2009年02月12日

夜中の「ポッ」は破水の音。

臍帯血バンクにへその緒から採取した血液を預けることは、リーが友人から聞き、決めたことだった。子供が二十歳になるまで保管してもらえる。彼はその会社に連絡して、数時間後にはまだ温かいそれを受け取りに出向いた担当者に手渡す段取りを組んでいた。
陳医師と一人の看護士と私だけが分娩室に残った。産後の処置が必要だった。
なかでも傷口の縫合は思い出してもコワい。麻酔は施されているものの、かなり痛かった。私は依然眼鏡などできず、辺りはぼんやりとしか見えないのだが、足元の陳医師が針と糸を持ち、縫っている様子がわかる。相当長い糸らしく、一回一回医師がびゅーんと右手を上の方に上げて引っ張っている。チクリッ。続いて引っ張られる衝撃が傷口にひびき、何とも気持ち悪い。痛い。
なのに、陳医師はニコニコと私の踏んばりを讃え、「えーっと、これ、日本語で何て言うんだっけ?」と訊いたりしながら、次々と私に話しかけてくる。私は、文字通り歯を食いしばって応えるしかなかった。
ようやく一連の処置が終わり、5階の病室に移されたのが7時過ぎ。
リーは会社に電話して、規定通り3日間の「産休」を許された。
10月30日。晴れ。前日夜のロングウォークが効いたのか、予定日より10日早く、シュンランは破水して誕生した。
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2009年02月11日

5:44am,長女誕生。

陳医師、2人の看護士、そして出入口扉側に座ったリーの励ましと、力み方指導を仰ぎつつ、私は無我夢中でがんばった。何が何だかわからなかったのは、眼鏡もコンタクトレンズも外して周囲の状況がはっきり見えないせいでもあっただろう。
だが、時折我に返ったように意識が覚醒する時がある。すると、右隣りにいるリーが眼鏡をかけ、その頭に義母の洗面所から借りでもしたのかと思しきヘアキャップを被る姿が悪い夢のように映り、吹き出しそうになった。

何分ほど経ったのだろう。永遠に思えた痛みだが、「もう少し、がんばれ!」という陳医師の声で再び意識がはっきりした時には、胎児が下腹部まで下りて来ているのがわかり、グワーッと力んだらスウーッと身体が軽くなった。
生まれた。
だが、泣かない。
看護士がお尻でも叩いているようだ。そして、ようやく「あ〜ん、、、」と泣いた。弱々しい声。本当にこの子は大丈夫なのだろうかとオロオロしていると、看護士が赤紫色をした赤ちゃんを抱いて、私の顔のところまで見せに来てくれた。予想通り、女の子だ。
「大丈夫。これから身体を洗ってあげて、保育器に入れますからね。」
誕生後、すぐ量った体重は2370g。保育器に入れるのは、陳医師の判断で決められた。
よかった。産めた。まだぼんやりとしか見えないリーもたいそうホッとし、感激している様子だった。そして、陳医師に採ってもらった臍帯血バンクに預ける血液を受け取り、退室した。
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2009年02月10日

限界!分娩室へ。

義母到着。
挨拶もまともにできず、私はのたうち回る。ドラマなどで陣痛に苦しむ様子を何度も見たが、自分はあれの上を行く気がする。情けないが仕方なかった。
「平気、平気。お産とはこういんもんよ。」
出産経験3回。さすがに義母は肝が太い。
「親父は?」
リーが義父を案じて訊いている。
「朝7時半頃にはいつも通りあの子が来てくれるから大丈夫よ。」
あの子とは義母の妹のことだ。義父が病を患って以来、家事手伝いのために義母が呼び、報酬を渡していた。善良で働き者のデキた女性だった。
依然、私は激痛にバタンバタンしていた。リーと義母がなだめるように押さえつける。そして、とうとう限界に思えてきた。
しばし、何と言おうか迷ったが、リーでも義母にでもなく、直接看護士に聞こえるようにと大声で、
「もう出ますーっ!」
と叫んでいた。
数人の看護士がすばやくやって来て、ホロつきのそのベッドを押し、私を隣りの分娩室に運び入れた。
出産には必ず立ち会うと話していたリーは看護士からヘアキャップを渡され、ともに入室した。
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2009年02月09日

出産間近、激痛に暴れる

陣痛と言えば、10時間続いただの、それが始まって翌日ようやく生まれただのと聞いたことがあり、「長い」イメージがあった。
それで、私も痛みで朦朧とする頭で「今日中に生まれるのかな、明日かなあ」と考えていたところだったので、看護士の言葉にひどく驚いた。
リーがしばらく席を外した。戻って来ると、彼は、
「お袋に連絡しといた。今からこっちに来るって。」
と言う。
その頃、義父が進み行く病気のため、入退院をくり返しており、義母はその看病に忙しかったが、比較的義父が自宅で安定していたので出て来られるとのことだった。
看護士の子宮口チェックはしつこいほど続く。リーはそばで苦痛に暴れる私を押さえつけたり、看護士に入院手続きなど今後のことを訊ねたりしている。彼らの話し声は耳に入るが、内容に注意を注ぐ余裕など微塵もなく、私はかつて経験したことがない激痛に気が狂いそうになる。なんと表現すればよいのだろう、、、、、
陳医師が到着し、私のところへ激励に来てくれた。
そして、看護士が、我慢できなくなったら呼んでね、と言う。
「我慢できなくなるってどういうレベルを言うんですか?」
と私は力を振り絞って訊く。
「うーん、、、、、、 大便を我慢しきれなくなる感じね。」
看護士は真面目にそう答えた。
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2009年02月08日

産婦人科へ急げ!

立っているのも苦痛なほどにお腹も腰もズキズキ痛んだ。
座席位置の高い黒のパジェロに這い上がり、後部座席からリーの運転や道路状況を見る私は不安でたまらなかった。パジェロはリー憧れの車で、結婚し、子供も生まれるというのでようやくその春手に入れたばかりの愛車だった。

珂産婦人科までは渋滞しなければ車で約10分ほど。その夜も、近くてよかったあ、と大いに実感した。思えば、ついさっき来たばかりの馴染みある界隈に戻ったのだ。
リーと私は正門向かって右横の通用口みたいな小さな扉から中に入り、エレベーターで3階へ上がる。さすがに産婦人科、中は明々として夜勤で詰めている看護士が数人いた。
そのうちの一人に、私はいわゆる「お産着」みたいな薄手のガウンのようなものに着替えるよう言われて、痛みをこらえ身支度した。
そして、分娩室にいちばん近いベッドに横になり、リーとともに看護士の指示を仰いだ。ベッド右横には何かの値を計り、示すテレビのような装置が持って来られ、看護士は数分おきにやって来てはゴム手袋をキューキューとはめ、子宮口がどれくらい開いているかチェックした。最初はこのチェックが痛くて閉口したが、お腹や腰の痛みがさらに増したせいか、だんだん耐えられるようになった。
「あの、陳医師は、、、、」
「もう連絡しました。もうすぐ来ますよ。」
ホッ。
「あの、、、だいたいいつ頃生まれますか?」
これはまぎれもなく陣痛だったのだ。
「さあ、5時頃かなあ」
は? 5時? 
看護士が言う5時は、もう数時間後のことだった。
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2009年02月07日

これが陣痛?

私は、すぐには覚めない頭でベッドに横たわっていた。リビングからは灯りが洩れ、リーがまだテレビを見ていることがわかる。時計を見ると午前1時過ぎ。お腹には激痛が走る。あまり経験したことがない類いの痛みで、どう対処すべきか考えた。下痢をしそうにもあったので、隣りのトイレにフラフラと駆け込む。
だが、下痢はせず、痛みだけが残る。そして、オリモノのようなものが出て、拭くとピンク色をしている。? もしかして、これが「おしるし」というもの?意識がはっきりし、だんだん混乱して来る。
私は痛いお腹を抱えながらリーのところへ行き、事情を説明する。
「これ、お産の兆候じゃない?おしるしっていうやつ、本で読んだことあるの。すごくお腹痛いし、、、、、ねえ、病院行った方がいいんじゃないかなあ。」
彼も困惑した表情で、
「でも、予定日までまだだいぶあるよ。」
と言いつつ、妊娠出産に関する本を出し、読み始めた。私も日本語の冊子を開き、読む。夜中に2人で何をやってるんだか、、、、、
そうこういしているうちにも、私の腹痛は勢いを増し、腰まで痛み出した。リーは本から目を離し、珂産婦人科へ電話をかける。
「痛みが10分おきくらいになったら来なさい、だって。」
は? 10分おき? そんな間隔などなかった。
「そんな間隔あるのかどうかわかんないよ、ずっと痛いもん、すっごく痛いもん。」
じゃあ病院へ行こう、ということになり、私はお腹と腰の激痛に耐えつつ簡単に上着を羽織り、リーは私の入院グッズ一式バッグを抱え、地下駐車場へのエレベーターに乗った。
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2009年02月06日

歩き疲れた夜

「歩いてもすぐだよ。」というリーの言葉を信じ、手を引かれる格好でトコトコ歩いた。
夜市に着くと、昼間のように明るく、週末でもないのに夕飯やショッピングに集まる人の波、人の山。私も1〜2度来たことがある夜市で、その気もないのにあまりの安さについつい洋服を見たくなる。
リーには馴染み深い場所らしく、目当ての美味めがけて一直線だった。「台湾小吃」がいっぱいなのだ。これは、台湾に古くからある定番メニューで、牡蠣入り卵焼き、包子、大腸麺線、臭豆腐などなど、屋台が軒を連ねていた。

空腹だったリーが満足するのを待ち、また車まで帰らねばならないと思うと泣きたくなった。私が速く歩けないせいもあるだろうが、往復一時間はかかった。妊娠中は一貫して極度に疲れやすく、夜は一日の疲れがどっとたまるのでふだんならお休みモードに入っている時間でもあった。
帰宅後シャワーを浴び、もらって来た塗り薬を無残にひび割れたお腹にたっぷりと塗る。見た目はとにかく、オソロシイ痒みにだけでも即効を願った。
そして、いつもより遅く11時過ぎにようやく就寝。くたくただった。リーは私と逆の夜型人間で、1時や2時まで起きていることが常だった。
疲れてすぐ眠りに落ちた私だったが、お腹に衝撃を受け、目が覚める。膨らんだお腹から「ポッ」というような音が聞こえたように感じ、ほどなくして強烈な痛みがやって来た。
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2009年02月05日

皮膚科受診

多湿な台湾も、一年にしばらくは空気がカラッと乾いて「台湾じゃないみたい」な爽やかなお天気に恵まれる。それは春と秋のごく短い時間で、とても気持ちがよい。
そのせいかもしれないし、まったく関係ないかもしれないが、ポンポンに膨らんだ私のお腹の皮膚がひび割れて、乾燥し、我慢しがたいほど痒くなってきた。痒みは尋常でなく、お腹だけ模様入りになり、見た目も異様だった。
リーが見かねて、皮膚科へ行った方がいいと言う。だんだん私も、放っておいたらそのうち治る、とのんきではいられないほどつらくなってきたため、夕方リーの会社が引けるのを待ち、夕方2人で出かけた。珂産婦人科の数軒隣りに、いつ見ても患者であふれている評判の良い皮膚科があったことを思い出し、そこを初受診することにする。

その日も案の定、その皮膚科はにぎわっていた。よく見ると、3名の医師が診察にあたっている。受付女史に訊くと、第三診察室の女医さんが一番早く診てもらえるということだった。
患者たちはそれぞれ主治医や、目当ての医師がいるようで、いちばん奥の診察室に陣取る女医はとても若く、抱える患者もまだ少ないようだった。
私とリーはその女医を選び、思いのほか早く診察を受けることができた。「予定日はいつ?」などと、うら若き女医はやさしい笑顔で話しかけてくる。私のお腹の皮膚は見た感じ重症だが、病的には心配ないと、塗り薬を処方してくれた。
皮膚科を出るとすっかり夜になっており、「この近くに夜市が立つから、歩いて何か食べに行こう」というリーの提案に促され、私は歩きにくさに耐えつつ、彼に従った。
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2009年02月04日

悲しい時はこの曲

不思議と外国で出産することには不安はなかった。
日本の知人友人たちに、里帰り出産しないのかとよく訊かれたが、リーが承知しないだろうし、後先の移動のことなどを考えるとその気も萎えた。中国語で苦労することは当時すでに少なくなっていたし、珂産婦人科や主治医の陳医師を信頼していたので、逆に他の医師に子供を取り出してもらう方が怖い気がした。
陳医師は院長に次ぐ地位にあるベテラン医師で、終始ニコニコ明るく、時々「これ、日本語で何て言うんだっけ?」と質問してくる人だった。定期検診後のリーの「指導」にビクビクするなか、陳医師の朗らかな声と笑顔は救いであった。
定期検診は毎回電話予約できて、長い待ち時間にうんざりすることはなかったが、待合室で座っていると、診察室から陳医師が飛び出してきて、受付の前を小走りに横切りエレベーターに飛び乗り、なかなか戻って来ないことはあった。お産だ。台湾は日本ほど産婦人科医や小児科医不足が深刻ではないが、夜も昼もない産婦人科医の任務が重いことは容易に見て取れた。

小さいとさんざん指摘されたお腹もそれなりに膨らみ、足も象のそれのように腫れ、靴が履きにくくなったり、眠りも浅くなってきた。
リーとの諍いはそれでも起こり、夜マンションを飛び出したこともあった。どこかへ行きたい、日本へ帰りたい。
でも、身体の自由が利かず、せいぜい思い切り泣いて、その場をしのぐことくらいしかできなかった。
「うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川、、、、、、」
潤んだ目で星のない台北の空を見上げ、この曲をよく口ずさんだ。
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2009年02月03日

高くなる空

秋が来た、と実感したのは、リーと外食に出たある週末の昼だった。
和食が食べたくなったとこぼすと、日本でも名の知れた居酒屋チェーン店が台湾にも進出しており、その支店に連れて行ってくれた日だった。
日本食は高いからやめとく、とやっぱり断わったが、彼は、めったに行かないのだし、そこは高くないから行ってみようと言う。
結果は、ほとんど「もどき」止まりの、日本人には子供だましに遭ったようなお粗末さだったが、「もう来なくてよい」と知るのも収穫だと割り切った。
その店を出て、リーと並んで歩いている時だった。すでに灼熱の太陽は隠居し、日差しが心地好く感じられた。
そして、何かこれまでとちがう。ちがう、、、、、どこかちがう、、
頭をひねりながら歩いていると、あっ! 空が高くなってる!と気づいた。本当に景色が根こそぎ変わっていた。南国台湾でも、秋には空が高くなるのだと、その時初めて思った。

出産に向けての身体の変化や諸々の準備を説明したガイドブックを何度も読んだ。初めての出産で不安だったが、お腹に子供が宿った以上、産むしかない。なんとかなるさ、と腹はくくっていた。
そのガイドブックによると、そろそろ入院準備を整えてよい時期だった。チェックリストに従って、私は赤ちゃんと自分にまず必要になる衣服などを揃えて、「その時これさえ持ち出せば大丈夫バッグ」をこしらえた。
妊娠前の体重から約10kg増。胎児は依然小さめで、リーも義母も食べよ太れとうるさかった。日本では、妊婦の体重増加を厳しく管理し、太ればいいもんでもない、という考えが浸透してきているが、台湾はその点原始的信仰とも言える体重重視主義が根強くあった。
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2009年02月02日

ラブラブ新婚期よ、何処へ、、、、、

よく考えてみれば、当時はまだいわゆる「新婚ホヤホヤ」期にあったわけだが、短い香港時代に漂っていたようなアツアツ感というかラブラブ感はすでに微塵もなく、過去のものとなっていたように思う。
悪阻の仕業で匂いに過敏になり、煙草や汗、男性独特のそれが混じったリーの体臭が我慢しがたく、接近するのが苦痛になっていたし、胎児のことや私の諸々の言動で彼に文句を言われることが珍しくなくなってきていた。
日本と台湾それぞれ異なったところで生まれ育ち、私はひとりっこ、彼は姉と弟の3人きょうだいで、家族の結束も強く、何かというと彼は家族単位で動くことを考える。大人数でいるのが苦手な私は、うちだけでどこかへ出かけたい時もあるのだが、リーはまず誰か他に一緒に行かないか問うてみる人だったし、土日と週末2日間ともに実家へ帰り、夕食を共にしたがった。
私がそれらを渋ると、彼はひどく不機嫌になった。休日2日間のうち一日くらい「実家以外」の選択をしてもいいではないかと思うのだが、「君が帰りたくなければ強制はしないよ。」と明らかに不服そうに言われ、協調性がないと咎められた。
私も観念し、素直にリーに従えばいいものができず、口論は日常茶飯事化。言い出したら止まらず、口が達者なリーとは衝突を避けるのが難しく、ケンカのたびに私は義母に電話したり、妊婦の足で20分ほどの義母宅を訪ね、話を聞いてもらった。
リーは家族に対して気性が荒かった。
リーのそういう性質を義母もよく知り、「あの子は口は悪いけど、悪気なんてないのよ。適当に聞き流してりゃいいの。」などと理解し、なだめてくれるのがありがたかった。
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2009年02月01日

アボガドジュースの呪縛

お腹の子が標準より大き目くらいで成長していれば事なきを得たことではあった。
私自身や日本の両親などは、小さ目でも生まれてから元気で大きくなれば十分、と考えたものだ。
だが、リーはサイズにとてもこだわり、知人などから聞いてきた「胎児を速く大きくする食べ物」を私に勧めた。なかでもいちばん印象に残っているのは、アボガドジュースである。
種類が日本で見るのと異なるのだろう、台湾のは鮮やかな深緑色をしていて、大人の手のひらから優にはみ出すビッグアボガド。それと、牛乳やら砂糖を加え、ミキサーにかけて作るらしい。味も食感もドロッと濃厚だった。
これは、当時これまた妊娠中だった近所に住むリーの従妹がその母親から飲まされていたジュースで、かつて飲んでいた妊婦も胎児も立派に育ったという伝説があった。その従妹はそれを嫌ったが、何でも母親に強制的に飲まされるらしく、そのおかげか、彼女もお腹の子もふくよかだった。
私もアボガドジュースが苦手であった。味は悪くないのだが、たくさん飲むのは苦しかった。その叔母が手作りのそれを2ℓのペットボトルに詰めて持って来てくれたり、リー自らが腕まくりして作るのだから泣きたくなった。
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2009年01月31日

ユーウツな定期検診

第一子妊娠中だった台北の夏は、記録的に暑かった。
案の定、9月に入っても空は知らん顔で、灼けるような夏を供給し続けていた。
珂産婦人科での定期検診は2週間から1週間に一度となり、依然リーが予約時間に合わせて車で送迎してくれた。
珂産婦人科へはバスで行ける。乗り換えなしで約20分ほどだろうか。その先の橋を渡れば台北市内に入る辺りで、周辺はにぎやかなところに位置していた。
しかし、私は公共交通機関を利用するのが怖かった。悪阻のため常につらかったし、台湾のいわゆる市バスは、日本のそれを思い描いていては面食らう。運転手によるのだが、ジェットコースターに乗り合わせたかと思わせるシロモノに当たる可能性があるのだ。バスには時刻表がなく、運転手は道路状況や客足如何でどうにでも走れた。道路が傷んでいて、ひどく揺れる場所もあったし、リーもバスには乗るなと釘を刺していた。
タクシーに不自由することはなかったが、タクシーで行くなら僕が行く、とリーは言うし、検診はとにかく「保護者同伴」だった。
これはありがたいことだったが、ユーウツの源でもあった。一緒に行きたい、ということは、リーも胎児の成長情況に至極関心があるということであり、検診結果を受けて、あれやこれやと「指導」やら「警告」が言い渡されるのだ。それらは医師の言葉より重く、厳しく、事細かであった。
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2009年01月30日

いろんな自分

安静に徹したことが功を奏したのか、しかるべき定位置から下りて来ていたお腹の子がまた上がって来て、早産の危機は8月末に去った。
羊水検査の試練をともにくぐり抜けて来た母子のつながりは、いっそう強くなったように感じられた。
私は気分が比較的良い時に、フエルトやタオルを用いてよだれかけや動物のマスコットなどを縫ったり、義母に教わって乳児用襟巻きなどを編んだ。よだれかけにはそれぞれちがうデザインの刺繍をしたりして楽しんだ。
思えば、子供を産んでもいいなという気になってきたのは30を過ぎてからで、仕事や世界のあちこちを旅するのに忙しかった20代には出産なんて考えられなかった。幼子を連れている女性が気の毒にさえ見え私に子供を育てる能力が備わっているとも、どうしても思えなかった。
だから、自分の変わり様が意外で、気恥ずかしさすらあったが、絶望の淵に立ち、毎日泣きに教会へ通った一時期を思うと、神様はこんな私を信じ、尊いいのちを預けてくれたことに感謝感激であった。
毎日何度もお腹の子に話しかけ、安眠を妨げられても、元気にお腹を蹴られると安心した。安定期を過ぎても流産の可能性は0ではないし
出産時も油断は禁物だ。
買物に出かけると、見るからに重そうな買物袋を提げていたり、大きなお腹で上の子らしい幼児を抱き上げる妊婦さんを見かけ、えっ?そんなことして大丈夫なの?とヒヤヒヤしたものだ。私は道を歩く時ものっそりのっそり転ばないよう注意していたが、妊娠中も登山やバスケットボールなどの趣味を続けていた友人がいたわよ、という話も聞いたので、どこまでが安全で何が危険なのか定かでない。
神経質に思い悩む自分と、万事なるようにしかならないのだと開き直る自分の二役を演じつつ、妊娠後期に突入した。
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2009年01月29日

結果はシロ、だが、、、、、

検査結果が出るまで、2週間待たなくてはならなかった。一日一日が憂鬱で、不安だった。それでなくても情緒が乱れやすくなっていたのに追い討ちをかけられた格好だった。
自問自答が終始続いた。もし、本当に異常がわかればどうする?
何度も問うた。そして、答えは常に「それでも産みたい」だった。いや、あきらめる気には到底ならなかった。それに、確かなことは、健康な子でなくても、この子への愛情は変わらぬどころか、さらに増すようにさえ感じられたことだった。
自分の本意、本心さえわかれば、腹は据わった。いざとなったら、それなりの手段で抵抗し、意志を貫く決意をした。

日本で言う夏が一年の半分ほどを占める台湾でも、やはり7〜8月の暑さは格別で、私は朦朧としながら毎日を送った。悪阻は休みなく身体にのしかかり、私の行動を制約する。
また、私は生まれつき骨細というか華奢(きゃしゃ)な体型で、太りにくい体質なのだが、妊娠中よく食べてるなあ、と思うものの、お腹の子が平均より小さいと定期検診のたびに指摘されるのもプレッシャーのひとつだった。小さめでも、元気に育っているならいいや、と私は思う。だが、リーが許さないのである。「君がもっと食べないからだ。」、「毎日いったい何食べてるんだ。」、「もっと00を食べろ。いいね。」などと厳しかった。
あまりにリーが、私がまったく努力していないように揶揄するのがたまらなくなり反論、そして衝突することがだんだん増えて行った。
緊張極まりなかった羊水検査結果はシロ、異常なしで一件落着となったが、リーとの諍い(いさかい)は減るどころか、恒常化の兆しを見せていた。
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2009年01月28日

針、刺さる。

日本で羊水検査が一般化していない要因の一つに、生命の選別につながるとの倫理的問題がある。それはそうだろう。私が羊水検査にひどい嫌悪感を抱くことは何ら特別でも、わがままでもないはずだ。
しかし、リーをはじめ、主治医や義母らの見解は、先天性疾患を持った子を順番から言えば早くこの世を去る両親が一生面倒を見てやることはできず、親にも子にとっても不幸を招く、というものだった。
私も、リー側も、己の主張こそ筋が通ったものとして引かなかった。

結局、私は羊水検査の同意書にサインし、強制的に受けされられることになる。
検査の模様は、超音波によって映し出されて見ていることができた。すでにはっきり頭、胴体、手足が出来上がった胎児に絶対針が刺さらないよう、医師は細心の注意を払う。画面から、入って来た針を胎児がじっと見つめているように見える。私はいたたまれなくなる。
お腹に刺さった針は痛いし、子供のことが心配だし、腹は立つしで、さんざんな一日だった。
羊水検査は妊娠15週目以降からしかできない。ということは、もう胎動が始まっている。女性なら、出産経験がない人でも想像しやすいのではないかと思うが、自分のお腹で元気に動き、名実ともに母子の結びつきができてから、一つの検査結果でクロと出たから産むな、なんて本当に残酷この上ない。
日本にいたら遭わずにすんだ災難に、私は意気消沈した。
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2009年01月27日

羊水検査の危機

妊娠すると、ホルモンバランスの変化でイライラしやすくなったり、憂鬱になったりすると聞いていたが、私も例に漏れず、情緒不安定だった。お腹の子がとても愛しく、大切この上ないのに、ふと生きるのが嫌になったりするのはしょっちゅうだったし、自分でもびっくりするほど些細なことでモーレツに腹が立ったりした。
そんな状態だったので、早産の危険を指摘されて以来、さらに神経質になった。胎児は平均値からすると小さく、それでなくともできるだけ長くお腹の中にとどまった方がよいとされていたので、早産なんてとんでもなかった。

話は少し前後するが、こんなことがあった。羊水検査騒動だ。
羊水検査とは、羊水中の物質や胎児細胞を調べるもので、胎児細胞の情報より遺伝性疾患の有無を判定することができる。だいたい妊娠15週頃から検査可能となる。
日本では一般にほとんど話題にものぼらず、受ける人も少ない。しかし、台湾では34歳以上の妊婦は受けることを強いられる。まず、自分の担当医が勧めるし、私の場合はリーもとても積極的だった。
身ごもっている女性自身の反応は様々だろう。受けて当然、と思う人、拒否したいと思う人、どちらもいるはずだ。実際、リーの友人の奥さんは29か30歳で妊娠した時に希望して羊水検査を受けたという。
私は、もちろん後者に属した。嫌だ。絶対嫌だった。
まず、羊水検査は1/200〜1/300の流産のリスクを伴う。注射針を刺し、羊水を吸引するからだろう。受けたくない検査で流産なんてハナシにならない。
それと、ではもし遺伝性疾患などの異常が確認されたらどうするのだ。医師やリーや社会一般の見解は、異常があるなら産むな、というものだ。そんなこと、受け入れられるはずなかった。
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2009年01月26日

専業妊婦と早産の兆候

夫婦が同じ職場で働くことは、台湾ではよくあることである。日本なら基本的に許可されなかったり、本人達が望まないのが普通に思うが、彼らはあまり気にしないようだ。
しかし、リーはあれこれあることないこと外野がうるさく言うのが疎ましく、予防線を張った。私の悪阻もしょっぱなからひどかったこともあり、家にいることを勧めた。

あとになって、そうしておいてよかったと何度も思った。嫌な予感は当たり、悪阻は6ヶ月になっても7ヶ月を過ぎても身体に居座った。
朝起き、活動できるようにはなったが、必ず昼寝が必要になった。以前、リーと同じ職場にいた時、妊娠中の同僚がお昼の休憩時間にデスクに突っ伏したりして休んでいたが、私は座っているだけではダメで、横になって1〜3時間は午睡しないとつらくて仕方なかった。
それ以外の時間も常に具合が悪く、仕事に行くなんて考えただけでゾッとした。

そうして安静な生活をしていたのに、7ヶ月目の8月、早産の兆候があると診断。お腹の調子がいつもとちがうなあと思いながら定期検診に行った時指摘され、その後2週間ほど、私はほとんど自宅にこもって不安な毎日を送った。
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2009年01月25日

産婦人科を決める

どの産婦人科で出産するかは、リーが決めた。同僚や同級生たちの評判、意見、自宅からの距離などを総合、分析した結果、珂産婦人科という車で10分程度の病院を彼は選んだ。台北市内には入らない、同じ台北縣の隣りの市にあった。私はそれほどこだわりはなかったが、行ってみるとそこがとても気に入り、今でも知人に薦めている。
まず、総合病院ではなく、産科婦人科専門なのがよかった。風邪や薬に関わるのが厄介になる妊娠期にあって、極力あれこれと疾患を持つ人との接触は持たない方が賢明である。
また、そこは、市立病院みたいに大規模でもなく、小さな個人の診所でもない中規模の病院で、医師が5名ほどおり、常時2人が診察に当たっていた。
建物は11階建て、清潔で、便利な場所にあった。
それから、初めて知ったが、台湾には産褥期をとても重視する風習があり、産後、専門の施設に入ってしばらく休養できるケアセンターのようなものがあるのだが、ちょうど珂産婦人科の上階にそれがあったのだ。
私はそこへ2週間に一度、定期検診に通った。尿、血圧、体重などを検査し、超音波も欠かさなかった。定期検診料は日本円で約520円。いわゆる健康保険証を提示し、受付の際支払った。
もし、薬を処方された場合でも、その520円でよかった。台湾の医療費はとても安い。そして、土曜日に終日診察するのはあたり前で、開院時間もほとんどが夜8時か9時頃まで。至極便利、安心なのである。
posted by マダム スン at 05:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾の家庭に嫁ぐ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

新婚生活スタート

妊娠5ヶ月目にして台北に戻り、これで事実上ようやくリーとの新婚生活がスタートした感じである。
両家の親が認め、一緒に暮らすことは許され、そのうち入籍し、まず香港で一年ほどは2人だけの暮らしを満喫し、1〜2年後に妊娠出産、との計画は見事砕かれ、早々に台湾で妊婦道をひた走ることになった。
日本滞在時、私に午前中起きることを許さなかった悪阻は徐々に治まったが、胃をわし掴みにするような吐き気は頑固に終日続き、何かと動くのが億劫でたまらなかった。
相変わらず味覚はふだんと異なり、匂いにも敏感になり、本来大好きな毎晩のシャワーが苦痛で、誰か代わりに浴びてくれないものかと毎日考えたものだ。
匂いというのも、食べ物のそれに限らない。卑近なものを挙げれば、こともあろうにリーの汗や頭髪、煙草の匂いがテキメンにダメだった。近寄られるとウッと来るのである。
匂いのみならず、体調がすぐれない時は誰でもイライラしたり、短気になりがちなのだろうが、やはり「あなたの匂いがダメなの、近寄らないで」とは言えず、難儀した。息を止めて、ぐっと我慢。そんなことはしょっちゅうで、悪阻とは言え、あれほど愛しかったリーや彼が放つあらゆる匂いを嫌悪する自分に、私は大いに戸惑った。
posted by マダム スン at 05:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾の家庭に嫁ぐ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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