのに、旅行できる?お義母さんに預けるの?」
「連れて行くよ。5ヶ月くらいならもう大丈夫だよ。」
そうなのか。ならよかった。ランを預けるのは気が進まない。
「お義父さんの具合、悪いでしょう。こんな時に旅行なんて行ってられる?」
「この前見舞いに行った時、旅行の事話したら、行っておいでって言ってくれたんだ。」
義父の性格からすれば、行くな、と言うのは考え難いが、まあそう言ってくれるのならいいだろう。

義父は罹患率の低い特殊なガンだった。台湾で二つの指に入る総合病院のうちの一つと自宅での療養を繰り返していた。ガンとわかった時点で告げられた余命期間を大幅に更新していたが、治癒と長命を願う家族と本人の思いは強く、その数ヶ月前より新薬の服用を始めた。
が、賭けは裏目に出た。義父の病状は改善せず、身体がむくんだり、皮膚が赤らんだり、痒くなったりする上、湿疹が乾き、ボロボロと皮が剥け落ちるようになっていた。かねてからあった咳や倦怠感に加え
厄介な新薬の副作用が深刻な状況になっていたのだ。
心地良い日和を心の底から喜べない春だった。
posted by マダム スン at 05:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 母になって | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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