2010年01月31日

阿里山を散策、膝が笑うまで歩く。午後、阿里山青年活動中心208号室に入る。山小屋風の部屋。落日拝めず夕食。

阿里山山頂は19度。6月半ばにさしかかり、亜熱帯の台北の熱気に慣れた身体にはひどく寒く感じる。アジサイもここでは咲けるのだ。
山の散策コースを1時間半ほど歩く。ホテルや公共施設なども点在し、時折観光客のみならず、そこで働く職員などにも出くわす。

上り下り結構きつく、私は膝が笑うのを感じた。
3時40分、宿舎の部屋にたどり着く。208号室、木材がふんだんに使われた山小屋風の部屋は視覚的には温かいが、夜ぐっと冷えて来ないか気がかりだった。

父子3人と別行動していた私を、夕方リーが呼びに来る。
「日の入りを見ない?」
と誘われ、宿舎前に出る。
中国語で日の入りは「落日」と言う。阿里山からの日の出と日の入りは美しくて有名だ。
家族中厚いコートを着込んで待つ。

しかし、あいにく雲が多く、6時まで待ったがあきらめ、夕食開始6:20早々食堂へ行く。
日月譚青年活動中心同様600元のコース料理だったが、量が少なく、ゆうべとは見劣り甚だしかった。りー曰く、高い山の上、様々な生活物資や食材を運び上げるのも大変なのだろう。

夜に入り、気温は18度に。寒い。
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2010年01月30日

国定公園・阿里山、台湾最高峰の玉山などに囲まれた別天地。阿里山遊楽区、散策時にアジサイを見つける。

不気味な渓谷や水害にたびたび見舞われる信義郷、巨砲の産地などを走り、6月10日正午頃ようやく阿里山青年活動中心に到着。
即チェックインできたので、先に荷物を運び入れることにする。
リーはここでもまた青年活動中心を宿に決めたわけである。さすがに山のロッジ風で板張りの床、心地良い足音が響く。

荷物を下ろして軽くなったカローラで再び出発。
近くの阿里山遊楽区へ向かう。ここに入るには入場料が必要だ。区内に観光施設が集められているという感じである。

阿里山は国定公園で、周囲には台湾最高峰の玉山(標高3952m)など2000〜3000m級の山々がそびえている。嘉義縣に位置し、鉄道やバスでも行くことができる。日本統治時代に木材運搬を目的に敷かれた鉄道は、今でも観光客を運ぶ役割を果たしているという。

亜熱帯と熱帯気候の台湾だが、こう標高が高いと別世界に来たようで日中でも長袖を2〜3枚重ねないと寒い。娘たちでさえそれだけ来ても暑がらない。
食堂で昼食を済ませ、セブンイレブンでお菓子を買い、森林区を歩くことにする。原住民が暮らす地域ゆえ、何となくやはりちょっと顔立ちに特徴ある人が目立つ。
観光街を離れまもなく、私はアジサイが咲いているのを発見!
暑い台湾ではこれまで一度も見たことがなかった大好きなアジサイの花。ここでは咲くんだ、台湾でも咲く場所があるんだ、といたく感動する。
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2010年01月29日

玄奨三蔵法師の遺骨は、昭和17年日本軍によりいち時期日本に持ち去られていた。徳高き層の遺骨は「舎利子」と呼ぶ。尼僧に感謝。

尼僧とリーの説明からすると、玄奨三蔵法師の遺骨は「舎利子」と呼ばれるらしい。とにかく純白である。私のような罪深き凡人の骨があれほど美しい白色をしていることはないはずだし、三蔵法師のそれは今なお形を変え、色が澄み、まさに生きているような印象を与えるという。本当に徳を積み、解脱した人だけに表れる現象なのだろう。

実は、玄奨三蔵法師のこの遺骨、昭和17年南京を占領していた日本軍が石棺を発見、日本の専門家により三蔵法師のものと確認され、半分を日本に持って行かれ、しばらくは東京にある寺院に奉納されていた。
後に、爆撃を恐れ、住処を変え、今は台湾最大の湖・日月潭のほとりのお寺で守られているというわけである。

尼僧の話に甚く感じ入った様子のリーは、100元で家族の健康を祈願する蝋燭を購入し、供えた。
寺を辞す際は、私も彼も何度も合掌し、尼僧に頭を下げた。
石段を下りる時、紺碧の日月潭が視界に広がり、娘たちと感嘆の声をあげる。太陽はすでにギラギラ降り注いでいた。

マイカーは再びエンジンをつけ、次なる目的地・玉山と阿里山を目指し疾駆した。
玄奨寺を想い、合掌。
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2010年01月28日

玄奨寺はあの西遊記・玄奨三蔵法師の遺骨を祀る名刹。朗らかな尼僧が丁寧にもてなし説明してくれる。純白の遺骨は聖人ならでは。

早朝から絵葉書の風景のように明るくきれいに晴れ渡り、今日も暑くなりそうだぞと車の後部座席で思っていると、リーが玄奨寺について熱心に説明し始める。
最初はどこにでもある神社かお寺だろうと適当にふんふんうなづき、もう寄らずにこのまま行こうよおと内心思っていると「西遊記」とか「三蔵法師」という日本人にも馴染みのある単語が耳に引っかかる。
そのため、だんだん真剣に聞くようになるし、リー自身、私の意見を訊くというより、すでに寄って行こうと決めている様子だ。

日月潭青年活動中心を出て5分ほどで、湖畔に車を停め、道路を渡り玄奨寺の石段を上る。ランとメイの足にはきつい石段で、手を引いてよいしょよいしょと行く。
庭や建物を修理する作業中のおじさんたちがいるだけで、参拝者や観光客らしい人は一人もいない。一日の参拝者で最も早い時間に属すのではないかと想像する。

この玄奨寺、家族旅行を計画する段階では話題に上らなかったが、知る人ぞ知る由緒あるお寺である。
なんとあの「西遊記」の玄奨三蔵法師の遺骨の一部が祀られている。玄奨像や天竺への旅の足跡を表したレリーフなども飾られているのだ。
我が家の4人が本殿に入って間もなく、尼僧さんが現われた。茶の作務衣のようないでたちで、頭を丸め、小柄でにこにこ笑って説明してくれる。娘たちにも話しかけたりあやしたり、和気あいあいだ。
その遺骨を見る。純白だ。聞くと、凡人の遺骨とは大きく異なるらしい。私は尼僧の話にリーとともに耳を傾けた。
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2010年01月27日

台北より涼しい日月潭畔の青年活動中心の夜。アリ出現?クワガタ虫と共にする寝不足の夜。600元で豪華なディナーには満足。

日月潭青年活動中心はまた金山のそれとは建物も雰囲気もまったく異なり、よりカジュアルで一般のホテルに近い風格を感じる。
チェックイン手続は1時頃完了したものの、部屋に入るのはしばらく待ってほしいと言われ、その間娘たちはリーとすぐ前にある山に方へ散歩に出かけ、私はここに来て思いついた短編小説をロビーでせっせと書いていた。

蝉の声が聴こえ、台北より少し涼しい。
娘たちは小さなクワガタ虫を捕まえて帰って来た。

夜は繁華街には行かず、そこに付設されたレストランで600元(当時約2000円)のセットメニューを4人でいただいた。大皿で品数も多く、全部食べきれないほどだった。味もなかなかのもの。
さすがに山と湖に挟まれたロケーション、台北では望めない涼しい夜が訪れ、ツインベッドには私と娘たち、リーは固い方がいいと床で就寝。
あまり眠れない私は、何度もクワガタくんが這うガリガリという音を聴いた。

翌朝、リーも寝不足を訴えた。どうもアリがいるらしく、咬まれて痒かったらしい。それで4時頃からテレビをつけていた。

朝食は7時半から。
8時半には再びマイカーに乗り込み出発。
と、ほどなく、運転席からリーが「玄奨寺へ寄って行こう」と声をかけた。
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2010年01月26日

日月潭散策後、文武廟に寄り、その後昼食。宿泊は青年活動中心、唐式・板床の部屋。

日月潭周辺にはこじんまりした観光客用の施設が並んでいる。
それは日本の観光地とよく似た風情がある。土産物屋やちょいと歩きながら飲んだり食べたりできる屋台とかで、さほど珍しくもないが、湖を独り占めできそうなほとりのホテルはかなり素敵で、一泊してみたい気になる。いや、ゆっくりテラスでお茶するだけでもいい。

だが、3歳と4歳の娘たちがいては、じっくり思索したり追憶したりするのは難しい。優雅にお茶なんぞ10年早いというところだ。
にぎやかな家族連れにはボートに乗らないか?と地元業者が熱心に声をかけてくるくらいだ。日月潭を1時間半ほどかけて巡るらしいが、料金は安くないし、暑くなってきた湖面でそんなに長く子守り?と想像すると乗る気にはなれなかった。

散策を満喫した後、車ですぐそばの文武廟へ寄る。
台湾には「廟」が多く見られる。日本で言うと「寺」だろうか。
まだ正午には時間があったが 、日差しはすでに強く、冷房の効いた部屋に入りたくなる。

それで午後1時、早々と青年活動中心にチェックイン。春にも鴨肉の産地・金山で利用したあの青年活動中心の日月潭版である。
リーが予約したのは210号室、唐式で靴を脱いで上る板床の部屋だった。
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2010年01月25日

早朝起床、家族旅行に出発。南投縣魚池郷にある日月潭は台湾最大の湖。その名前の由来は?有数の景勝地で、朝の散策を楽しむ。

北二高とは、高校の名前ではない。
台湾の南北、基隆市と屏東縣を結ぶ高速道路の通称である。
6月9日(月)私は3:30起床、いつものように洗髪。ランも4:00を待たずに起きてきた。今日からの家族旅行がよっぽど楽しみだったのだろう。リーの大学時代の友人、陳さんを訪ねることから発展した旅の朝だ。

自宅から車でものの5分足らずの北二高に入ったのは5:20。
朝食とトイレ休憩に寄ったが、リーの計画より早い9時頃、日月潭に到着する。台湾を代表する観光地だが、平日の朝とあり、難なく駐車スペースを確保して車を離れた。

日月潭は南投縣魚池郷に位置する台湾最大の湖。
湖の北側が太陽(日)、南側が月の形をしていることからこの名がついた。湖の周囲は約25km、水深約30m、2000m級の山々に囲まれ、一日のうちでも様々な表情を見せる有数の景勝地ゆえ、日本からのツアーコースに組み込まれることも多い。

4月頃から30度以上に暑くなる台湾、この朝の涼しいうちにと4人で一時間ほど湖のほとりを散策する。9時台だとまだ空気が涼しく澄んで心地良い。ランもメイも早起きなど何のその、たしなめないといけないほどはしゃぎ回る。
「あそこに今日泊まる宿があるよ。」
とリーが対岸を指差した。
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2010年01月24日

まさか?! 上海の義妹が第3子懐妊?! リーとの共同経営、一時休止に安堵。 6月は端午節、ラン、粽持参で幼稚園に。

リー失業後、在宅時間が長くなった生活にもそれなりに慣れて来た。食事の用意に手間を取られるようになったが、時々幼稚園へランを迎えに行ってもらったり、メイと彼が午睡中、私はちょくちょく一人で外出できるようになったのはありがたい変化ではあった。

そして、6月1日、もうひとつうれしい出来事が起こった。
義母からの電話で、例の上海の義妹第三3子懐妊の知らせが入ったのだ!
彼女ら夫婦には既に6歳と10歳の子どもがいた。夫婦ともに子ども好きで、うちの娘たちを抱っこするとよくもう一人欲しいなあ、でも経済的にきついからダメだわ、なんて話していた。
義妹は出産する頃に39歳になるし、家計も苦しくなるだろうが、忘れた頃に訪れた新しい命を歓迎し、義母もホクホク顔であった。

もちろん私も彼らを祝福したし、これで少なくとも当分の間、義妹とリーの共同経営の話は休止することがうれしかった。

6月、台湾では端午節という大きな節句がある。その日は粽を食べる習慣がある。
ランの幼稚園から、「6月6日、園で端午節のパーティをするので、各自粽を持って登園してください」と連絡があった。
どうしよう、と思案していると、同じクラスに通うランの従妹の祖母が手作りするので、それをあげるわ、と言ってくれた。
市場などでもたくさん売られるが、やっぱり叔母の粽がいい。よかった。
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2010年01月23日

2008年5月20日、馬英九台湾総統就任。厳かな就任式は長時間テレビ中継される。リー、上海から帰国。次なるあては屏東縣で食品会社を営む友人。

2008年5月20日、陳水扁を破り、台湾総統に選出された国民党・馬英九の就任式が朝から長時間中継された。総統が交代する就任式を見たのは初めてで、日本とまったく異なる儀式や規模に驚いた。
親族ぐるみでマネーロンダリング等の容疑のある陳水扁は、この儀式終了後、逮捕された。まだ裁判は続いている。

この日の夜、リーは上海から帰って来た。
義妹との共同経営、出資の件は決着がつかず、もやもやイライラは解消できず至極残念だった。
夏か秋の日本移住を目指していたリーは、次なるあてがあることを表明した。台湾最南端の屏東縣に食品の卸販売などの会社を経営している友人がおり、日本に輸出したり、日本の美味を輸入したりする事業ができないか、質問や相談に行って見たいと話していたのだ。

電話やメールではいけない、会いに行くつもりだったリーは、せっかくだから家族で旅行を兼ねて彼を訪ねようと提案。
屏東縣にはまだ行ったことがなかった私は、それもいい、行ってみたい!と賛成した。
彼はその友人に電話し、だいたいの計画を告げ、先方の承諾も取った数日後から、ホテルの予約を始めた。

ちょうどその頃、私とも共通の知人である元同僚から、3社ほどリーに紹介できる会社があるとの連絡が入り、期待は高まった。
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2010年01月22日

瀟洒な国際都市・上海。されど暮らすなら台北か日本が好き。中華点心のレシピ本で試作に励む。日本で料理教室を。

リーは義妹にこう話していた。
初めから店を構えることは考えず、自分が制作可能なレシピリストを作り、それをレストランやカフェなどに試食してもらう。君の味を気に入ったところの場所を借りて売ってもらう、いわゆる卸商形式からスタートする方がリスクは少ない。話を詰めて、合意できれば、僕はいくらか出資させてもらうよ。

リーは慎重な性格だったし、一応アメリカでのMBA取得者、まあその考えはわからなくもないが、家庭と家計を守るパートナーとしては、とにかくやめてほしかった。すでに台北と日本に家があり、日本の方は若い者の手が必要な時期に差しかかっているのだから、なぜ今上海なのか、新天地に赴く気分にはなれなかった。

上海と言えば、海沿いの瀟洒な国際都市という図が浮かぶかもしれないが、上海全体があれほど近代的で美しいわけではないと聞く。
そういうデータやら、馴染んだ台湾の風土からも、暮らすなら台北か日本の実家の方がずっと好ましかったのである。

リーの承諾の下、私は日本で食べていく方策を練っていた。餃子や包子など点心の立派なレシピ本を購入し、家で試作して、料理教室開講構想を膨らませていたのはあの頃であった。
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2010年01月21日

5月四川大地震発生に心痛める。その翌日、リー上海に飛ぶ。上海でビジネスチャンスを探す彼。義妹と共同経営もあり?! 親族経営に私は反対。

リーが失業し、家にいるようになって12日目の5月12日、中国で四川大地震が発生したニュースが飛び込んできた。目立って多くが崩壊したのが学校の校舎だったためか、私はとても衝撃を受け、気に病み、暗い心境に陥った。

リーが上海に発ったのはその翌日であった。
彼の独身の姉と弟一家が住むようになって初めて訪れる上海である。
ネットで交信すると、四川大地震の揺れが上海でも感じられたということだったが被害は及ばなかったらしい。

今回リーは親族を訪ねるのだけが目的ではなく、上海で就職の可能性やビジネスチャンスはないか偵察(?)も兼ねていた。
彼と私の共通の友人の中でも中国大陸と関係する事業をする人はいたし、多くの企業は北京や上海に支社支店を持っていた。
それに実は私から言えば義妹、すなわちリーの弟の奥さんは食品栄養学を専門に学んだ女性で、副収入を得るためにも、いつか自分がパンやクッキーを焼いて売る店を持ちたいという夢があり、リーに共同出資の話を持ちかけてもいた。リーも結構乗り気でいたのだ。

そんなこんなで、上海行きは単なる息抜きではなかった。
が、私は義妹とリーが共同経営するのに大反対だったので心中穏やかではなかった。大陸での商売は難しいと聞く。それに、羽振りの良い時はいいにせよ、親族で金銭が絡んだことをやり、意見が合わなかったり、あれこれ醜い争いが起きるのをとても怖れていたのだ。
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2010年01月20日

マイ・マウスピース完成! しかし、しばらくは効果出ず、数時間話すとズキズキ痛む。再調整後、本領発揮。顎関節症にはピッタリ自分に合ったマウスピースが本当に効く。

透明入れ歯のようなマイ・マウスピースが出来上がっていた。
しかし、それを実際上の歯にはめて据わり具合を見るのに約1時間かけて例の若い男の子(のように見える歯科の青年、看護師だろうか)があーだこーだと奮闘した。時折、そばにいる先輩看護師か、もしかしたら台湾大学医学部の研究生みたいなこれまた若い女性に質問したり、意見を求めたりしていた。
食後の午後、横になったままの私は睡魔に襲われつつ耐え、ようやく作業が終わり、晴れてマイ・マウスピースを持ち病院を後にした。
その日から毎晩就寝中ずっとそれをつける生活が今も続いている。
一連のマウスピース作製に要した費用は日本円で4000円余りだった。

ところがその後、思うようにマウスピースの効果は出なかった。そのもの自体の効果より、こめかみに打つ注射が効いている気がした。
1月の激痛こそないが、常に右の頬の辺りはうずうず疼いたし、友人と会い、数時間話し込むと痛みははっきりと増し、つらかった。
「本当にマウスピースって効くの?」
どうしても疑いの気持ちが沸き起こった。

顎関節症専門医・王若松医師が「松葉杖のような効果がある」と話していたことを実感できたのは、次に受診した際、実習生のような若者ではなく、若手医師に近いような男性看護師が再度マウスピースの据わり具合を調整してくれてからであった。彼がまた削り、さらに私の歯にピッタリするようにしてくれた後、マウスピースはめきめき本領を発揮し、1年半経った今でも注射や薬ナシでほとんど痛みを忘れる生活を送っている。
顎関節症でお悩みの方、ご参考に。
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2010年01月19日

4月30日とうとうリーは失業。次なるあてはまったくナシでも彼は平気な様子。伊巴珈琲で新作構想練る。後に350枚の大作完成。5月6日午後、顎関節症専門外来へマウスピースを取りに行く。

台湾大学病院顎関節症専門外来2度目の受診翌日4月30日、リーはとうとう財務状況が火の車だった会社を辞め、失業した。次なるあてなど全くなく、5月中旬上海へ一週間ほど行く予定くらいしか入っておらず、私も日本の両親もたいそう不満かつ心配だったが、彼自身はひどい会社を退職し清々した様子だった。退職金や失業保険があるわけでないのに彼がのんびりしていられたのは、株をやっていたおかげだろう。

リーが在宅になり便利になったことは、彼がメイと午睡をするので平日でも伊巴珈琲に行き、一服できるようになったことだった。
胃潰瘍から復帰後、王さんは芳しくない経営状況打破のため、営業時間を変えたり、朝食をやろうかとか、新メニューをレシピ本を見ながら練ったりするようになっていた。
私も意見を求められ、2人であーだこーだ考えたりもした。

その日、伊巴珈琲の店内で小説の構想が浮かぶ、
一週間ほど前、台中に帰省した台湾人の友人からもらった電話がきっかけだった。某テレビ局に勤める愛称ゴマくんから、学生時代通った師範大学そばの食堂が店を閉めたという話から、いつかは書きたいと思っていたテーマがどんどんまとまり始めたのだ。
その後、その作品は10ヶ月ほどかかり、原稿用紙350枚の大作に仕上がることになる。

5月6日(火)昼食後、リーにメイを任せ、台湾大学病院へ向かう。
マウスピースが出来上がる日で、午前中ではなく午後来るよう言われていたのだ。
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2010年01月18日

天ぷらやけど通院やっと終了。リー、何とか4月末まで勤める。有給消化で休み多く、家事増える。3ヶ月ぶり、顎関節症専門外来へ。マウスピース作製に入る。

天ぷら油での右手甲のやけどは10日間ほどの通院を強いて、ようやく治療を終えた。かなり重症だったようで、その後も長い間、甲には直径4pほどの傷跡が残った。

社長との口論で明日にも失業かと思われたリーだが、その後は社長とほとんどまともに会話することはなかったものの何とか月末まで勤めてくれた。
しかし、有給を消化するためもあり、4月彼はしょっちゅう休みを取り私の家事はさらに増大した。
娘たちは休む間もなく風邪をひき、40度の高熱で座薬を入れることもあったし、私たち夫婦もうつされることは多々あった。子どもの風邪はあなどれない。しっかり大人にも感染し、症状も決して軽いわけではないのだ。

さすがに痛みが増し、4月29日、3ヶ月ぶりに台湾大学病院歯科顎関節症専門外来を受診する。
電話で予約していたし、受付も5番と早くすぐ診てもらえたが、王若松医師の勧めでマウスピースを作ることになり、その模型取りに40分ほど要し、例の注射も打ってもらったりで、清算が終了したのが11時。
マウスピースは日本の日赤でも話を聞いたが、やはり有効らしい。
「例えてみれば、足を怪我した人が松葉杖をついて痛みを和らげるようなものなんですよ」
と王医師は説明した。
実習生かと思しき若い助手のような男の子が私の「歯形」を取ってくれる。水分を含んだ粘土のようなものを何度も口に入れられ、顎が疲れた。
出来上がりは一週間後。
その予約もして、急いで家路についた。
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2010年01月17日

ハナ金夜のビールで思考低下、饒舌になるリーは枕元に来て話し合いを要求。子育て世代の母親は連続ドラマもまともに観られないことだってある。結婚生活への高い理想はそのまま、溝深まる。 2本目の二胡、やっと我が家に到着。

リーはハナ金の夜、500ml缶ビールを買って来て飲むことが多い。
さほど強くなく「飲まれる」ので嫌がる私に少し遠慮気味ではある。見ていると、4本くらいならまだいい。6本になると酔って、日本語や英語をしゃべり出したり、饒舌になったり、足元が危うくなる。思考も低下する。
よって、真夜中に私の枕元に来て、夫婦の現状やこれからについて話し合おうと言ったりすることも多々あり、迷惑この上なかった。話し合うのは良いことだが、素面の時にしてほしい。
それに彼は独身さながらの理想から脱却できないし、自分の非は認められない性分ゆえ、事実上話し合いは功を奏さなかった。年子の幼子がいる母親がゆっくりソファに腰変掛け、長時間ビデオやテレビを観ていられるだろうか。子どもははしゃぎ、トイレは助けを要し、洗濯や炊事も増えるばかりである。自分の趣味だってしたい。世の子育て世代の母親にどれだけ優雅に腰掛けテレビを観ている人がいるか、考えてもわかりそうなものなのだが……実際、出産後これまで、昔のようにテレビドラマをまともに観たことはない。毎週決まった時間にテレビの前にいられることは稀だし、ビデオに撮ってもそれを観る時間を結局とれないのである。

さて、6日に台北101の楽器展で決めた二胡だが、12日(土)ようやく先進楽器へ取りに行くことができた。早く会いたかったが、楽器展の後始末や搬送などに時間がかかり、足止めされていたのだ。
私は勝手の知れた店内で弓を選んだり、付いてなかった調整ネジをつけてもらったりした。
また、価格に含まれているケースだが、新商品だけに3年前のものよりずっと立派になっていた。買えば1500元(約5000円)するもので、頑丈、撥水に優れ、黒でデザインも上品である。

二胡開始後3年余りで2本目を手に入れたことになる。
ゆくゆくは娘たちと連弾する夢もある。
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2010年01月16日

重症やけど、しばらくは毎日通院。顎関節症は注射の効力が切れ始め、食事時痛むようになる。リー、社長と口論、「今日で辞めろ!」 失業前倒し?!

病院へ向かったのは夜8時を過ぎていた。
その個人総合病院は10時まで受付けてくれる心強い存在だ。日本と異なり、診療時間が長い台湾の中でも10時までと言うと最長だろう。
薬局で人工皮テープを買い、自分で治療していたが、テープ交換の際やけど患部の皮がズレッとむけてしまい、その下に新たに水ぶくれもできていて、確かに怖かった。

外科専門の院長先生が診てくれる。小太り体型は相変わらずだ。
患部消毒などの処置は正視できないほどだ。例によって患部を看護師が写真に収める。
破傷風の予防接種を受け、飲み薬2日分が出る。

痛みは翌日のお昼頃までズキズキ、少なくとも4日間通院する羽目になった。
それから1月28日台湾大学病院歯科で王若松医師の診察を受けた顎関節症。
あの1本の注射は驚異の効果を発揮し、出された飲み薬を一度も飲まず2ヶ月以上が経過していた。だいたい2週間は効果が持続すると聞いていたが、個人差もあるゆえ私はよく効く方だったのだろう。
しかし、さすがに物を食べる時に痛みを感じ始めた。そろそろ2度目の受診を考えたが、あの四六時中金属で締め付けられるような激痛に比べたら我慢できるもので、私は何度も病院に電話をして予約日を変更した。

その4月いっぱいで退職する宣言をしていたリーは中旬、とうとう社長と口論となり「今日で辞めろ!」と言われる。どうやら社長がリーをなじったのが原因らしい。
今月末で失業というだけで十分悲しいというのに困ったものだ。
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2010年01月15日

台北楽器展でとうとう2本目の二胡を決める。受け取りは後日。その夜、天ぷらの揚げ湯で大やけど。自己治療も効果なし。化膿?病院へ走る。

いずれ近いうちに2本目の二胡(中国語で二胡の量詞は「把」)はgetするつもりだったので、私は姿かたちも音色も好みのそれをあきらめられなくなった。
「明日以降、お店の方に来て。それまでにもう一度松脂を塗り直して、うちが開発した水にも強いケースもつけて待ってるわ。弓はお店の方がたくさんあるからゆっくり選んでもらっていいから。」
と至れり尽くせりという感じの李さんの弁。
私はうれしくて上気しながら内金だけ支払い、リーと娘たちが待つ、ケータイで確かめた約束の場所に駆けて行った。
二胡購入の件はすぐリーに伝えたが、彼はさして表情も変えず、いいんじゃない、と答えた。月謝以外の二胡に関する出費は私持ちだったし、ふだん高い買物などしない私の唯一のゼイタクだと観念していたのだろう。

それにしても、その日曜日は暑いほどの晴天で、台北の長〜い夏の始まりを予感させた。明るい日差し、新しい二胡との出会いに心は躍った。

ところが、その夜のことだった。
定期的に天ぷらが食べたくなる私は、大好きな玉ねぎと人参のかき揚げを揚げていた。ちなみに、天ぷらは日本の食べ物だが、台湾でも輸入された天ぷら粉を限られたスーパーで買うことができる。
かき揚げはよかった。しかし、鶏肉を揚げる際、皮の部分にまだ水分が残っていたのだろう、拳ほどの油の塊がとび跳ねたかと思った時には、私の右手の甲にかかっていた。

熱い〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!

水道水と氷でしばらく冷やしたが、家族はお腹を空かせているし、とにかく食卓を整えた。痛みは退かない。
翌日、薬局で薬を買い求め、やってみたが、改善せず、また翌日、帰宅したリーが早く病院に行って来い、と急き立てた。
「色が変に変わってるよ。気温も高いし、化膿してるかもしれない」
私は1年半ほど前、自らの誕生日に大やけどをしたランと同じ最寄りの外科へ走った。
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2010年01月14日

台北・楽器展で2本目の二胡購入を決める。上海の有名作家による紫檀。弓を替えたくて、受取は後日先進楽器本店で。4月、すでに初夏の日差し。

その二胡は38000元の値が付いていたが、75%オフなら28500元、当時ならおよそ95000円ほどだった。
すでに持っている二胡が60000円くらいなので少し高くなるが、私も二胡中級者の仲間入りをしていたし、これくらいならへそくりを出す気は十分持ち合わせていた。一本だけでは心もとなかったし、娘たちが大きくなったら連弾する夢もあるし、ぜひもうひとつ欲しかった。10万円近い買い物は安くないが、二胡は1万円ほどから上は50万円やそれ以上のものもある。よって、これだけ二胡をこよなく愛する私にはさほど度の超えたゼイタク品とは思わなかった。

最初手に入れた二胡は蔡老師が先進楽器で品定めしてくれたものだったが、その楽器展で私が気に入ったものの方が音が低く、まろやかな音色がした。数年弾いていると、だんだん自分の好みの音というのが無意識のうちに定まってくるものだと感じる。値段や外観だけでなく、やはり自ら弾いてみて音を聴かないといけない。それに「弾き心地」というのも確かにある。

私はその上海で制作された紫檀の二胡を買うことに決めて、顔見知りの女性店員・李さんを呼ぶ。
弓や駒は他のものと替えてもよかったので、私は弓をちがうものにしたいと希望を述べ、各種備品の多い本店へ後日出向き、その時に代金を払って持ち帰ることになる。ケースや松脂などはサービスでついてくるので助かる。

リーと携帯で連絡を取り、私は商談を済ませ、外に出る。
もう初夏の日差し降り注ぐ台北は暑いほどだった。
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2010年01月13日

4月初旬、台北101で『世界の楽器展』に行く。馴染みの先進楽器のブースで椅子に腰かけ、二胡の品定め。上海の有名作家、木は紫檀、良い音色に心傾く。

超高層建築で台北の観光名所にもなった台北101で『世界の楽器展』が開催されていると知り、4月6日(日)家族で出かけることになった。
その案にリーが積極的だったのは、台北101やその周辺はにぎやかで、遊ぶにしろ、見るにしろいろいろ楽しめるし、飲食店も多く、お天気の良い日曜日、娘たちを連れ、彼自身ぶらぶらしてみたかったと見える。

10時に出発。
リーは楽器展に興味はなく、娘たちと遊んでいることにして、私だけ会場に向かい、入場券150元(当時約470円)を払って中に入る。出展者やブースはなかなか多く、来場者もかなりいる。楽器の音が入り混じって響く。
私は馴染みの先進楽器のブースを目指し、さっそく二胡を手に取り、音や作者や値段などを吟味する。最初の二胡を買って3年半、もうひとつ欲しいなあと思い始めた頃で、気に入ったものがあれば購入する意思があったので力が入る。

その熱心な様子を見てか、店員がパイプ椅子を持って来て、
「座ってゆっくり弾いてみて」
と言ってくれた。レジの方には顔を見知った女性店員もいて、時間を気にしながらも気持ち良く過ごす。

そのなかで気に入った音色が出る二胡があった。有名な上海の作者で、木材は紫檀、と願ってもない好機と思い始める。
「普段は定価から15%オフだけど、楽器展中は25%引きよ」
と馴染みの女性も声をかけ、私の心はぐらぐらその二胡へと傾いていった。
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2010年01月12日

入園半年、ランは私の日本語にすべて中国語で反応。春到来。NHKの選抜高校野球中継などでかろうじて春感じる。リー、会社を辞めると宣言。失業何食わぬ顔に不安と不満。

ランが幼稚園に入園して半年。
私は娘たちと日本語で話すようにしていたが、ランは私の日本語にすべて中国語で応えるようになっていた。
「ママには日本語で話しなさい。じゃないとじーちゃんばーちゃんたちとお話できなくなるよ。」
と言い聞かせ、彼女もやってみようとするのだが、なかなか日本語が口をついて出ず、つらそうだ。
あまりにしんどそうなのであきらめてしまったが、メイは家で私といる時間が長い分まだマシだったものの、姉と遊ぶ時間が多いゆえ、メイの中国語もどんどん上達していった。複雑な心境であった。

さあ、春到来。
3月下旬ともなると台北は25度を超える日も増えて、いわゆる「春」という感じでもないのだが、NHKでは『おかあさんといっしょ』の歌のお兄さんお姉さんが新しい人にかわったり、春の選抜高校野球大会準決勝以上の試合が中継されたりするおかげで、日本人として馴染み深い春を少しは味わえた。

だが、人生の春は寄って来なかった。
リーは4月いっぱいで破産しそうな会社を辞め、しばらく上海へ行くと宣言。失業状態に安住することをさほど気に病んでいない様子にも不安や不満は募った。
日本移住への具体策も立たず、春ながら心は沈んでいた。

posted by マダム スン at 05:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 家運低迷期突入す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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