縫合の傷口は前回よりずっと早く回復したが、30分ほど人としゃべるとぐったり疲れるし、目が疲れていて本が読めず、読書好きの私を嘆かせる状態は続いていた。
それに、メイは長く保育器にいたし、2200gくらいにしかなっておらず、メイだけ退院を延ばすよう言われるかもしれないとも思っていた。
35歳から年子を出産するということは、やはり身体に大きな負担になっているのかと考えることは多かった。疲労感がなかなかとれないのだ。あれだけ食べていても、産後一週間ほどで体重はほぼ妊娠前に戻ってもいた。ランの時よりも速く、我ながら驚いた。
帰宅すれば、自分でメイの世話一切を担うことになる。この産褥期ケアセンターも我が家のように居心地が良い。去りがたい気持ちと、新しい生活を構築する希望が半々の複雑な心中だった。
落ち着いてきたので、病室から何人かの知人にケータイで出産報告する。
蔡老師と音楽教室に。奥さんと受付女史からはお祝いにベビー服をもらっていた。
教会を通じて知り合ったあの何姐にも。
台湾の大手テレビ局で働くゴマくんにもかけた。日本の国立大学を卒業したゴマくん(ゴマあざらしから来たゴマ)は、かれこれ10年来の交遊が続く大切な友人だった。関西で暮らしていた彼は、今もって流暢な関西弁で話す、頼もしい兄のような存在である。