2009年06月11日

ソウル下見中、リー不在。真夜中、新生児室に電話で救援!

リーのソウル出張は25日までの3泊4日だった。
台北を発った日の夜、粉ミルクを作っていると、変な音がしたかと思えば、メイが泣き出した。見ると、鼻から白いものが出ている。ミルクのようだ。息がしにくそう。
ミルクを吐くことは多いが、なんで鼻から出てるの?と抱き上げ、背中をたたいたり、「どうしたの?大丈夫?」と声をかけてオロオロ、救急車を呼ぼうかとも思う。真夜中だし、どうしよう、、、、、
義母宅に電話してみたが誰も出ない。
いい手はないかと頭の中はぐるぐるまわる。

そこで思いついたのは、珂産婦人科の新生児室だった。あそこなら24時間看護師が待機しているし、育児相談も受け付けてくれる。メイが退院してまだ1ヶ月ちょっとだし。
果たして、看護師の落ち着いたアドバイスはこうだった。
メイは鼻が詰まっていると思われる。ベビーの鼻用吸引機を渡したでしょう?! あれで中の物を吸い取ってみてください。
指示通りやると、うまく取れて、その後メイはふつうにミルクを飲んだ。嘘のようにケロッとしている。
ホッ。
たしか、前回リーが中国へ行った時はランが高熱を出して慌てた。
何たらの法則ではないが‘こういう時に限って’って本当にあるように思う。
義母宅に預けているランは義母の風邪をもらったのか、叔母が小児科へ連れて行ってくれたと翌日聞く。はー、母親になると心配は尽きない。

リーのソウル行きは事実上「下見」だった。
ソウル支社長後、台北本社に帰った際にはまともなポストはないだろうと固辞したが、断りきれない状況に追い込まれていったのだ。
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2009年06月10日

リーの医者知らずは過去のものに。とうとうソウル出張命令。

リーは「医者知らず」が自慢のひとつだった。めったに風邪はひかないし、ひいても医者に診てもらうほど重症にはなったことがないと言う。
だが、その彼の輝かしい過去はまさに過去となっていった。娘たちが生まれてから、我が家に風邪菌(?)が侵入する機会は一気に増え、カサから見れば何倍も大きいリーでさえまいってしまうようになった。子供の風邪をあなどってはいけない。お孫さんがいるおじいちゃんおばあちゃんも然りだ。孫は可愛い。だが、彼らの風邪は大人顔負けの威力を持っている。

寒波の後、台北など北部でも最高気温28度という日があったが、メイが満月(満一ヶ月)を迎える頃また寒くなった。さすがにロングブーツとビーチサンダルが並んで売られる南の島・台湾、日本人には永遠に解せない冬の顔を持つ。
「2人目だし、、、、、」
と、リーはいわゆる「内祝ケーキ」たるものも贈らず、近所に住む、あの叔父宅へ手土産を持ち、家族そろって挨拶に行くことに決めた。
ランと同い年のイーハンは体格が良く、ランより3ヶ月遅く生まれたようには見えない。なので、彼女がランを「姐姐!」(お姉ちゃん)と呼ぶのがくすぐったい。
たしかに3ヶ月ランの方がお姉ちゃんだけど、就学すれば同級生なのだから、その呼称はオーバーなのでは、と思っていたら、イーハンの祖父はランのそれの弟、イーハンの母親はランの父親の従妹なのだから‘文句なしに’ランはお姉ちゃんだという。
日本なら名前で呼び合うのが自然なので違和感を持ったが、あちらではちゃんとこれも理屈があることなのだった。

さて、一度ソウル行きを固辞したリーであったが、社長や他の幹部たちからも「頼む」と押されて、だんだん断りきれない状況になってきた。
そして、はっきり返事をしないまま、2月22日からソウル出張を命じられてしまった。
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2009年06月09日

新年早々インフルエンザ?「ポーランドの光」、ローマ法王退院。

いわゆる元旦より大晦日に盛り上がる台湾では、新年を待たずにお年玉を渡してしまうし、年が明ける前にさんざん「おめでとう!」と声を掛け合う。制限されるようになり、以前よりは減ったが、爆竹でにぎやかなのも大晦日の夜だ。
いちばんうるさかったのはやはり午前0時前後だった。あ、私が「うるさい」というと、リーに「うるさいんじゃなくてにぎやかなの」と訂正された、、、>< しかし、夜に弱い私には、爆竹は安眠妨害の元凶そのものだった。
その頃、リーが実家からランと帰って来た様子だった。本来なら年をまたいで実家に泊まるナラワシがあったが、義母の家は2階で、爆竹の音に怯えてランが眠れないだろうと判断したのだ。我が家は11階なので、義母宅よりは少しマシだろうと言うのだ。

「初二」と言われる1月2日に当たる日、リーが体調が悪いと訴える。めずらしく熱がある。
その夕方にはランが少し吐いてしまう。そのうち一時間おきに下痢をするようになった。
困った。インフルエンザだったらどうしよう、と案じる。メイにうつるのも怖い。
心休まらないまま夜を越す。
翌日、まだ三が日というのに、かかりつけの小児科にしていた嘉櫻医院がその日から診察を始めていることがわかり、午後リーとランが受診した。

入院していたヨハネ・パウロ2世が退院したとニュースが伝えた。よい知らせである。
私は依然洗礼をうけてはいなかったが、2度ヴァチカンを訪れたいずれもがヨハネ・パウロ2世がローマ法王時代であったし、列強から搾取され、戦禍に苦しみ続けたポーランド出身ということで、格別の思いがあった。かつて訪れたポーランドでは、観光バスの運転席のガラスに彼の写真が貼ってあったのを思い出す。彼は、悲しみの歴史を耐えてきた国の光であったのだ。

だいたい予測はできていたが、翌日、早くも私にも風邪の兆候が。早朝から微熱と下痢。午後、私が嘉櫻医院へ。
インフルエンザではなかったが、新年早々、我が家には風邪の嵐が吹き荒れた。
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2009年06月08日

2サイズの紙おむつと粉ミルク。今年最後のゴミ収集日。

二胡レッスンの再開は3月からが目標だ。蔡老師にもそう伝えている。
それまでは自分でできるだけ復習しようと思う。
2月4日立春、日本も寒そうだ。
台北の寒波は5日から急速に緩み、21度まで上昇。台湾の冬はこんなものだ。台湾に家庭を持ったのは、私が相当な寒がりだったのも要因のひとつかもしれないと思えてくる。

週末、リーが大型スーパーに買い出しに行ってくれた。ランとメイ、サイズの異なる紙おむつが必要だった。飲んでいる粉ミルクもちがう。ランはその一ヶ月ほどで目に見えて大きくなり、そろそろLサイズでもいいように思う。
メイはようやく2500gほどになった。ミルクもたくさん飲んだが、低体重児ゆえ、用心する。
私は今回の妊娠では6sしか体重が増えなかったので、早くも元の体重に戻った。
しかし、悪露は依然続いていた。貧血気味でもある。
台湾では産後一ヶ月は極力外出を避け、静養するよう、日本以上に厳しく言われるが、好きなパンを買いたくなり、ええい!とちょっぴり遠出しようと出かけたが、寒風が吹く朝でびんびん身にしみ、引き返した。やっぱりまだ身体に自信がなかった。買物はほとんどリーに頼るしかなかった。

2月7日、ゴミ収集車が一日中走り回り、にぎやか。
明日は大晦日、今年最後のゴミ出し可能日である。
ゴミ収集車の放送までが、迎春のせわしなさとヨロコビを振り撒いているように感じた。
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2009年06月07日

「ソウル後」を睨むリー。20日ぶりに二胡を奏でる。

一度は非公式ソウル転勤辞令を受諾するに見えたリーの態度が一転した理由は、かの地での任務を終えて台北本社に帰る時の「現実」に思い至ったからだった。
「ソウル支社長をやって台北に帰って、どんな席がある?どう考えても今以上の席はないよ。」
全部が全部ではないだろうが、海外勤務を終えて帰国すると、それなりのポストが用意されていたり、その経験を重視しさらに重用される会社が日本では多いのではないかと私は考えた。いや、そうあって然るべきにも感じる。
「そりゃそうだけどねえ。でも、うちの会社はちがうよ。ほら、東京へ行ってたビリーも、今じゃ取ってつけたような職位にいるし、北京に行ってるエディももし本社に帰ることになったらどこに座るのかと思うよ。ないもん、いい席なんて。少なくとも今以上のポストはない。現状維持だってむずかしい。」
言われてみるとそうだった。言葉は悪いが「飼い殺し」状態に甘んじている幹部はちらほら浮かんで来る。

「あなたが思うようにすればいい。」
私はリーに言った。社長がどう反応するかは置いといて、リーの判断を尊重するだけだ。

2月3日、寒波が緩んだ。
この日、入院した1月13日以来初めて二胡を弾いた。指は忘れていなかった。ホッとした。そして、二胡の音色をあらためて美しいと思った。
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2009年06月06日

義母の贈り物・漢方の威力。リー、ソウル転勤断る構え。

実は、ランに夜中授乳した記憶はない。
11時や12時にその日最後のミルクを与えたことはもちろんあるが、朝まで静かに寝てくれたものだ。
しかし。
だが、メイはちがう。昼間同様だいたい数時間おきに泣いてミルクを欲しがる。早い時は1時間半だ。
私はよたよたと置き、粉ミルクを作る。母乳は出たが、全部それでまかなえるほどではなかった。うつらうつらしつつミルクを飲ませる。眠いのだけど、すぐまた熟睡はむずかしく、また次の催促で起こされるの連続だった。

これが赤ちゃんというものなのだ。
第2子でようやく現実を知る。1人目のランは例外も例外、ラッキーだっただけなのだ。
私は当然寝不足続きで体調は崩れ、イライラしやすくなった。いわゆるマタニティブルーもあった。
義母がたまに来てくれた。しょっちゅうランを預かり、世話してくれてもいた。食べきれないほどの大鍋料理を作ってくれて戸惑うこともあった。市場で買って来たかたまり肉などのスープだ。私一人だと一週間ほどかかりそうなので、リーに応援を求めたりした。
義母はまた、産褥期は大切だと、漢方薬の店が一ヶ月ほど薬膳を自宅に配達してくれる手はずを整えた。まずくはないが、黒い怪しげな液体もあり、半信半疑でいただいていたが、最も効果が顕著だったのは肌がツヤツヤになったことだ。あれはありがたかった。かなり高額な漢方薬だったにちがいない。

あの1月末から2月初めは寒波が到来した。
一度前向きになっていたソウル転勤の件、リーはやっぱり断ると言い出した。
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2009年06月05日

青春映画さながらの友達の輪、今も。母子、我が家へ帰る。

中国語学校や会社から身を引いて、どんどん知人友人が増える状態から遠ざかったが、もともと広く浅い交友は苦手だったので、さほど寂しいとは感じなかった。信頼できて、気の合う人たちと深く、永くつき合いたいと思っていた。
ゴマくんなどは日本語がぺらぺらで、留学時学校で知り合った日本人学生の紹介で知り合ったので、今なおその「友達の輪」があり、結束は固い。彼女はゴマくんが学んだ日本の国立大学の先輩にあたった。先に日本語学校へ通った関係で、実際は年長のゴマくんが大学では彼女の後輩になっていたらしい。
私の一回目の台湾留学でできた、アメリカ人男子留学生を加えた4人の輪は、今想っても胸がきゅんとするほど純で、まさに青春映画を地で行くものがある。
思えば15年を経た今年、4人をモデルにしたあの当時を360枚の小説に仕上げた。ずっと描きたいと構想を練っていた忘れえぬ物語。記念碑にしたい。

さて、私の出産疲れは依然身体にまとわりついていたが、ついに退院の日がやって来た。
陳医師突然の退職で慌てたが、謝医師は懇切丁寧で腕も良く、何ら不足を感じなかった。
すっかり顔馴染みになった外来の看護師さんや産褥期ケアセンターのスタッフにも重々お礼を述べ、珂産婦人科を後にした。
1月13日以来の我が家。
引越したのがわかるのか、メイは夕方4:00頃まで泣いていた。
しかし、そんなのは序の口であった。メイとランは姉妹ながら、まったく別個の人間だとその夜から思い知らされることになったのだ。
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2009年06月04日

退院日時決まるも揺れる想い。ケータイで出産報告。

心配していたが、予定通り1月26日に母子そろって退院できることになった。
縫合の傷口は前回よりずっと早く回復したが、30分ほど人としゃべるとぐったり疲れるし、目が疲れていて本が読めず、読書好きの私を嘆かせる状態は続いていた。
それに、メイは長く保育器にいたし、2200gくらいにしかなっておらず、メイだけ退院を延ばすよう言われるかもしれないとも思っていた。
35歳から年子を出産するということは、やはり身体に大きな負担になっているのかと考えることは多かった。疲労感がなかなかとれないのだ。あれだけ食べていても、産後一週間ほどで体重はほぼ妊娠前に戻ってもいた。ランの時よりも速く、我ながら驚いた。
帰宅すれば、自分でメイの世話一切を担うことになる。この産褥期ケアセンターも我が家のように居心地が良い。去りがたい気持ちと、新しい生活を構築する希望が半々の複雑な心中だった。

落ち着いてきたので、病室から何人かの知人にケータイで出産報告する。
蔡老師と音楽教室に。奥さんと受付女史からはお祝いにベビー服をもらっていた。
教会を通じて知り合ったあの何姐にも。
台湾の大手テレビ局で働くゴマくんにもかけた。日本の国立大学を卒業したゴマくん(ゴマあざらしから来たゴマ)は、かれこれ10年来の交遊が続く大切な友人だった。関西で暮らしていた彼は、今もって流暢な関西弁で話す、頼もしい兄のような存在である。
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2009年06月03日

従妹家族はサザエさん型。暮らし向き良く、祭事重視。

リーのその従妹は同じ会社で働いていたし、彼女ら一家が住んでいるのも私たちのマンションから徒歩5分とかからないアパートだった。
彼女は2人姉妹の姉で、妹は中学校教師、そのアパートの4階と5階を二世帯住宅のように借りて暮らしていた。そう、彼女の夫はいわゆるマスオさん状態なのだ。IT関係の専門家で年齢のわりに高給取りだと聞いた。
台湾でも今は長男家族が両親と暮らすとは限らない。日本語の「嫁姑関係」に当たる中国語はちゃんとあるし、実際、険悪なそれがあったり、またそうなるのを避けるために早くから別居するケースも多い。
私も時々、「お義母さんとは同居?」と聞かれることがあった。
「いいえ、近所に住んでるだけです。」と答えると、「じゃあ、いいわね。」なんて言われるのがほとんどだった。
従妹の家のパターンは少数派だが、うまく行っているようだ。叔母(義父の義理の妹)は台南出身の朗らかな女性で、会話の多くを中国語でなく台湾語で話した。そっちの方がしゃべりやすいらしい。そうなると私はお手上げなのだが、気になることはそっとリーに、何だって?と訊ねた。

娘が満一歳になるその従妹はリーのことを「兄さん」と呼び、私を‘長男の嫁’にあたる呼称で「姉さん」と丁寧に呼ぶ子である。
中国語は親族の呼称が細かく区別されている。私もだいぶ習得したがいまだにリーに教えられたり訊いたりする。
そこの叔父たちは典型的な祭事を重んじる世代の人たちで、私たちが「まあこれはいいか」と省略することでもだいたいしっかり執り行う。従妹夫婦も共働きで暮らし向きがよく、イーハンは一人っ子。そういう行事は毎回華やかだった。
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2009年06月02日

台湾保育器事情。メイ、新生児室の仲間たちと並ぶ。

メイが保育器にいたのは8泊9日、ランの1泊2日よりずっと長かった。
体重がランよりさらに270g軽かったし、最も寒い時期だから用心のためもあった。
ところで、日本で保育器に入れる場合、費用はやはり別途かかるのだろうか。
台湾では別会計で、費用は病院によってかなり異なる。首都である台北は最も高く、田舎は安いのが相場だ。台北でも、台北市内の医師や設備が優れていると言われる病院は特に高いらしい。よく知らないが日本ではそういう基準で額が上下することはないように思うのだが、どうなのだろう。
滞在している産褥期ケアセンターも然りで、地方のそれは台北よりかなり安く利用できる。昨今の日本ではあまり見られない現象ではないだろうか。

何はともあれ、メイは無事保育器を出て、まさに「新生児室の同級生」たちと机を並べた感じで晴れやかだ。
私もようやく授乳室で彼女にミルクを与えられるようになる。
ランの時と同じで、哺乳瓶に搾ったものを飲ませる。小さいので吸う力も弱く、疲れて寝てしまったりして十分飲めないので、楽に吸える哺乳瓶からにした方がいいと指導された。
それでもメイはある程度満腹になるとすぐうとうと・・・・・ 一回の授乳に一時間、私は汗だくになることもあった。でも、なんとか全部飲んでほしいと奮闘した。

着替えを持って来てくれたリーは、従妹の娘の満一歳祝賀会に行くと言う。義父の実弟の孫にあたるイーハンはランと同い年だった。
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2009年06月01日

海を渡る出生届。安眠の恩恵と保育器脱出。

日本では大寒、実家からケータイに電話があり、雪が10cmほど積もっていると父が言う。
リーが撮ったメイの写真をパソコンから実家に送ってくれていたが、私と会話するために、時々両親はケータイにかけてきた。
父には先日、出生届の用紙を送るよう頼んだ。それが20日届き、リーが病院まで持って来てくれた。
私はさっそく指示通り記入し、午後1階に下りると、謝医師は快くサインして印鑑を押してくれた。これをまた日本に送り返し、父が市役所に提出すれば、メイの戸籍ができる。
少し前まで二重国籍を認めていた台湾もそれを廃止したという。ランとメイは18歳になった時、どちらの国籍を取るか選択することになる。

第一子ラン出産後と今回では何かと差があった。
まず、よく眠れる。前回はこの産褥期ケアセンターでツインルームを取り、リーのいびきに安眠妨害されたが、それを差し引いても、あれだけ身体は疲労していたにもかかわらず不眠状態が続いた。神経が高ぶっているような感じだった。なのに、今回は午睡までできる。
縫合した傷口の治りも早く、シャワーやお手洗いが楽だ。

そんなおかげか、心配していた母乳が徐々に出始め、ランの時をはるかにしのぐようになった。お腹の中で十分大きくしてやれなかった分、たくさん母乳を飲ませてやりたいと思う。
そして、1月22日朝。毎朝最寄りの小児科医院から往診に来てくれる林医師が新生児室より電話をくれる。
「今日、保育器から出ていいですよ。」
posted by マダム スン at 05:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 第2子出産も台湾で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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