2009年01月22日

無常を知ること

往々にして、実家と言うのは居心地が良いものだ。それは、私がひとりっこで、何歳になっても実家に帰ればきょうだいやその連れ合いに気兼ねする必要なく、幼少時同様にしていられるからだとも心得ている。重責を強いられて不自由ではあるが、負の面ばかりではないことに気づき、感謝の念を忘れてはいけないと思う。

航空券は6月24日を予約した。無論、簡単に席は取れた。
いざ離れるとなると、実に名残惜しかった。悪阻に苦しんだ日々も、それなりに対策を練り、何とか過ごしてきた。運動不足になってはいけないと、愛犬ハナの散歩は私が買って出た日課で、春から初夏ののどかな田園を貫く細い道を毎日歩いた。つくし、たんぽぽやれんげ、うぐいすの声、はらはらと舞う蝶々、雨の匂い、アジサイ、夕焼け、お寺の鐘の音、、、、、、 時折お腹の子に話しかけ、温かな心地よい空気を深呼吸して歩いたものだ。
無常というものを悟ることは、考えているほど容易ではない。
それだけ呑み込み、納得するに難しいものでもある。
私は高校入学時以来、旅も含めて、頻繁に移動、転居、引越しなるものを繰り返してきた。身を置いたその地を離れるたびに、様々な想いが去来し、胸をざわめかした。
劇的でも、華やかでもないが、私はそういう場面から、無常の何たるかを少しずつ少しずつ学んできたように思う。いや、学ばねば、その時のまさに胸張り裂けそうなあふれる慕情に対処する術がなかった。
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2009年01月21日

帰れコール激化

従弟から無事、無犯罪証明が送られて来て、懸案は解決した。
私は考えて、郵便局の全国各地の特産物を産地直送してくれるギフトカタログから、100%みかんジュース詰め合わせセットをお礼に送ることにした。暑くなり始めたし、一人暮らしの彼にはいいのではないかと思ったのである。

さて、お腹の子はよく動き、順調に成長しているようだった。だが、依然として、朝食後お昼近くまでベッドに臥す毎日だった。SARSは相変わらずニュース番組の常連で、アジアを中心に暴れていた。
私は台湾に帰りたくなかった。悪阻がまだ重く、実家で静養しているのが理想に感じられたし、何よりお腹の我が子を守らねばならない。
ところが、リーの帰れコールは日毎熱を帯び、SARSは峠を越し、台湾はもう安全と言えるという。無犯罪証明を取得し、私にも強く滞在延長を主張し得る「武器」がなくなり、苦しいところだった。
航空各社はアジア便を減らしたり、運行そのものを見合わせたりしていたが、私が持つ一年オープンチケットの航空会社は、他社と共同運航の形で6月20日以降台湾線を再開させることになった。
台湾を離れ、すでに2ヶ月半。当初の一ヶ月ほど、という予定を大幅にオーバーしていたし、悲しいかな、いよいよ台北に戻らなくてはまずい情況になってきた。
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2009年01月20日

無犯罪証明交付申請

決死の覚悟で出向いた県警本部で申請するものは、犯罪経歴証明書だった。一般に、無犯罪証明とか警察証明と呼ばれ、国際結婚の際に要求されることがある。如何なる理由があろうとも本人が来て下さい、と言われた理由は、指紋を採る必要があるからだ。
お腹の膨らみが見て取れるようになっていた私は、歩く速度もよりスローになり、いささかペンギンの如き足取りで鑑識課へ上がった。
証明書の名称とは似つかぬ平和な空気が流れる鑑識課で、最新の機器に思しきものが指紋を読み取り、30分ほどで交付申請は完了、10日後以降取りに来るよう指示された。
この証明書の交付申請にもあれこれ書類が必要だったし、車ではるばる2時間かけてやってきたこともあり、私は大いに安堵したが、受け取りのことが気にかかった。郵送はしてくれないのだ。
困った。また、わざわざ受け取りだけに遠路やって来るのは考えただけでつらい。
元気なら、半日遊んで行きたい馴染みある街の様子を車中から見送りつつ、私は考えた。
そこで思いついたのは従弟だ。同郷で、その街在住の従弟がおり、彼なら取りに行ってくれそうに思えた。

帰宅後、私は彼に電話を入れ、手紙も書いて、代理人が携えるべき用紙を同封して郵送した。交付は平日しか行われず、申し訳なかったが、外回りの仕事がある日に行って来る、と快く、ありがたい返事をくれた。感謝感謝である。

そして、案の定、私は翌日長時間車に揺られた後遺症で、終日根が生えたように寝込んでしまった。
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2009年01月19日

県警本部出動

延ばし延ばしにしていたものに、犯罪経歴証明書の申請がある。
調べてみてわかったのだが、国際結婚には必須といえる書類の一つらしかった。これを居住している市で最大の警察署に行けば取得可能だろうと高をくくっていたのだが、絶対に各都道府県の検察本部に本人が出向かねばならなかった。
なぜ、この書類の申請が億劫だったのかと言うと、犯罪歴があるからではない。またしても、悪阻だ。
不思議なことに、私は妊娠中一貫して、乗り物に長時間乗ると悪阻が重くなり、その翌日はほぼ終日ダウンするのだった。もちろん当日車中でも具合が悪いし、万一の時に備えて近場に出かける時でもビニール袋を持参していた。
だが、いつまでも延期するわけにはいかない。当初、日本滞在は一ヶ月ほど、とリーと話しており、じわじわと彼の帰って来いコールが真剣味を帯びてきたのも気がかりだった。悪阻もSARSの猛威もおさまらず、そのおおよその予定を大幅に変更していたのだが。

思案の結果、電車ではなく、父の運転と母の付き添い、まさに家族総出の県警本部出動となった。胎動に気づいた、6月上旬のことである。
私は後部座席にうなだれるように座り、長旅の不安に沈んでいた。
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2009年01月18日

自宅待機10日間

さて、リーの方だが、5月1日台湾に帰り、台北本社に勤務することになっていた。なっていたのだが、、、、、、、
SARSの流行は依然おさまらず、香港より入国した者は10日間の自宅待機が命じられた。
「何百人もの人がそうして台湾に入国するんだから、何しようが監視しきれないんじゃないの?」
私は訊ねた。
しかし、本当に、厳格に、自宅待機は監視、管理されていたのだ。
リーは実際、10日間一歩も外出できなかった。いわゆる保健局みたいなところからいつ電話がかかるかわからず、居住地区の区長というか自治会長というのか、そういう人にも連絡が入っており、彼が時々在宅をチェックしに来ると言う。
「食事は?」
そうだ、それも気になる。
「お袋が作って届けてくれる。それに、昨日は弟が即席麺とかお菓子とか持って来てくれて、まったく不自由してないよ。外に出られないから、運動不足で太ってしまう方が難儀だなあ、、、」
とのことだった。

長い10日がようやく過ぎ、リーは徒歩でも通える本社へ車で通勤し始めた。
私も少しずつ成さねばならない手続きに、重い腰を上げねばならなかった。
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2009年01月17日

胎動はぐりぐりぐりっ

黄医師の安否を確認することはできなかったが、とにもかくにも台湾はもとより、どこにしろSARSで苦しむ人が一日も早くいなくなることを祈った。

6月になり、幾分楽になったような気もした悪阻と依然闘っていた私に陣中見舞いのような、うれしい贈り物があった。胎動である。
主治医によると、もう始まりそうなんだけどな、ということだったが、まだだなあ〜と思っていた矢先、あ、これかな?と感じる異変に気づいたのだ。初めての出産で、胎動がどんなものなのかもわからなかったというのか、イメージしていた胎動とちがい、見落としていたのだった。
胎動はぐりぐりぐりっという感じ。ころんころん、でもなく、くるくるっでもなかった。これかな、もしかして?と6月中旬に入る頃気がついた。
体験済みの友人に訊くと、やはりそのようだった。
それからは、胎動のヨロコビと可愛さに大きく支え、励まされたように思う。私のお腹には、本当に、赤ちゃんがいる。いのちが育っている。胎動が始まり、やっと来た実感は、日々の大きな原動力になった。

しかし、のんびりもしていられなかった。日本で取得せねばならない、いくつかの書類の申請の中には、県庁所在地にある県警本部まで行かなければならないものもあった。車にしろ、電車にしろ、片道2時間ほどはかかる大移動を思うと、気は重かった。
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2009年01月16日

悪阻止まず

ひとりっこの私の実家には両親しか住んでおらず、誰に気兼ねする必要もないのだが、終日居間のこたつに臥せっているのは申し訳ないような気がしてしようがなかった。せめてお米を研ぐことくらいして母を手伝おうと思い当たったが、大げさではなく、本当にそれすらままならなかった。
台北の和平病院で妊娠を確認はしたが、地元滞在中定期健診を受ける産婦人科を決めて受診するようにしていた。胎児は順調に育っており、予定日は11月9日。あまりに吐き気がひどく、つらいと言うと、漢方薬なら飲んでもよいからと処方されたが、無駄な抵抗だった。ビクともしない。
3月に妊娠がわかり、4月いっぱい寝込んだ。
5月に入って、早い朝食後、再びベッドに戻り11時台まで眠り、午後は起きられるようになった。
そのうち、「6月になったら、もう悪阻が治まる時期だから。」と慰められたが、イヤな予感は当たった。徐々に長く起きていられるようにはなったが、吐き気は猛烈で、就寝時洗面器を枕元に置いたり、お手洗いに近い部屋に布団を移して休んだりしないと不安だった。

リーには毎日メールした。SARSはアジアを中心に世界中に飛び火し、台湾でも感染者がついに出た。それもなんと、あの和平病院内で感染が広がり、一時封鎖されることになったのだ。私は黄医師の身を案じた。
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2009年01月15日

実家の床に臥す

まずは台北でも可能なものから着手することにした。健康診断書である。指定された公立の医療機関で診断を受け、診断書を提出しなければならない。
ズラリと列挙されたリストからまたもや和平病院を選び、こんなことなら産婦人科を受診した際、ついでにやっておけばよかったと悔やみつつ、「妊娠中ですので」とレントゲン等を省く検査を受けた。
診断書発行に一週間かかると言われ面食らったが、飛行機の予約を入れていた9日の前日には無事受け取ることができ、ホッとする。
リーはたまたま本社での仕事が多く、こういう家庭の事情もあることで、通常より長い台北滞在を許されたので助かった。9日私を空港まで送り、翌日の10日に彼は渦中の香港に舞い戻った。

リーは4月末日まで香港勤務、5月1日に台湾復帰と決定した。会社としてもSARSの流行は気に留めていたはずだが、業務運営を停滞させることはできないところだった。身重の私なら、悪阻の苦痛と感染の恐怖から気が狂いそうになったろうと思うが、リーはそれなりの対策を採り、淡々と暮らしている様子だった。
実家に帰り、気分的には落ち着いたが、相変わらず私は胃を刺すような吐き気に連日苦しんだ。朝起床すると、夜就寝するまで、母屋に敷かれたこたつに横になり、終日休んだ。いや、洗面や手洗いなど基本的な動作以外何もできず、起き上がれなかったのだ。
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2009年01月14日

婚姻手続、難航模様

さっそくリーの車で台北市内の和平医院へ行った。中国語で医院は日本で言う病院のことで、個人の医院は診所というのが普通だった。
どの産婦人科に通い、出産するか、その時点で決められず、とりあえず妊娠と胎児の状態を確認できればいいからと、リーが自宅から近い市立病院を選んだのだ。
悪阻で鉛が入ったように重い身体を動かすのが苦痛で仕方ないというのに、産婦人科は広い病院内の2階の奥の方に位置していた。診察してくれたのは黄という60歳前後の男性医師だった。祖母が日本人に嫁いだか何かで、非常に日本びいきの陽気な人だった。
「ここ、見える?心臓、動いてるでしょ。着床の位置もいいし、順調。」
黄医師の張りのある声に、超音波器の画面に食い入って見るリーと私は涙ぐむほど感激していた。よかった。本当にお腹の中でいのちが生きているのだ。

翌日からが大変だった。リーは役所に婚姻届を出し、私が台湾人の配偶者として認定されるよう諸々の手続を始めた。しかし、想像以上に厄介な現実を知らされた。日本の戸籍謄本のコピーを両親に郵送してもらって済むようなものではなく、私本人が帰国して集めねばならない書類が要求されたのだ。
リーは再び香港に戻り、執務にあたる。私は誰かがそばにいて世話をしてくれないと日常生活にも支障をきたす重症な悪阻、、、、、
そこで、私は何ヶ月間か日本に帰り、実家で養生することになった。
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2009年01月13日

台北帰還

そんな事態にあってもマスク着用が乗客の任意のうちにあることが私は解せなかった。航空機内にSARS患者がいたと後日判明し、同機に乗り合わせた人々が追跡調査を受け、隔離されたり、感染していたりする報道があとを絶たない最中であったのに、である。
私はお腹に子を宿した者として、過度に敏感になっていたのかもしれないが、それはいたし方ないだろう。周囲で咳込む声がするたび、身を硬くした。今なお、あの機内の様子を思い出すと、実に灰色のバックの暗い映像しか浮かばない。
機内で健康調査票みたいなものに記入し、台北の空港でも37度以上発熱していないか調べる装置が私たちをチェックしていた。靴底を擦りつけ、細菌を拭き取るマットも敷かれていた。

物々しい空気漂う一連の施設から我が家に帰ると、ひとまずホッとした。
まず、うれしかったのは、香港のマンションでどんどん気になってつらかった独特の匂いが台北のそこにはないことだった。それだけで幾分過ごしやすかった。私は実際に吐く悪阻ではなかったが、常に一触即発の状態で、ちょっとしたことでも影響は大きく感じられたのだ。
入籍はリーの仕事が少し落ち着く5月に、という当初の計画を変更し、翌28日に産婦人科を受診し、29日に役所に結婚届を提出する段取りをリーは整えた。
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2009年01月12日

空港から機内へ

台湾に帰ることが決まってからは、冷蔵庫にあるものをできるだけ工夫して食べるようにした。もったいないし、極力外出を避ける意味もあった。
3月上旬に香港入りした時は気管支炎で、台湾へ発つのが悪阻を伴っての同月27日。軽い身体と晴れやかな気分で香港に暮らすことがまったくできないままのサヨナラとなってしまった。

空港へ向かう朝、久しぶりに家の外へ出て驚いた。世の中は前の週と一変し、マスク姿の人がそこかしこに。約7割、老若男女問わず、マスク人口は目を見張るほど増加していた。
空港へは香港島とは反対方面の地下鉄一本、その駅でスーツケースを預けたり、チェックインも可能でとても便利だった。
しかし、想像以上の非常事態であり、空港到着後はさらに緊張した。マスクをしっかり着け、リーに続いた。
それにしても広い空港で、出発ゲートまでが遠い、遠い。ひどい吐き気とだるさで重い身体でなかなか颯爽とは歩けない私は、何度もリーから遅れた。空港中がSARSの驚異に支配されているようで恐ろしくもあった。
地元香港、キャセイ パシフィックの機内に進む。満員に近い乗客だ。意外に、マスク着用は義務付けられておらず、客室乗務員がマスクを携え、希望者に配っていた。
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2009年01月11日

SARSとイラク攻撃

急な話だった。
リーが次に定例会議出席のため台湾に帰るのが3月27日になっており、その際に私も同行することになった。
私はそのまま台北の自宅に留まり、リーは4月に再び香港に戻って月末まで支社長を務め、課せられた任務を果たし、懸案を処理しなければならなかった。
もう少し早く決定してくれていたら、と会社を恨む気持ちがなくもなかった。複雑な心境。香港でしばらく暮らすのだと、それなりに覚悟し、準備していたのもあるし、一方で身重ゆえいっそうSARSの蔓延が恐ろしくもあった。台湾に逃れるのも得策ではあった。
しかし、である。SARSは熱が37度以上ある患者からしか他人に感染しないと言うが、密室である飛行機内で広がる悪例がたびたび伝えられていた。香港ー台北間の飛行時間は一時間ほどであるが、それでも感染の危険性と、それ以前に重症の悪阻の苦しさを考えると、台湾までの移動自体が億劫で、不安が尽きなかった。

リーは外出時は必ずマスクを着けた。SARSが疑われた同僚は「白」でひと安心したが、バスでも地下鉄でもマスクをする人の数は日に日に増えているようで、毎日公共の場に出なければならない彼の身を案じた。ニュースではアジアにとどまらず欧米などにも患者が出たと報じている。米国ブッシュ政権がイラク攻撃を始めたのもその時期で、世界中が不穏な雲に覆われているような恐怖を感じた。
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2009年01月10日

台北本社復帰命令

リーは毎日だいいたい8〜9時帰宅した。私はできるだけ彼を待ち、一緒に夕飯の席に着いた。
ある夜、彼のオフイスでもSARSを疑われるような風邪をひいたスタッフが出たと言う。要検査で未確定だが、明日から彼もマスクをして出勤することになった。街中でもマスクをしている人がだんだん増えているらしかった。

そんな物騒な折、リーの携帯が鳴った。週末の午後だったと思う。聞いていると、どうやら台北本社の誰かからだ。同僚だった幹部たちの名前もちらほら出て来る。
それはなんと、リーに台北本社復帰を打診する電話だった。
台湾へ帰るの?
リーよりも私の方が混乱した。あと少なくとも1年は香港駐在だろうと言われていたにもかかわらず、4月いっぱいで香港から帰れという。
私は既に家財道具の5割近くを持ち込み、日本でミニ披露会をし、香港入りしてからまだわずか2週間ほどしか経っていなかった。はあ?
SARSの流行が深刻化してきたため、私たちに「避難勧告」でも出たのかと思ったが、あくまでも香港支社運営上の会社の戦略に過ぎなかった。
私の狼狽をよそに、リーは冷静で、むしろこの急な決定を好機ととらえているようだった。妊娠している私を言葉が通じ、健康保険が利き、他の家族もいる台湾に帰したいと考え始めていた矢先だったからだ。
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2009年01月09日

香港のテレビは、、、

調べてみると、悪阻というものは私のように妊娠直後から始まることもあれば、もともと生理不順気味で、体調にも変化がなく、数ヶ月してようやく気づく人もいるらしかった。そして、悪阻のタイプも千差万別と言って差し障りないようだった。
私は食欲は落ちなかった。ただ、食べたいものに極めて忠実になり、思いついたら何としてでもそれを食べたくなったし、逆に嫌なものは頼まれても喉を通らなかった。
そして、何より吐き気が尋常でなかった。胃に何か不純物を差し込まれたようで、その傷が四六時中痛む感じだ。
それから、最初は高級マンションゆえの香りに思えたその家独特の匂いが気になり始め、むかつきを助長されているようだし、立派なテレビながらNHKにチャンネルをあわせると画面が乱れ、我慢して見ているとよけい気分が悪くなってきた。きれいに映るのはやはり地元の香港局で、字幕は解せる中国語と同じだからと見ることがあった。そのせいか、今はほぼ問題ないが、出産後もしばらくは広東語を聞くと悪阻のムカムカが胃によみがえってきたものだ。

そのテレビだが、ニュース番組を見るたび、SARSに関する報道が日に日に増えて行った。馴染みのないその病気がどのような性質や威力を持つかの知識も比例して増した。中国大陸で原産されたようだが、よりによって香港を拠点に大流行の兆しを見せていた。
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2009年01月08日

キムチ漬け

日に日に気管支炎と悪阻(つわり)の勢力分布図は後者が占める範囲が広くなっていった。小児科ながら気管系も良いという評判を裏切らなかった医師に感謝した。悪阻は病気ではないのだし、食料品も底をついて来る。私は週末を待たず、リーとたびたび出かける電車で数駅の大型スーパーへ行ってみることにした。気分転換も必要だった。

外出時、私はリーから与えられたマスクを着用した。気管支炎は急激に完治するものではなかったし、SARSがだんだん蔓延していた時だったので、お腹の子を守る予防策を採ったのだ。
今後1~2年は生活の場となる香港を、私は改めて病抜けしてきた身体と頭で感知し始めた。リーの同伴なしでも動けるようになりたいと思い、あちこちあれこれを確認しつつ歩いた。
目指す大型スーパーも自宅マンション同様、地下鉄の駅に連結する一大ショッピングモールの中にあり、全行程屋内を通って行けた。その道中にせよ、店内にせよ、マスクをしている人はごくわずかだった。
広いスーパーを私はカートを押して回った。もうその頃から、妊娠のために味覚が変わり始めており、ふだんほとんど食さない物を購入したりもした。
リーは料理ができる男だったが、台所の主は基本的に私に移行していった。リーと食べる夕食には自然と力が入った。見た目も味にもこだわった。
彼の意向を聞きながら献立を考えたが、あの時期、私はとにかく辛い物が食べたくてしようがなかった。たいして興味がなかったキムチをとりつかれたようにバリバリ食べた。刺激物は胎児によくないと知りつつ、その衝動を抑えることができなかった。そうでもしないと、連日治まることを知らない吐き気との同居は成り立たないほどになっていた。
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2009年01月07日

気管支炎去って今度は悪阻

とにかく医師の診察を受けて、薬もしかともらって、私はリーと地下鉄構内で別れた。地下鉄で自宅へ帰るのも初めてで、彼の指示を心細げに聞いた。
地下鉄に連結した地下街は広く清潔で、たくさんお店もあり、華やいで見えた。体調が良ければゆっくり見て回れるのになあ、と恨めしかった。

無事マンションにたどりつき、私はすぐ日本の実家に電話をして、その日の報告をした。気管支炎が重症なだけに、おめでたを喜ぶ母の反応は自重気味だったが、しっかり用心するよう念を押された。
相変わらず窓外の風景は素敵だった。船がゆっくり往来し、香港島の高層ビル群はしゃれた痩躯を誇っているように見えた。
私はそれらを眺めながら、祈るように薬を飲んだ。一週間近く、10年に一度級の苦しみは続いていた。リーも時々会社から様子を伺う電話を寄こした。
その後、願いは通じて、徐々に気管支炎の症状は軽減して行った。身体がふわっと軽くなる感覚を覚え、重かった胸が楽になった。
それはありがたかったのだが、次なる試練が待ち構えていた。悪阻(つわり)が控えていたのだ。ようやく気管支炎の悪夢から逃れたと思いきや、胃がおかしく、深刻な吐き気は四六時中続いた。
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2009年01月06日

2人目の医師を訪ねて

それにしても香港は人が多い。海と山に押しやられた狭い土地に人間が生活しているのだから当然の結果なのだが、威圧感は免れなかった。それを窮屈だと感じる時もあれば、ほとんど気にならず独特の空気感が心地良い時もあるのも事実だった。
リーが傍らにいて、同僚から詳しくその医院の住所を聞いていたからよかったが、自分だけなら迷子になりそうだと思った。地下鉄の駅から地上に出て、数分歩いた後に行き着いた重厚なビルの階上にくだんの小児科はあった。
エレベーターで上がったフロアには他にも診療所が入っていて、小児科のそこを探しあて、ドアを押した。小児科医院らしく、待合室には色鮮やかなぬいぐるみや小さなおもちゃが並んでいた。
小児科医で本当に大丈夫なのだろうかと言う疑念と、可愛らしい雰囲気に和む心地良さが同居した。

医師は広東語訛りの聞きづらい中国語を話したが、リーはちゃんと理解し、次々と言葉を交わした。
SARSという病気が流行しかけているが、妻はどうなのか。
妊娠していることが今日わかったのだが、薬は大丈夫なのか。
私はリーの反応と言葉に神経を注いだ。
医師の診断は私たちをホッとさせるものだった。
SARSではなく重症の気管支炎で、薬は妊婦にも害のないものを処方する、これまで飲んだ分については影響ないであろう。
心なしか帰りは2人の足取りが軽くなった。また効かなかったらどうしようと私は気にかかったが、妊娠の喜びが私にパワーを与えてくれていた。
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2009年01月05日

妊娠検査薬、プラス反応。

重い身体を押すように私は出かけた。ひとりでバスに乗るのは初めてで緊張したが、リーと乗った時の記憶をたどりながら景色に気を配り降りるべき地点を見逃さないよう努めた。
リーが迎えに来てくれていた。母に妊娠の可能性を指摘され、気になっていると彼に伝えていたので、まず最寄りのドラッグストアで妊娠検査薬を購入してから会社へいったん行くことにした。医院の予約時間は午後だった。
相変わらず咳はひどく、熱っぽくだるく、その上おめでたではないかという緊張感まで加わり、私はふらふらしながら検査薬を持ってオフィスのトイレに向かった。ドキドキした。
まさかなあ、と思いつつトライ。、、、、、、、、、、出た、陽性!
嘘みたいだが、本当に私は妊娠していたのだった。

頭の中は整理不可能なほどごった返していたが、うれしくて急ぎ足でリーの瀟洒な個室に戻った。九龍島に向いた前面ガラス張りの絵に描いたような支社長室は、昔見たジョン・ローンの映画そのもの、もったいないくらい素敵だった。
「私、妊娠してる。」
興奮の報告をした。
だが、彼は思ったほど喜色を表さない。
「ほんとなのか?まずいんじゃないのかなあ、、、、、今、君はこんなに体調が悪く、薬も飲んでる。胎児に影響が出ないか心配だな。」
何事にも慎重な彼の率直な感想だった。
とにもかくにも診察を受けよう。
私たちは地下鉄に乗り、中環の小児科医を訪ねた。
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2009年01月04日

母のひと声

実に重症で、息も絶え絶えという感じだった。
それでも27階の窓外に広がる映像でも見慣れた香港の風景は、しゃれた映画のシーンのように美しかった。夜景も然りで、私は何度も窓辺により、それを眺めた。
23歳だったか、一度香港へは旅行で来たことがあったが、ほんの数日間のこと。街に出て探検したい気持ちは山々、動けぬ身体が恨めしかった。自分の体調が悪いだけでなく、当時はSARSが香港を中心に大流行し始めた頃。アメリカがイラクへ攻め入ったあの年だった。
まだSARSという病気の正体をはっきり知らなかったゆえ、案外のんびりしていたが、リーはいくらか心配していた。私の症状がその疾患に似ていたからだ。

そのマンションや光熱費に電話代も会社が負担してくれていたので、電話を日本の実家へかけやすいのには助かった。一軒目の医師が「ヤブ」だったことを嘆く近況報告をした時だった。母がこう言うのだ。
「あんたそれ、おめでたじゃない?」
は?
「いや、そのせいもあるんじゃないの?」
まさか。
「調べてみた方がいいわ、念のため。」
母にしては鋭い角度からの推察だった。まさかと思いつつも、そう言われれば気になってきた。それなら薬にも気をつけねばならないからだ。
リーが会社から「他の医院を教えてもらったよ。小児科専門だが、気管系もいいところらしい。同僚が予約を取ってくれたから、お昼前会社までおいで、一緒に行こう。」
と電話が入った。
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2009年01月03日

薬効かず、肋骨にひび

私はもともと身体が頑強な方ではなく、特に目、胃と気管系が弱かった。19歳の時、マイコプラズマ肺炎というのを患い、一年ほど医者通いと用心を強いられたことがあるし、そこまで行かずとも気管支炎になりやすく、たびたび苦しんだ。
日本から持ち帰った風邪も気管を荒らし、咳と熱を出した。読書したり、炊事したりは可能で、寝たっきりではなかったが、とてもつらかった。
不安な一夜をリーの隣りで過ごし、翌朝リーを見送った。同僚に病院のことを訊き、また私に連絡することになった。
彼のオフィスから徒歩数分のところに小さな内科医院があるとわかり、私はひとり彼の指示に従って出かけた。中国語も通じるという。
私は先にその医院に行き、中国語で症状を医師に説明した。お薬も出て、リーも迎えに来てくれて、ホッとして帰宅した。
これで楽になる、と喜び薬を飲んだが、当日も、翌日も変化が見られない。咳は相変わらずで、リーが眠れないのを恐れ、私は別室で就寝した。そのひと晩は特にひどく、5分と咳が止まず、咳のし過ぎで肋骨にひびが入ったらしかった。咳とひびに響く痛みは顔が歪むほどで、拷問に近かった。

結局、その医院の診察も薬も無駄になり、リーは再び同僚に他の医院を紹介してもらうことにしてくれた。
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