2009年04月30日

台風で「停止上課上班」、灰色の空を見上げて、、、

私にも言い分はあったが、もちろん反省もした。義母にも説明したり、謝ったりして、帰って来た。
私が本当に傷つき、通じぬ思いに心を痛めていることをリーに伝えたかっただけなのだ。手紙を書いても、口で説明してもラチがあかないので、明確な行動に出るしかなかったのだ。

その数日後、台風が台湾を直撃、台北も一日「停止上課上班」となった。
台湾に台風が襲来した時、みなが注目するのはこれだ。「上課」とは学校へ行き授業を受けることで、「上班」は出勤し仕事することだ。それらを「停止」せよという意味で、いわば警戒警報のようなものである。勢力が強い台風が来ると、天気予報やテロップでこの警報が知らされる。まず、南部の数縣に発令されて、数時間後それが北上するのが常である。台風の進路により、たとえば、東部数縣のみ「停止上課上班」になり、他は平常どおりということも多々あるわけだ。
私はその警報を嫌う者の一人だが、台北も文字通り一日「自宅待機勧告」の措置がとられた。
警報が出るくらいだから、外出には適さない。缶詰状態に近い一日を過ごす。
それに、リーに作る食事の回数が増えるわけで、特に味覚や調理法で衝突することが多い我が家の緊張感を高めるのだ。

ビクビクと過ごす台風の日。外へも行けず、つまらない。
灰色の空を恨めしく見上げる。
はーっ・・・・・
しかし、負けてはならない。ランがいる。ランがいる限り、私はここで踏んばらねばならないのだ。
そう自分を叱咤した。
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2009年04月29日

初家出、日帰りに終わる。

中国語学校を卒業して時間が経っており、クラスメイトなるものはいなかったし、仲良くしていた韓国人の同僚宅へ突然押しかけるのは気が引けたし、妊娠も後期にさしかかり、動きにくく、その上一泊できる可能性が高いところとなると実に限られていた。知人・友人と呼べる人が多いと言えるか否かはわからないが、いざ長時間とどまれる場所となると難しかった。

そんな中で、やはり足が向いたのは、かつて暮らしていた新店市の教会だった。あそこなら教会が所有、運営する公園、ホテル、多目的センターなどもあるし、そこで働く職員や関係者、神父さまなどにも知り合いが多く、少なくとも面識ある誰かに会えることは確実だ。ちょくちょく電話をしたり、都合が合えば会って話す何姐も近辺に住んでいて、うまくいけばちょうど教会内にいるかもしれなかった。何姐は独身で、事情を話せば自宅に泊めてもらえるかもしれないし、そこのホテルも空室があれば宿泊できるはずだった。

結構距離はあるが、バス一本、一区間にあたる15元ぽっきり、30分前後で行ける。OL時代何度も通ったコースでもあった。
果たして、幸い、何人かの知人と何姐にも会えた。やはり、心安らぐ「帰って来てよい、数少ない居場所」であった。
何姐には、その日急に出て来た理由を話はしたが、彼女から「うちに泊まる?」と訊かれなかったし、親しい仲だからこそ言い出せない遠慮があり、何姐宅泊構想は消えた。
ホテル泊も何度も考えたが、無断外泊はリーの怒りを助長する恐れがあるし、何と言ってもランが恋しかった。
結局、またバスで帰宅したのは9時15分頃。もちろんリーとランは義母宅から帰って来ていた。リーには叱られなかったが、翌日、義母に電話をかけるとかなり意気消沈しており、私はすぐ彼女に会いに行った。
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2009年04月28日

あやしい空模様の下、いたたまれず、初家出。

10月も末だというのに、時々台北は25度を超える日があったり、その週末には台風が接近し、風が強まった。
ランは毎週木曜日、義母が預かってくれたが、義母が希望し、ランを一泊させようとして夜泣かれ、どうあやしてもダメでリーがバイクで迎えに行ったりの頃だった。
そして、週末2日間は基本的に夕方義母宅へ帰り、義母の手料理をいただき、8時頃いとましていた。それがリーが好む休日の過ごし方だった。

土曜日、家族3人で近くの大型スーパーへ買物に行った帰りのことだった。リーがあれこれと私への不平不満を挙げ連ね始めた。
彼には理想の子育て観や夫婦像がある。それが必ずしも私のそれとは一致しない。それは仕方ないことでもある。ピタッと一致する夫婦の方が少ないかもしれない。私にも反省点があるのも認める。
それから、彼は確かに矛盾したことも言う。前回ああ言ったのに、今回はこう言う、ということはちょくちょくあった。いったい何を信じ、従えばよいのか混乱することも多々あった。

険しい表情で責められているうちに、私はいたたまれなくなってきた。そんな気持ちになるのは初めてではなかった。それまでも再三悩み、気に病んでいたのだ。
その日の午後2時頃、荒れた空模様ではあったが、リーがランと一緒に午睡中、私は急いで一泊分の身支度を整え、家を出た。行ってもよさそうな知人がいる場所を猛スピードで考えつつ、バスに乗った。
あれが初めての家出だった。
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2009年04月27日

良好な師弟関係と、二胡への熱い想い。

蔡老師は雲林縣出身。私よりひと回り以上年少だが、今なお文字通り「師」と仰いでいるし、二胡のみならず、恋愛や家族のことなども互いにいろいろと話をするようになった。師弟関係をとっても気が合い、彼女の教授ぶりからその人柄が伝わり、良き友人を得た感がある。
「妊娠中の日本人には教えたことがないな。」
と、蔡老師は言った。
お腹のメイは予定日まであと3ヶ月半ほど。出産後しばらくはレッスンを休まねばならないが、それでも私はこの機を逸してはならないと思い、二胡の世界に飛び込んだのだった。
最初は音らしい音など出ない。弓を持つ手や手首の格好、力の入れ具合でつまづき、何度も訂正され、同じ練習を繰り返した。メイはたまったものではなかったろう。至近距離でギーガーギーガー、安眠妨害もいいとこだったと思う。そのせいか、毎回私が二胡を弾くたび、メイは動き出した。毎回だ。

時々蔡老師の都合で、レッスンの時間が変わったり、一週間お休みになったりはしたが、師弟とも熱心に二胡に接した。どんな楽器や習い事でも総じて継続は力なり、毎日少しずつでもやる方が好ましい。
私は頑固なまでに、よほどのことがない限り、その鉄則に従った。遅いスタートではあったが、いつか人様に聴いてもらえる音を出したい。いつかランやメイに教えたい。二胡はバイオリンのように小型のものはなく、だいたい小学校高学年くらいからしか弾けないと言われている。よし、その頃には娘たちの先生になるぞ!
あの時の決意は今も新鮮なまま、この胸にある。
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2009年04月26日

36歳にして初レッスン!怖々と二胡を持つ。

ランは日に日に歩行距離を伸ばしていた。1メートル、2メートル、満一歳の誕生日目前の10月下旬には、もはや這い這いより歩く方が楽そうに見えた。
ママもがんばるよ、ラン。
英語漬けだった私が中国語に飛び込んだのは22歳の時。
そして、二胡は36歳の遅いデビューとなったが、一生続ける気持ちがあったし、それまでやれば何とか板についてくるだろうと期待した。
かつて中国語に魅せられ、恋に盲目になった如く夢中で勉強した時に似たときめきと出逢いを感じていた。

蔡老師と相談の結果、授業は毎週木曜日午後4時からの一時間になった。義母がランを預かってくれるのが基本的に木曜日だった。
初日は3時20分には教室へ着いた。受付女史とは顔なじみになり、話をするのが楽しかったし、教室にはたくさん音楽や楽器に関するグッズがあり、飽きなかった。
あとで考えて思ったのだが、二胡を習うにあたって、言葉の心配はまったく頭に浮かばなかった。日常生活では使わない専門用語や、初めて耳にする単語はあるだろうが、不思議と不安はなかった。

蔡老師はバイクで移動する。私以外にも生徒がいて、学業の傍ら、しょっちゅうバイクで二胡を教えに奔走していた。
さあ、いよいよレッスン。個室に入り、怖々と二胡を持つ。
まずは松脂の塗り方や、竿と弓の持ち方から教わる。
蔡老師は熱心でまじめ、その日は30分ほど時間を延長して教えてくれた。老師が教室からもらう報酬は一時間分なのに、彼女はその後も、キリのよいところまで教える熱い態度を貫いた。
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2009年04月25日

My二胡との出逢い。

まず、竿がまっすぐで、弓も極力接ぎ木してなくてこれもまっすぐ。
蛇皮は透明度がよく、「鱗」のひとマスひとマスが均一なほど良い。
音色も一把一把微妙に異なり、安定し美しいもの。
また、二胡に使用される木材は紫檀、黒檀、紅木の順に適していると言われている。一概には言えないが、値段もその順番に高い傾向がある。
蔡老師が最も薦める二胡はちょうど私が欲しいと思っていた紫檀のもので、上記の条件をも満たしていた。
「音も安定してていいと思うわ。この値段にしてはすごくいい品よ。」
と言う。楽器屋社員氏も同じ意見を述べた。
二胡の三大産地は北京、上海、蘇州で、それは蘇州の陸林生氏が制作したものだった。

ここまで言われて他の二胡を選ぶ気持ちにはなれなかった。予算オーバーの痛手など一過性のものだと感じ、私はその二胡に決める。
ケースと松脂はセットとして付いてきた。松脂も必需品だ。それを塗らないと音が出ない。

やったー! これが私の二胡だ。
同行してくれた御三方に重ね重ね礼を言い、二胡を抱きしめるように抱え、だいぶ日が傾いた戸外へ出た。よく晴れた10月の午後だった。
琴の師範を持つ母に報告すると、彼女は私もやりたいと羨ましがった。
そして、ついに10月21日、二胡初レッスンの日がやって来た。
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2009年04月24日

予算オーバーの蔡老師おススメ二胡。

二胡は台湾ドルで3000元くらいからある。変動するが、1ドル約3円で計算してほしい。10000円くらいが一番安いということになる。
上を見たほうがキリがない。100000元以上のものもある。高い物ほどいいのだろうか。
その問題は置いといて、とにかく、本気で二胡を学びたいのなら、10000元は出さないとダメだよ、と言われていた。たしかに、私がある程度弾けるようになってから、最低価に当たる二胡で弾いたことがあるが、持った感じから、音や作りまでがお粗末で、おもちゃみたいだった。
10000元かあ。まあ、15000元くらいは覚悟しとこ、と考えていた。
蔡老師は、初心者の私に合いそうな価格帯の二胡を次々手にとっては音を出した。楽器屋社員の男性もかなり目利きのようだった。

何十分経っただろう。蔡老師が言う。
「これが一番いいと思うわ。この値段からしてもかなり優秀ね。これの次なら、こっちかなあ。」
2把(中国語の二胡の量詞は「把」である)を推薦された。いち推しの方の定価は22000元、2番手は15000元。オーナーの顔が利くため、22000元のは18000元にしてもらえるという。いずれにせよ、予想&覚悟していたより高い。2番手の値段に引っ張られるが、蔡老師と楽器屋社員氏の説明に、長く使うものなんだからここでケチるのは得策でない、と判断、ぐんぐんいち推しの二胡に惹かれ、あきらめきれなくなる。私のために作られたような気さえし出した。
蔡老師たちが言うその二胡の良さはこうだった。
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2009年04月23日

ようやく秋、二胡の先生と楽器店へ行く。

10月上旬。11階の室内で24〜27度くらいの気温に落ち着き、過ごしやすくなってきた。思うに、台北の自宅にいて24〜25度というあたりが私は一番好きだ。長らく裸足だった足にソックスを履こうかなあ、まで上は半袖でいいなあ、という感じでとても快適である。

沖縄から帰り、一家3人風邪気味。私は病院へも行ったが、さして悪化せず治った。
ランが歩きたそうにしている。今にもスタスタスタッと行きそうだ。
日本の祖父母から贈られた絵本を熱心に見ることも多い。しっかりページをめくり、ちゃんと読んでいるかのような表情をする。この「いないいないばぁ〜」の絵本は、祖父母が書店で訊き、赤ちゃんが最初に見る本だと勧められ、買ってくれたものだった。

音楽教室の方にも進展があった。私の先生が決まったのだ。台北にある芸大の学生で、中学校時代から二胡を始め、音楽高校卒後、大学でも二胡を専攻している女性だった。
先生が決まり、ある10月の晴れた午後、その蔡老師と音楽教室のオーナーと知人の楽器屋社員の4人で、オーナーの車に乗り台北市内の古典楽器店を訪ねた。その楽器屋社員はその店の人ではなかった。
以前、私が通っていた中国語学校にほど近い一画のビルの4階にある楽器店は、タタミ30畳ほどの広さで、古典楽器、楽譜、CD,楽譜立てなどの備品などのまさに宝庫であった。二胡はいちばん奥の壁に2段に掛けられ、そこに陳列できないものは、その店が併設している音楽教室の小部屋のガラスケースにしまってあった。

蔡老師はさっそく丸椅子にひょいと腰掛け、壁の二胡を手に取り、品定めを始めた。二胡を選ぶ時に必要な「鉄則」があるとは、すでにレッスンを開始していた友人からも聞かされていた。
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2009年04月22日

ラン初の歯発見! 沖縄の旅、終わる。

刺身、いわゆる生魚を愛する文化というか慣習がある日本だが、その人口割合は世界的に見るととても低い。ヘルシー&ダイエットブームで刺身を口にする人の数は増加したものの、日本人のように本来持ちえた習慣や「素質」ではなかった。
リーも義母も然りで、数口食べれば十分のようだった。だが、日本には台湾にない魚があるし、リーはシンプルな塩焼きや干物を絶賛した。たしかに台湾では、魚に塩をしただけで焼く食べ方は少ない。干物も見たことがないように思う。

夜風に当たりながら海岸線を歩く。三泊四日那覇の旅も終盤、名残惜しい。
ランは満一歳まで、一ヶ月を切っていた。足腰が丈夫になり、固形物も徐々に食べられ、大人が食べているものをしきりに欲しがるようになっていた。
そして、沖縄の宿でリーが「ピッ」と顔を出したランの歯を発見!
上の歯が一本ちらり。みんなで喜んだ。
娘の背中に何かできているとか、足の指と指の間にどーのこーのとか、細かい変化に気づいたり、見つけたりするのはいつもリーだった。私はド近眼で、眼鏡をかけてもよく見えないことは多々あった。

10月6日、両親より先に台湾組は沖縄船員会館をチェックアウトし、11:40発の中華航空機に搭乗、日本より一時間遅れなので、午後2時には台北の自宅に着いた。
それほど疲れは感じず、私はすばらしいひとときに感謝し、余韻を楽しんだ。
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2009年04月21日

市場、居酒屋を楽しむ。

台湾へ帰る前日は午前中から全員で出かけた。
さすが生活が市場と密接に関係している台湾の人たち、沖縄にそれがあるなら行ってみたいと言う。
調べてみるとあった。私も興味があるし、タクシー2台に分乗し、国際通りに近い市場へ。前回は余裕がなく、そこまで足を伸ばさなかった私は、その周辺の雰囲気も気に入り、海辺へ行かなくてもやっぱり沖縄っていいなあ、と実感した。
もちろん、台湾の市場とは形態が異なるが、テクテク見て歩くだけでも面白い。ゴーヤやドリアン、マンゴーなどが大きい。日本ではほとんどお目にかかれず、台湾には豊富にある食材が沖縄にはある。それもそのはず、距離的にも近く、気候帯も酷似しているのだ。当然といえば当然の発見、ぐっと親近感を感じる。

昼食は市場内でいただく。飲食店が集まった一画の2階、大きなテーブルに全員集合。にぎやかだ。
食後ももっと市場や周辺を見てみたいということで、おみやげの物色やらショッピングを各々が楽しんだ。
義姉や義妹は特に元気である。私もひと通り散策したが、晴れて暑いし、重たくなりつつあるお腹が長時間の歩行を許さず、リーとランの3人で先にタクシーで宿に戻った。沖縄といえば、ちんすこう。これは子供の頃からの好物で、それも買えたし。
帰りは3班に分かれた。ひと休みして、夜は義母、リー、ランとうちの両親で海側へ歩き、居酒屋みたいなお店でまたもやお寿司。シアワセ。日本の魚、それもさんまの塩焼きに目のないリーはそれを注文し、一杯やりながら舌鼓を打った。
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2009年04月20日

那覇で親子水入らず。

翌日は小雨模様。
台湾リー組はタクシーをチャーターして玉泉洞へ行き、私、ランと両親はくもじパレットというデパートでゆっくりした。雨模様だし、ベビーカーではなく母が胸にランを抱っこしているしで、外をうろうろするのはやめた。
ランはその日初めて、母が日本で早くに買ってくれていた甚平サン(あの作務衣みたいな服)を着た。紺色に花火の絵が描いてあるもので、髪の毛が少なく色白のランは中性的な可愛さがあった。
甚平サンは日本独特の装束で、リーの家族にはとても日本らしく味のあるものに見えるようだった。

くもじパレットの最上階で昼食。大きな書店もあり、3冊本を購入してうれしかった。
台湾でも日本の本は手に入るが、種類はわずかで値段も張る。中国語の本も読むが、やはり日本の作品も読みたくなる。

夜は同じメンバーで宿から歩いて夕食に出かけた。「割烹 司」という日本料理屋があり、のれんをくぐる。
好物のお寿司や煮物をいただく。台湾にも台湾版寿司がある。近所の大型スーパーに行っても手に入るポピュラーさだが、私は日本へ帰った時しかお寿司は食べない。日本人が経営しているとか、日本人が握るお寿司ならいいが、そういう店は台湾の物価からするとベラボウに高い。なら、帰国を待てばいい。
その店は雰囲気も良く、幸せな気持ちになるほどの美味をプレゼントしてくれた。
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2009年04月19日

沖縄に集結、両親との再会。

最初、我が家3人と日本の両親だけで会うつもりが一旅行団となったことは、団体行動が苦手な私には歓迎しかねる事態だったが、リーの家族も日本人の私がいることで安心して沖縄へ行ける様子、まあ平素の感謝も込めてガイド役でも務めるしかなかった。
出発は10月3日日曜日、朝4:30起床。
ランの荷物がいちばん多い感じ。
8:30、台北発の中華航空機で那覇へ。
ビザ期限切れ騒動からわずか3ヶ月ぶりの沖縄、あの年沖縄とは縁があった。
台北から那覇まではあっという間、先に予約してあった宿に入る。沖縄船員会館だ。両親は夕方5:30無事到着した。
部屋は三つ取っていた。私たち家族と他のリー家は畳の部屋、私の両親は洋室だった。ハイハイする小さいランがいるし、畳部屋がある宿を探したのだ。
ダウンタウンに徒歩で行くには遠いが、空港から車で約15分、海に近く、リーズナブルな料金、華美ではないが良心的で清潔、安心して泊まれる宿だった。

初日の夕飯は全員で国際通りへくり出し、にぎやかに沖縄料理を食べた。
だが、基本的には私とランと両親、リー家族と分かれて行動できたので、恐れていたようなしんどさはなかった。リーはある程度日本語がわかるので、彼は義母たちの案内役でもあったのだ。
夜、疲れているはずのランはなかなか眠らなかった。ふだん家で寝る時のような囲いがなく、落ち着かないのか、うれしいのか、長い間動き回り、私は寝不足。>
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2009年04月18日

先生探しの最中、沖縄行き近づく。

その音楽教室はオープンしたばかりだし、ピアノ、バイオリン、ギターなどレッスン希望者が多い楽器と異なり、先生を探すのが難しいらしかった。
日本でも、琴や三味線、尺八より、ピアノやらエレクトーンを習う人口が多いように、台湾でも古典楽器はマイナーなのだ。
先生はなかなか決まらなかったが、教室には二胡が常備してあり、「いつでも弾きに来ていいよ。」
とオーナー夫妻に言われていたので、時々散歩がてら、そこへ遊びに行った。とても心地良い空間だったのだ。

二胡レッスン態勢が整うより早く、沖縄旅行へ経つ日が目前に迫っていた。
というのは、6月日本の実家から台北に戻り、その後両親との会話の中で、「ランに会いたいなあ、抱っこしたいなあ。」との発言があり、どこか旅に出たいと考えていたリーが、こんな案を出したのだ。
「沖縄でお義父さんたちと会うってのはどう?僕も沖縄へ行って見たいし、沖縄は関空と台北のちょうど真ん中辺りでしょ。そこで集結っていうの、いいんじゃない?」
両親に話すと喜んでくれた。
リーが台湾の家族に話すと、「私も行きたい!」というメンバー続出、義母、義姉、義弟家族全員も学校、会社に休みを取って同行することになったのだ。
お腹の子は22週目。ランは固形物を徐々に食べられるようになった頃のことである。
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2009年04月17日

オーナー夫妻の夢、私ものった!

興奮の一夜が明けた。
リーは、私がそれまで再三二胡が好きだ、習いたい、弾きたいと事あるごとに話していたのを聞いているからだろう、OKしてくれた。他の生活費同様、月謝も家計から出してもいいと言い、二胡だけは私が自分で購入することになった。
数日後、夕食を終え、ランを連れて散歩がてら夕涼みに出かけた時は
場所確認の意味でリーは音楽教室まで同行した。
本当に、念願の二胡レッスンは実現に向けて動き出したのだった。

最初の夜、応対してくれたのは、その音楽教室兼楽器店のオーナー夫人であった。
オーナー夫妻は私とほぼ同年代で、いずれもサラリーマンとOLをしており、音楽では素人だった。
しかし、子供が生まれて、その子に音楽に触れさせたいと考えたところから、自分たちで音楽教室を開く構想がわき、本当にそんなお店を作ってしまったのだった。
オーナーはサラリーマンを続けながら経営に当たり、夫人の方は子守りもあるので退職し、受付に雇った女性とともに教室をきりもりするという。
すごいパワーだと思った。二人とも気さくで正直、好感を持てる人たちだった。彼らの夢をいっしょに育てたい、と私に感じさせた。

さあ、次は二胡を用意しなくてはならない。
私の先生が決まったら、一緒に品定めに行こうということになった。
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2009年04月16日

二胡開始宣言!

あれ以来、二胡は私の胸に眠り姫のように棲み続けた。
中国語学校とリーと知り合った会社を辞めた後、ほとんど間隔をおかずにランを身ごもり、終始ひどい悪阻に苦しんだ。あの頃はちょうど専業主婦となり、自由な時間は増えたにもかかわらず、調べて見つけた二胡教室は自宅から遠く、週に一度でもバスや電車で通うことが不可能だったのだ。

運命の出逢いだった。
そうとしか思えなかった。
月謝は初級、個人レッスン、一ヶ月4回(各一時間)約8500円。
台湾の物価からすれば安くはない。お腹には子供がいる。リーがOKするだろうか。
でも、習いたい。自宅から徒歩3分、こんなに近いところで二胡が習えるのだ。
2つの思いが交錯する。
とにかく夫と相談しますから、と答え、私は急いで家に帰った。

リーに事の一部始終を内心緊張しながら説明した。
すると、案の定、
「産んでからにしろよ。」
と想定していた返事である。
しかし、私はもう引き返せなかった。
「もう随分待ったよ、あなたも知ってるでしょう?!もう待てない、こんな近くで習えるんだから。月謝は自分のヘソクリから出してもいい、やらせてよ、いいでしょ?」
相談ではなく、事実上の二胡開始宣言であった。
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2009年04月15日

二胡との出逢いは、友人宅のCDと、公園の生演奏。

日本で「胡弓ブーム」が起こった時、私は台湾にいたし、すでに二胡を弾いていた。
そもそも、どうして私が二胡に惹かれたのかと考えてみると、2度目の台湾留学に来て間もない頃、友人と2人、MRT(台北を走る地下鉄)で新北投駅に行き、駅付近にあった小さな公園を散歩していた時にさかのぼる。

5月末か6月上旬の暑い午後だった。
それでも、その公園を歩く人はいたし、老紳士(早いハナシがおじいちゃんだけど)が4〜5人大きな石に腰掛け、日向ぼっこにはかなり暑いが、とにかくうざうざ楽しげにおしゃべりしていた。
だが、その何の変哲もないような午後の風景に、なにやら心地良い音が流れて来る。
見ると、おじいちゃんグループの中の一人が三味線のような細い楽器を立てて音を奏でている。
隣りにいた台湾の友人は「すごいな」と拍手するし、私もずっと聴いていたいほどだった。
馴染みのない楽器だった。けど、考えてみたら、その友人の自宅に遊びに行くたびに聴く音でもあった。そして、いつだったか、その子に訊ねたのだ。
「これ、なんて言う楽器?」
「二胡。知らない? うちのお母さんが大好きで、しょっちゅうCD流して聴くの。」
・・・・・ 二胡。これが二胡かあ。

こういう経緯があって、二胡が名実ともに私の人生に深い関わりを持つようになっていくのである。
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2009年04月14日

積年の夢、二胡との邂逅。

昔は、自分のつたない中国語力に勇気が出ず、引っ込み思案になったり、訊きたいことも呑み込んだりしたが、その時ははっきりした質問も頭に浮かばず少し躊躇した。しかし、立ち去れず、とにかくドアを押した。
遠慮がちに靴を脱ぎ、足を踏み入れると、奥の応接セットから私と同じくらいの齢格好の女性が出て来た。
「あのォ、、、こちらは音楽教室ですか? それとも楽器屋さん?」
すると、オーナーらしきショートカットの女性は、
「音楽教室ですよ、楽器の販売もします。」
と、にこやかに答えた。
受付机の裏に入り、女性はファイルを取り出し、見せてくれる。
その後ろの壁に設えられた棚には楽譜がびっしり詰まっていて、ゴールドに輝くサックスが飾られていた。
私は開かれたページに目を移し、見ると、ピアノ、ギター、バイオリン、、、ズラリと教授可能な楽器名が並んでいる。
「えっ、二胡?二胡も教えてもらえるんですか?!」
思わず、声のトーンが上がった。
「はい、教えますよ。」

私は長い間憧れ、待ち望んでいた運命の人とやっとめぐり逢えたような、感動に近い、幸せな喜びを感じた。
二胡。日本では長く、だいたい「胡弓」と称されてきた中国の古典楽器である。
私は急に水を得た魚に変貌し、胸にあった二胡へのあふれる想いを興奮しながら吐露していた。
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2009年04月13日

自宅近くの「音の世界」に引き込まれる。

第二子メイがお腹にいた時の特筆に価する出来事のひとつがこれだ。
9月17日、金曜日。
私は朝か夜に必ず散歩をしていたのだが、その日は夕食後ひとりふらりと外に出た。9月半ば、台北はまだまだ日が暮れても暑い。マンションの中より、自然な風のある外の方が涼めて気持ちよかった。
これと言って散歩ついでの買物もなく、私はにぎやかなメインストリートより、自宅に近く、どちらかと言えば地味な筋を歩いていた。

7時半頃だったと思う。自動車修理屋やら看板屋、携帯電話会社に薬局などが並ぶ馴染みの通りに、ひときわ明るい照明がもれる一軒があり注意を引かれる。
あら? あんなお店あったっけ。
いぶかしく思いながら近寄って見ると、全面ガラス張りの店内にはピアノが2台と古箏と呼ばれる中国の琴が置かれ、奥に置かれた応接セットには、大人や子供が5〜6人いて、にぎやかそうだ。
楽器屋さんかな、それとも、音楽教室かな。
いずれにせよ、そのまま素通りすることが惜しくて、入って具体的に尋ねる質問もとっさに思いつかないまま、ガラスのドアを手で開けてみた。
ピアノは幼稚園の時から7年ほど習っただけだったが、母は琴の師範を持ち、保育士をしていた関係でピアノが弾けたし歌も好きで、比較的音楽に親しめる環境に育った。幼い頃から流行りの歌謡曲だけでなくクラシックも抵抗なく聴いていた。
よって、明確な目的はなくても、「音の世界」に引き込まれるようにそこへ導かれたのだった。
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2009年04月12日

妊娠6ヶ月、早くも名前決定。

女の子なら私、男の子ならリーが名前をつけようと、だいたいの話はついていた。
2人目も女の子だったが、今度はリーに任せることにした。台湾の、ある有名な文章の中に出てくる言葉に、女児の名にしてもしっくり来るものがあり、リーは以前から女の子が生まれたら、この名前がいいなあと思っていた「有力候補」がすでにあったのだ。

台湾にももちろん一文字の名前はあるが、お腹の子も二文字になった。
しかし、ラン同様、日本名を考える時、その二文字ではどうもおかしい感じがする。
そこで、私はまた、二文字のうち音が好きな方を選び、日本語読みを考えてみることにした。ランは日本語の発音と中国語のそれが同じだったのでよかったが、今回はちがった。私は漢和辞典で可能な発音を調べてみた。
すると、それまで知らなかった読み方があった。ふつう、訓読みすることが多い字だったのだが、音読みもあり、その響きを気に入った。

第二子の日本名は「メイ」に決めた。
リーの本当の願いは、日本にいる時も、娘たちが中国語名をそのまま使用することだったが、私の姓に中国語名から一文字取ったものを日本名にすることに、はっきり反対を表明することはなかった。
posted by マダム スン at 05:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 第2子出産も台湾で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月11日

男児?女児?台湾人が望むのは・・・・・

親しい家族、なかでもとりわけ私に対する態度は大きいリーだが、肝っ玉は小さい方だと思う。不安や緊張を伴う、彼にとっての一大事がある日の夜はだいたい飲まずにいられない。さほど強くないので酔ってしまう、その「麻痺」に逃げたいのだろうと思う。
ろれつが回りにくくなり、足元が危なっかしいレベルに達するのがビール500ML6缶を過ぎたくらいだ。微妙なところだった。相当危険な状況を示すのは、彼が英語でしゃべり始めた時だ。リーはアメリカの大学院で2年余り学んだので、英語は達者である。
そして、レッドカードとなるのは日本語が滑り出した時だ。大学は日本語学科卒だ、今でもある程度覚えている。

私に被害が及ぶほど、リーの酔いはひどくなかった。
次の朝も結構早く起きた。が、一日中しんどそうだった。
台湾も日本同様、昔ほど男尊女卑とか、産むならまず男の子、という偏重、観念は薄くなっている。その分、産み手の女性の心理的重圧は軽減されているし、「やっぱり女の子は大きくなっても家族思いでいいわよ」と声高らかに言う人が老若男女問わず増えてきた。
だが、リーは純粋に、息子が欲しかったのだ。
そして、やはり、自分が長男であり、長男として長男らしくなるよう育てられ、彼なりの責任感や自覚は強かった。長男の息子、というとその一族の長さながらの「地位」を持ち、特に重宝されたので、夢尽き、相当残念だったのだと思う。

かわいそうではあったが、私にはどうしようもなかった。
それに、子供の性別を決定するのは男性側らしく、リーもそれは知っていた。
それでも、彼のショックも徐々に回復し、次女となる子の名前を真剣に考え始めた。
posted by マダム スン at 05:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 第2子出産も台湾で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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