私は食欲は落ちなかった。ただ、食べたいものに極めて忠実になり、思いついたら何としてでもそれを食べたくなったし、逆に嫌なものは頼まれても喉を通らなかった。
そして、何より吐き気が尋常でなかった。胃に何か不純物を差し込まれたようで、その傷が四六時中痛む感じだ。
それから、最初は高級マンションゆえの香りに思えたその家独特の匂いが気になり始め、むかつきを助長されているようだし、立派なテレビながらNHKにチャンネルをあわせると画面が乱れ、我慢して見ているとよけい気分が悪くなってきた。きれいに映るのはやはり地元の香港局で、字幕は解せる中国語と同じだからと見ることがあった。そのせいか、今はほぼ問題ないが、出産後もしばらくは広東語を聞くと悪阻のムカムカが胃によみがえってきたものだ。
そのテレビだが、ニュース番組を見るたび、SARSに関する報道が日に日に増えて行った。馴染みのないその病気がどのような性質や威力を持つかの知識も比例して増した。中国大陸で原産されたようだが、よりによって香港を拠点に大流行の兆しを見せていた。