地下鉄に連結した地下街は広く清潔で、たくさんお店もあり、華やいで見えた。体調が良ければゆっくり見て回れるのになあ、と恨めしかった。
無事マンションにたどりつき、私はすぐ日本の実家に電話をして、その日の報告をした。気管支炎が重症なだけに、おめでたを喜ぶ母の反応は自重気味だったが、しっかり用心するよう念を押された。
相変わらず窓外の風景は素敵だった。船がゆっくり往来し、香港島の高層ビル群はしゃれた痩躯を誇っているように見えた。
私はそれらを眺めながら、祈るように薬を飲んだ。一週間近く、10年に一度級の苦しみは続いていた。リーも時々会社から様子を伺う電話を寄こした。
その後、願いは通じて、徐々に気管支炎の症状は軽減して行った。身体がふわっと軽くなる感覚を覚え、重かった胸が楽になった。
それはありがたかったのだが、次なる試練が待ち構えていた。悪阻(つわり)が控えていたのだ。ようやく気管支炎の悪夢から逃れたと思いきや、胃がおかしく、深刻な吐き気は四六時中続いた。