2009年06月30日

ロタウィルスは大人でもかかる。救急車到着!

明け方だった。
目覚めると、胃が恐ろしくムカムカする。
もともと胃弱で、急性胃腸炎にも時々かかる私は、最初はまたそれかな、とも思った。リーが日本を発った翌日、4月29日のことだ。
思えば、ランが台北でロタウィルスを発症してから10日だが、その感染症が原因とわかってからはたった4日目で、感染予防に何をすべきか知らずに多くの時間を費していたことになる。
また、子供の病気は大人にうつりにくいヘンな先入観があるし、可愛い我が子ゆえに、自己防衛がおろそかになりがちだ。

風邪はそうだ。毎回そんなこんなでだいたい子供からうつされる。
そして、ロタウィルスは主に乳幼児がかかる疾患だが、大人にもうつるのだ。
早朝のムカムカ、吐き気はどんどんひどくなり、下痢、嘔吐が始まった。尋常なつらさでない。トイレから離れるのが怖い。ウォシュレットで清潔にしてあるとは言え、はばかりなくそれを抱きしめうなだれる。
ようやく寝床に戻ろうとして、トイレを出たところでダウン。こんなつらさは何年に一度あるだろうとぼんやり考える。
これはお医者様に診てもらわないとダメだ。両親も同意見だった。
でも、29日は当時みどりの日と言い、病院は休み。急患で診てもらうしかない。車で25分ほどかかる県立病院に行くことにするが、その25分も不安だった。自家用車にトイレなんてない。途中でスーパーかどこかのトイレを借りる? それも心許ない、、、、、

そこで、119に電話。
ほどなくして、我が家に救急車が到着した。
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2009年06月29日

私の二胡

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ラン、ようやく快方に向かうも、ロタウィルス依然潜伏。

「嘔吐下痢症」など、いくつかの別名を持つロタウィルスは、ノロウィルスより感染力が強いらしい。生後6ヶ月から5歳までの乳幼児ほとんどが経験する病とも言われる。潜伏期間は約2日。激しい嘔吐と下痢、発熱の症状が現れ、3〜8日程度で治まる。
感染経路だが、患者の便からうつることがほとんどだ。患者の便1gの中には10〜10億個ものウイルスが排出されていて、それが何らかの方法で他の人の口に入って感染する。

積極的な治療薬はなく、対処療法に頼るしかない。
確かにランがその病院でもらった薬も整腸剤くらいだったと思う。熱はほとんど治まっていたし、下痢止めなどはかえって好ましくないようだった。
ランの症状が出始めて6日目に日本の病院へ行き、ロタウィルスと判明したのだが、ちょうどその日から、目に見えて快方に向かった。
翌日には食欲がすっかり戻り、「そんなに食べて大丈夫?」と心配するほどだった。
うんちもその日は1回のみ。下痢でもない。ランはどう見ても痩せたがすぐ取り返すだろう。よかった。

翌々日4月28日、リーがひとり台湾に帰る日。早朝起床、最寄りの駅までだけ彼を送った。もう何度か日本の実家へ来ているので、関空までひとりでも問題ない。日本語もかなりイケる。
さあ、ソウルまでの3ヶ月、母子の日本暮らしが始まる。
と、翌日、いきなり試練が訪れた。吐き気に始まり、嘔吐、下痢。ロタウィルスが私にやって来たのだ。
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2009年06月28日

日本帰国後、病院へ。ロタウィルスが犯人と判明。

乗り継ぎがまずまずうまくいき、午後6:30頃無事実家に到着。
ランは道中、何度もぐずり、泣いて、あやすのが大変だった。
熱は37.3度に下がったが、依然下痢が続く。
リーも私も疲れて、早目に就寝、ランも少し楽になったのか、いい子にして寝付いた。

翌朝ランは8時頃起床。平熱に戻ったが、下痢は治まらない。
痩せて、目に力が無く、まだすぐぐずる。しんどいからだろう。
その日の夜1:30頃、ランが泣き、リーも私も起こされる。やはり、まだ安心はできない。
翌26日火曜日、午前中、地元の小児科医院へランを連れて行く。
まず、予防接種の件を話す。すると、医師は市内の県立病院の小児科を受診するよう告げ、紹介状を書いてくれた。
長い時間待つことを怖れたが、思ったより早く診てもらえた。
リー、ラン、私と3人が診察室に入り、医師と話している最中にもランは下痢。
「その便採って!検査しよう。」
医師はすばやく看護師に指示する。
紙おむつの便を看護師が採り、ほどなく検査結果が出た。
「ロタウィルスですね。」
は? ロタウィルス? ノロウィルスじゃなくて?
そこで初めて、ランの不調は予防接種の打ち違えではなく、ロタウィルスが原因と判明した。ちょうど、誤打と感染症の時期が重なったのだ。
ロタウィルス。私は初めて耳にする病名だった。
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2009年06月27日

医者たるもの・・・の想い。病むランを連れ、日本へ飛ぶ。

解熱剤だけを処方され、経過を注意深く見るしかないと言われ、幼婦病院を後にする。
本来、病院で医師の診察を受ければ、多少なりともホッとしたり、気が晴れるものだし、医者たるもの、自分の顔を見せるだけでも患者の不安を軽減するくらいの腕や人徳のようなものを備えるべきだと思う私は、何とも煮え切らない思いだった。
「わからないなあ、、、、」
それはないでしょう。
少なくとも、日本にだが、私にはその医師に診てもらっただけで納得し、治癒の望みに充ちて安らぐかかりつけの医師がいる。

ランは相変わらず泣いてぐずった。熱は38度を超えるし、嘔吐や下痢が続く。それを見ても聞いても胸が痛み、不安で気が狂いそうになる。もちろん、ランはまともに食べられない。
明日は日本へ里帰りする日、私はランを看病しながら荷造りにも忙しくした。医師たちは飛行機はOKだと言うが、本当に大丈夫だろうか。
台北の自宅から空港まではリーの車で約40分。
台北から関空はだいたい2時間余り。
関空から実家までが空港バスや電車を乗り継いで、これまた2時間余りかかり遠い。
日本の両親たちも心配している。

4月24日、今は無き日本アジア航空218便、10:35台北発、沈鬱な4人を乗せて、関空に飛び立った。
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2009年06月26日

予防接種打ち違え後の嵐。医師の態度に怒る私。

ジフテリア・百日咳・破傷風混合(DPT)だったか、ポリオだったか覚えていないが、本来打つべきワクチンはそれで、2度の日本脳炎予防接種は既に完了していた。
陳医師はしばし動揺した表情を見せたが、「大丈夫です、問題ない」と答え、すぐ正しいワクチンを打ち直した。
私の狼狽ぶりはまだ続いた。
もう要らない日本脳炎ワクチンを打った後、すぐ他のを注射?!
同じ日に打ってもいいの?!
リーは私よりずっと冷静だが、驚いていた。
本当に大丈夫だろうか。

ところが、案の定と言えば案の定、その日の夜からランの様子がおかしくなった。
リーがミルクを飲ませてやると、吐いてしまった。
ほどなくして下痢も始まった。熱もある。

翌日の土曜日、メイを義母に預けてランを幼婦病院へ連れて行った。
小児科の医師は40歳前後と思しき男性、予防接種の事や経過を説明する。リーが話してくれるが、私も時々補足する。
「やはり、予防接種が原因でしょうか。もしそうなら、どうなるんでしょうか。」
すがる思いで尋ねた。すると、その医師は、のん気と困惑が入り混じった顔つきで、
「さあ、、、こういうケースは見たことないのでわからないなあ。」
と言う。
私はめまいがした。そして、医者たるもの、如何なる時も患者やその家族に不安を増長させるような言動をしてはならないと腹が立ってきた。その医師の態度はとても無責任に見えたからだ。
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2009年06月25日

ソウル移住に向けての計画。ラン、予防接種まちがえて打たれる。

リーと結婚してから妊娠中にせよ、ランが生まれたにせよ、私たち母娘はだいたい4〜8月に1〜2ヶ月日本に里帰りしていた。
その年はリーの5月1日・ソウル転勤が決まり、彼と話し合った結果、4月24日に一家4人で日本へ帰り、母娘は3ヶ月実家滞在、リーは例年通り5日間ほどで台湾へ帰国、5月1日ソウルへ赴任することになった。最初の3ヶ月はリーが単身赴任する形となったのだ。
というのも、韓国には知人も親戚もいない。私もリーもハングル語はまったく話せない。メイはやっと3ヶ月、ランは1歳半。娘たちの予防接種のことも気になるし、すぐに慣れない初めての土地に移り住むのは無謀だということになった。
それで、せめてメイが6ヶ月になるのを待って、母娘3人はソウル入りする。それでも、母は、
「あんた、一人で大丈夫?まあ、リーは子供たちをよく世話してくれるけど、、、、、」
と再三私をおどかす。
もう言わないでほしい。やるしかないんだから。

日本へ一時帰国する2日前の4月22日、嘉櫻医院へランの予防接種に行った。
陳医師と、今後日本で3ヶ月過ごした後、韓国へ行く旨を告げ、娘たちの各種予防接種をどうすればよいか、国によってワクチンの内容・成分は異なるのかなどをあれこれ話した。
それで医師はこんがらがったのか、本来打つべきワクチンではない、日本脳炎のを打ってしまう。
えーっ!! ランは日本脳炎のはすでに2回接種済みですよっ、いいんですかぁ?!
私はパニックになった。
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2009年06月24日

義姉の誕生日祝いはタイ料理店で。教会の友人たちが来宅、温かな贈り物。

義弟の娘が風邪をひき、幼稚園を休んで義母宅に来ているため、ランを預けられない日がしばらく続いた。
台湾の多くの家庭同様、義弟夫婦も共働きで、我が家よりずっと義母を頼りにしている暮らしぶりだった。

義父の命日が過ぎてほどなくした日曜日、義姉がみんなを夕食に招待してくれた。翌月曜日が彼女の誕生日だからだ。
独身で、英語を駆使し、バリバリ働く義姉は、その自らの記念日をタイ料理の店で祝うことにした。タイにも友人がいる彼女は、よくそのレストランに足を運ぶ。お店の雰囲気も良いし、確かにおいしい。
最寄りの支店は太平洋SOGOの向かいにあり、うちから10分ほどと便利でもあった。

また、その週の金曜日は何姐たち、教会の知人総勢4人が我が家にメイ誕生のお祝い兼韓国行き壮行に来てくれた。
「これ、私たちからよ。」
と手渡された小さな箱。恋人同士なら、婚約指輪が入ってるのでは?と思わせるサイズの箱だ。
開けてみると、十字架のペンダントトップだった。とても素敵だ。
台湾では女児が生まれると、金製品をお祝いに贈ることが多い。メッキではなく本物の金製品で、だいたいの場合、ちゃんと保証書が入っている。
私は何度も彼女らに礼を述べた。
そして、同封されていた、これまた小さなカードの表紙には「一路平安」と書いてある。リーの転勤に伴い、母娘も1〜2年ソウルに移り住むことが決まったゆえのメッセージだった。
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2009年06月23日

義父の一周忌には初夏の暑さ。東京よりWEST届く。

日本も台湾も地震が多い。あれが好きな人はいないだろうが、私も怖くて大嫌いだ。1〜2年暮らす予定だった香港は地震がないが、韓国もそうだとは知らなかった。ありがたい。

リーがソウルへ行っている間に、義父の一周忌がめぐってきた。
私と幼子は留守をしていたが、一周忌の法要は3月末にもう執り行われていた。
大好きだった義父を想う。中国語で天国を「天堂」という。どうぞ、天堂から私たちを見守ってください、と祈る。

4月に入ると、台北では日本の初夏を感じる。
義父の命日の台北予想気温は21〜31度。寒がりの私でさえ朝から半袖を選んだ。日本なら花冷えや寒の戻りで不安定な時期だというのに。
午前中、メイを抱き外出したが、半袖の人が多い。
なのに、義母宅で寝泊りしているランはくしゃみ、咳、鼻水症状、義母が小児科へ連れて行ってくれたと言う。

翌8日、リーが韓国から帰って来た。空港から直接、義母宅にいたランを迎えに行き、2人で帰宅。でも、彼はシャワーを浴び、すぐ会社に出かけた。
ヨハネ・パウロ2世の葬儀がサンピエトロ大聖堂で行われた。米・ブッシュ大統領も参列、大きなお別れ式となった。
私たち母娘3人は日本へ一時帰国する日が近づいていた。持って帰るもの、持って帰って来たいものを考え始める。
そんな折、東京に住む伯父から第二子誕生を祝ってWESTのクッキーが航空便で届いた。
日本にいた頃も時々いただいたが、なんと台湾まで、、、、、
実家では、大人気のそのクッキーをめぐる争奪戦が激しかったが、台北の家族でその美味を知るのは私だけ。にんまり。
夜も暑く半袖、蒸し暑いと思っていたら、雨になった。
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2009年06月22日

眼鏡を新調するのは台湾で。リー、ソウルで新居を見つけたと報告。

リーが台湾を発った翌日は約一年ぶりに眼鏡を作りに行った。
自宅から徒歩で10分足らずのところに朝市が立つが、道路を挟んだ向かいに眼鏡屋が4〜5軒並んでいる。
台湾には多くの眼鏡チェーン店がある。それぞれに少しずつ特色やウリがあるのだが、だいたい似たような感じなので、あとは価格やサービス、TVコマーシャルなどから受けるイメージで選ぶ。
また、日本と異なり、処方箋なしで使い捨てコンタクトが購入できるので、それが50元でも安い店を探す。ドライアイの私ではあるが、極めて薄い使い捨てコンタクトレンズなら3〜4時間は大丈夫で、時々使用する。両眼30枚で約1200〜1300台湾ドル(約4000円)が相場だ。

基本的にコンタクトに頼れないド近眼のため、古い眼鏡のフレームを用いたりして、時々眼鏡を新調する。服やバッグさながら、いろいろカラーをそろえたくなるのだ。近視が強い私はレンズは良いものでないと恐ろしく厚くなってしまうが、フレームで贅沢を言わなければ、1万円ほどで結構ちゃんとしたものが手に入る。私くらいの近眼で乱視もきついと、日本でなら3万円は必ず超えてしまう。
度が強いので5日ほどはかかると毎度言われるセリフに、いいですよいいですよと頷き、店を出る。出来上がるのが楽しみだ。

その翌日、リーからいい部屋を見つけたと国際電話が入った。
ソウル支社が入った背の高くないビルのすぐ裏隣りに建設中のマンションの2階だという。あと1ヶ月ほどで完成するから問題ない、通勤時間徒歩一分、窓から互いに見えるくらいだよ、と彼の声が弾んでいる。
私もそれを聞いてホッとする。メイもランもまだこんなに小さい。周囲に親戚もない。リーの手助けが必要なのだ。
「まだ建設中だけど、もうほとんど買い手は決まってて、そこと最上階の8階しか空いてなかったんだよ。もちろん8階の方が眺めはいいけど、最上階はさらに値が張るんだ。2階でいいよね。」
十分だ。
「いいよ、2階で。地震があった時、2階の方が気が楽だし。」
と言うと、リーは、
「ははは、、、韓国って地震ないんだよ。」
と笑った。
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2009年06月21日

赤ちゃんの笑いにも個人差はっきり。リー、部屋探しにソウルへ飛ぶ。

今回のソウル出張は土曜日までの5泊6日で、その間ずっと義母にランを預かってもらうことになった。昼間は大丈夫でも、私一人で幼い2人の子をひと晩見るのはまだ怖かった。もし、夜中急を要することが起こった場合、対処できる自信はない。

メイの授乳回数や間隔は安定してきた。一日平均6回で、夜もだんだん長く寝るようになった。それにあわせて、私も午睡なしの元の生活リズムに移行しつつあった。
それにしても、メイはミルクをしょっちゅう吐く。顔中真っ白になるくらいひどい時もあり、慌てた。ランはこれほど頻繁でも重症でもなかった。
それと、笑わない。><
ランは驚くほど早くから満面の笑みを見せる子だったので、その落差の大きさに戸惑う。
メイ、なぜ笑わないの?
こんなことでも個人差ははっきり現れるのだ。

3月下旬、台北は気温30度に届きそうな日も出てくる。夏服やサンダルの準備を始める頃だ。
そして、4月3日、リーはまた韓国へ発った。
紆余曲折はあったが、ついに家族4人でソウルへ行くことが決まり、今回の出張は家探しが主な目的だった。
入退院をくり返していたローマ法王ヨハネ・パウロ2世がこの日、天に召された。
私がカトリック系の高校に進学し、その訓えに近づいた時から法王の座にあったパパ様。
ヴァチカンがテレビにたびたび映し出される。祈りの日。
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2009年06月20日

黄皮膚科と教会はセットで訪問。台北のバスは安くて便利。リー、再度ソウルへ。

リーと結婚してからは黄皮膚科付近のアパートから彼のマンションに引っ越したため、当然「徒歩5分」では通えなくなったが、バスか地下鉄、時にはリーの車で李さんのエステを受診した。何小姐がいるあのカトリック教会も目と鼻の先で、黄皮膚科と教会は毎回セットで訪ねるようになった。
交通手段はだいたいがバスだった。地下鉄の駅まではかなり距離があったが、バス停はマンションのすぐそば。その上、うちから黄皮膚科のある隣りの新店市までは「一段票」、いわゆる一区間、15元(約40円)で行けるのだ。
バス料金は私の一回目の留学時代(1994年頃)と変わらない。距離によって「両段票」の30元となるが、それでも安くて便利だ。

ソウル赴任を承諾したリーだったが、その後またしばらくは悩んでいた。もともと転職希望の意向はあったし、重任を受ける前にいっそ退職してしまおうかという気持ちが起こるのもわからないではなかった。
しかし、子供が2人、4人家族となった今、無謀なことはできない。
彼が興味を持っている民宿経営やヨット管理業務などは、そう容易に始められるものでもない。
ふっ切れないなか、1ヶ月ぶりとなる3月21日より、リーは再びソウルへ出張となった。
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2009年06月19日

台湾の皮膚科医院がエステ部併設はよくあること。李さんの人柄に惹かれてスタート。

エステなんてゼイタクではないか。
一度行き始めたらやめられなくなるかなあ。
本当に効果はあるんだろうか。
期待より不安が大きく、でも、見るからに人が良さそうな李さんその人への信頼にすがって、予約日を待った。週末は混むようなので、金曜の夜、仕事帰りに寄ることにしたのだ。メイクを落としてお手入れしてもらい、そのまま帰宅して就寝できる。

黄皮膚科ではかつて診察をうけたことがあった。ある台湾の知人に薦められた漢方薬を飲んで、ものすごいじんましんが出た時、同居していた台湾人の友人に紹介されたのが黄皮膚科だった。私の中国語学校付近にも有名な皮膚科があったが、黄皮膚科もそこに劣らぬ「行列ができる」医院だった。たしかに医師たちの腕はよかった。だから、李さんのみならず、皮膚科医院そのものに対する思い入れは強かったように思う。
こういう分野では地味かつオクテな私が重い腰を上げられたのは、医学とか病院という後ろだてがあったからだろう。台湾には黄皮膚科のように、皮膚科医院がエステ部を併設する例はめずらしくない。もちろん化粧品会社が経営したり、チェーン展開する店もあるが、カタい私には「お医者さまがやっている医学エステ」に安心感を覚えたのだ。
そして、約8年前になるが、一回約1時間で800台湾ドル(当時で2800円くらい)と、仕事を持つ留学生の私には何とかなる費用でもあった。

目の下のクマだけでなく、お手入れしてもらうと肌の状態が目に見えて改善した。李さんはじっくり話しても、第一印象を裏切らない善良な女性で、彼女に会うためにも、私の医学エステ通いはその後もずっと継続することになる。
結婚、妊娠、出産、育児などで独身時代と比して行ける回数はぐっと減ったが、私の貴重な交友の場でもあった。
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2009年06月18日

老化?!目の下のクマに泣く。台湾で初エステ探し。

これまで特筆したことはなかったと思うが、台湾で定期的に続けていたことと言えば二胡レッスンと、皮膚科通いだった。
皮膚科医院に行くのだが、別に疾患があったのではない。エステに行くのだ。
日本にいた頃はエステなんて一度もやったことはなかった。まず、すごくお金がかかるイメージがあったし、それに見合う効果があるのか猜疑心が消えなかった。
では、なぜ台湾でそれに目覚めたかと言うと、老化をはっきり実感したからだ。30代半ばにさしかかり、生まれて初めて目の下のクマが気になるようになった。寝不足や疲労で一時的に現れるものもあるようだが、私にはそういう原因は思い当たらない。「老化してるんだ、これは、、、」かなりのショックだった。そして、いても立ってもいられないくらい焦りを感じた。

それから、登校したり、週末街を歩く時、エステ店やその広告などを注意して見るようになった。効きそうで、高額すぎないお店を探した。
そんな折、自宅近くの薬局で目の下のクマに効く化粧品はないか見に行ってみた。そこに置いてあるパンフレットに目が留まる。手に取り読んでいると、いろいろ質問してみたくなった。
白衣を着た薬剤師女史に尋ねると、そのパンフは数軒隣りの皮膚科のもので、エステ部門を担当している看護師さんが詳しいから、ちょっと待って、呼んで説明してもらうわ、と言う。
そこに、これまた白衣を着て駆けつけたのが李さんだった。40代後半くらいだろうか、丸顔でやわらかい笑顔が、エステ入門者の不安多き私の尻込みを和らげてくれた。
あれは11月だった。思いもよらず、その薬局の店先で、石橋をたたいてたたいてようやく渡る私が、数日後李さんの皮膚科エステに行く予約をしてしまったのだった。
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2009年06月17日

2ヶ月ぶりの二胡レッスン。2児の母になっても意欲変わらず。

娘たちや自分の風邪で、3月初めからの再開とはならなかったが、3月12日、約2ヶ月ぶりに二胡レッスンを受けられることになった。
メイ誕生の前は、レッスン日である木曜日は義母がランを預かってくれていた。義母の都合が悪い時はランを教室へ連れて行き、受付女史やオーナー夫人らが守りしてくれたが、2人となると「うぅーん、、、」と私は頭を抱えた。
そこで、会社が休みでリーが在宅の土日にレッスンしてもらえないか、蔡老師に尋ねた。
幸い、土曜日なら大丈夫という返事をもらえた。私は土曜でも日曜でもよかったが、老師が日曜日を必ず外すのは、教会へ行く関係だろうと推察した。彼女はプロテスタント系のクリスチャンであった。日曜日にはミサに与るようだったし、メールアドレスには「エルサレム」の文字が入っている。なかなか敬虔な信者と見えた。

さて、その日は午後3:00から一時間、主に新しくG調を教わる。基本のD調に続く二つ目の音階である。二胡には全部で六つ音階がある。
まだ二つ目だというのに、頭が混乱する。内弦がドで始まるD調、G調はソで始まる。一週間で出された宿題をこなせるか不安になる。でも、喰らいついて行くしかない。
蔡老師も言うように、私は本当にかなりまじめな生徒だったと思う。むずかしい宿題が出て、最初数日はサンザンな音、うまく音程やリズムがつかめず半泣きになることしばしばだったが、それでも次のレッスンにはなんとか形を整えて弾けるくらいにして行くのが常だった。
子供が2人になり、自分が習い事に出るのがさらにパワーの要るイベントに感じたが、一生二胡を弾きたいとの想いは揺るがなかった。
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2009年06月16日

朝の早い台北、毎日単独ウォーキングを貫く。

メイへの授乳は昼夜を問わず続いていたが、いくら寝不足でも、お天気が悪くても、私は早朝ウォーキングに毎日努めていた。
リーは午前9時以降に出勤する。
ランと彼はだいたい8時頃まで寝ている。
問題はメイ。彼女さえ起きて泣いたりぐずったりしなければ、朝のその時間帯は唯一、私が自由に単独外出可能となるものだった。
メイが前回ミルクを飲んだ時間や、表情などをじぃっと見て考え、「よし、今だ!」と靴を履く。

朝の散歩は爽快だ。
交通量の多い台北も、いくらか空気が澄んで見える。
7時過ぎには小学生たちがもう学校へ向かう姿がある。早い。
また、その頃には市場が立つ。
大型スーパーは9時を待たねばならないが、日本で言えばJAにあたるような「農会」経営のスーパーは8時半開店。
マクドナルドは24時間営業。朝でも結構レジ前にはおおぜい並んでいる。
道路際の「屋台」は早起きで、小龍包や包子、葱油餅、サンドウィッチ、饅頭や豆乳などの定番朝食ゲットにはなんら不便はない。登校、出勤途中に買って行く人はたくさんいる。朝食は自宅でとるのがほとんどの日本と概念がちがう。
不思議なもので、朝のせわしなさと活気からは元気をもらえる。

私はそういう光景の中のウォーキングを30分程度満喫し、極力リーたちが起床する8時までに帰宅できるよう心がけた。リーは豆乳と、卵とハムをフライパンで焼いて食パンに挟む朝食を自分で作る習慣が長年続いていたが、やはり目覚めた時に私がいた方がいい気がした。
あまりに私が毎日熱心に歩きに出るので、リーにはたびたび、
「毎朝毎朝まじめに出かけるねえ。外にイイ人でもいるんじゃないの?」
と言われたものだ。本気かジョークか判断しかねたが、気にしない気にしない。
この早朝ウォーキング、台風が襲来して警報が出た時はさすがに強行は無理。休んだのはそんな時だけで、ここにも私の一徹ぶりが表れていた。
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2009年06月15日

ソウル転勤決定。台湾の山でも冠雪、寒い夜。

3月4日、ついにソウル転勤が決まった。
リーの赴任日、そして私たち母娘はどうするかなど詳細は別として
とにかく決まったのだ。
リーは混乱しているソウル支社のトップに就き、そこでの任務が終わる時には「次」をつかんでおかねばならないだろう。
茫漠とした心境になる。
が、前進しなくてはならない。ソウル行きが私たち家族にとってプラスかつ実り多きものになるよう、私は強く祈願した。

奇しくもこの日、寒波が襲来し、台湾でも雪が降った。東京は大雪らしい。
台湾で平地に降雪することはないが、標高の高い山頂では年に何度か雪がうっすらと積もる。そういう日は必ずニュースで報道されるのだ。

翌日曜日もとても寒かった。特に夕方からはいちだんと冷えてくるのを感じた。
それまでの週末はリーとランだけが義母宅へ帰り、にぎやかなひとときを過ごしていたが、メイも1ヶ月半になり、その日は私もメイも実家へ帰るようリーの指示が出てしまった。義弟の車で送迎を頼むと言う。
こんな寒い日にわざわざ何も、、、と思うのだが、言い出したら聞かない。観念するしかない。
メイは叔父家族、伯母、祖母たちに囲まれ、「可愛い〜」とか「目はあまり大きくないね」とか「色が白くなったね」などと言われた。
たしかに誕生直後は色黒に見えたが、だんだん皮膚は白くなっている。
その夜は翌朝まで暖房をつけて眠った。
台北でも、こんな夜はあるのだ。
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2009年06月14日

台湾保健所事情と、メイ・パスポート取得までの道のり。

3月に入った。
私の風邪はかなり回復したので、最寄りの保健所へメイを抱いてB型肝炎2度めの予防接種に出かけた。
いつ行っても、市の保健所は混んでいる。自宅から徒歩10分足らずと近いのはいいが、今回も26人、50分ほど待った。乳幼児の各種予防接種のなかには、保健所でしか打ってもらえないものがあるので仕方ない。
お年寄りの姿も多い。他の医療サービスもいろいろとあるようだ。
保健所職員以外に、「義工」と書いたそろいのベストなどを着たおばさんたちが総合受付に数人いる。「義工」とはボランティアのことだ。
「あら、あなた、中国語上手ねえ。」
とか何とか言われることも、もう何年も台湾に住んでいる身にすればくすぐったい。時には、そもそもどうして台湾に来たのか、リーとどこで知り合ったのか説明している自分がいる。私はおばさんたちの娘くらいのトシだから和気藹々、可愛いわねえ、と孫同然のメイにもうっとりしてくれたりする。

メイを連れて外出したついでと、予防接種の後そのままメイの証明写真を撮りに行く。彼女のパスポートを取るためだ。一度も日本へ行ったことがないメイでも、日本のパスポートが台湾で取れるのは至極便利でありがたい。
しかし、生後わずか1ヶ月半のメイ。首も据わらず撮影に四苦八苦><
やっと撮れたかと思うと、その後申請に行った際、規定外だと却下され撮り直しを命ぜられた。台湾のパスポート申請時にはパスしたが、日本の方は厳しいのだ。
一人身の時なら何でもない外出や距離が、赤ちゃん連れとなると大仕事となる。写真屋の大将に事情を熱く説明し、撮り直してもらう。
再挑戦の末、OKが出て、メイもめでたく日台双方のパスポート保持者となった。
はーっ、一件落着。
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2009年06月13日

冬でも多湿な台湾は湿度80%以上も有り。羊肉爐に温まる。

ソウル支社の現況をだいたい把握して帰国したリーは、赴任前にもう一度家探しに韓国へ飛ばねばならないと言う。
「寒かった?」
と詰め寄る私に、
「寒いよお、雪も降ったし。やっぱり台湾よりずっと乾燥してるから静電気が起こって、あれがつらいな。」
と答える。
まあ、それはそうだろう。2月下旬、日本でも第一級の寒さが猛威を振るう頃だ。
それに、台湾は一年を通して多湿である。静電気なんて来ない。日本で言う梅雨が、台湾では少し早く訪れるが、その時期よりかえって1~2月にじめじめとした長雨が続くことがある。晴れていても洗濯物が乾かず、おかしいなあと湿度計を見ると80%を超えている。台北は冬でもだいたい湿度が60~70%あるのが普通だ。
湿度80%を超えると洗濯物は洗った時のまま乾かない。これは体験から学んだ。そういう日は洗濯物を一室に集めて除湿機をつける。

空気が湿っていても、風邪はひく。
ランの風邪は私にもうつり、メイも様子が少しおかしい。
リーが戻った翌日、ランの予防接種も兼ねて嘉櫻医院へ行き、私は診察を受けた。薬を飲むため、5日間母乳は禁止となった。

精神的にまいってしまいそうになりがちだった夜中も続くメイのおっぱい催促は、徐々に時間の間隔があくようになった。ふた晩続いて連続5時間寝てくれて、つらい期間はずっと続くものではないんだとあらためて自分に言い聞かせる。
翌日曜の夜、リーが羊肉爐を作ってくれた。台湾ではポピュラーな羊肉の鍋料理で、「温」質の羊肉は特に冬いただくのが身体に良いという。独特の香りと湯気に温まる夕べ。
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2009年06月12日

リーがソウル支社長を受けた内情と経緯。

私など、すでに21ヶ国を歩き、知人友人が皆無な土地に行くのも平気で、こういう方面ではなんとかなるだろうとたくましく脳天気な人間ゆえ、どこでも行きますョと最終的には結構余裕で受け入れるのだが世の中そういう人ばかりではない。
まず、女性より男性の方が新たな環境への適応力が乏しいとは聞いたことがある。
そして、今のソウル支社は前任者の無謀で、一種犯罪とも言える行動で荒れているらしいから、その後処理と復活をかける重責に、会社の幹部たちは及び腰なのだ。通訳兼秘書がいるといっても、ハングル語を自分で操れない不安と不自由さも痛いところだろう。

それまでから、社長とリーはあまり馬が合う方ではなかった。リーは米国でMBA(経営学修士号)を取得しているくらいだから、起業にずっと興味もあり、転職やそれへの意欲をたびたび表してもいた。
幹部たちは「お前が行くのがいい」とリーを推す。
何だかんだ言っても香港の時のように、結局社長が頼るのはリーだった。
ソウル転勤を断れば、今退職するしかないような成り行きになっていた。
転職や起業にしても、まだ具体的な構想などない。
それなら、これが最後の任務と観念してソウル支社長を引き受け、その役目が終わった時にこの会社からも去ればいい、という構えになるしかなかった。
周囲の誰もが嫌がるソウル行きを受けるのだから、会社が提示した待遇はすこぶる良いものだった。リーはそれを要求する権利みたなものさえ感じた。
家族全員で暮らせること。
家族にも半年に一度は台湾ー韓国間の往復航空券を提供すること。
など、引けないものはあったし、会社も承諾した。月収は2倍、家賃、光熱費、電話代など一切会社が持つ。
こういう駆け引きをくり返すうちに、我が家のソウル行きはどんどん実現に向けて動き出した。
posted by マダム スン at 05:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 4人家族になって | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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