2009年03月31日

ビザ取得奮闘物語終わり、再び珂産婦人科へ。 

真新しいモノレールで那覇空港へ行くことにする。大雨が降った昨日とは一転し、南国らしい明るい日差しが降り注いだ。
1泊2日で荷物は多くないが、行動には注意する。ラン妊娠時より悪阻(つわり)は軽かったが、転んだり、無理をするのは禁物だ。
身体が慣れ、第2子、第3子とだんだん悪阻は軽減する人が多いと聞くが、これは私にも当てはまった。悪阻の苦しみは、ランの時の半分ほどで済んだ。
この日は7月7日、七夕。
那覇空港出発ロビーには笹が飾られ、自由に短冊に願い事を書いて結べるようになっていた。ランとお腹の子のすこやかな成長をその短冊に託した。

緊張は依然続く。さっさと入国手続きをする人の波から外れ、中正国際空港で必要な手順を踏む。OK,無事処理される。
だが、まだあった。
「これを持って、できるだけ早い内に外交部へ行ってください。」
と無情なひと言、、、、、 トホホ、まだあるのか、、、、、
台北に到着したのは午前11:50、水曜日。リーは休みをとって空港に迎えに来てくれており、その足で外交部に行くことになる。
昼食は外交部近辺の食堂でとり、やっとこさ、晴れて以前のビザを回復し、義母宅でランを引き取って午後3:00前3人で帰宅。
はー、長かった。ビザ関連の事は、やはり軽んじてはいけない。大きな教訓となった。
リー、迷惑かけてスミマセンでした。感謝します。

その夜は、ひどい疲れのためかぐっすり熟睡。
七夕の2日後、台湾で初めて第2子の定期健診に行く。あの珂産婦人科へ、うれしい里帰りだった。
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2009年03月30日

ビザ求め、行脚はまだ続く。

昼食後、国際通りを歩いていると、雨は吹きなぐりの勢いになってきた。ホテルまで徒歩でも10分とかからないはずだし、何を急くわけわけでもない私は、ゆっくり見てみたそうなお店に飛び込み、その雨をしのいだ。
小降りになると、やはり早くホテルに入り落ち着きたくなった。
再び地図を出し、それを頼りに予約してあるビジネスホテルを探す。
ネットにあった写真と同じ外装が見えて来てホッ。チェックイン開始時間より30分あまり早かったので、ロビーで待った。
ようやくどっしり重い鍵を渡され、エレベーターで7階のシングルルームに向かう。鍵を鍵穴に突っ込むと、拍子抜けするほど容易に開く。この鍵ではなく、他のだいたい形が似たものでもすぐ開いてしまいそうだ。その上、室内からかけられるチェーンもついていない。これでは外出時も在室時も不安だ。

とりあえず荷物を下ろし、ハンガーに服を掛けたりしながら考える。
高級でもなく、シティホテルでもないからこれくらいのものなのか、沖縄だからいい意味でのんびりしていて、犯罪が稀で、ホテルもこれで大丈夫だと思っているのだろうか、、、、、、そうかもしれない。
私は良い方に解釈することにして、沖縄しか放送されないテレビ番組や、ひとりの夕食をそれなりに楽しみ、熟睡できないまま朝を迎えた。
すべて荷物を持ち、歩いて領事館へ行く。開館時間を待ち、一番に入室。出来上がった書類を見て喜んだのも束の間、その書類を持って
台湾の中正国際空港到着後、空港内にあるという外交部の出張所みたいなところへ行き、受理されてめでたくビザが下りるという。
は? そうなんですか?
道のり、はるか遠し、、、
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2009年03月29日

申請受理され、ゴーヤチャンプルー。

沖縄は小学校5年生の時両親と旅行して以来だった。
幼い頃から寒さに弱かった私は、毎年冬が来るたび天気予報で沖縄の気温を見て「あー、沖縄いいなあ、あったかくて。あんなとこに住みたいなあ」と何度つぶやいたか知れない。
もちろん今でも好きな土地のひとつだ。だからか否かわからないが、気候がよく似た台湾で暮らすことになったのだけど、、、、、 地図をご覧になれば一目瞭然だが、台湾と沖縄は実に近い。よって、手に入る食材も似ている。

楽しい旅としての沖縄行きでないことを至極残念に感じつつ、あっという間に午前10:30那覇に到着。
出発前、何度も持参するビザ申請必須書類を確認したのに、不安と緊張はしつこく私を苦しめた。わざわざ遠路やって来て、申請願いを却下されては泣くに泣けない。
曇り空の那覇、空港前から市バスに乗り、国際通りへ向かう。領事館も宿泊するホテルも、国際通りから徒歩圏内だった。
バスを降り、ドクドク打つ心臓を持て余しながら、探し当てた目的のビルに入る。そして、無事申請が受理され、翌日朝いちには受け取れることになり、全身の力が抜けるほど安堵した。
危なげな空模様だったが、案の定雨が降り出した。私は傘をさし、沖縄の庶民の味をいただけそうな食堂ののれんをくぐった。一角が畳の座敷になっており、テーブル席も十数個ある、結構広い食堂で、ひと組の夫婦が切り盛りしている様子だった。
注文したのはゴーヤチャンプルー定食。台湾でもゴーヤ(苦瓜)はごく一般的な野菜だが、沖縄のこの定番料理を食べてみたかった。
台湾ではゴーヤと卵を炒め合わせることがほとんどだが、沖縄のものは豆腐と豚肉も入っている。大皿で、一見量の多さに驚いたが、ご飯が進む美味でペロリと平らげた。
畳の座敷上の壁に設置されたテレビがNHK朝の連続テレビ小説再放送を映し出す。それを15分間見終わってから、おかみさんに「おいしかったです、ごちそうさまでした」と声をかけ、雨脚が強まる街に出た。
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2009年03月28日

顔面蒼白とはこのコト、再び飛行機で飛ぶ。

6月26日台北着、気温33度、さすがに暑い。
荷物の整理を終え、28日居留証延長手続きに指定されている警察局へ出向く。関空でのチェックインと台湾入国の際、居留証有効期限が切れていると言われ、気になっていた。それでも、いわば観光客扱いで入国はできるのだ。
有効期限が24日に来ることはわかっていたが、悪阻による体調の悪さもあったし、再申請すれば難なく更新できると高をくくっていた。が、とんでもない大事になっていることに徐々に気づかされる。警察局で「できるだけ早く外交部(外務省)へ行ってください。」と言われ、翌日怖々赴くと、案の定、国外脱出の破目になっていることが確定した。台湾で再申請は不可能で、どこでもよいから海外の日本領事館で一から居留証取得申請手続きを行わねばならないということだった。

ぎらぎら照りつける太陽の光が恨めしい。どっと肩を落とし、車で待つリーに報告する。もちろん叱られる。
しかし、迅速に動かねばならない。観光ビザで入国している格好なので、その期限まで過ぎたらエライことになる。
香港か沖縄か迷ったが、リーと相談の結果、沖縄へ飛ぶことにする。距離はいずれもほとんど変わらない。
インターネットで沖縄のホテルを予約し、航空券はリーが取ってくれた。
そして、7月6日、私はまた機上の人になった。
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2009年03月27日

リー来日、予期せぬ母の涙。

やはり悪阻(つわり)がひどいからか、その後しばらく体調が悪く、小さいゆえにちゃんと出産予定日を算出できないと言われたことが時々気になったが、お腹の子はきっと義父がくれた子だ、いや、義父の生まれ変わりではないかと思うようにした。そうすると、絶対元気に育ってくれる、と勇気が湧き、前向きになれた。本当にそうなのかもしれない。
こんなに早く君がお姉ちゃんになるとは、ママ思いもしなかったよ、、、、 とランに何度か話しかけた。ランは這い這いがだんだん上手になり、座ったり、両手におもちゃを持ったり、つかまり立ちする時間が増えた。首もどんどんしっかりして、洗面器に入れて身体を洗えるようになった。お風呂で使用する、あの洗面器にちょうどうまく納まるのだ。毎日見ても飽きない可愛さだった。

実家はやっぱり居心地が良いもので、身重だとよけいに離れるのがつらかったが、リーは今回も台湾での出産を望み、6月22日私とランを迎えに来日した。年に一度は私の両親に顔を見せたくもあった。
翌日、日赤へリーと定期健診に行く。胎児は14mmに大きくなっており、前回とはちがって頭と胴体がはっきり分別できた。大いにホッとする。今日で7週と5日目で、予定日は2月初めだろうとのことだ。

26日4:30起床。日本を発つ朝。
バタバタと出発の準備をして、さあいよいよ車に乗ろうという時、台所でランを抱っこして、母が泣き出した。驚いた。母が泣く姿はこれまで一度見たか見なかったか、、、、 私までもらい泣き、、、、
5月上旬からの1ヶ月半、新緑まぶしい里での生活は、実に美しく、すばらしかった。ありがとう。
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2009年03月26日

ようやく確認、度胸すわる。

ランは私が作る野菜、果物、魚などを使った離乳食を喜んで食べた。そのせいか、ミルクの量が減ってくる。
這い這いだけでなく、全体の動きも活発になり、ベビーベッドに立ち上がったりもするので気をつけてやらねばならない。時々、ランはベッドの囲いの部分をガブッとくわえるように咬んでいる。「これこれっ」とたしなめるが、その様子がとてもおかしく、可愛い。

6月9日、予約午後2:30、この日は自ら運転して日赤に到着。
そわそわして朝から何も手につかなかった。
「さあ、見えるかな。」
医師も気にしてくれているのがよくわかる。私も祈る思いだ。
息を呑んで待つ私に、
「あ、これかな。これだなあ、小さいけど、この黒い点、まだ袋みたいな状態だけど、これがそうだと思います。」
と、医師の明るい安堵した声。私にもその黒い点が映る画面を見せてくれた。あー、よかった。やっぱり赤ちゃんはいたのだ。まだ卵巣は腫れているが、様子を見ようということになる。

翌朝リーから電話がかかり、正常妊娠の旨伝えると、思った以上に彼はもう反対せず、ほとんど当然のように今後の日程などを話し合った。
ランを守りしながらの妊娠生活や出産を想像すると、やはりいろいろ不安になったが、いずれ欲しいと思っていた第2子だ。また2年や3年待って、その時順調に授かれるか何の保障もない。驚き、戸惑いはするが、今授かってありがたいと心の底から思えるようになり、度胸がすわってきた。
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2009年03月25日

下腹痛、笑わぬリー、妊娠未確定に沈む。

私が妊娠している可能性があると打ち明けた時、リーの反応は冷たかった。彼はとても子供好きだが、台北の陳医師にも、第2子を望むとしても一年は母体と子宮を休ませた方が良いと言われ、それを気にしているのは明らかだった。
「君はまだ十分休養できてないよ。そんな身体で元気な子供が生まれて来るのかなあ、、、、、」
案の定、検査薬でプラスと出た報告をしても彼は沈んでいた。健康な子であるはずがない、と言うのだ。
私は悲しかった。本当に年子なんてたくさんいる。ランとお腹の子よりもっと誕生日が接近している例だって知っている。
それにだ。では、せっかく授かった子をどうせよというのだ。羊水検査の件を思い出す。我が子が五体満足で健康であることを願う気持ちはわかるが、やはりリーと私は根本的な「いのち」に対する見解、態度が異なるのは否めなかった。

自宅で妊娠を自己チェックした翌日から下腹が痛み始めた。
翌月曜日も治らず、午前中母の運転で日赤の産婦人科を受診した。初診は予約できないため、一時間半待ってようやく診察室に呼ばれる。
超音波で見てもらうが、まだ小さ過ぎるのか確認できない。その日で5週3日目になるはず。また、医師は左側の卵巣が腫れているし、子宮外妊娠も考えられると言う。
一週間待って見てみよう、との診断が下された。なんとも消化不良のような、うしろ髪引かれる思いで病院を後にする。
その後も下腹痛は続き、毎夕日課だった愛犬ハナの散歩はひかえる。吐き気もひどくなってきた。それにしても宙ぶらりんな時間、、

6月に入り、30度にもなる暑い日もでてきた。産婦人科再受診の前日、
ランが初めて這い這いした!
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2009年03月24日

早朝の再検査、喜びと戸惑い。

陽性反応を期待していたし、かなり「プラス」の自信はあった。
が、マイナスだった。残念だし、今度は一転して、なぜちがうのだろうと疑い始める。
次の日も、やはり悪阻(つわり)に似た症状は続き、夜中気分が悪く安眠できない。
そこで、私は検査薬のパッケージにあった「お客様相談室」に電話して訊いてみることにした。
電話を受けた細くきれいな声の女性は、かなり詳しく私の体調などを尋ねた上で、あと5日以上待っての再検査を勧めた。あまり早い時点だと正確に検査できないという。

なんとも落ち着かない毎日を過ごした。
そして、再度同じ薬局へ行き、例の検査薬を購入、祈るような思いでチェックしたのが5月29日。お客様相談室のアドバイスを守っての再挑戦、その夜もひどく胃がむかついて眠れず、早朝6時頃のことだった。
前回とはまったく異なった。待ってました、とばかり、即、プラス反応を示した。
ランはまだこんなに小さい。これで早くも第2子懐妊、、、、
もちろん不安は大きかった。だが、子供は2年ほど間隔をおいて2人は欲しいね、とリーと話していたし、子宝は実に神のみぞ知り、神にのみ授ける力がある。我ら人間がいくら計画や願望を持っていても、その通りに実現できることではない。それは自分の体験や、ひと様の話を聞いて重々わかっていた。今いただいたのだから、今ありがたく受け入れよう。この時期に授かるのも縁、何か意味あることなのだろうと考える。
父も母も「おめでとう!」と祝福し、喜んでくれた。年子なんてめずらしいものじゃない、なんとかなるわ、と励ましてもくれた。
そうだ。なんとかなるだろう。リーはなんと言うだろう、、、、、
しかし、とにかく私はとてもうれしかった。
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2009年03月23日

誕生日2日後、薬局に走る。

ランを寝かすベビーベッドは、私が使い、叔父宅へ行き従弟2人が使い再び我が家に返って来たものだった。未だ古くさいとか痛んでいるように見えず、たいしたものだ。自分の娘がまたそこにいるなんて、感激すらする。
だが、ベビーカーや車に装着するチャイルドシートはなく、私や母の友人に尋ねて、不要になったものをもらって来た。日本滞在は一年に1〜2ヶ月のみ、台湾には一式そろっているし、あらためて日本で買うのはしのびない。協力してくれたり、譲ってくれたりする人たちに感謝している。

5月は私の誕生月である。中高校生時代、中間テストがだいたい私の誕生日あたりから始まり、いただけなかったが、まさに風が薫り、新しい生命を育むかのような時節でいいものだ。
リーとは主にメールで連絡を取り合った。MSNでリアルタイムの会話も可能だった。私は毎日ランの様子を報告した。誕生日の日も、彼からおめでとうメールが届いた。
ちょうどその夜のことだ。ひどく胃がムカムカする。
一夜明けても同じで、ほかに腰がだるかったり、下腹が痛んだりする。おかしい。どうも似ている。ランを懐妊していたあの頃に、、、
まさか、と思う一方で、あまりに酷似した症状のため、だんだん気になってくる。
その日一日は、昔英語を教えていた子が遊びに来てくれたし、迷いもあったが、翌日はいても立ってもいられず、買物に出たついでに薬局で妊娠検査薬を買って来た。香港でリーの会社のトイレに緊張して入ったことを思い出す。今回も同じだ。どきどき、そわそわ、パッケージを開封する。
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2009年03月22日

爽やかな日本に帰って,ラン座る。

台北から関空は近いのだが、空港から自宅までが遠い。電車やバスを利用し、いくつかルートを組めるが、いずれにしろ乗り換えは必要だし、エレベーターやエスカレーターがホームから遠かったり、なかったりで、重い荷物を持ってランを抱いては難儀だと、従兄にお願いすることになったのだった。これには本当に助けてもらった。

関空に着き、外気に触れた時はひんやりした。台北と気温差が10度近くあるので無理はない。ランの風邪は帰国後しばらくすっきりしなかったが、汗をかかなくなり、汗疹は治った。
米粉や麦粉と呼ばれるオートミールみたいな一種の離乳食が台湾にはあり、粉ミルク以外にそれらを徐々に与えるようになっていたが、帰国後本格的に手作り離乳食を開始した。母に訊いたり、本を見たりして作り、どきどきしつつランの口に運ぶ。はじめ、にんじんやじゃがいもでとろとろペースト状のを作り与えてみたら、大丈夫、食べた。
でも、同じものをたくさん食べるのは飽きるようだった。
私が無事、運転免許証の更新を済ませた数日後、ランは初めて座れるようになった。その上、今にも這い這いしそうな勢いだ。反動つけて一歩踏み出したいがどう進めばよいかわからない感じである。そのしぐさも可愛い。
市の方から、乳幼児健診の案内が来ており、保健センターへランを連れて行く。ランは日本籍もあるので、こうような公のサービスも享受できた。行ってみると、保健婦や医師ともに診てもらえて、とても有意義だった。6ヶ月と19日で、身長65.6cm、体重6300g、胸囲38.0cm、頭囲41.6cm。よく動くねえ、元気ねえ、と言われる。小さく生まれたが、順調に成長していた。

ランを抱いたり、あやしたりする両親の様子を見ると万感迫り来る。
50代で孫ができる人もいる。10人以上孫がいる人だっている。
うちの父は70歳でやっと初孫を抱いた。平坦でなかった来し方を思い出しながら、私にもようやく、ささやかではあるが親孝行ができた気がした。
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2009年03月21日

ランを抱いて、初の一時帰国。

ランを連れての初一時帰国は5月8日に決めた。日本のGWが去るのを待つ形にした。
義父の四十九日が終わっておらず、いささか気が引けたが、運転免許証の更新手続をせねばならなかったし、台湾の家族も何も異議を唱えなかった。
30度を超える暑さが定着していたにもかかわらず、私もランも体調がすぐれず、それぞれ病院通いをした。私は一種の軽い気管支炎で、ランは風邪だったが、帰国直前に熱を出し、あわてた。それでも、医師は帰国GOサインを出した。
当日は、リーの運転、義母同伴で空港まで送ってもらった。
妊娠中、飛行機には乗ったが、赤ちゃんを連れての搭乗は初めてで少し不安を感じてはいたが、機内に入ると、客室乗務員の方からいろいろ声をかけて来て、助けてくれた。生後6ヶ月のランは座席は必要ないが、当時で約8,000円、大人の5分の1程度のチケットを購入した。壁に設置できる簡易ベッドを取り付けてくれたり、ウエットテイッシュに紙おむつ、ベビーフード一式プレゼントもあった。
客室乗務員たちはその後も業務の手が空くと、たびたびランのところにやって来てあやしたりしたし、赤ちゃんがいると知った乗客まで見に来て、私に話しかけたり、ランの月齢を訊いたりして、なんとも和やかな空気が漂った。粉ミルクを与える時間になり、哺乳瓶を渡すと
お願いした量の温水を快く淹れてきてくれたり、想像以上に快適な子連れ空の旅を楽しませてもらった。

そして、台北ー関空の飛行時間はだいたい2時間〜2時間半。あっという間といえばあっという間だ。私はみんなに重々お礼を述べ、降機した。
関空には、以前香港に発つリーと私を送ってくれた従兄の運転で、両親が迎えに来てくれていた。
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2009年03月20日

4月はもう初夏の暑さ、ランは風邪。

義父が逝った4月7日から告別式が終わってしばらくは、私にとって非日常的な時間に感じられた。
まず、義父を思い出すたびに泣けてくるし、リーや他の親族が実家に行けと言えば、ランの粉ミルクや紙おむつ等用意して、おい紐でランを胸に抱き、15分ほどかけて歩いて実家へ帰った。まだ軽いランではあったが、4月半ばといえども気温は30度前後まで上がるようになり、15分も歩けば汗ばんで結構疲れた。国際免許証を取得していないため車の運転はできないし、自転車もバイクも持っていない。歩くしかない。バスに乗るにも近過ぎるという距離だった。
実際、ふだんは徒歩で事足りた。自宅マンションは便利な場所にあるし、台北の交通事情を見れば、怖くて運転したいとも思わなかった。

寒がりな私が暑いのだから、ランも同じだろう。彼女にとっては生まれて初めての夏、高温である。汗をべっとりかくし、いつになく夜中ぐずって私を起こす日が数日続いた。咳もする。食欲も落ちた。
義母宅へしょっちゅう帰り、おおぜいにかわるがわる抱っこされ、そこで風邪をもらったのかもしれない。
私はランを出産した珂産婦人科そばの小児科へバスに乗って行った。入院中、その医師が新生児室に毎日往診に来ていたので、近所にある小児科より親近感があった。
ランは風邪と診断され、薬をもらって帰る。こんな風邪は初めてで、新米ママの私は心配で心配で気分が晴れない。あのランが笑わないのだ、、、、、
ランはうつぶせになるのがおもしろいらしく、すぐコロリ。しかし、うつぶせの姿勢から仰向けには戻れず、そのうち泣いて私を呼ぶ。
それから、もうランを私のベッドに寝かせるのはやめねばならない。動きが大きくなり、私がキッチンへ行ってる時、ドンッ!!! ベッドから落ちて大泣き、私も卒倒するほど驚き、心配した。
そんなこんなの初夏のような4月中旬だった。義父は私たちの結婚記念写真を手に取ることなく永眠した。ようやく出来上がった額入り写真は、夫婦の寝室の白い壁に掛けられた。
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2009年03月19日

お義父さん、恨みますよ、、、

早朝6時半、病院で一夜を過ごしたリーから、義父が逝ったと電話があった。リーと夜、病院へ急いだ日の2日後のことだった。私がだいたい目を覚ましているだろう時間を待って、かけてきたらしい。
その後、ランを連れて実家へ行くよう連絡があったのが正午前。そそくさと準備をし、指示に従う。
台湾で親族の葬礼に臨むのはもちろん初めてだった。長男の妻として、本来なら雑事から表立った務めまで、いろいろ率先してしなければならないのだろうが、生後5ヶ月の幼子がいるのと私が外国人ということで、多くの高い要求は向けられなかった。まず、ランをしっかり世話して、できることを手伝うのに徹すればよかった。

やはり葬祭の手順や慣習は日本のそれとは大きく異なった。いわゆる告別式は、義父が亡くなった10日後行われ、それまで自宅で眠る故人のため、家族の誰かが順番に線香の火を絶やさないようつきっきりで見守る。四六時中なので、夜中にもその役目をする者が必要なのだが翌日出勤せねばならなくとも、リーも何回か夜のおつとめに行った。
リーの実家には、義父とゆかりのある人々がたくさんお別れにやって来た。つらい空気をランが和らげているように見える。多くの訪問客がこぞってランを抱っこしたがり、彼女の笑顔に悲しみの場が和んだ。私は内心ランが疲れてしまわないかと案じた。
とにかく黒い服を着ればよいと言われ、そのいでたちで私も告別式に参列した。日本から嫁いで何もわからぬヨメの私が、長男リーの傍ら、すなわち相当な「上座」に据えられてしまった。

義父の棺には、3月義父にあてて書いた手紙を入れた。その時義父はまだしっかり意識があり、義母が読むそれにうんうんと頷き聞いていたという。
大好きな義父だった。ランをもっともっと抱っこしてやってほしかった。出会ってわずか一年半ほど。ガン闘病4年。お義父さん、こんなに早く逝ってしまうなんてずるい、恨みますよ、、、、、 今でもそう思う。
義母は何度も何度もはばかりなく泣いた。私も義父を思うたびに涙がこぼれ、涙腺は緩んだままだった。
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2009年03月18日

4月、義父の容態悪化に憂う。

一年遅れの結婚休暇やそれに関係した行事が一段落して、平常通りの生活に戻る。ランは寝返りを打ったり、離乳食が食べられるようになり、順調に成長していた。
当時の日記を開くと、その頃、夜、蚊が出て来て安眠妨害されたと書いている。そういえば、ランのために蚊取り線香(やその類い)はできるだけつけないようにしたいと思い、ベビー用の蚊帳を設置してやったものだ。
年間平均気温が20度を超える台湾、蚊はほとんど年中出没する。自宅マンションは11階なので、アパート2階にある義母宅よりずっと少ない被害で済むが、それでも蚊に悩まされる期間は日本より長い。真夏はかえって減る。暑過ぎるのだろうと察するが、日本では考えられない2月とか12月などにも出て来る。蚊取り器具をONにして寝る日は多い。
しかし、リーがいる付近は安全だ。蚊は遠赤外線で温度の高低を察知できるらしく、体温の高いリーばかりを好んで集まるのだった。

会社にいるリーに、義父の容態が悪化したと連絡が入り、彼は夕方6時前、早々に帰宅。実家で留守を守る叔母にランを預け、リーと2人病院へ急ぐ。
義父は私たちの呼びかけに小さくうなづくことができた。だが、ほんの2週間前より衰弱の度合いが大きく進んだことは誰の目にも明らかだった。
リーは翌日も病院へ行った。義父はもう反応が小さくなり、目を閉じたままだと言う。
心配で、私ももう一度見舞いたかったが、前日叔母に預けた間ランがひどくぐずったらしく、やはり家でランの世話をしていた方がいいと言われた。

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2009年03月17日

主役はラン?! 4時間半、撮影ようやく終了。

ランにはふわふわ毛足の長い真綿のようなソファが与えられた。乳幼児用のものなのか、これならまだ自力で座れないランでも頭を起こすことができる。まぶしいライトで照らされる「主役席」にいても、彼女はぐずることなく、ふだん通りニコニコ微笑む。
「かっわい〜な〜」
カメラマンは同じセリフを連発し、バシバシ撮っている。助手の女性も絶賛だ。
あのォ〜、、、 第一子誕生記念撮影じゃなんですけど、、、、、
さきほどまで役者に仕立てられたリーと私は、舞台の袖で困惑した。
まあ、ランがこんなにほめてもらえるならいいか。
ランはその日、白とピンクの服に身を包んでおり、純白ふわふわのソファで笑うと、本当に絵になった。
「じゃあ、お2人も入ってください。ランちゃんはママに抱っこしてもらおうかな。」
ようやくカメラマンがリーと私の存在を思い出してくれた。

メークや衣装選びだけで一時間半ほどかかったし、撮影や着替えなど全メニューが終了したのは5時半。写真館入りしたのが午後1時だった。外の日差しはすっかりトーンを落とし、それを目にすると、どっと疲れを感じた。
写真が完成するまでに10日ほどかかる。私たち3人はバイクにまたがり
家路についた。
マイカーハネムーンからずっと結婚休暇をとっていたリーも、久しぶりに明日から出勤だ。
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2009年03月16日

不覚にも、役者になるリーと私。

3月末日午後1時、写真館2階に我々一家3人はいた。
担当のメークアップアーティストが私の顔や髪の毛を作り上げていく。男性もメークするが、女性よりずっと簡単なものなので、リーは別室で自分の準備をゆるゆると進めつつランを見てくれていた。
ウエディングドレスと色ドレスを選ぶ。たくさんあって、特に色ドレスは目移りした。何を基準に選べばよいのかわからなくなってきて、とにかく好きな紫や緑などを物色するが決まらず、スタッフの「あなたは色が白いから、こういう紅いものが似合いますよ」のひと声で、それが好きか否か判然としないまま、ワインレッドのドレスに決める。もう選び疲れていたのだ><

メークは続く。すごいなあ、ここまで念入りにするものなのかあ、、
正直な感想を会話が弾むメークの女性に伝えると、タレントさんはもっと時間かけますよ、とのこと。へえーっ、と驚く。私は撮影前すでに疲労を感じている。
さて、まずウエディングドレスでの撮影だ。それが終わると、私もリーもお色直し、私はヘアスタイルも変えて、再びスタジオへ。カメラマンはどちらかと言えばふくよかな体型の男性だった。
テレビで何度もご覧になったことがあると思うが、あの撮影風景を思い描いていただきたい。まさに、あんな感じで撮られていく。
そして、あろうことか、いや不覚にも、カメラマンの滑らかな指示に抗うことはできず、リーと見つめ合って笑ったり、肩に手を回したり
膝の上にのったりしている自分がいた。リーも戸惑いつつ、しかし、
どうしようもなく、役者にならざるを得ない状況に甘んじている表情である。情けない、、、、、
額入り大判写真とLサイズ版10枚コースを指定したにもかかわらず、バシバシ、ピカピカ、シャッターは下ろされた。
そして、終盤にはランも被写体に加わった。
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2009年03月15日

台湾・結婚記念写真事情。

撮影日は翌々日の31日に決まった。そして、その写真館が持つメニューというかパックの中で最も少数でシンプルな額入り大判写真とLサイズ版10枚コースを予約する。
「どこか撮影に出かけたい場所はありますか?」
ありません、このスタジオ内だけでいいです。
「こんな少なくていいんですか?」
いいんです。

あちらにすれば、めずらしい客だったに違いない。額入り大判は、大人が両手で持っても歩きにくいくらいのサイズだし、プロが撮ったL版が10枚もあれば十分だと思うのだが、額入りの小さいのも作ったり
L版96枚コースなんてのまであるんだから。結婚記念撮影に10万円以上かける夫婦はざらにいると思われる。そう言えば、OL時代の韓国人の同僚が会社で唯一の欧米人社員と結婚した際、結婚アルバムを会社に持って来て公開していたが、厚さ5cmほどのアルバムが3〜4冊あったように記憶する。彼らのマンションの壁には、特大額入り写真が飾ってあったし、、、、、
思い出の場所に撮影隊とともに出かけて屋外撮影するのも極々一般的である。私が中国語を勉強していた大学構内、有名な公園、海岸などで着飾ったアツアツの男女が寄り添い、写真を撮られているのを幾度となく目にしている。寒い日や炎天下では気の毒に思うものだ。あんなことはやりたくないと私は思うのだが、台湾の多くの人々には、結婚記念写真に傾ける情熱と思い入れが脈々と受け継がれているのだろう。
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2009年03月14日

いざ、フランスなんとか写真館へ。

私がその記念写真文化に最初に触れたのは、最初の台湾留学の時住んでいたアパートだったと記憶している。
知人から紹介されて、部屋をシェアしてもよいと言われた新婚夫婦のもとに身を寄せたのだが、その家の壁に大小いくつかの額に入ったウエディングドレスや色ドレスを着た新婦とタキシードの新郎の、文字通りラブラブを絵に描いたような写真が飾られていた。画質はきれいだし、2人のポーズや表情は板につき、サマになっていて、一見素人には見えない。タレントのブロマイドを想起させる出来ばえなのだ。日本人の私から見ると、なんともまあオーバーで、見ている方が恥ずかしくなるほどの、まさにラブラブなのだが、その後、それはうちの大家さん夫婦だけが度胸のある人間なのではなく、台湾に長く、深く浸透した文化、慣習なのだとわかり始める。

私は絶対ああいうことには向かない。あんなポーズ、できないでしょう、いいトシして・・・・・

そう思っていた。だから、ああいうポーズは避けるとして、とにかく記念写真は撮りたいなあと考えたのである。
もう、台湾のいち文化なので、そのテの写真館はごまんとあるが、家から近く、好印象があるというと、最寄の地下鉄駅前にある法国なんやら、というところしか思い浮かばなかった。法国、とはフランスのことだ。日本同様、台湾も欧州にある種の憧れがあるのだろう。
リーも同意したので、バイクで5分ほどの華やかさとシックがうまく調和したフランスなんたら写真館へ。
女性中心の豊富なスタッフに迎えられ、すぐ撮影の打ち合わせをする。ランは満5ヶ月、よく笑い、そのとろけるような笑顔は、スタッフたちの仕事の手を止めるほどだった。
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2009年03月13日

帰宅早々、風邪でマスクと結婚一周年。

全身がだるい。
だが、パジェロからどっさり下ろす荷物の中には、これまたどっさりの洗濯物>< 当然私がすべて洗い、干さねばならない。具合が悪いと実に恨めしく見えるその「山」だった。
どうにも気分がすぐれないのだが、やはり洗濯物を処理してしまわないと落ち着かず、さっそくよいしょと抱えてベランダにある洗濯機に放り込んだ。
2時間ほどかかってようやく一段落つき、夕方私は医者へ行くことにした。かかりつけの病院(医院)はなく、その日は徒歩で5分ほどの内科
小児科医院へ行ってみることにした。その前を通るたび、結構おおぜい患者がいて、悪くはなさそうだった。
普通の風邪と診断されたが、家に赤ちゃんがいるならマスクをするよう言われる。それは心得ている。

女医さんにもらった薬はよく効き、翌日はだいぶ楽になった。
リーとランと3人そろって実家に帰る。義父の容態が気にかかったし、おみやげを渡したかった。
実家には義母と、義弟の長女がいた。2人とも鼻水を出したり、ひどい風邪声をしているが、マスクをしてくれず、私は心中穏やかでなかった。
おかげでランにはうつらず、彼女の食欲は旺盛だった。うまくできたもので、生後半年ほどは母親からもらった免疫で結構抵抗力があるというのは本当なのだろうか。

ハネムーンから戻った翌々日、3月29日。
書類提出のみだったが、結婚一周年を迎えた。晴々しい事にさほど興味のないリーと私だったが、記念写真だけは撮ろうという点で意気投合、私がランを抱き、バイクで出かけることにする。
ご存知だろうか。台湾の結婚記念写真文化はおもしろいのだ。
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2009年03月12日

子連れハネムーン、最終日を迎える。

ベッド幅が農園コテージにあったものくらい広ければ、私がランと一緒に寝ればいいのだが、ここのはそうはいかない大きさである。
窓外に見える中庭を眺めながら思案していると、あっ!浮かんだ。
手置きから背もたれがスローな丸い弧を描くソファに目が留まった。私はそれをごろんごろんと私が陣取った壁側のベッドに運び、隣のベッドとの間に置いた。そして、私のベッドの側面にピッタリくっつけた。ソファとベッドの高さは絶妙で、手置きと背もたれが外柵になり即席ベビーベッド完成。ランをそこへ寝かしてみると、小さなランはちょうどすっぽり、これなら落ちる心配もない。このヒラメキに自画自賛した。

私もその夜はさらにぐっすり眠った。前日からのどが痛かったのだが子連れハネムーン最終日の天祥での朝はそれが一段と悪化しており、風邪薬を飲んだ。
ベビーカーを押して朝食に行く。種類豊富なバイキングが用意されていた。台湾の宿はだいたいどこでも、いわゆるパンやコーヒー、紅茶などの洋式と、粥やそれに付す様々な薬味、豆乳などの中国式朝食のどちらもが供される。リーは自宅で毎朝トーストでサンドウイッチを作り食べるが、粥があれば必ずそれをいただいていた。
渋滞が好きな人はいないだろうが、リーはそれが顕著だ。せっかちな彼の性格を考えれば無理ないだろう。
彼は渋滞を避けたいと、8時半にチェックアウト、台北を目指した。
旅中、やっぱり旅はいい、帰りたくないなあ、と感じていたので、最終日は道中切なかった。
午後2時、台北の自宅に無事到着。高いパジェロの後部座席から降りると、咽喉痛の不快さが全身に広がるように不調を強く実感した。
posted by マダム スン at 05:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 母になって | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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