2009年11月30日

2段ベッド、玩具に衣類など義弟家族から運び込まれる。6月を前に台北酷暑、子育てさらに激化。日本移住構想出るも、リーの農業酪農志願に困惑する。

5月19日、リーが義弟を台北国際空港(桃園国際機場)まで送る。
約2ヶ月間彼は上海で単身赴任、義妹と子どもたちは夏休みを待って台湾を離れる。

義弟が台北を発った後も彼ら一家の引越し準備は進行し、5月末には子ども用2段ベッドをリーが解体し、苦労して運び帰って来た。大人でも眠れるサイズの立派なもので、娘たちはめずらしさに大喜び。
その後も自転車や玩具、教育教材などなどがどんどん義弟家から送られて来た。ランより2歳年長の従姉からは洋服のお下がりも多数もらい本当に助かった。

6月を前に、台北は早くも34度まで気温を上げた。動き回る幼い娘たちはすぐ汗だくになるので、昼間にシャワーが必要になる時期で、私の子守り負担は増大、何度諭しても同じイタズラをくり返す彼女たちにキレることしばしば、本当に心身ともに毎日ギリギリだった。

ちょうどそれはリーと日本移住について真剣に考え始めは頃でもあった。それはひとりっこの私にとってはありがたい成り行きだったが、
日本へ行くなら農業や酪農をやりたいと言うリー。今や有機農法や農業経営たるものに彼は興味があり、また、台湾では一般的に食するアヒルや鴨を飼育するとか、ヤギもミルクは栄養価が高いし、肉もおいしいとか、私からすれば寝言か妄想のように聞こえる発言をして、意見がかみ合わず困った。

父に話しても私と似たような反応である。たしかに農業酪農は人類が生存していく中で不可欠なものだが、家族を食べさせ、蓄えを増やすところまで利益を出すのにどれだけ大変かわかっていない。趣味ならいい。しかし、それ一本で食べていくことの難しさは田舎に住む者は切実に実感する。肉体労働のしんどさも、都会育ちのリーには本当のところ理解できないだろうと思った。
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2009年11月29日

退職届にマンション売りに出す。義弟夫婦、上海移住準備スタート。こんなはずじゃ……結婚当初予想しなかった事態にがっかり。「長男の嫁」に悩む。

義弟夫婦は舞い上がるとは行かずとも、ひとつの目標をクリアしうれしそうだったが、小学生と幼稚園児の子どもたちは「転校したくない台湾がいい」と浮かぬ顔。
それ以後、義弟夫婦は互いに勤めている会社に退職の意思を伝えたりまだ購入して日の浅いマンション売却の計画も進めて行った。

暑い5月に入る。
ランが秋に入園する幼稚園が決まり、その園庭に時々娘たちを遊びに連れて行ける新たな子守り法も増え、上旬には毎年恒例・日本一時帰国用の航空券の予約も完了したが、私の気持ちは沈んでいた。
長女と次男一家が住むことになる上海へ義母も移住するのでは、との憶測が外れたのだ。台湾と中国の中国語には少しちがいはあるものの基本的に同じ言語だし、2人も子どもがいるなら、という私の考えは甘かった。やはり住み慣れた台湾がいいと言う。

義母自身が上海に越すのが嫌ならそれは彼女の自由だが、リーと恋愛・新婚当初は、義姉が義母宅からバスで15分くらいのところに住み義弟一家は義父母と同居していたので、長男とは言えリーの奥サンになるのに大きな抵抗はなかった。
だが、期待とは裏腹に、義姉と義弟は台湾を離れ、そこに残る義母の世話の多くをリー一人が負う格好になる雲行き……
誤解することなかれ。
私が憂いていたのは、私がひとりっこで、いつか日本へ帰り、老い行く両親の世話をしなければならぬ身。では義母はどうなるの?私の実家はどうなる?

どっと落ち込んでしまった。
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2009年11月28日

台北・私立幼稚園保育料の相場。公立幼稚園は不足、保育時間も短し。建築士・義弟、上海デビュー!

少し補足しなければならない。
4月中に入園を申し込めば「2千元割引」と昨日書いたが、当時なら日本円で7千円ほどである。
また台北の私立幼稚園保育料の相場というのはだいたい3万円くらい
で、半日ネイティヴの先生による英語保育をやる、などの特殊・英才カリキュラムを実施する幼稚園は1ヶ月5万円近くとるところもある。
公立幼稚園は少ない。仮に自宅から近くても私立が夕方6~7時まで預かってくれる一方で、そこは3時頃までで、共働きが一般的な台湾の家庭にとって事実上利用しにくくなっている。

さて、もうひとつの大きな出来事とは、かねてから中国大陸進出目指し転職活動していた建築士の義弟が上海の会社に合格、5月末にはまず単身上海へ越すことになった。
リーによると、アメリカに本社を置く世界で4~5位の建設会社の上海支社らしい。快挙である。
義弟の妻は食品栄養学の修士号を持ち、食品会社で働いていたがそこを退職し、小学校4年の長男と年長組の長女も7月には台湾を離れることになった。

義弟一家の悲願が叶い、また、彼らとかつて同居しており、義父亡き後ひとり住まいの義母も上海で暮らすのではと思い、私はいいことだ、めでたいと喜んだ。独身の義姉も上海でバリバリ仕事をしていたので、3人中2人の子供がいる上海へ義母も移住した方が安心だと考えたからだ。
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2009年11月27日

ランの幼稚園探し終了。自宅から徒歩3分、私立永華幼稚園に入園申込。先生はすべて英語名使用、台湾ではよくあるコト。4月22日はもうひとつ重要な出来事が……

幼稚園探しは楽しかった。どこへ行っても歓迎されるし、そこの遊具で娘たちは遊べるので、先生たちとの会話と子守りを同時進行できて楽でもあった。
見るべきものは、設備、立地条件、全体の雰囲気、先生、保育料などだが、自宅からの距離も重要だった。

その観点から、リーのイチ推しは、徒歩3分くらいで、自宅から2番目に近い永華幼稚園だった。
私は徒歩約10分圏内を見て周り、最大規模の永華はアットホームさに欠けたり、義妹の見学時の印象悪さを聞いており、ランクは下位だった。
それで、訪問した幼稚園の特徴やウリをその都度リーに宣伝したが彼の考えは変わらず、半ば仕方なく、最後に永華幼稚園を見学に行った。最初に応対してくれたのが主任のクレア老師で、懇切丁寧に説明し、3階建ての園を案内してくれる。クレアと言っても、生粋の台湾人なのだが、発音の難しい中国語名ゆえか、すべての先生が英語名を持ち、園児たちもそれで呼んでいる。台湾では珍しくないことだ。
最後にクレア老師は「パパもまた一緒に来てください。それから、4月中に入園申込していただくと2千元割引特典がありますよ。」と言う。

その日曜日、クレア老師はわざわざ自宅に電話をくれ、一家4人で見学に行くことになり、その日に私たちはランの幼稚園を永華幼稚園に決定する。
私の「永華嫌い」が緩和したのは、園内が広く、大規模幼稚園のぎゅうぎゅうした窮屈なイメージが吹っ飛び、リーが推し続けた「自宅から近く、園庭がこの辺りで一番広い」点に私も良さを痛感したからだ。日本ではあまり考えにくいが、幹線道路際に建ち、園庭を持たない幼稚園が多いなか、永華はまだゆったりしたスペースを持っていた。保育料もほぼ相場と言えた。

永華幼稚園9月入園を決めた4月22日は、もうひとつ大きな出来事が起きた日でもある。
それは………
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2009年11月26日

互いに未熟だった夫婦。抜けられないトンネルの中にいたあの頃。ランの託児所(幼稚園)探し、本格的にスタート。少子化・台湾、園児募集に熱心。

台北は3月になると気温が30度に届きそうな日が増えて来る。日本の三寒四温のように何度か冬に逆戻りし、20度前後の肌寒さになるが、5月には日本でいう夏を実感するくらいになる。
私の書評のミッションは続いていた。
また、リーとの衝突の様子も再三日記につづられている。その原因の多くは食事や、私の超マイペースな生活様式に対する彼の苦言や文句だった。
あの頃は互いに自分の価値観や主張が最も全うで、なぜそれが相手にはわからないのだろうとの見地から脱却できなかったように思う。そして、行き着くとこまで行かないと改められない弱さ、未熟さも互いに似たようなものだった。

リーの「4歳入園論」を聞き入れ、3歳になったランも年子のメイも私が家で育てていたが、そうこうしているうちに4歳もそう遠くない現実になり、4月から私は精力的にランの託児所探しを始める。
台湾は9月に新年度が始まり、ランは10月生まれ。よって、ちょうど年度開始の9月から託児所(幼稚園)に入れることになったのだ。
リーは前年日本へ帰った時、花粉症に苦しんだので、その年は一時帰国を例年より遅くしたが、それまでにどこに入れるかを決め、入園申込を済まさねばならなかった。

台北は大都市。我が家周辺にもたくさん託児所がある。
私は娘たちを連れて訪問し、見学させてもらう。すべて私立で、保育料も特色もさまざま。台湾も少子化傾向にあり、どこも熱心に園児募集活動をしてることを実感する。
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2009年11月25日

台湾の「山薬」は日本の山の芋に酷似。骨付き肉と煮込むスープは美味。義弟の北京・上海移住構想、転職活動続く。玄侑宗久氏の著書、初めて読む。

2月だというのに25度くらいになったり、また寒さがぶり返したりしながら18日の旧正月以降は過ぎた。リーの独身の姉が上海へ帰ったり、建築士の弟は年明け早々西安へ出張に行ったりと皆始動する。
私はG出版社から依頼された書評の仕事を抱えており、元旦からオープンする貴重な場所・マクドナルドで連日2~3時間読書に耽った。
ふだんよく働く台湾の人も、だいたいお正月4~5日間は店を閉めてしまうので、私の炊事は休みなしだった。
そんなある日、山薬を買った。山薬は日本のいわゆる長芋に相当するが、食感は高級食材とも言える山の芋に酷似しており、台湾では骨付きの、主に豚肉といっしょに煮込み、スープとして食するのが一般的だ。
もともと芋類に目がない私は、義母から学び、自分でも作るようになった好物の一品である。調味料は塩だけでもおいしいダシが出て美味。日本ではあまり骨付きの豚肉は見かけないが、鶏肉とも合うので試してほしい。ホクホクでおいしい。

義姉は上海に移り、仕事をして久しいが、義弟の転職活動は続いていた。北京か上海で仕事を得て、家族もろとも移住構想を描いていた。

私は書評の合間に日本で買って来た『禅的生活』という本を読む。玄侑宗久という僧侶の著書だ。彼の本は初めてで、和尚さんなのに文章うまいなあ、と思っていたら、あとで芥川賞受賞歴のあることを知り合点がいく。
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2009年11月24日

まさに家運低迷?! ガス湯沸かし器寿命で故障、水道管破裂で階下より苦情、修理工事。旧正月前、新車到着する。

パジェロ騒動が終わってすぐのある夕方、炊事しているとヘンな匂い……。11年使っているガス湯沸かし器が故障したとわかる。
だが、その時間にすぐ新しいものを設置するのは無理で、夜8時頃、私と娘たち3人は義母宅へシャワーを借りに行く。
中国語で言う「熱水器」を取り付け、使用可になったのは翌日の午後6時頃。よかった。

しかし、時を同じくして、また厄介なことが起きる。
我が家の水道管が破裂したようで、すぐ階下の10階の家の天井からひどい水漏れが起こっているという。
翌日職人が来て「病巣」を探すが、台所ではなく、その隣りにあたる子供部屋の床や壁を掘り起こし、修理することが必要とわかる。もちろん、その部屋の家具や物はすべて別室に移動させ、暫時使用禁止となる。
日中は職人2人が来て、ドリルなどでギーギー、ガンガン工事。埃がすごいので、そこらじゅう新聞紙で覆い、職人だけを残し外出することも出来ず、泣きたくなる。当初の予定よりも手間取り、工事なしの日曜日を挟んで6日間かかり、ようやく完成。はーっ。

そんなゴタゴタが続いた頃、台湾は忘年会シーズンにあった。その年の旧正月は2月18日。その3日前に、パジェロなき後の黒いCOROLLA ALTISがやって来た。
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2009年11月23日

台北2月、リーの愛車との別れ。突然のパジェロ引渡し契約成立に断腸の思い。ごめんね、リー。

その頃の週末に、リーがパジェロを購入した代理店へ家族そろって出かけ、今売ればいくらくらいになるか査定してもらった。その分で次にどのグレードの車を買えるのかも、リーは熱心に聞いていた。
彼が思っていたほどでなかったので、そこで売ることはやめ、またしばらく時間は流れた。あこがれて、ようやく自力で手に入れたパジェロ。もちろんリーは手放したくないのは容易に見て取れる。しかし、本当にガソリン代はバカにならなかった。

私とも共通のある元同僚が知人のデイーラーと新しい買い手がリーの車を見たいと言っている、と連絡してきた。
2月3日よく晴れた土曜日の午前11:30、リーは私にも同席するよう言うので、仕方なく娘たちも乗せて指定の場所まで行く。
リーたち男性4人は路肩にそれぞれの車を停め、協議する。それは1時間以上も続き、評価額は今後どこも似たようなものなので、売るなら今日の方がいいと言われる。
「この売値でどう?いい?」
とリーは私に訊くが、私にはよく理解できない世界の話だし、まさかここで決定せねばならないとは思っておらず、「あなたに任せるわ」としか言えない。

結局リーはその場で契約書にサインする。
約1週間後には愛車パジェロを引き渡さねばならなくなった。
たしかに「金食い車」だったパジェロを他の車に替えてほしいと願ってきた。だが、あまりにも急で、私の目の前で行われた儀式にその後打ちひしがれる。リーがものすごく不憫で、可哀そうで、身の置き場がないほどつらい。
と同時に、不和に悩みながらも、根幹では私はリーを大切に想っているのだと知る。
パジェロが我が家を巣立つ日、私はそっと地下駐車場に下り、「ありがとう。次の家族にも大事にしてもらうんだよ」と別れを告げた。
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2009年11月22日

思えば、2人娘の子育てに一番しんどかった2~3歳の頃。義弟一家、上海移住を模索。ガソリン価格上昇、リー、パジェロの通勤費用を憂う。

子育てに疲れ、悩み、声を荒げて娘たちを叱っては自己嫌悪に陥り反省し、G出版からの書評の依頼を受け続けながあ2007年は明けた。
3歳のランはようやく自分でトイレができるようになり、履きにくいタイツを自力で履けるようにもなって、私をホッとさせた。
年子の妹メイは、ランとは大きく異なり、食べる量は少ないし、半分ほど食べると、ぐっとスピードが落ち、口の中でモグモグするだけで飲み込まず、私はイライラ…… 毎食だいたいそうで、私はノイローゼになりそうだった。

12月、1月になると、台北の家の中でも17~18度に下がることがあり、とても寒く感じる。そのくらいの気温になると暖房をつけたくなる。
旧正月を祝う台湾は静かな元旦を送る。
そして、1月中旬、メイが満2歳に。義母宅でリーの弟一家も集まり、ケーキを買って祝った。ちょうど1ヶ月ほど上海に出張していた義弟がメイにプレゼントを買って来てくれた。
建築士の義弟は台北の会社に勤務しており、時々中国にも短・長期の出張があった。
それに、いずれ上海で仕事を見つけ、家族で移住したいと動き始めていた頃であった。

また、あの頃、リーが愛車パジェロを売ろうかどうか迷っていた。ガソリンの価格は上昇し、燃費の良くないそれは通勤車には向かない。1ヶ月に必要なガソリン代を試算するとたまげた。恒常的駐車場不足に悩む台北では、大きなパジェロだと不便なことも多々あり、私も買い替えに賛成だった。
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2009年11月21日

険悪ムード一掃、ランを連れ、書評を頼まれているG出版社訪問を思いつく。クリスマス飾りつけ美しい出版社での楽しいひととき。

数日間、リーは険しい表情をしていたが、そのうちまた何もなかったような態度に戻った。思うに、彼は私より元来楽観的である。
根本的解決には程遠いが、波風はおさまり、また危なげな日々が続いた。なんとかしなければ、と焦る気持ちを抱えつつ、結局有効な手は打てないまま時間は過ぎて行った。

日本なら師走で正月気分高まる12月下旬、メイが義母宅へ行く朝、私はランを連れ、G出版社に行くことを思いつく。ちょうど出来上がった書評もあったし、お天気が良く、またG出版はリーの会社から至近距離にあり、リーの出勤時に載せて行ってもらえるのだ。例によってG出版の次期社長はそこのひとり娘で、婿に行ったのがリーと私共通の元同僚である。その彼に会うのもいいだろう。

このプランを朝話すと、リーは快諾、彼の愛車は3人で台北市内湖区を目指した。その日はほとんど渋滞に遭わず、25分くらいで着くので驚いた。

突然の訪問だったが、日本語書籍担当の金さんたちは喜んで私とランを迎えてくれた。3歳になったばかりのランは社内の多くの社員の気を引き、お菓子をもらったり、相手になってもらったり、にぎやかだ。
果たして、逆玉の輿、事実上マスオさん状態にある元同僚・小宏とも久しぶりの再会。楽しいひとときであった。

帰りは214番のバスで帰る。乗り換えなしだが、リーの車のように一直線に我が家へは行かず、飽きるほど回りまわってようやく辿り着く。
でもよかった。G出版に行ったのは、リーとの共通の話題づくりの意味もあったのだ。
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2009年11月20日

リー、週末は逃避行?! 父にも叱責。それまでの価値観を覆される台湾での家庭生活、傷心の日々。

それは火曜日のことだった。
私のそのメールを見たという翌日、リーは出勤する際、「今週末は友達と1泊2日で出かける」と言い残して出る。明らかに私が夫婦生活の不調を訴えて元大家の奥さんに書いた内容がそうさせたものとわかる。

身体が重い。地球の引力が急に強まったように、足元から引っ張られるようだ。とうとうここまで来てしまったのか、とあらためて恐ろしくもなる。
父にskypeで打ち明けると、そんな極めてプライベートな事を他人に明かすなど、リーにとって甚だ失礼だ、と叱責される。私は大泣き。2人でよく話し合い、解決しろ、と取り付く島もない。

悲しく、不安な日、いつもなら一人で寝るのを好む私は、ランと一緒に寝たくてしかたなかった。
「ラン、今夜はママと寝てくれる?」
とふだんと立場が完全に逆転した。情緒不安定……

反省、後悔、でも、私が苦しんできたのは事実だ。
そんな様々な思いがぐるぐる回る。
大変抽象的で申し訳ないが、平たく言えば、それまで私が生きてきた数十年間、私が何の気なしにした言動、それはだいたいさほど反発もなく、物議もかもし出さず済んできたが、リーには通用しないことが多々あったということである。思いも寄らぬ場面で否定されたり、叱られたりするので、驚くし、ではどう言えばいいのか、どうすればよかったのか惑う。生きる地盤をガラリと変えられたような心許無さが常にあった。
しかし、ここは台湾。2人の子供もいる。
もう自分ひとりの喜怒哀楽で動けない段階に来ていることを再度実感することになる。

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2009年11月19日

夫婦といえどももとは他人。その上うちは国際結婚。未知の文化に戸惑い、悩む。リーに読まれたメール騒動……

まったく相容れない部分や見解の相違がない夫婦などほとんど存在しないはずだが、我が家も例外ではなかった。日本人同士であってももともとは他人、男と女という異性であれば、生活を共にしていると何かと衝突や立腹はあって当然である。
それがうちはいわゆる国際結婚というやつで、近い国・台湾であってもあらゆる生活習慣や価値観で日本とはかけ離れた未知の文化があるし、もちろん私の育った家庭環境とリーのそれも少なからず差があったのだから大変である。

それから、私とリーはこれまたいわゆる交際期間が短い、電撃結婚の端くれだったからよけいに同居後の問題は多かったように思う。
とにかく私には馴染みにくかったり、驚いたり、どうしても受け入れがたかったりする新文化に悩まされた。今から思えば、私もリーも晩婚で年齢だけは重ねていたが、人間としては未熟、互いに自分を主張するばかりで大人になれなかったことが悔やまれる。

私は2人のことで胸を痛め、ひそかに苦しんでいた。
それを1回目の台湾留学時、マンションをシェアして住んでいた頃の大家さんに打ち明けようとメールを書いていた。私たち夫婦より少し年長で、後に東京に越し、仕事をしている2人を実の兄と姉のように慕っていた。その「兄」が紹介してくれた台北の会社に私が入社し、そこでリーと知り合ったゆえに、話も早かった。
どうしたものか不明だが、その心情吐露したメールを閉じずにいたらしく、リーが読んだと言うのだ!
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2009年11月18日

12月、さすがに台北も冷えてくる。入浴剤入れて湯船に憩う。2ヶ月ぶりの書評の依頼。日本人シスターとの再会にランと出かける。

12月、さすがに台北も冷える日が増える。
亜熱帯の台北で15度を下回ると、日本の関西地方の冬装束が必要な感じだ。
だが、そうかと言えば、突然25度を超えたりもする。時々、台北の気候を訊かれるが、とても答えにくい。

中旬にさしかかる頃、2ヶ月ぶりにG出版の金さんから書評の依頼が入る。その間、彼女らは日本へ出張したり、日本書の選定をしたりしていたらしい。私もこの2ヶ月は自分の物書きに取り組んでいた。

そんな師走の13日、神戸出身、台北のカトリック聖心会にいるシスターが大坪林教会に会議のため行くから会いましょう、と連絡を下さり
バスでランを連れて向かう。台湾へ2度目の留学に渡ってまもなく遭遇した悲しい出来事の時、探し出して会いに行った日本人シスターである。実に4年ぶりの再会、白髪がずっと増えた気がするが、元気そうでとてもありがたいひとときを送る。

G出版から頼まれる書評には様々なジャンルの本があったが、その頃初めて石田衣良の作品を読む機会があった。『美丘』だった。
12月17日、その冬初めて私と娘たちはお風呂にお湯を張った。南国台湾では、冬でも湯船に浸かる人は多くないが、私はやはり日本人、寒い冬はお風呂で温まるに限る。入浴剤は豊富に売ってあるのでそれも入れる。ランもメイもお風呂が大好きだ。

街はクリスマスムード高まる頃。
しかし、困った事件が起きる………
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2009年11月17日

義母、上海から帰国。本来のパターン再開。週末くらい自由が欲しい。森山直太朗『さくら(独唱)』など二胡で初挑戦。

上海から約1ヶ月ぶりに義母が台北に帰って来た。
11月は秋と夏が同居する時期で、25度を超える日もあれば、20度に届かない日もあり、半袖と長袖が箪笥の中で勢力を二分したままだ。
義母が帰って来ると、週にだいたい1泊2日でメイを預ける生活に戻った。時々義母の都合がいいと2泊3日になったが、そうなるとランが寂しそう。年子の2人、実に仲良く遊ぶのだ。それに、義母の長期不在の間、しんどいながらも自分で2人を守するコツをつかみ、そのペースに慣れたので、私も1泊2日で十分だと思うようになった。
それをリーに言うと、ムッとする。

義母が戻り、基本的に週末土日は両日とも義母宅に夕方から夜にかけて帰るワンパターン・リズムが再開。義母は料理がうまく、食べさせてもらえるのはとてもありがたいのだが、私にすれば、週末せっかく夫と義母が揃い、娘たちの世話を見てくれるのなら、その1日だけでも自由行動させてほしいと思うのだが、義母宅にいる時間が短かったり別行動を申し出ると、リーは不機嫌になる。ふだん、できるだけ娘たちを義母に任せろ、と言うわりには……矛盾を感じる。

ランの顔の打撲は10日を経てかなり回復してきた。治りそうだ、大丈夫、と思えると本当にホッとした。
また、先日麻衣ちゃんがくれた日本の二胡の楽譜には『夕焼けこやけ』『花』『さとうきび畑』『涙そうそう』『アメージンググレース』などなどおなじみの曲が収録されており、私は自分でだいたい弾けるようになった。ただ、森山直太朗の『さくら(独唱)』は楽譜がうまく読みきれない部分があり、蔡老師に頼んで教えてもらう。
レパートリーが増えると楽しい。日本や欧米の曲を二胡の音色で奏でる喜びを味わう。
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2009年11月16日

お昼は例の特上水餃子でもてなす。中国語講師、日本語教師など多才な友人。結局、彼女が二胡留学に選んだのは台湾ではなく……

麻衣ちゃんにとって台北は住み慣れた庭、約束の午前9時頃、表のバス停で娘たちと待っていたら、5分ほどでやって来た307番のバスから彼女が降りてきた。どうぞ、どうぞ、と我が家に案内する。ランたちもうれしそうだ。娘たちへの可愛いおみやげや、私には二胡の楽譜をもらった。
お昼を一緒にする準備も整えていた。娘たちがいるので外食はしんどい。よって「水餃子ならあそこのしか食べたくない」と我が家のお気に入り定番店の冷凍版を買って来てあった。これはお客様にも出せる逸品である。それと、日本で言うさつま芋「地瓜」のクコの実入りスープを作った。「懐かしい、おいしい!」と麻衣ちゃんは喜んでくれた。さすがに例の水餃子も食べ応え十分と満足。よかった。

麻衣ちゃんは地元・京都で長い間中国語教室の助手を務めたり、日本語教師の資格を取ったり、二胡のレッスンにも通っていたが、ここらでしっかり二胡をモノにしたいと留学を思い立った。めぼしい先生と事前に連絡を取り、会って話をしたり、部屋探しなども考え始めていた。
午後1時を過ぎ、娘たちはお昼寝に行く。
麻衣ちゃんが辞したのは3時頃だった。

その後、結局麻衣ちゃんは台湾の先生のところには来ず、なんと縁あって香港に飛び、2年あまり日本語教師をしながら二胡修行に励んだ。なぜか独身の彼女、これからまたいかに進化するのか、目が離せない友人の一人だ。
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2009年11月15日

NHK『英語であそぼ』『おかあさんといっしょ』は日課。台湾師範大学時代の友人、日本から二胡留学準備兼ね、台北へ。

ランの顔面の腫れは、人相まで変えてひどかったが、数日すると青黒い色から黄色に変わっていった。これも良い兆候だと少し気持ちが軽くなる。
思えば、あの頃、ランもメイもまだ保育園へは行かず、私が守りをしていたので、日本語も中国語も同じくらい話せた。特にランの日本語能力が落ちたのは幼稚園へ通い出してからだ。
毎日のリズムはだいたい決まっており、午前中歩いて買物がてら散歩へ行き、家で昼食。その後、NHKの幼児番組を見て午睡。『英語であそぼ』や『おかあさんといっしょ』は正午過ぎの放送だった。

この11月中旬、EPSONのプリンターを購入し、パソコンに連結したり、もうひとつ特記に値する出来事があった。かれこれ10年来のつき合いのある麻衣ちゃんが日本からやって来たのだ。
麻衣ちゃんは京都出身、台湾師範大学付属の語学学校時代の友人で、私とちがい、学生の頃から中国語を始め、私が入門レベルで四苦八苦していた頃、彼女はすでに現地の新聞を読み、テレビを見てうんうんうなづけるレベルだった。年齢は私よりひとつ下。
台湾の後には香港へも留学し、あこがれていた二胡を早々と弾き始め今回の台北訪問は、二胡留学に向かい、先生や学校探しも兼ねたものだった。
麻衣ちゃんより数年遅れて二胡をスタートした私にとって、その方面でも彼女は頼りになる先輩であり、演奏や楽器の諸々の質問にもたびたび答えてもらっていた。

彼女との再会は数年ぶり。台北の宿泊先から市バスで来ると言う。
娘たちとそわそわ、到着を待った。
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2009年11月14日

ランまた負傷、顔青く腫れあがる。台北市立児童遊楽園へ。観光名所・圓山大飯店や松山空港発着便がすぐそこに。

11月も中旬に入る。右手に負った重傷の火傷がきれいに治ったかと喜んでいた矢先、朝、起きたばかりのランは寝室からリビングにつづく段差のところで転倒し、顔面打撲。鼻と目頭の辺りを中心にムクムクと晴れ上がり、青黒く色が変わってくる。
リーには「朝っぱらから娘たちにあれしろこれしろと言うな!」と叱られるし、見る見るうちに人相が変わって行くランを見て胸が痛むし
泣きたくなる。

ひどく内出血している。顔だけにリーも心配し、平日だったが彼は翌日、この前火傷を治療してもらった病院へランを連れて行った。
台湾では「X線}と言うレントゲンの結果では異常なし、冷やした方がいいと言われ、帰って来る。
しかし、3歳の子がじっとアイスノンなどを顔に当ててじっとしているわけがない。

パソコン電話・skypeで日本のじーちゃんばーちゃんとも画像つきで話すが、痛々しいランの顔にしきりに心配している。
外出すると、顔見知りは必ず「どうしたの?」と訊いて来るし、面識のない道行く人からも声をかけられる始末だ。腫れも内出血も一朝一夕には治らないし、出不精になってしまう。
それでも仕方なくランを連れて出かけると、自分から、
「この子、家の中で転んで、打撲してこんなになってます。レントゲンは問題なし、もうすぐ治ると思います!」
と説明したい衝動に駆られる。

そんな週末、リーの提案で地下鉄「圓山」駅近くの市立児童遊楽園に行くことになった。そこからは、一昔前は決まって内外の要人が利用した由緒ある高級老舗ホテル「圓山大飯店」が見え、国内線の主要空港である松山空港に発着する飛行機が手を伸ばせば届きそうな低空で見られるスポットでもある。
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2009年11月13日

火傷は重症、一週間余り通院。患部の証拠写真も毎日。子供の治癒力に驚く。義母、まだ上海に。

病院から右手患部に白い包帯をして帰ってきた時には、ランは泣き止み笑顔。ひとまずホッとしたが、薬や包帯の交換に1週間ほど毎日通院、炎症や化膿を抑える飲み薬を1日4回服用との指示が出された。
おまけに主治医の都合か、患者数が少ない時間帯か知らないが、夕方5時以降夜の部の診察時間に来るよう言われる。主婦にとって最も出にくいといえば出にくい時間帯であるが仕方ない。以後、11月7日まで、3人で通院>< 1歳のメイを一人にすることもできず、雨の日も多かったその頃、メイを負い紐で抱き、ランの手を引き、半泣きの形相で歩いた。

それにしても、子供の治癒力は見事だ。
赤く腫れ、水泡がたくさんでき、それがやがて茶に変色し、水泡が破れぐちゃぐちゃになり、医師の処置を直視できないこともあったが、ランは泣かなかったし、傷跡が残るのを怖れたが、それもなく、どんどんきれいに治って行った。
日本の外科ではどうだか知らないが、ランの場合、初日から毎日患部を写真に収められた。私ものちに台北の自宅で天ぷら油が飛び、右手を火傷、同じ病院で治療を受けたが、同様に毎日写真を撮られたものだ。

上海に越し、仕事をする義姉(リーの姉)のところへ義母が行って数週間が過ぎる。どこへ行くにも幼い娘2人を同伴する生活が続く。
「ママ、今日はカルフール?農会?市場?」
ランはよく心得たものだ。毎日徒歩でそのどこかへ出かけた。
娘たちが今健脚なのは、あの頃からよく歩いたおかげかもしれない。
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2009年11月12日

台北には水族館がいっぱい?! 金魚が我が家にやって来た。ラン、誕生日の夜、熱湯で火傷、医者へ走る。

台湾では自宅で熱帯魚を飼う人は多い。
まあ、台北が大都市だからよけいだろうが、至る所に水族館の看板が上がっている。……?
そうなのだ、ペット用の魚や飼育グッズ販売店をも、台湾では「水族館」という。最初は笑ったが、今ではすっかり慣れてしまった。

大型チェーンスーパー、カルフールの階上にエレベーターで上がり、ランのバースデー記念に金魚を選ぶ。水槽や水草も好みのものを決めその一匹の赤い金魚は「三三」と名付けられた。「さんさん」と日本語と同じ発音でよい。マダム スン作。ラン満3歳とかけたのと、同じ字を重ねる名前は中国語圏で結構あり、可愛らしい感じがする。
娘たちが倒さないよう再三注意し、安全な場所を探して置く。
ひらひら泳ぐ赤い生き物に、ランもメイも興味津々、「あ、さんさんママの方見てるー!」、「さんさんはいつ寝るの?」などとにぎやかだ。家の中が明るくなる。

誕生日当日の夜は、リーも6:30には帰宅、4人で夕食をともにし、蜂蜜ケーキでおめでとう〜!
しかし、この夜はまだ終わらなかった。だいぶ気温が下がってきたため、湯沸し・保温ポットを出し、テーブルに設置したばかり。ちょっと目を離した隙に、ランがいじって遊んでいたらしく「あーーーっ」
もうその時には熱湯を右手に浴びていた。
泣きわめく主役・ラン。見る見るうちに右手親指付け根一帯は赤く腫れ、水泡がポツポツ出て来た。
9時近かったが、リーはランを抱き、医者に走る。台湾の医院で9〜10時頃まで診察するところはザラにあるので助かった。
大丈夫かなあ…… トンだラン3歳の夜になる。
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2009年11月11日

おススメ、都会のオアシス、大安森林公園は母校・台湾師範大学そば。10月は秋に向かう好季節、市営プールへも行く。

何度も恐縮だが、台湾の夏は長い。そして暑い。
10月になるとようやく秋らしくなり、七部袖や薄手の長袖を着る機会も増え、外出が楽になってくる。
台北の我が家の近所にはないが、車で移動すれば大きな公園は結構ある。娘たちを連れて時々通い始めた公園は「大安森林公園」、台北市内の我が母校・国立台湾師範大学からほど近いところにある。
市内のにぎやかで便利な一画にある広大な公園は、まさに都会のオアシスのようだ。木がたくさん植えられ、花壇や芝生もよく手入れされている。
また、子供たちが目を輝かせる遊具も多く、ジョギングはもちろん、簡単なスポーツも可能、すばらしい公園である。有料だが地下駐車場もあり、周辺には食堂やカフェなどもあり、1日遊ぼうと思えばそれもOKである。
ランもメイも大喜び。三輪車持参でも行った。

また、この頃、市営プールへも初出陣!
当時、時間制限なしで大人150元(約500円)、こども80元。
初めてながら、娘たちはさほど水を怖がらない。

そして、この10月末にはランの誕生日が待っている。ケーキと何かプレゼントを考え、金魚を一匹飼うことにする。
隣りのカルフールの階上に熱帯魚などを扱うお店がある。一家4人、新しい家族を探しに出かけた。
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