2010年01月11日

国民党・馬英九新総統誕生! 爆竹の音が心地よく感じた黄昏。退任直後、陳水扁前総統は起訴、裁判続く。中国との関係改善、香港経由なし、直行便新設。

日本の選挙は日曜日だが、台湾は決まって土曜日に投票日が設けられている。
3月22日投票時間終了後、開票作業が始まり、その日のうちに馬英九の当選確実報道、ついに新総統が誕生するはこびとなった。8年続いた陳水扁の民進党から国民党に政権移行、陳水扁は家族親族によるマネーロンダリングなどの罪で起訴され、裁判が続いている。貧困層がさらに貧しくなったと非難され、世論は国民党による新台湾の再生への期待が高まっていた。
今でも記憶に新しい。義母宅にいた私たちは、馬英九の当確を知った人々が義母宅の入るアパートの細い通りで爆竹を鳴らし、馬新総統の誕生を盛大に祝った。幹線道路から奥まったその200メートルほどの通りを貫く爆竹は夕暮れの町に響き、この時ばかりはその爆音が耳に心地よく感じた。

国民党・馬政権発足後の大きい変化のひとつは中国との関係改善で、台中渡航には必ず香港経由ではならなかった航空便に直行便が新設されたことである。台北の隣り、桃園縣にある台北国際空港でなく、台北市内にある松山空港発着便もでき、とても便利になった。

しかし、今から思うに、馬英九と台湾国民との蜜月はそう長く続かなかった。
2009年夏、台風災害時の対応のまずさへの不満は、与党への失望感を煽った。
民進党、国民党、どちらが政権をとるとらないではなく、民が潤い、豊かに暮らせるようになればよい、というときれいごとのようだが、実際政治の究極の目的はそうでないかと思う。リストラ、収入低下などで生活が困窮し、台湾でも自殺者の数は少なくないのである。
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2010年01月10日

こむら返り、慢性化恐れる。台湾総統選挙前日、総統候補・馬英九を多くの支援者たちと沿道で待ち、手を振る。翌3月22日投票日。選挙権がないことを恨む。

リーと2人がかりで異様にも異常にも暴れ狂う右足の縦に走る筋を元通りにしようと試みる時間はとても長かった。
「救急車呼んだ方がいい?」
とリーに訊いたが、その必要はないと言う。
だが、まるで別個の生き物のように化した右足の発作がだいたい治まった後も、あまりに強烈な痛みのためか、しばらく吐き気が続き、痛みの後遺症は数日間消えなかった。

こむら返りが慢性にならないか、またあの激痛が来るのではないかとしばらくびくびくして暮らした。NHKのためしてガッテンでこむら返り特集があり、なる人はしょっちゅうなり、特に明け方に多く起こるなどとも言っていた。

3月半ばを過ぎ、台北で20度を切ると肌寒く感じる季節になった。
3月21日、メイを連れ、自宅から徒歩10分ほどの日本で言うJAみたいな団体が経営するスーパーに行くと、「馬英九」の小旗を持った人たちが道路沿いにたくさん群がっている。私にも「11時前に馬英九がここを通るからあなたも声援を送らない?」と声をかけられ、その旗を手渡された。
時計を見ると10時半頃、メイに説明すると彼女も「まーいんじょう、見たい!」と言うので、沿道で待つことにする。
すぐ横に銀行があるのだが、中を見ると行員たちも席から立ち上がり外をうかがっているし、メイを見つけ、キャンデイをくれたりあやしたり。和気藹々な空気が一帯に流れた。

長く感じたが、25分くらい待ったところで、前後に何台ものガードや選挙活動カーに囲まれ、次期総統候補・馬英九が車が角を曲がって向かって来た。彼は手を差し伸べ、支援者に笑顔で応える。私もその手を求め手を伸ばした。だが、馬英九の手だったか、隣りにいた活動員のものだったか定かでないのが残念でならなかった。

翌22日(土)が投票日であった。リーは朝さっそく投票に出かけた
この時の選挙ほど、台湾で選挙権がないことを恨んだことはなかった。
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2010年01月09日

インサイダー取引容疑晴れる。無実確定、リーは元同僚と祝杯。またもや体調不良でダウン、こむら返りで救急車?!

旧正月気分も抜けた2月20日、数ヶ月続いた案件、リーのインサイダー取引容疑がついに晴れた。実に濡れ衣を着せられた迷惑な話、運が悪いと言えばそれまでだが、実に不運な一件であった。
当時の幹部10名ほどを困らせた当の財務担当者はまだそのポストにあり、リーたちが無実を証明するために奔走している最中に妻と日本へ観光旅行するなど、かなりの神経の太さを露呈し、ムッとしたが、まあとにかくよかった。30万円近い弁護士費用を払い、ひょっとしたらその3~4倍の罰金を支払わなければならないかもしれないと聞かされて穏やかでなかった。
無実が確定した夜、容疑をかけられた元同僚の中でもっとも気が合う友人とリーは祝杯をあげに出かけた。

日本移住を願う気持ちはその頃ずっと私にあった。
リーも少なからずその意向は持っていたが、不安定な夫婦の仲にあり
また、日常は素知らぬ顔でどんどん過ぎて、具体的にならずにいた。

3月には退職すると言っていたリーはまだかろうじて留まっていた3月初め。1月ひどい風邪でダウンした私は再度体調を崩していた。そのせいか、ある夜就寝間もなくこむら返りが起こり、隣室でテレビを見ていたリーを呼んだ。
右足がひね曲がるほどのオソロシイこむら返り。もちろん生まれてこのかな経験したことがない。救急車を呼ぼうか……
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2010年01月08日

日本に近い台湾の天候は日本と連動。台北8度の極寒時、日本の実家は39年ぶりにマイナス5.5度まで冷え込む。旧正月休暇終わり、伊巴珈琲、王さん胃潰瘍からの復帰に喜ぶ。

春節寒波はしばらく続いた。2月13日、旧正月7日目には台北で8度まで下がる極寒。冬でも10度を下回ることがほとんどない台北でこの低温はこたえる。
飛行機で関空から台北は2時間余り、沖縄だと1時間ほどゆえ、天候はさすがに日本と連動している。台湾でこうなのだから、日本の実家と通信すると、39年ぶりにマイナス5.5度まで冷え込んだという。

8月に旧暦の情人節(バレンタインデー)を祝う台湾は、ご丁寧にも2月またそれで盛り上がる。
だが、例によって、私はリーに何もする気になれず、もちろん彼もそのようであった。
ランの幼稚園は10日間ほど休みになっただけで、小中学校などより早々と平常保育に戻った。
16日(土)義弟一家が上海に帰る日にはランもリーと一緒に見送りに行き帰宅後しばし泣いた。もっと従姉たちと遊びたかったという。

私にはうれしいことがあった。伊巴珈琲に王さんが復帰したのだ!
重症の胃潰瘍で手術し、その後大事をとり1ヶ月静養していた彼女、毎日の薬と定期検診は欠かせないが、まずまず元気そうでホッとしたし、マックなど他を探さなくても、自宅すぐ向かいのオアシスの再来に心安らいだ。
彼女もバツイチ、年齢も近いこともあり、私はその頃から家庭の悩みをたくさん彼女に打ち明けるようになる。思うに、当時あのカフェ通いは私にとって大きな精神的支柱になっていた。
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2010年01月07日

2月6日大晦日、上海から帰国した親戚も集い、にぎやかに暮れる。3が日、故宮博物院へ。すごい人出、リニューアルした故宮は大人気。展示品は3ヶ月ごとに入れ替えられる。

その年の旧正月は2月7日、世の中は迎春ムードがどんどん高まっていった。
6日が大晦日、中国語でが「除夕」と言い、いちばん盛り上がる日である。家族が集い、ゆっくり夕食を楽しみ、午前0時をともに越すのが一般的だ。その前後からあちこちで爆竹が響き始めるのが、その年は雨、寒波襲来で寒く、静かだったので助かった。

上海から義姉、義弟一家が帰って来てにぎやかな年越し。
料理のうまい義母が腕をふるった食卓いっぱいのごちそうをいただく。
お年玉は「紅包」という真っ赤な小袋に入れ、大晦日にでも渡してしまう。日本で言う元旦を前に「新年快楽」とあいさつする。

お正月寒波と雨がちなお天気が続いたが、ずっと家の中では子どもたちが可哀そうだと、1月3日にあたる2月9日、リーと娘たち、義弟一家が車で故宮博物院へ行くことになった。三が日からオープンしているらしい。

7人はお昼を挟んで出かけた。
ようやく帰って来たリーによると、ものすごい人でゆっくりはっきり見られなかったらしい。お正月から大盛況なのだ。
それは大規模改装をしたり、新たなPRを展開して生まれ変わった故宮の威力とも関係しているのかもしれなかった。
私は語学学校の学生の頃、ひとりバスに乗って何度か故宮に通った。
なんでも3ヶ月ごとに展示品が入れ替えられるとかで、マンネリ化しないのも魅力だ。
また、人が少ない時にひとりブラリと訪れてみたい。
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2010年01月06日

会社は遠からず破産?! リー、退職、失業を示唆する。そして、離婚はしない宣言。危機的でもあわただしく過ぎる日常。

5年に一度ひくか否かというひどい風邪、耐え続けた顎関節症の限界と治療開始で1月は過ぎて行った。
子育てでは一喜一憂、子どもを育てているのか自分が育たなければいけないのかわからない状態でバタバタと毎日は暮れた。
そして、また嫌な一件が舞い込んだ。例のインサイダー取引嫌疑未解決のまま、リーは今の会社が社長の経営手腕、道義心、計画性の欠如から今後いくらも持ちこたえられず破産するだろうから、2月いっぱいで退職する、そして娘たちのために離婚はしない、と言って来たのだ。

あきれるほどの社長の失態はかねがね聞かされていた。
しかし、次を考えず失業とは穏やかでない。
「姉貴も失業は経験したし、義妹だってしたんだから、そう目くじら立てることでもないよ。」
と言い放ったのには頭に来た。義姉は独身だし、義妹は夫のちゃんとした収入がある上での副業なのだから、リーとは立場が違う。
正直言って、その当時まで夫にボーナスがないことすら想像したこともなかった私は、夫が失業し、終日連日家にいることすら耐えがたいことに思えた。

そして、子どものために離婚はしない発言だが、彼にその種のことを考えさせ、言わしめるような状況に私たち夫婦は陥っていた。
「子どものために」………
娘たちは夫婦をかろうじてつなぐ、まさに鎹(かすがい)であった。私もリーもランとメイがいるからこそ家庭を顧み、日々なんとか笑顔を失わず過ごしていた。
危機的な危険性を孕みながら、日常の些事雑事に忙殺され、時間は過ぎて行った。
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2010年01月05日

顎関節症患者心得を聞いた後、こめかみに注射。会計に走り、薬をもらって地下鉄に飛び乗る。メイを迎えに行き無事帰宅。注射の威力はすごい。5日で激痛消える。

王若松医師が言う顎関節症患者心得はもちろん程度問題で、まったく話せないわけではない。しかし、しゃべることは顎に負担をかけており、しゃべることを生業とする人、たとえば学校の先生などはかなりつらいものと思われる。
やわらかいものを食べるのはだいたい心がけられる。硬くなくてもガムはいけない。これは何となく納得できる。
バイオリン禁止かあ。二胡と言われずホッとする。バイオリンは顎で挟むからだろうか。

そして、その日王医師の治療は注射だった。こめかみに打つという。ギクッ、痛そう。でも、この10日間の割れんばかりの頭痛を思えば何のその。実際、たいしたことなかった。
あと飲み薬が出ることになり、王医師に重々礼を述べ、会計へ走る。

この会計もすごい。奇数と偶数それぞれ5ブースくらいあり、女性職員がガラス張りの向こう側の小部屋に座って処理している。各科でもらった請求書番号により振り分けられ、各ブースの電光掲示板に自分の番号が出るのを待つ。
会計が済めば、中央玄関にほど近い薬局へダッシュ。ここでもおおぜい待っていて目まいがするが、薬剤師もわんさといるので思ったより長くかからない。正午少し前に台大医院を後にし、すぐ目の前にある地下鉄台大医院駅から電車とバスで帰る。

連絡よく、30分弱で義母宅到着。速い。
12:50にはメイと2人無事帰宅。
その日の夕方には痛みが和らいだ。4〜5日間はあの激痛の余韻みたいな感覚があったが、その後は嘘のように治った。
「痛くなければ薬は飲まなくていいよ。ちょうど旧正月も来るし、2週間後にまた来なさい。」
と王医師に言われたので、薬は飲まずに様子を見ることにした。
それにしてもすごい。あの注射はいったい何者なのだろう。
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2010年01月04日

初めて足を踏み入れる台湾大学病院。広い院内、歯科は一番奥。やっと会えた顎関節症専門外来、王若松医師。注意事項、バイオリン禁止にしゃべるのもダメ?!

大げさなように聞こえるかもしれないが、あの時の頭痛は本当につらかった。金属製の何かで頭全体をぐいぐい締めつけられるような痛みで、時折頭を抱え込むようにしながら耐えた。
顎関節症の症状や進行速度には個人差があるが、私のような最悪のところまで放置せず治療を始めてほしいと心より忠告する。

まさに、待ちに待った1月28日月曜日。ランは幼稚園、メイは義母に預け、リーが出勤時に台湾大学病院まで送ってくれた。
現地では台湾大学病院を「台大医院」と言う。地下鉄の駅名にもなっている台湾を代表する医療機関だ。
「医院」は日本語の総合病院に当たる中国語で、日本の個人医院のような規模のものを「診所」と称するのが一般的だ。
外観しか見たことがなかった台大医院だが、中に入ってみるとまるでそこが一つのコミュニティか村のように大きく機能している。売店、スターバックス、コンビニなども完備され、一日でも時間を潰せる感じだ。

予約を取っているので直接歯科まで歩く。歯科は中央玄関からいちばん遠く、散歩までできてしまう。
予約済みの患者の中で先着順に診察を受けるシステムで、ようやく私の名前が呼ばれる。四文字の名前が廊下に響く。それでだいたい私が日本人だとわかるだろう。中国語の姓のほとんどは一文字だし、漢字三文字の名前はまず存在しないからだ。

あー、夢にまで見た顎関節症の権威・王若松医師。60歳くらいだろうか。経過や症状を説明してから診察に入る。
できるだけやわらかいものを食べ、しゃべらない、頬杖禁止、バイオリンはダメと指示される。
「しゃべらない」? これは困ったことになった。
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2010年01月03日

台湾大学病院歯科外来の電話でねばり、一般外来パスで顎関節症専門外来の予約を勝ち取る。痛みはバナナを食べる時にさえ感じ、頭痛は片時も離れず。王医師、早く助けて!

台湾大学は台湾高等教育の最高峰で、その病院もほぼ同等の高い評価を受けている大規模な総合病院である。馴染みある名前だが、自分自身が受診したことはなかった。
歯科の予約を28日(月)に取ることができたが、それまで約一週間、文字通り息も絶え絶え、ギリギリ、我慢の時間を送った。それくらい恐ろしい頭痛が頭全体をとらえ、苦しいこと極まりなかった。
当初、顎関節症の症状が出たのは右側だけだったが、頭痛は右も左もなかった。鎮痛剤を飲んでもすっきりとはせず、不安は片時も離れなかった。28日よ早く来い、早く来い、とまさにすがる思いだった。

それにしても28日に顎関節症専門外来で診てもらえるだけマシであった。
というのは、歯科で電話に出た男性ははじめ、「まず一般外来で診察を受けて、顎関節症と診断されないと専門外来の予約は取れませんよ」と言う。
だが、一刻を争う私の病状は必死に食らいついた。
「実は私、日本人で、夏一時帰国した際、日赤の歯科で顎関節症と診断されたんです。でも、治療する時間がなく台湾に帰って来て、症状が悪化して困ってるんです。お願いします。」
ああ、そういうことなんですか、と意外に男性はすんなり理解してくれて、王若松先生の外来患者リストに入れてくれた。本当にうれしかった。

顎関節症で急に口が開かなくなってしまい、病院に駆け込んだ、などという話は聞いたことがあったが、私も似たようなものだった。その頃には口を大きく開けられず、好物のバナナにかぶりつく時にさえ痛みを感じるようになっていた。食事時だけだった痛みは終日口周りに居座り、気分まで沈ませた。
あ〜、早く王医師に会いたい。王先生、早く助けてください。
本当にそう祈った。
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台湾大学病院歯科外来の電話でねばり、一般外来パスで顎関節症専門外来の予約を勝ち取る。痛みはバナナを食べる時にさえ感じ、頭痛は片時も離れず。王医師、早く助けて!

台湾大学は台湾高等教育の最高峰で、その病院もほぼ同等の高い評価を受けている大規模な総合病院である。馴染みある名前だが、自分自身が受診したことはなかった。
歯科の予約を28日(月)に取ることができたが、それまで約一週間、文字通り息も絶え絶え、ギリギリ、我慢の時間を送った。それくらい恐ろしい頭痛が頭全体をとらえ、苦しいこと極まりなかった。
当初、顎関節症の症状が出たのは右側だけだったが、頭痛は右も左もなかった。鎮痛剤を飲んでもすっきりとはせず、不安は片時も離れなかった。28日よ早く来い、早く来い、とまさにすがる思いだった。

それにしても28日に顎関節症専門外来で診てもらえるだけマシであった。
というのは、歯科で電話に出た男性ははじめ、「まず一般外来で診察を受けて、顎関節症と診断されないと専門外来の予約は取れませんよ」と言う。
だが、一刻を争う私の病状は必死に食らいついた。
「実は私、日本人で、夏一時帰国した際、日赤の歯科で顎関節症と診断されたんです。でも、治療する時間がなく台湾に帰って来て、症状が悪化して困ってるんです。お願いします。」
ああ、そういうことなんですか、と意外に男性はすんなり理解してくれて、王若松先生の外来患者リストに入れてくれた。本当にうれしかった。

顎関節症で急に口が開かなくなってしまい、病院に駆け込んだ、などという話は聞いたことがあったが、私も似たようなものだった。その頃には口を大きく開けられず、好物のバナナにかぶりつく時にさえ痛みを感じるようになっていた。食事時だけだった痛みは終日口周りに居座り、気分まで沈ませた。
あ〜、早く王医師に会いたい。王先生、早く助けてください。
本当にそう祈った。
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2010年01月02日

「消炎」注射を打っても続くひどい風邪の症状、数年間放置した顎関節症も末期的重症、ネットで専門外来を探し、台湾大学病院歯科の王若松医師を予約する。その日まで市販の鎮痛剤で泣く泣くしのぐ。

めったにないことだが、私はほとんど物が食べられなくなった。なのに嘔吐する。熱は上がり、咳が出て、胸が苦しい。ベッドで休んでいてもその苦痛は変わらない重症で、翌18日金曜日、その窮状から自ら判断しリーは会社を休んだ。

なかなか快方に向かわないので、19日再度医者に診せる。あまりにひどいので「消炎」という注射を打ってもらう。
その午後は注射が効き、身体が軽くなる。
が、甘かった。
「消炎」の効力が消えると、また尋常でない苦しみが襲って来た。
週末は家事のできるリーが食事を作ってくれたり、娘たちと外食してくれたりしたが、週明けからはそうもいかない。ランは幼稚園だからいいが、義母も体調がすくれないし、メイは姉と異なりおばあちゃん宅へは行きたがらない子で、私が見るしかなかった。日本の母を想っては、しんどさと相まって涙が出た。

それと例の顎関節症から来る頭痛は、風邪に喚起されたようにどんどん悪化し、四六時中頭を締めつけて来た。1月23日頃には風邪が半分ほど治まり、私はネットなどで顎関節症専門外来がある病院を探した。
だいたい予想はしていたが、良い専門の医師がいるのは台湾大学病院の歯科であった。電話で予約を取る。忘れもしない「王若松」先生。王先生の外来は月曜日だけ。
私は市販の鎮痛剤を連日飲み、頭全体が爆発しそうな強烈な頭痛と闘った。放っておいた自分がいけないのだが、数年来抱えていた顎関節症はついにこんな形で私の忍耐の限界を突き破ったのだった。
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2010年01月01日

2010年開幕、今年もよろしく! ラン、メイ39度を超す高熱の風邪。顎関節症による頭痛再発、そして私も風邪でダウン、リー早退してくれる。

あけましておめでとうございます。2010年開幕。今年もよろしくお願い申し上げます。当ブログは2008年の1月、私の感覚から言うと、現在に近く、また記事カテゴリにあるように低迷期の最中にある重要な時期です。2008年8月には娘たちと3人で日本へ帰ることにもなります。では
続きを。

さて、あの1月はすさまじかった。
まず、ランは時折39度を超す高熱の風邪、幼稚園を休んだり早退したりが続き、案の定メイにうつってしまう。
そして、1〜2ヶ月おさまっていた私の顎関節症による頭痛が再発、「頭全体を金属で締め付けられているような痛み」と日記に記している。それでも私はなんとか我慢しようとする。

娘たちの風邪がだいたいおさまった17日、とうとう私はダウンしてしまう。木曜日だった。
午後異様な体調の悪さに文字通り座り込んでしまう。ランは幼稚園、メイは義母宅。ランを迎えに行く気力もなく、予定されていた二胡レッスンのキャンセルを電話で蔡老師に伝える。
そして、床に倒れこんだまま会社にいるリーに電話、早めに退社して帰りにランを迎えに寄ってくれるよう怖々頼んでみた。

5時過ぎにはランを連れ、リーが帰宅。ホッとする。ありがとう。
しかし、私の風邪は数年前香港で罹った重症の気管支炎を彷彿とさせる苦しさであった。
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