社長をはじめ、上司や研修生みんなが気長に私の成長を待ってくれたおかげだと思うし、彼ら全員に育ててもらったと今でも感謝の念に耐えない。
その工場での職務が終わる頃、私は見合い結婚をすることが決まった。田舎の旧家のひとりっことして、跡取りという重責を負っていた私は、結局、条件が揃った相手としか結婚に至らなかった。
一旦は嫁ぐ形で家を出た私は、新天地でも中国語や英語の仕事に恵まれた。その町には小さな大学があり、中国からおおぜい留学生を受け入れていたため、日中友好協会主催のイベント等でその学生達と知り合い、日本語を教えてほしいと頼まれた。
口コミでどんどん広がり、多い時は10人を超える留学生が毎日のように自宅を訪れ、日本語を熱心に学んだ。学習塾では英語を教え、実家へは英語の家庭教師をするために週に一度車をとばし帰った。
また、一年に一回のペースで台湾を訪れた。知人に会いたかったし、体調不良だったにもかかわらず、離れて時が経てば経つほど、台湾が恋しくてたまらなかったのだ。