2009年04月10日

異例のドンデン返し、リー、ビールで荒れる。

穏やかな表情に見えたのはうれしかったのではなく、諦念とショックが入り混じる、望み断たれた微笑だったのだ。テレビをつけたままソファに沈み、リーは悔やみ続けた。
女の子だと思っていたのに、産んでみると男の子だった、というパターンは時々あるらしい。
だが、その逆はめったにない。私も、次に定期健診へ行った際、陳医師も、「おかしいなあ、、、、男の子だったのになあ、、、」と解せなかった。でも、科学的に検査すると女の子なのだ、仕方ない。

いくつか名前の候補すら挙げ始めていたリーだった。
2人目の女の子を歓迎する私を尻目に、リーは出て行く。
「ビール買って来る。」
・・・・・・・・・
酒量は多くないが、彼は飲むのが好きだ。ヤケ飲みというのもたまにあった。
コップ一杯で幸せな気分になれる私よりはずっと強いが、飲めば飲んだ分だけ反応が如実に出るので、私は彼のお酒に好印象はない。
500ML6缶を提げて帰って来た。よからぬ副作用が出る量だ。
リーはテレビの前で、始終ぐちぐち言いながら、6缶とも飲み干し、大いなる落胆に荒れた。
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2009年04月09日

「白」と出た羊水検査、染色体が示したのは・・・・・

その日リーは実家の仏事で年休をとっていた。
私は夕方からひとり歩いて美容室に行った。ランはリーが守りしてくれていたし、髪を切る必要もなかった。
ランは誕生時から髪が少なく、その後もなかなか伸びず、そのせいかしょっちゅう男の子と間違えられた。
「好可愛的弟弟!!」
見知らぬ人にも、よくそう言われた。可愛いとほめられるのだが、女の子には見てもらえなかった。
台湾では、幼い男の子を「弟弟」(ディディ)、女の子を「妹妹」(メイメイ)と称することが多い。ランに「ディディ!」と声をかける人は10人に8人はいたのである。

夕暮れ時、帰宅すると、リーはリビングのソファにいた。
「羊水検査、問題なかったってさっき電話があったよ。」
私は文字通り拍手喝采の喜びだった。よかったー。雲隠れせずに産めるのだ。
「それから、、、、、」
リーも安心したのだろう、穏やかな表情で言う。
「女の子なんだって。」
・・・・・・・・・・・・・・・? は?
女の子? 超音波検査では男の子だった。私もこの目で見たのだ。
だが、画像で見るより、染色体を調べられる羊水検査の方が正確なのは言うまでもない。
リーには申し訳ないが、自分が男の子を産みそうにない「さだめ」のようなものを感じていた私には、必然の結果のように感じられた。そして、どうも自分には男の子を育てられる十分な資質が備わっていないような不安があったので、第2子も女の子と聞いて大いにホッとし、とてもうれしかった。
しかし、リーはと言うと、、、、、
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2009年04月08日

「熱帯夜」のない台湾、安眠できぬ日々。

週に一日は、ランは義母宅へ行くようになっていた。
義弟の子供たちが夕方小学校や幼稚園の後やって来て、両親が迎えに来るのを義母宅で待つくらいで、基本的に義母はこれと言って仕事はなく、3番目の孫娘を預かりたがった。
子守りは疲れるが、私はすすんでランを預けたいとは思わなかったものの、義母の張り合いと私の休息のために、とリーが勧めたので仕方なかった。

真夏の台北は暑い。
日本の夏も湿度が高く厳しいが、やはり四六時中暑い台湾よりは過ごしやすい。
台湾には「熱帯夜」という言葉がない。言ってみれば、毎晩熱帯夜だから、あえて形容しなくてもいいのだろう。昼と夜の気温差が小さく、就寝する時間になっても室内が31〜32度あるのは当たり前で、たまに30度を切ると、とても涼しく感じる。
8月下旬、酷暑は続き、冷戦も然りだった。
性格的なこと、習慣や文化の違いが原因になることは多かったし、またしても私がひとりっこで、日本の実家や年老いて行く両親をどうするかでリーと白熱した議論になることも時々あった。
リーは責任感が強く、またその種のプレッシャーに弱いので、私よりも先に将来を心配する傾向があった。
衝突は増え、私はたびたび思い悩むあまり安眠できず、この先どうしたものかと真剣に考えることもしばしばだった。
もちろん、何とか努力、創意工夫、気持ちを入れ替え、仲良くやっていかねばと試みた。

とうとう羊水検査の結果が出た。
約2週間後、病院から結果が電話で知らされることになっていた。
9月3日、その電話を受けたのはリーだった。
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2009年04月07日

羊水検査と不退転の決意。

ランは10ヶ月になり、当初アレルギー体質と言われたが、全卵や干しえびなど与えても問題はなくホッとした。だいぶ硬いものも食べられるようになった。離乳食も、お米、パン、ビーフンや麺類などベースを変えて、いろいろ工夫してやった。

8月20日。とうとう今回も抵抗空しく、リーに押し切られ、羊水検査を受ける破目になった。初めての時より痛みは少なかったが、検査中にせよ、結果が判明するまでの2週間にせよ、不安で落ち着かないのは同じだった。
台湾で生活すること自体、さほど困ることはなかった。知人友人はいたし、ネット時代を迎え、パソコンをONにすれば、世界とつながっている安心感を即座に得られたし、言葉にも不便は感じず、日本にいるのと大差なかった。
しかし、やはりリーよりはずっと立場が弱かった。彼は台湾人で、年上で、私には一人もいない親族が彼には身近にたくさんいるのだ、無理はない。そういう心細さ、孤立無援と四面楚歌状態に陥りやすい寂しさは常にあった。
羊水検査当日と次の日は安静が必要で、日課の散歩と買物などはやめた。
そして、医師の指示通り3日後、ひとりバスで再検査へ行く。転ばないよう細心の注意を払う。
検査は5分で済んだ。胎児の様子は良好でひと安心。
それでもあと10日は晴れない気持ちで結果を待たねばならない、、、
だが、私には不退転の決意があった。何があってもこの子をあきらめない。雲隠れしても産むのだと。
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2009年04月06日

窮状打開策・義妹と話し、筆を取る。

リーとの関係で生じる悩みは、日本の両親と義母に話していた。ある時期までとはいうものの、リーの母親である義母に打ち明けられることで、私はかなり慰められていたと思う。
「あの子は口が悪いだけ、私にだってひどいこと言うんだから。頭にくることよくあるわ。でも心根はとってもやさしい子よ。はいはい、わかりました、って適当に聞いてたらいいの。」
と、毎回してくれるアドバイスはだいたい似たようなものだったが、
話すことで、その時は楽になったものだ。

それでも、一向に改善しない2人の関係のどうにかしなければという思いは日に日に大きくなり、8月半ばのある午後、私は義妹(リーの弟の妻)に近くのカフェで話を聞いてもらった。
彼女は年齢こそ私より2つ下ではあったが、孫家に嫁いで8年ほど経っており、リーとのつき合いは私より長かったし、自己主張がきちんとできるしっかりした女性だったので、ぜひ意見を聞きたいと思った。
彼女と、実家以外の場所で私的な会話をしたからと言って、事態が急に好転するわけではなかったが、考えつくあらゆる方法で何とか窮状を打開しようと願い、実行することで、心の平安はいくらかでも保つことは可能だった。
それから、あの頃から私は盛んに小説や旅行記、エッセーなどを書き始める。小学校の作文の時間がとても楽しかったし、それ以来、物を書くことは常に身近にあった。再婚して、妊娠し、家にいる時間が増えて、ようやく時間的に書くことが許されるようになったのだ。書くことで癒され、精神のバランスをとっていたとも言える。
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2009年04月05日

一太郎効果続かず・・・

果たして、お腹の子が男の子と知ったリーは機嫌を良くした。義母にも即、報告した。
だが、「一太郎効果」は長続きせず、数日後もリーがくどくどと説教、私は大泣きして家出を決意したが、神経が高ぶって眠れず、睡眠不足で翌日身体が言うことを聞かなかったり、リーに理解を求めて手紙を書いたり、メールを読み、心配した父が電話をかけてきたり、ごたごたが続いた。電話はかけてきたものの、両親は一貫して中立の姿勢を崩さず、「君たち夫婦のことは君たちで解決しなさい」と冷静だった。
手紙やメールに訴える手段は、その後も私が幾度も頼ったものだ。
しかし、結論から言うが、それらが私が期待するほど有効なはたらきをしたことはなかった。書面なら伝わりやすいだろう、わかってくれるだろうと、最初大きな期待を持って書いては渡していたが、リーがそれで理解してくれた、気づいてくれた、受け止めてくれた、と感じたことは一度たりともない。結局、「通じない」現実を実感するだけだった。

情けない話だが、そんな事情があり、私は依然精神的に日本の両親に頼りがちだった。彼らにしか言えないこと、相談できないことは多かった。
そして、ランが支えだった。
ランは正座したり、じーっと座って食事するのをいやがるようになり、自由な格好で食べさせたり、サークルで囲んでいてもいつの間にかうまく出て来てしまったり、順調に成長していた。
果物は何でも好んだし、にんじん、大根、きゅうり、もやし、じゃがいも、玉葱など野菜全般もOK、豚レバーでもぺロリ。離乳食作りも苦に感じなかった。
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2009年04月04日

汗だくの一日。第2子は男の子・・・

なぜ私がバスで外出するのを避けていたかと言うと、台北のバスは危険だからだ。全部とは言わないが、運転が荒い運転手が多く、バスや道路自体の傷みが激しいこともあり、日本のバスからは想像できないほど乗り心地が劣悪なケースは少なくない。悪阻がひどかったり、安定期でない妊婦が乗るのを拒みたがっても仕方ない代物なのだ。

だが、リーは激昂して行ってしまった。
私はしばらく呆然としていたが、気を取り直して用意し、汗だくになりながらランを抱いて義母宅へ行ってランを半日ほど預かってほしい旨を伝え、すべてバスで移動して警察局と珂産婦人科の用を足した。
その日から12週目に入るお腹の子を超音波で見てもらうと、男の子と判明。横になり画面を見つめる私にも可愛い突起物が確認できた。
意外だった。
私は自分が男の子を産む絵を想像できなかった。自分は女の子しか産めない気がしていた。
でも、リーの理想は一姫一太郎。次は男の子を期待していたので、さぞかし喜ぶだろうと思うと気は楽になった。リーと反りが合わないのは由々しき厄介ごとだったが、やはりケンカや意地の張り合いは愉快でない。「男の子らしいよ」と告げることで、彼の態度や物腰がやわらかくなりはしないか、望まずにはいられなかった。
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2009年04月03日

酷暑でも冷戦。

その日はリーの運転で珂産婦人科での定期健診と、警察局へ交付された居留証を取りに行く予定だった。
暑い日が続いていた。一年の半分は夏と言える台湾も、日本同様7月半ばから8月末頃までが最も暑さが厳しくなる。
ヒートしていたのは天気だけではなく、私とリーの「冷戦」だった。
羊水検査をめぐる意見の相違が引き金になったようにも見えたが、正直に告白すると、入籍後大小様々な価値観や習慣などのちがいで頻繁に衝突していた。
リーは正直で、誠実で、まじめな性格だ。年配者を敬い、他人に親切だ。笑顔が可愛く、それを見た人はほぼ確実に「やさしそう、いい人そう」と言う。同じ会社で働いていた時の私もその印象を持っていた。
だが、惜しいことに身内には、身内の中でも特に近しい存在の私や義母、義姉の3人にはきつく、険しい表情で意見することが多かった。
野菜の切り方、魚の焼き方、モップの使い方、洗濯の頻度、妊婦として摂らねばならない食事、ランの服装などなどにチェックが入る。
機嫌の悪い時と良い時では180度言動が変わることが多く、どれに従ってよいのか、たびたび戸惑った。
洗濯機やパソコンなど家電製品が故障すると、私が壊したと必ず責められた。
妊娠中は匂いや味に敏感になる。まずいことに悪阻のひどい私は、それまでなんともなかったリーの汗や煙草の匂いがダメで、そばにいるのがつらくなっていたことなども衝突の原因の一つだったと思う。

あの朝は、また食事のことで厳しく忠告され、私は反抗した。
「私だって、自分でちゃんと考えて食べてるわよ。」
「自分でやってる、考えてる、、、、、 そんな自分が立派なら何でも自分でやったらいいよ。今日の検診と警察局行きも自分でやれよ」
リーは言い残し、バタンッとドアを閉め、出勤して行った。
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2009年04月02日

100日目法要と、迫り来る暗雲。

羊水検査実施を決定する時期までにはまだしばらく時間があった。
私は施策を考えながら過ごした。当時、日記には毎日「受けたくない、いやだ」と書いている。何とか逃れることはできないのか・・・

7月15日は義父が亡くなって100日目にあたり、それを大きな区切りとするようで、リーたちは休暇をとり、家族全員、車2台で墓地へ行った。義父は軍人だったため、五指山山頂にある国が所有管理する墓地で眠っていた。台湾には徴兵制度があり、そこを訪れると、必ず兵役中の若い兵士が交代で守衛を務めていた。
ランを毎日行水させても汗疹に悩まされる猛暑が続いていたが、山頂は寒いほどに涼しかった。私は上着を羽織り、義母たちの指示に従い義父に手を合わせた。
翌日は早朝からリーの車で外交部へ行く。ビザ期限切れ事件には後日談があった。
沖縄から戻り、その足で外交部へ行ったわけだが、あれはビザを申請したのみで、10日後の16日、ようやくビザが下りることになっていたのだ。申請受理の時点でほぼOKなのだが、やはり無事下りたというので肩の荷が軽くなる。
次に、そのビザを手に、地域の警察本局へ行き、居留証を申請。一週間で交付される。
その頃、再び羊水検査の件でリーと対立。
22日ランに記念すべき一つ目の歯が生えていることを発見し感動するが、警察局に居留証を取りに行く翌日は、、、、、
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2009年04月01日

妊娠4ヶ月、つらい悪阻と難関の再来。

懐かしい珂産婦人科。
あらかじめ電話をかけ、予約を取った。
「我要予約陳医師的門診。」
と告げると、お名前と生年月日をお願いします、と訊かれる。ほどなくその受付嬢はパソコン画面に私の履歴を見つけ、何日の午前か午後どちらが希望かを問い、私が「午後」と言うと、「では*番です。」となり、予約手続き完了と相成る。
ランの時同様、リーが仕事の都合をつけ、車で付き添ってくれた。リーはあの頃、私もかつて働いていたその会社を辞めたいと一部の同僚に公表していたが、慰留されていた。

リーのパジェロでランも連れて10分ほどの道のりを行く。
自分の予約番号が過ぎていても、受付を済ませれば掲示板の番号が逆戻りして名前を呼ばれる按配になっている。それほど待たずに診察室に呼ばれ、家族3人一緒に入室した。
陳医師の変わらぬ朗らかな笑顔に迎えられ、順序だてて経過を話す。
超音波で見てもらうと、お腹の子はまた大きくなっており、丸い頭や手足がはっきり区別できて、とても可愛い。日赤で言われたのと同じ、予定日は2月3〜5日ということだった。
まだ胎児が標準より小さいだの痩せているだのと論議するレベルに達しておらずたすかったが、またしても頭が痛い難関が待ち受けていた。あの忌まわしい羊水検査を時期が来たら受けるよう医師に言われもちろんリーにも念を押された。
受けたくない。日本に帰りたい、、、、、
ラン懐妊時よりはだいぶ軽いとは言うものの、悪阻は時にひどく、何をするにも重く、つらい日はちょくちょくあった。羊水検査の件で、リーとはしょっちゅう口論になり、それも気分が晴れない要因だった。
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