2010年03月15日

マダム スン、重大発表。感謝、そして、これからもよろしく!

 両親は70歳を過ぎ、それでも母は地域の役や務め、趣味に忙しく留守がち、2人の娘たちは幼稚園に上ったものの午後2時頃には帰宅するので、私は事実上専業主婦であらねばならなかった。
 その家事育児の終わりのない仕事と「働きたい!」との欲求充足のバランスをうまくとるのが難しいところだった。

 台湾から帰国して1ヶ月でだいたい生活の基本リズムはできたように思うが、自宅に中国語を学ぶ生徒さんが2・5人来る他に、中国からの企業研修生が来日する際不可欠な日本語クラスの講師を商工会から依頼されるようにもなった。
 これも非常に不定期なもので、2ヶ月間ぶっ通しもあれば、半年なかったということもある。

 また、入選したエッセーの編集長から仕事を頼まれることもあった。

 ところで、突然だが皆様に報告がある。
 当ブログも限りなく現在に近づいている。
 そして、2009年年末、台北のリーより「台湾へ帰って来い」宣告を受け、日本定住を試みてはいたが、来たる4月には日本を発つことになった。

 そこで、新しいブログを始めることにし、私の「師匠」にもご指導いただいて、3月14日めでたくオープンにこぎつけた。
 このページ右下『リンク集』の一番下、『日中英3ヶ国語教育の実践記録』がそれだ。タイトルはいささかカタいが、内容はやわらかい。 どうぞ今後、そちらを引き続きご愛顧いただけると大変、非常に有り難い。待っております! 
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2010年03月14日

ポスターと新聞記事による中国語生徒募集活動の結果は…… 2人の生徒さん、皆勤で今も来宅レッスン中。

 さて、地元新聞記事掲載と数ヶ所に貼り付けた生徒募集ポスターの反響だが、想像よりずっと小さいものだった。
 結果からいうと、ポスターを見て実際レッスンに来るようになったのは一人だけ、新聞では2人だけだった。記事では二胡のことにもかなり触れられていたので、二胡を教えてもらえないかという問い合わせが一件あったが、初級なら一対一で教えますと答えると、その年配の女性は個人レッスンが負担に思えたのか、それっきりだった。

 それでも、記事掲載は9月24日で、29日(月)には新聞を見た生徒さんが初レッスン、翌30日にはポスターの生徒さん初レッスンの運びとなった。
 あと、それから1ヶ月ほどして、
「中国語を習いたいと思っていたら、新聞に先生のことが載っていたよと教えてくれる人がいて電話しました。」
と、地元から都会に出て働いている女性から電話があり、その30代前半の生徒さんも帰省するたびうちにレッスンに来るようになった。

 よって、実質2.5人のデキである。
 これで、いかに中国語を先生についてまでやってみようと思う人が少ないかがよ〜くわかった。お月謝も「安過ぎるんじゃない?」と言われるほどなのに、である。

 でも、とにかくやるだけのことはやったと思えたのはよかった。
 そして、毎週一回通って来る2人の生徒さんはとても熱心で、今もうちに来ている。それも皆勤だ。
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2010年03月13日

24日記事掲載。メイ、庭の池に頭までどっぷりはまる。今も語り継がれるエピソードに。

 地元新聞に私の記事が載ったのは、運動会の翌日24日のことだった。二胡を抱えて座る写真も結構大きく出ている。うれしいと言うより、ひどく恥ずかしく複雑な気持ちだった。そして、どんな反応、反響があるかがとても気になった。

 日本に帰国してちょうど丸1ヶ月経ったその日、運動会の代休で家で遊んでいた娘たち、ランが家の中に駆け入って来た。
「ママ〜、メイが池に落ちた!」
 
 え?!

 しばらくして、本当にずぶ濡れになったメイがとぼとぼと歩いて来た。
 まだ9月とはいえ、かなり寒そうだし、泥もついてそうなので急いでお風呂を用意してやる。メイは泣かず、ただ驚いているだけだった。

 近くで見ていた父が言う。
「びっくりしたと思うわ。どっぷり浸かって、頭のてっぺんの半径10センチくらいだけが見える瞬間があった。」
と、笑いをこらえる調子で報告する。
 実際、危険な状況ではなかったので、今なお語り継がれる笑い話になっている。
 「どんぐりころころ どんぶりこ お池にはまってさあたいへん
どじょうが出て来てこんにちは……」
 この歌をちょうど覚えた頃だった娘たち。
池の鯉たちもびっくりしたことだろう。
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2010年03月12日

台湾とちがう、練習しっかりの幼稚園運動会。大雨警報で順延。母校校歌に涙。

2学期開始とほぼ同時に運動会や体育祭の練習に入る学校は日本でもかなりあると思う。
 私の幼少時代同様、この地域でもそうで、残暑厳しい中、連日子どもたちは9月21日(日)の本番に向け、練習に励んでいた。
 お昼は見に来た家族と共にお弁当を食べるのが慣例で、私も前日から気合が入っていたし、当日早朝から台所で忙しくした。

 ところが、朝5時頃からゴロゴロ、雷雨。予報にはなかったので、すぐ止むだろうと思っていたら土砂降り、ダメ押しは大雨警報発令で23日に延期するとの放送が入った。

 トホホ……
 ランはがっかりしている。私も泣く泣く出来上がったおかずをお弁当箱に詰め、昼食にあてることにした。
 
 だが、果たして23日は暑いほどの晴天に恵まれ、運動会は無事開催された。幼稚園・小学校合同開催で、大きな小学生の中で園児たちはひときわ小さく可愛く見える。
 入場行進などの後、全員で小学校の校歌斉唱。
 私も数十年前歌った懐かしい校歌が、緑豊かな山里に響くと、じわ〜と涙がこぼれた。
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2010年03月11日

記者・安田さんと父も縁あり。新聞では二胡の音は出せない?! 緊張の取材、無事終了する。

 記者・安田さんは、私より3歳ほど若い青年だった。
「来てくれる記者は安田さんていう人らしいよ。」
と父に話すと、中学校教諭だった父の教え子だということがわかっており、親近感は会う前から湧いていた。もちろん安田さんの方も承知の上で、
「僕、理科は苦手だったんで、お世話をかけてしまいました。」
と言う。謙虚な人だ。だいたいそういう人ほど結構よく出来たんだと思う。

 40分ほど応接間で話をする。新聞社に送ったメールには二胡のことも書いていたので、最後に二胡を持った姿を写真に撮りたいと言われる。
 畳敷きの奥の間に移動し、二胡を持ち、構えて、
「弾きましょうか?」
と緊張して訊ねると、
「写真だけでいいですよ。」
とあっさり答えられた。
 数枚シャッターを押した安田さんは、4〜5日後の紙面に載せられると思います、と丁寧に言い、帰って行った。

 あとで両親に話すと、
「新聞では二胡の音は聴けへんのやから、弾く必要ないやろ。」
とあきれられた。
 まあ、それもよかった。とにかく、またひとつステップを踏んだ気持ちになった。
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2010年03月10日

台湾にはないデラウェア。メイの専属守り役・じーちゃんがブランコ製作。記者・安田氏来宅。

だんだん娘たちはじーちゃんばーちゃんの里の生活に馴染んできた。
朝食はだいたいミルク、パン、卵、果物が基本で、フレンチトーストにしたりホットケーキを焼いたり、卵サンドだったりと変化をつけてやった。
 そういえば、暑い時期出回るデラウエア。小さい実のブドウであるが、あれは台湾にないことに気づく。台湾は輸入品も多いがフルーツ王国と言えるものの、あの可愛い小ぶりのブドウは見たことがない。
 もともと大のブドウ好きな娘たちは、種も無く食べやすいデラウエアを気に入った。

 台北で通った私立幼稚園とは異なり、公立幼稚園に入ったランは平均午後2時頃には帰って来た。もう少し幼稚園にいてほしいところだが、家にいる妹メイには好都合だった。
 大工仕事が趣味の父は、ランの「ブランコにのりたい!」熱烈コールを受け、ホームセンターで材料を調達し、本当にブランコを作ってしまった。

 当時3歳だったメイの守りは、地域の役やつき合い、趣味などで多忙の母をあてにするより父に頼む方が確実であった。「いただきます」が言えず、「いたかまです」になる可愛いメイの専属世話人になることを父も自然に引き受けてくれた。

 そうこうするうちに9月18日、地元新聞社記者・安田さんが取材にわが家にやって来た。
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2010年03月09日

一旦ボツになった話が復活、地元新聞社から取材依頼の電話。二胡練習に力を入れ、その日を待つ。

 中国語生徒募集方法はまずポスター貼り付けだけが実行できた。
しかし、これは気を長く持って反応を待たねばならなかった。
 メールを送った地元新聞社からは翌々日くらいにはメールで返信があったが、記事にはしてもらえず、紙面広告各サイズの料金等の説明が丁寧に施されているだけだった。

 あ〜あ、やっぱり記事は無理だったか、と新聞折込みの方を再び考慮しかけた頃であった。例の地元新聞社より電話がかかってきたのだ。
「先日はメールありがとうございました。実は後にあなた様に紙面登場してもらうことが決まりまして…… ちょうどあなた様と似たような英語を使って国際文化交流したいという方がいらして、その人の記事とペアで掲載する企画が持ち上がったんです。」
との内容である。ついては後日、弊社の記者が自宅まで伺いたい、とのことである。

 わ、やった!
いざ記事になるというと恥ずかしく動揺したが、チャンスにちがいない。
 本当にしばらくして私の担当記者という安田さんという男性が電話をかけてきて、取材日時を決めた。

 新聞社に記事として取り上げてもらう運びとなり、新聞折込み広告はきっぱり考えないことにした。
 取材の日まで、私はいつもより増して二胡の練習に力を入れて待った。
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2010年03月08日

新聞社にメール、ポスター作製、新聞販売所に電話。就活進む。メイ、保育園へは行かず、家庭保育。

 地元新聞社へ台湾から一時帰国した経緯や中国語、二胡のことなどを書いた長いメールを送ってみた。うまく行くと記事にしてもらえるよ、と知人が教えてくれたのだ。
 記事として取り上げられなかったら、サイズに応じた広告掲載料を支払い、宣伝する方法もあった。

 また、文具店へ行き、迷った結果オレンジ色の画用紙を5枚購入して来て、ワープロを使い、中国語生徒募集ポスターを作製、近所のコンビニ、顔見知りの書店などなどに貼らせてもらった。

 新聞折込み広告についても近くの新聞販売所に電話していろいろ訊ねてみた。最も安い広告の種類とエリア配布で12000円ほどかかることがわかった。

 帰国して10日。
 せっかちな私は、やっと荷物の整理が終わるや否や、次のステップを踏んだ。

 ランは喜んで幼稚園へ通った。最初3日間ほどは集合場所から幼稚園まで同じ地区の幼・小学生6人とともに私も歩いた。
 先生や園児たちとの会話もさほど問題なく進んでいるようだった。
 また、妹のメイは幼稚園入園までの半年間、保育園へは預けず、家で守りすることにした。公立幼稚園とは異なり、保育園の保育料は数倍高いし、私は基本的には専業主婦、祖父母といる時間も貴重で、それもよし、と思えた。
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2010年03月07日

就活開始。新聞折込み、ポスター、新聞社売り込み作戦など考える。

 面接の感触から、おそらくダメだろうとは予想していた。
 中国人労働者が増える中、通訳がいれば助かる企業は多いはずだが
通訳一人をわざわざ雇う余裕が無いのが実情なのだ。
 それにその家電メーカーの部長が言うように、継続的に中国から労働者を呼ぶ企業も多く、来日して2〜3年もすると日常会話や現場で使用する専門用語などを覚え、次に来る中国人仲間に教えてやれるというのだ。至極当然と言えば当然のことである。
 
 よって、通訳なんて要らないわけである。私がその会社に採用されるには、流れ作業が多い現場の工員として1日8時間ほど働くことが条件になった。その中で中国語通訳の仕事が3%か5%くらいあるかもしれない、ということだった。
 地元の人に聞くと、細かい作業もあり、目や腰を痛める人もいるという。それに母だけに子守りを預けられる状況でもなく、とても毎日8時間も家を空けることは無理だった。

 リーからの仕送りはあったが、まったく無収入というのも彼に対しても申し訳なかった。台湾より日本の方がずっと物価は高いのだし。

 1週間ほど私は仕事のことばかり考えていた。精神的な充実のためにも何かしたかった。
 
 そうだ。やはり中国語を駆使してできることをやってみよう。
そう決めると、新聞折込み広告や生徒募集ポスターなど、次々とアイデアが浮かんで来た。地元新聞社にも売り込みメールを書いてみた。   
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2010年03月06日

日本の幼稚園に合わせ、昼寝ナシ、早寝習慣をつける。地元最大の家電メーカーで面接試験、翌日早くも不採用通知。

 日本のランが通う幼稚園は朝8時までに到着せねばならなかった。
 また、同地区の幼稚園児と小学生が定時に集合し、徒歩で通学するため、遅刻は厳禁。逆算すると7時15分には家を出ないと間に合わない。6:20頃には起床ということになる。

 2学期までの1週間ほどで、台北とはまったくちがう生活習慣の基礎を作ることになった。ランもメイも自宅や幼稚園で午睡していたが、帰国後スッパリやめて、その分早く寝ることにする。これはかえって良いことだった。

 夏休みも大詰めの8月27日、私は車で10分ほどの地元で最大の家電企業へ面接に出かけた。
 これは父の知人がその会社の人事部長と知り合いで、台湾にいた時から細々と就活していた私に唯一巡って来たチャンスであった。とにかく会ってやってもいい、という返事をもらっていた。
 田舎の会社とは言え、大手電気メーカーの支社の部長サンだけあり想像以上にシビアで質の高い面接に感じた。

 なぜ家電メーカーという私にはまったく畑ちがいなところにアプローチしたかというと、中国人従業員が勤めており、通訳のような仕事が期待できたからだった。

 双方ともに希望を述べ合い、20分ほどで面接は終了。
 そして、意外に翌日早くも電話があり、不採用を告げられてしまった。 

 
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2010年03月05日

幼稚園、ラン受け入れ準備OK。問題はランの日本語会話能力。家の中で娘たちはすべて中国語で会話。

母の方から幼稚園には何かと連絡を入れてもらっていた。
ランは9月、2学期から入園することになっていたので、座布団、上履き、コップ、箸、タオル、黄色い傘などを準備しなくてはならなかったし、制服、体操服、通園リュックや帽子などはすでに注文済みで、26日主任先生から一式受け取ることができた。

私と主任先生がじっくり話せるようにと、母が同行し、遊戯室などでランとメイを見ていてくれた。
私の母校である幼稚園だが、当時の建物は新築され、美しく可愛らしく生まれ変わっていた。天井の高い遊戯室はユニークで、夏涼しかった。

ちょうどランの担任をしてもらう年少組の岸本先生も出勤しておられ
あいさつすることができた。ランのリュック入れや下駄箱などに名前シールが貼られ、受け入れ準備は整っていて大変感激した。

しかし、当のランは先生方に「おはよう」くらいしか日本語が出て来ない。先生方もランの日本語能力をとても心配されていた。
「私たちが言うことはわかるでしょうが、自分の言いたいことが言えないとかわいそうですねえ。」
数日間私が様子を見がてら園に滞在してはどうかという話も出たが、結局それはナシになった。かえって彼女の日本語復活を遅らせるだろうというのだ。
子どもの言語能力はすごい。とにかく様子を見てみようと決まり、始業式を待つことになる。

実家の中でも娘たちは全部中国語で、父と母はたびたび私に助けを求めてきた。
それでも、台北のマンション暮らしとちがい、好きな時に靴やサンダルを引っかけて外に走り出る娘たちを見て、帰って来て良かったとしみじみ感じた。
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2010年03月04日

8月25日、母娘日本へ飛ぶ。祖父母の出迎えに駆け寄る娘たち。翌日、ランが入園する幼稚園を訪れる。

というわけで、拙文におつき合い、誠にありがとうございました。
まあ、こよなく愛する物書き分野で一定の評価を得られたのだろうと解釈すると、これは実に興奮に値する体験であり、今後も機会と意欲と書きたくてたまらなくなる構想が生まれれば、生涯書き続けたいと思った。

 さて、このヨロコビ冷めやらぬうちに、8月25日がとうとうやってきて、ランとメイと私はリーと義母の空港までの見送りを受けて、日本へ向け飛び立った。
 日本滞在期間が半年か、1年か、それ以上になりランが幼稚園卒園までになるかははっきりわからないまま台湾を離れた。

 関空着は午後1:00。
到着ゲートを出ると、娘たちは私より先を歩き、いち早く電車とバスで迎えに来た祖父母(私の両親)を見つけ、駆け出した。
「じーちゃーん、ばーちゃーん!!」
高い天井の白い建物に響き渡る彼女らの声。周囲を気遣ったが、映画のワンシーンのような微笑ましい光景と言えるのだろう、にこにこと周りは眺めてくれた。

 とにかく日本へ帰って来た。先ははっきり晴れては見えないがやるしかない。
 ほとんど日本語をしゃべれなくなった娘たちと祖父母の通訳役にも忙しい日々が始まった。

 翌26日、さっそく幼稚園の主任教諭を訪ねる。
 この幼稚園は私が数十年前に通った母校でもあった。
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2010年03月03日

『客家の祖母より、綿々と』〜6〜

 家の周囲は祖母の畑で、ついこの間まで自力で耕していた彼女に代わり、今は苗栗の叔父たちが様々な野菜を育てている。
 帰り支度を始めた私たちのために、栽培者の一人、三女の叔母が畑に入り、キャベツ、大根、かぶらに似た大頭菜などを引き抜いてくれる。すべて無農薬だ。丸々とすこやかに実り、どう料理しようか、わくわくしてくる。いただく時には、祖母たちの顔や、苗栗の風景が浮かび、美味に芳香を加える。

 長らえば、喜びも多い分、苦労もついてくる。六人も子を持つと、彼らも苦難に遭い、老い、病む。そして、依然、母を慕い、彼らは還って来る。五聖宮の神仏の如く、ここで祖母は皆を迎える。畑でのびのび育つ野菜たちまで、祖母の血肉を分け与えられたように豊かで尊い。
 還るね、と告げると、正直すぎるほど祖母の表情は寂しさを表現した。それを直視する心苦しさを紛らわしたくて、私は祖母の細くやわらかい手を取り、大きく話しかけた。
「さくさん食べて、しっかり歩いて、元気でね。また来るから。」
 娘たちも、祖母に飛びつくようにバイバイする。土が付いたままの野菜たちを手に手に、車へ向かう。電話での会話もままならなくなり祖母の健康を願いながら、再会までの別れを惜しむ。
 車窓から、伸びぬ腰で立つ祖母たちにだるくなるほど手を振って、五聖宮をも後にすると、祖母の壁で止まったままの時間や日付けの魔法が少しずつ薄れ始める。おばあちゃん、また近いうちにね。我が胸に言い聞かせる声が、自ずと響く。
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2010年03月02日

『客家の祖母より、綿々と』〜5〜

 母の存在は甚大だ。子子孫孫まで呼び寄せる力は強い。
「でも、からだが弱って動けない。かわいそうねえ。もうすぐ死にます。」
 また来た。
「バカなこと言ってないで、もっともっと元気でいてよ。」
「ほんとよ、まったく。戯言ばっかり言うんだから。」
 別便で帰省した義母のすぐ下の妹が聞きつけて口を出す。この叔母も台北在住だが、一週間祖母に付き添うことになっていた。
 あまり長く話すと祖母が疲れないかと叔母に訊く。横になってるもの平気よ、と言うので、私はベッド脇に座り続けた。
 壁には相変わらず三つの時計が掛けられ、それぞれ異なる時刻で針を止めている。どういう基準で淘汰されずに残ったか定かでないが、カレンダーも二種類剥がされず、絵画のように誇らしげだ。祖母の皮膚の皺、モノクロ映画で観たような昔造りの住居とそれらが、私の中で時空感覚を麻痺させる。と同時に、ここに来るたび、台湾に嫁いだ縁に思い至る。

 昼食後、母屋の椅子に腰掛けた祖母にカメラを向けた。娘たちとのスナップを撮りたかった。
 すると、祖母は手で振り払うような仕草をして、やめろという。
「鬼みたいだから、撮らなくていい。」
また戯言だ。
 何度も説得して、ようやくおとなしく構えてくれた。小さな娘たちをもなだめねばならず往生した。
 しかし、祖母は撮り終えても、まだ決まり悪そうにつぶやく。
「鬼みたいだから、撮らなくていいのに……」
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2010年03月01日

『客家の祖母より、綿々と』〜4〜

「からだの具合はどう?」
小学生が国語の教科書を吟唱するような調子になる。
「足が弱って痛い。もうすぐ死にます。」
「は?なに言ってるの?痛くても歩かないともっと弱るよ。歩いてる?」
 隣の部屋にも丸聞こえだろうと思いつつ、会話を続ける。
「はあー、ときどき、近所の年寄りといっしょに散歩する。」
「それはいい!だれかといっしょのほうが安心だからね。」
 本当にそうだ。一人で転びでもしたら大変だ。
「ことしの冬は寒かったねえ。」
高温多湿な台湾の気候に合わせた造りのこの<老齢一條龍>では、すきま風も容赦なく吹き込むにちがいない。
「とーても寒かった。夜、ひとりはさびしいよ。でも、寝てしまったら何も感じない。」
 私は同情する一方で、祖母の言い回しにユーモアを感じ、おかしくなった。
「さびしいけど、おじさんやおばさんがよく見に来てくれるでしょう?」
 祖母は約二十年前に夫を亡くしたが、二男四女に恵まれ、そのうちの次男と三女が苗栗に住み、しょっちゅう老母を見舞いに帰っているのを知っている。
「今日だって、ほら、こんなにおおぜいおばあちゃんに会いに来たんだよ。」
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