2008年12月07日

教会に帰りて想う

今の中国語に近いほど話せた英語力の低下にあらためてがっかりはしたが、もうひとつの居場所ができ、英会話学校は精神的にはある程度支えになった。割安な授業料一年分一括払いで、その期間中はどこの教室のどのレッスンにも参加可能で便利なのもうれしかった。
それから、高校卒業後疎遠になっていた教会へも、引き続き足繁く通った。何姐に勧められ、ミサや聖書講読の会にも時間が許す限り顔を出すようになった。おかげで、学校や会社ではなかなか知り合う機会が少ない、自分より年上の、教養や良識もある人たちと接する幸運にも恵まれた。
私は長く、教会を離れていたことを悔やんだ。その間、2度もカトリックの総本山であるヴァチカンを訪れ、サンピエトロ寺院やヴァチカン美術館の息を呑む天井画に感動したにもかかわらず、肝心な教義にもっと近づこうとはしなかったことに懺悔の念すら湧いた。
だが、それでも洗礼を受けようとは思わなかった。のちに仏教に関する書物を読み漁り、般若心経に心奪われたこともあったが、完全に仏教思想を芯に置き、生きて行こうとはまだ思えないのと似ていた。
なぜだろう。きっと頑固なのだ。いや、疑い深いのか。
おそらく、何かひとつ特定の思想や宗教に属すことを潔しとしないせいだ。それは書くことを愛するところからも来ている。書く者として、常に偏らず、自由かつ広い器に身を置きたいという、ひよっ子ながらのこだわりでもあった。
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2008年12月06日

英会話学校に通う

思ってもみなかった展開になった。2度目の留学を果たし、順調に仕事に恵まれ、中国語の日常会話ではほとんど不自由を感じなくなっていたというのに、早くも次なる試練、それも絶望の語の意味を初めて思い知ったような哀しみに文字通り打ちひしがれた。
時々起き上がれないほどに沈みながらも、私は休まず授業に出て、テストでは良い点を採り、働き、収入を得て、生計を立てた。
学校も会社も完全週休二日制だったが、そのうち私は休日が嫌いになった。どこへも行かなくてよい、という自由をかえって寂しく感じた。どこに身を置いても根本的な解決に至らず、容赦なく涙はこぼれたが、それなら勝手の知れた場所で、やるべきことが待っている方が気が紛れた。
そういう事情もあり、中国語の上達に比例するように落ちる英会話力を憂い、英会話学校へ通うことに決めた。台湾は日本に劣らぬ英語教育に熱心なところで、社会人が学べる場は豊富にあった。
私はしばらくいくつかの候補校の資料を吟味し、教室数が多く、どの教室でもレッスンが受けられる大手英会話学校に通うことにした。ひとクラスの生徒数が多く、先生と直接会話できるチャンスが少ないという難点はあったが、英語力が退歩して、しゃべるのが苦痛になっていた私にとっては、それくらいでも許容可能であった。
英会話学校へは週末を中心に通った。身体が許せば、平日の夜にレッスンを受けることもあった。
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2008年12月05日

赦さないのは自分

シスターは私に、この地を離れ、日本へ帰ることをも勧めたが、渡台してまだ日は浅く、志半ばもよいところだったし、何かを得るどころか深い喪失感だけを強いられたような時点で断念はできなかった。
そして、その後も私は長い間一時帰国しなかった。できなかった。一年ほど後、父が肺炎で入院した知らせを受け、ようやく10日間ほど日本に戻っただけだった。
故郷はやはり、愛すべき、愛しい場所だった。父と母もいた。あの山々や田畑の懐に抱かれたら、きっと癒され、傷の治りも速くなるように思えたが、愛しいところだからこそ、元気な、少しでも晴れやかな気持ちで帰りたかった。そんな状態になるまで待っていたのだった。
シスターは聖書のある箇所を引用しながら、私は赦されたと言ったが、その後も私は、自分が自分を赦せず、この半生で最も大きいといえる傷を心に負ったまま、なんとか生きてはいた。夜、ベッドに入るたび、明日目が覚めなければいいのに、、、と思った。泣かない日はなかった。
それでも自らこの世を去ることを踏みとどまらせたのは、私が逝くと悲しむであろう父と母の存在のみだった。
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2008年12月04日

2人に支えられて、、、、、

何姐とのつき合いはもう7年になる。50歳を過ぎているようには見えないが、このところ白髪がその短く切りそろえられた頭髪に混ざるようにはなった。
彼女の助力のおかげで、あの暑い夜から約2ヵ月後、八里という台北から電車で一時間ほどの風光明媚な町の修道院に暮らすシスターと会うことができた。シスターの主な出張先は中国だったが、台湾国内でも地方をまわるお務めもあり、なかなか面会はかなわなかったのだが、祝日である10月10日に時間がとれそうだと、シスターの方から電話をかけてくれた。
思いがけず、修道服を召さない、60半ばを過ぎたかと思しき、とても小柄なシスターの部屋で、私は一時間ほど話を聞いてもらった。私は、両親や長年の親友にも話せなかったつらいつらい出来事を、泣きながら打ち明けた。それは今でもごく近しい者でさえ知らないことである。
シスターにもいまだに気をかけてもらい、メール中心だが連絡を取り合っている。ありがたいことだ。
何姐は80歳を過ぎた母親の通院や世話に仕事に多忙だが、数ヶ月に一度は私が訪ね、話をする。何でも話せる知人の一人だが、あの事はやはり言えずに月日は流れた。
そして、なぜ何姐が23年もの間教会を離れ、また、なぜ戻ってきたのかを訊いていない。私たちは互いに「訊かないこと」で相手を尊重し、互いの痛みを共有している同志であるように思う。
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2008年12月03日

何姐との出会い

その日本人シスターの電話番号を教えてもらい、私はメガネの女性に何度も深く頭を下げ礼を述べ、辞した。彼女の名前と連絡先も訊いた。
翌日、私はシスターに電話をかけてみると、出張やら研修が立て込んでおり、当分は会えそうにない、申し訳ないがそれでもよいかということだった。
正直なところ、私はかなりがっかりしたが、依然そのシスターにしか打ち明けられそうになかったので、お暇ができたらぜひよろしくお願いします、と頼んで電話を切った。シスターが本当にその修道院にいて、その人の声を聴き、いつか会うことができると思えたことことは、やはり幾分私の心を楽にした。
シスターとどのような話ができたのかなど、私は後日メガネの女性に報告した。それが礼儀だったし、教会と聖母公園に隣接する、その教会が運営している施設に勤務している彼女とつながりを持ちたいと思った。
それから、私は彼女を何姐と呼ぶようになった。メガネの女性の姓は何と言った。姐は「お姉さん」という意味だ。
何姐は、私が持っていたより年配で、50歳になろうとしていた。独身。2人いる弟の一人がカトリックの神父をしていること、幼児洗礼を受けたが、その後教会を離れ、23年のブランクを経て再び聖書に寄り添うようになったと彼女は言った。
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2008年12月02日

日本人シスターを探して

私が教会を訪れたのは、日本人シスターを探すためだった。
知人や友人に話すには重過ぎる内容だったし、中国語より日本語で話し、日本語で言葉をかけてほしいと思ったからだ。
不安な気持ちで中へ進むと、電話が置かれたグレーの事務机の上には、帰り支度が済んだと見て取れるリュックがひとつのっていた。その持ち主であろう、見たところ40代半ばと思しき女性が、奥の部屋の戸締りをしているところだった。
私が立つ部屋に入って来ると、そのメガネの女性は「何かご用ですか?」と丁寧に声をかけた。私はひとまず安堵して、もうここを閉めねばならないのかと訊いた。それはそうだが、何か用があるならどうぞ、と有り難くも彼女は言ってくれた。
私は続けた。
「詳しいことは言えませんが、とてもつらいことがあり、もう、毎日どう時間を過ごしたらよいかもわからないほど苦しいので、日本人のシスターがどこかにいらっしゃらないか探していただきたいと思い、来ました。」
女性のメガネの奥の目と、小さく控えめな声も誠実そうだった。そして、その印象に違わず、それからかなりの時間をかけて名簿をめくり、何ヶ所かに電話で尋ね、日本人シスターが八里という街の修道院にいることをつきとめてくれた。
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2008年12月01日

灯りを求めて

背の重い荷を下ろし、自由を満喫したような時間は長く続かず、言うに言われぬ悲しい出来事に遭遇した。中国語修行や会社員としての日々は軌道に乗り、あたり前の日課に落ち着いたが、生と死の狭間でその取捨を真剣に思い悩むほど深刻な逆境に立たされた。
今なお、その詳細は書くに堪えないが、台湾に渡り、半年も過ぎぬ間に起こったつらい出来事の存在を記さずして次には行けず、これのみ打ち明ける。
かつて同居していたあの妹女史のマンションの傍らに、カトリック教会と聖母公園があった。引っ越した先もそこから数百メートル離れただけだったので、ずいぶん、いや毎日そこを訪れた。洗礼こそ受けていないが、カトリック系高校で学んだ私にとっては近しく、安らぎを得うる場所だった。
誰も多忙で、自分の生活に手一杯ということがわかる私は、友人や知人につらい心中を聞いてもらう勇気が起きず、出入り自由な教会に行き、思い切り泣いた。泣きに行っていたと言う方が正しいかもしれない。
しかし、それでも自分を支えることが困難になり始め、ある夏の夜、8時を過ぎてから思い立ち、教会横の事務所に急いだ。誰かいてほしい、鍵が開いていますように、、、、、、 駆けるように急いだ。
果たして、その門は網戸だけが閉められ、中からは灯りが漏れていた。
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2008年11月30日

台北での暮らしが落ち着いて、、、

旧家のひとりっことして責任を感じ、迷いながらも見合い結婚を決意。しかし、努力の甲斐なくその結婚生活は3年あまりで終息した。
部屋を片付け、整理しては車にどっさり積み込み実家へ運ぶ作業は、当時していた珈琲店でのアルバイトと平行して行ったため、数週間もの時間を要した。時は2月。たびたび雪が舞う、一年で最も寒さの厳しい頃だった。
離婚が決まると、義母は手のひらを返したように態度が冷たくなり、最後の日、挨拶に行った時、義父は呼んでも中から出て来なかった。
健康を害しながら悩みに悩んだ結婚生活の幕を閉じることは、ある意味救いにも感じたが、つらく、重苦しく、傷つきもしたことは言うまでもなかった。
そんな中、再び台湾で勉強する願いが叶ったことは、私の細胞のレベルから生きる活力を与えてくれた。それを許してくれた両親にも心から感謝した。
暖かな台北の春の日差しを浴びていると、実際には依然変わらぬ跡取りとしての重責が消えてなくなったかのような解放感を味わった。そんな夢のような状態が長く続くわけがないことは重々承知していても、しばらくだけでも忘れさせてほしいと思ったし、そうしても赦されるような気がした。 
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2008年11月29日

二足のわらじ

午後からのみの出勤でいいの?と思われるかもしれないが、本当にそれでよかった。やはり、外国人ということで特別待遇を許された形だった。
そんな大きな会社ではあっても、外国人は私を含め3人だけだった。あとの2人は韓国人女性で、オンラインゲーム先進国*韓国との通信や交渉等に活躍していた。彼女たちが所属する課に私も配属され、日本関係の事務を担当することになった。
韓国出身の2人は高校時代の同級生で、いずれも台北で午前中中国語学校で勉強してから出勤して来ていた。彼女たちは、バイクに乗れたり、授業が少し早く終わるため、毎日私よりは先に会社に着いていた。
年齢は私より6歳年下だったが、台湾に来てもう長く、中国語も流暢に話せた。私たちはすぐに打ち解け、そのうち週末には彼女たちのマンションにおじゃまするようにもなった。
台湾に到着した約一ヶ月後には仕事を始められたし、最初は貯金を切り崩して生活するのを覚悟していたが、いわば半日だけの出勤でも、その給料だけで家賃、学費、生活費諸々すべてをまかなえるようになった。
学生とOL、二足のわらじ生活はこうして回っていった。
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2008年11月28日

勤労学生、パソコンに出会う

中国語の学校は、かつて通ったことがあるいわば母校で、勝手がよくわかり、また、再び戻って来た感慨も深いものがあった。相変わらず学生層は厚く、何十カ国から、様々な身分、年齢の人が集っていた。
私は10時から正午の授業を取り、その後出勤した。朝電車で登校し、お昼はバスや電車で会社に向かった。会社まで最短のアクセス方法を探し当てるまでしばらく時間を要したが、安く、乗り換え無しで行けるバス通勤に落ち着いた。正午前後はバスも空いていて快適だった。
前大家さんの紹介で面接を受け、採用されたのは台湾のオンラインゲームの製作や配給を担う若くて急成長中の企業だった。この業界では珍しくはないが、例に漏れず、社員の平均年齢が20代という、とんでもない会社だった。いや、何もとんでもないわけではないのだが、当時私はその年齢を優に過ぎていたため、なんとも複雑な思いだった。
社長でさえ私より3歳ほど年少だった。
ゲームのことなど素人中の素人だったので、入社後は戸惑いとプレッシャーと緊張に苛まれた。まず、パソコンのいろはから教わらねばならなかったし、翻訳の作業もあり、より高度な中国語能力を要求された。
当時で300名ほど社員がいたが、全員のデスクに会社から支給されたパソコンが座っていた。メカ音痴の私も、ネット化される時代の流れに否応なく呑まれることになった。
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2008年11月27日

純ひとり暮らし始まる

あと味の悪さを残したものの引越しは無事終了し、新居での生活がスタートした。
考えてみれば、まったくのひとり暮らしというのは、生まれてこのかた初めてだった。OL時代、ワンルームマンションに住んだが、大家一家が階下に住み、階上の8部屋すべてを会社が買い取り、独身寮の形にしていたので、いわば住人全員が同僚で親しく、ひとり暮らしとは言えなかった。
住み心地は上々だった。バス、電車ともに駅に近く、衣食住に必要な物を買える商店などもだいたい徒歩圏内にあった。
ただ、お湯も沸かせないのは困るので、湯沸しポットは最寄りの家電スーパーで購入した。
それから、冬は案の定寒く、湯船に浸かりたくなり、はて、どうしたおのかと頭をひねった。思いついたのは、盥(たらい)だった。盥なら、何とか狭い洗面所にも納まりそうだし、使用しない時は壁に立てかけておけばスペースをとられない。
これはイケると、さっそくこれも最寄りの雑貨屋へ行った。ちなみに中国語で雑貨屋は「五金行」という。
顔馴染みになったその店で、いちばん大きい盥を購入した。オレンジ色のプラスチック製のそれは、うまい具合に洗面所に納まり、その夜から私は外観子供のにわかプールのような格好で、湯船気分を味わった。
部屋に暖房はなく、湯船を出ると慌ててパジャマを着込まねばならなかった。
生活全般にわたって、わびしさを感じないでもなかったが、ひとり生きる充実感は大きかった。
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2008年11月26日

やっぱりそういう仲、、、、、

ここにカバンを置いておいて大丈夫かな、と不安がよぎったさきほどの情景を思い出し、その不安が心のどこかで描いていた結末に、見事に合致したと、冷静な自分は冷めた頭で考えてもいた。それまでの、謎の男性の言動から、私は無意識のうちに彼を分析し、起こり得るだいたいの事柄を予測していたように思った。
彼の手にそろった1000元札3枚は、まるで絵に描いたようだった。なんと形容したらよいのだろう、映画のワンシーンの如く、緻密に計算された演出のもと、必然的にそうなったとでもいうような周到さで私の前に現われた。
私はとにかく3千元が返って来たことに安堵し、「謝謝」とだけ答えた。
台湾で自力で部屋を探し、賃貸契約を結び、小さいながらも初めて「自分だけの城」を持てた喜びに高揚する一方で、その時々の過程では、思うように行かない焦りやひとりの孤独、不安は常にあった。その中で出くわした心無い人の卑劣な行為は、その後しばらく私をとらえて離さなかった。心は寒々としていた。
それからどれくらい経っただろう。気のいい大家さんと何度か顔を合わせ、冗談さえ交えて話せるようになった頃、私はあの男性のことを話題にした。すると、大家さんは言った。
「ああ、あの男はあの支店長と付き合ってるの、家庭があるのにね。」
おおよそ予想はついていたが、ある意味「わかりやすい」種類の人間だと、ヘンに納得がいった。
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2008年11月25日

彼は泥棒?!

ひとり暮らしと言っても、いざ引っ越すとなると思いのほか荷物はあれこれいっぱいで、何度も車と4階の部屋を往復せねばならなかった。
そのうち、じゃまになって、肩から提げていたカバンを部屋の机の上に置いて搬入作業をした。貴重品が入っているし、危険かな、とも頭の隅で考えたが、大丈夫だろうと高をくくった。
謎の男性と、「これで最後だろう」と再度前の住居に荷を取りに帰った時だった。彼は例によって、先に駐車できる場所を探しに行き、後から入って来る寸法になっていた。
部屋に入ろうと、カバンから鍵を出そうとした時、ふと胸騒ぎがして、ついでに財布の中を見てみた。その日は家賃を大家さんに渡すことになっていたため、1000元札を何枚入れていたか、はっきりした記憶があった。
ない!1000元札が3枚減っている。
私は玄関ドアを開け放ったまま、中に入ったところで、「ない、ない、足りない!」とパニックになった。勤労留学生としてやっと手に入れた貴重な生活費だ。3000元というと、日本円で約1万円余りだ。いずれにせよ、なくなるのはいくらでも悲しい。
駐車して、あとからあの男性が上がって来る気配がした。
室内に入って来た彼は、背後から言った。
「ねえ、これ!そこに3000元落ちてたよ!」
振り向くと、彼の手には札3枚がきれいに握られていた。
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2008年11月24日

新居はこんな部屋

家具搬入に際し、大家さんもアパートに顔を見せた。鍵を受け取ることになっていたし、アパートや部屋、室内の各備品などについて説明や注意事項を聞いておかねばならなかった。
8畳ほどのスペースに、机、小型冷蔵庫、セミダブルベッド、洗面所兼トイレが納まっており、やはりバスタブはなかった。あった方がいいのだが、暖かい台湾でバスタブがないのはごく普通のことだった。
冷蔵庫の上にはテレビもあった。いずれも中古で、テレビはケーブルを引いていないため、見ても見なくてもいいような番組が多い5局くらいしか見られなかったが、ありがたかった。
セミダブルベッドとエアコンは新品で、洗濯機はワンフロアに一台、共用だった。
キッチンはなし。ガスコンロもなく、まったく多忙な単身者用住居という体裁だった。
窓外に見えるのは、隣りに建つアパートの壁だったが、日当たりは良好だった。
もらった鍵は2種類あった。1〜3階は、家族で住める一般的な造りになっており、4〜5階だけがリフォームされた単身者用として仕切られていたので、1階と4階の2ヶ所に出入口がある格好になっていた。
テレビ局に勤めるという謎の男性はアパート前に車を停め、私たち関係者3人で車上の荷を4階に運び入れる作業を繰り返した。ひんやりと気温が下がった、晴れた土曜日だった。
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2008年11月23日

引越しの助っ人は謎の男性

約束の時間通り、その男性は現われた。若き支店長は彼のことを「友達」と称していた。しかし、私は引越し当日になっても、どうして社員でもない支店長の「友達」が無償で引越しの手伝いをしてくれるのか解せずにいた。
支店長は美人の類に入り、小気味よい調子で話すハツラツとした女性だったし、その不動産屋はチェーン展開しており信用を持てたので、私はとにかく引越しと言う小さくはない行事遂行に徹することにした。
謎の男性は、車に私と家財道具を載せ、短い距離ながら3往復してくれた。年は支店長より少し上くらいに見えた。
小さい車だった。彼は、助手席に座る私に「今日の髪型、似合うね。」と褒めた。私は素直に礼を言った。ほどなくして、バッグから取り出していたタオルハンカチに目をやり、「あ、スヌーピーのだ。可愛いね。」と評した。
誰でも褒められると悪い気はしないものだが、その時私は彼に対し警戒心を抱いた。微妙ではあるが、何かいやらしさのようなものを感じたからだ。
私は話題を変え、どこに勤めているのかと訊いてみた。「テレビ局だよ。」。運転席の彼はそう答えた。
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2008年11月22日

引越しを前に

さすがに半袖では肌寒くなってきた。台北には日本に比べ短く、時に過ぎてからそうだったのかと気づくほどの春と秋が訪れた。
しかし、春よりは秋の方が実感しやすかった。まず、ここが台湾かと思うくらい湿度が下がり、さわやかな空気に包まれる日に恵まれる。意識して闘わねばならない酷暑の後にやって来る、そんな神様からのプレゼントのような快適な陽気には手を合わせたくなるほどだ。
そして、空が高くなる。街を歩いていて、何かちがう、どこかちがう、と違和感を抱いていると、気づくのだ、あら、空が高くなったと。その空を見上げながら、長い長い夏の疲れを自ら癒やすかのように深呼吸する時の気持ちよさは格別だ。
引越しは、そんな秋の週末に決行された。晴れてよかった。
無料で引越を請け負ってくれたのは若い女性支店長だったが、実際車を運転し、荷物を新居まで運んでくれるのは謎の男性だった。
謎と言っても、何度か顔は合わせていた。というのも、その不動産屋へ行くたび、だいたい彼はそこにいたのだった。言葉を交わしたこともあった。でも、身分がわからなかった。40歳になるかならないかと思しき若き支店長と親しげに話すのだが、彼は他の社員のように仕事をしていない。グレーのホロ付き事務椅子に、小学生が座るように背もたれを抱き込むよう座って、くるくる回して遊んでいたりする。いかにも油を売っている、遊びに寄っているという印象しか持てなかった。
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2008年11月20日

祝!賃貸契約成立

東京で過ごした学生時代4年間は、大学から徒歩で通える一般家庭に間借りしていた。入学手続きのため大学を訪れた際、学生課で紹介していた物件の中から選んだ。「一人暮らしは許さん」との父の命令が下されたし、高校3年間寮生活をした疲れもあり、自分ひとりの部屋があるだけで、まったくの一人暮らしでなくてもかまわなかった。
社会人になったら、会社が用意してくれたワンルームマンション。あとは実家、台湾では誰かが借りている家にシェアして置いてもらっていたので、私にとって初めての借家賃貸契約はあの時だった。
約束の時間になると、気のいい大家さんが日に焼けた黒い顔に白い歯を見せて現われた。
幹線道路沿いの不動産屋で、記念すべき賃貸契約式は抜かりなく執り行われ、あとは引越しの日を待つだけになった。
一回目の留学時代を懐かしく思い出した。そして、今や自分で、中国語で部屋を借りられるようになったことがとても感慨深かった。
会社ではパソコンを教わり、中国語で仕事をした。ローマ字ピンインを入力し変換すると、ずらりとその音にあたる漢字が出て来る。その中から目当ての一字を選びenter。中国語学校で入門、基礎の基礎を学んでいた頃からすると、考えられないほどの上達と言えた。
生まれて初めて部屋を借りた。それも、この愛しい台湾で。
妹女史たちとの別れはつらかったが、私は台北で生きて行くたしかな手ごたえを感じていた。
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2008年11月19日

新居探し

不動産屋との商談は、ハイスピードでまとまった。私が希望する地域で、ちょうど単身者用物件があったのだ。
大家さんと連絡をとってもらい、そのアパートを見せてもらいに行くと、なぜその時期、そんな物件があったのか理解できた。大家さんの父親が所有し、人に貸していた家の管理を息子である新大家さんが譲り受け、左官業をしている彼が自らリフォームしたばかりだったのだ。
5階建てアパートの4〜5階部分で、ワンフロアに各4部屋ずつ造られていた。大小様々で広さに応じて家賃が高かった。
8部屋中、すでにひと部屋には若い女性が越して来て住んでいた。そして、あとひと部屋、借り手が決まっている状態で、私は6部屋の中から選べることになった。
私は迷わず、4階入口から2番目のいちばん小さい部屋にしたいと答えた。家賃は水道費込みの6000元で、妹女史に払っていた家賃と同額、すなわち許容範囲だったし、昔から自室は狭い方が好きだった。
妹女史たちと住んでいたところから徒歩5分もかからない距離、家具付き、リフォームしたばかりで新築みたいにピカピカ。大家さんも笑顔がやさしい、働き者といった印象。新居が決まって安堵し、うれしかった。
その数日後、私は不動産屋へ赴き、賃貸契約を交わすことになった。
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2008年11月18日

新居探し

バスで40分かかることもあった前回の留学時の登校から、地下鉄で10分、駅から徒歩10分弱に変わった。
妹女史たちが引っ越すことになり、思ったより早く、数ヶ月で一人暮らしをすることになった。彼女たちと住んでいた地域に慣れ、その辺りが気に入っていたため、私は学校と会社勤務の傍ら、帰宅後部屋探しもした。
ふだん歩いていると、アパートにせよ、マンションにせよ、外からよく見える窓のところに「売り」とか「貸し」物件を表す看板が貼ってあるのを時々見かけたので、私はまず自宅周辺を歩いてみることにした。
たしか、9〜10月頃だった。ないのである。看板が見当たらないのだ。
それでも、と思い、一週間ほどうろうろしたが、近所では空き部屋に会えなかった。
しょうがないので、自宅から近い不動産屋を訪ねることにした。聞くと、9月に新学年が始めるため、今はちょうど品薄の時期だと言われた。そうだ。台湾の学校はアメリカ同様、9月に新年度が始まるのだった。見つけにくいのは当然だった。
仲介料は4000元もとられるが、そこに依頼することにした。留学生一人分の引越というので、支店長が無料で車を出してやると申し出てくれたことは有難かった。
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2008年11月17日

同居人はかつてのルームメイトの妹

縁というものはおもしろく有り難いもので、2度目の留学で私が住処としたのは、かつて共に暮らした高雄出身の中学校教師をしていた子の妹が借りているアパートだった。高雄に転勤希望を出し、故郷に帰った姉と入れ替わるように台北にやって来た彼女は小学校の先生で、同僚でフィアンセの彼と同居していた。彼らはほぼ挙式の日取りが決まり、初々しさと安定感いずれをも感じさせるカップルだった。
妹女史は、私が台湾に戻って来ると知り、「一緒に住まない?」と声をかけてくれた。あとで聞いたが、同僚に、「彼がいるのに、女の人と一緒に暮らすの、心配じゃない?」と訊かれ、彼女は「ぜ〜んぜん!だって、姉の友人だし、私より6歳も年上だから、もう一人の姉同然よ。」と答えたらしい。うれしかった。
私も、彼女たちの出会いや結婚を心から祝福し、じゃまにならないよう、心して暮らした。いい潤滑油にでもなれたら本望だった。
前回の留学時と変わったものは、他にもあった。地下鉄が開通したのだ。バス、タクシーに地下鉄が加わると、さらに街は活性化し、便利になった。ホームや車内での飲食を一切禁止するという、台湾らしからぬ厳しい規制がしかれたおかげで、きれいで快適に利用できた。
バス路線があるところへはバスを使ったが、私の登校、出勤も地下鉄の恩恵に与ることとなった。
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