だが、リーは会社が引けてからバイクで病院に来ることが多かった。パジェロは大きく、また台北は恒常的な駐車スペース不足だったからだ。そして、洗濯物を持って帰ったり、着替えや私が欲しがる物を運んでくれたりもしたので、婉曲に苦情を訴えはできても「泊まらないで」とは言いにくく、我慢するしかなかった。
ランの風邪騒ぎは大事にならず、私の傷口や体調もまずまず落ち着き、10日間の坐月子センター生活は終わった。食事はおいしかったし、多くのスタッフと知り合い、世話になり、去るのが名残惜しくてたまらなかった。初めての子をこれから元気に自宅で自分が育てねばならないと思うと、不安がまとわりついて来た。
病院から指導を受け、退院祝の品々や身の回り品をたくさん車に積み、2週間ぶりに自宅へ戻った。ランの出生届は、病院や陳医師のサインをもらい、すでに台湾日本双方の市役所に提出済みだった。
日本の両親が市役所に事情を話し、その指示に従って郵送でやり取りし、必要書類を提出して受理された。
ランは現在5歳になったが、今なお台湾と日本の両方に戸籍を持っている。彼女が18歳になった時いずれかの国籍を選び取得するまでこの状態が続く。そして、なんと彼女は台湾で日本のパスポートを申請、取得することも可能だと知る。台湾で生まれ、父親が台湾の者ゆえ、台湾のパスポートももちろん難なく取得。2冊のパスポートも18歳まで所有できるということなのだ。