外出時、私はリーから与えられたマスクを着用した。気管支炎は急激に完治するものではなかったし、SARSがだんだん蔓延していた時だったので、お腹の子を守る予防策を採ったのだ。
今後1~2年は生活の場となる香港を、私は改めて病抜けしてきた身体と頭で感知し始めた。リーの同伴なしでも動けるようになりたいと思い、あちこちあれこれを確認しつつ歩いた。
目指す大型スーパーも自宅マンション同様、地下鉄の駅に連結する一大ショッピングモールの中にあり、全行程屋内を通って行けた。その道中にせよ、店内にせよ、マスクをしている人はごくわずかだった。
広いスーパーを私はカートを押して回った。もうその頃から、妊娠のために味覚が変わり始めており、ふだんほとんど食さない物を購入したりもした。
リーは料理ができる男だったが、台所の主は基本的に私に移行していった。リーと食べる夕食には自然と力が入った。見た目も味にもこだわった。
彼の意向を聞きながら献立を考えたが、あの時期、私はとにかく辛い物が食べたくてしようがなかった。たいして興味がなかったキムチをとりつかれたようにバリバリ食べた。刺激物は胎児によくないと知りつつ、その衝動を抑えることができなかった。そうでもしないと、連日治まることを知らない吐き気との同居は成り立たないほどになっていた。