2009年02月28日

義父の病状に憂う春。

入籍前に香港で妊娠していることを知り、悪阻がひどかったり、台湾で婚姻届をぬかりなく提出するためにも日本へ帰国したり、休養が必要だったりで、ハネムーンどころではなかった。
だが、リーは、ランが5ヶ月くらいになったら3人で愛車パジェロに乗り、旅行したいと考えていたようだ。
私には気になることが二つあったので、彼に訊いてみた。
「ランはどうするの?こんな小さいのに、旅行できる?お義母さんに預けるの?」
「連れて行くよ。5ヶ月くらいならもう大丈夫だよ。」
そうなのか。ならよかった。ランを預けるのは気が進まない。
「お義父さんの具合、悪いでしょう。こんな時に旅行なんて行ってられる?」
「この前見舞いに行った時、旅行の事話したら、行っておいでって言ってくれたんだ。」
義父の性格からすれば、行くな、と言うのは考え難いが、まあそう言ってくれるのならいいだろう。

義父は罹患率の低い特殊なガンだった。台湾で二つの指に入る総合病院のうちの一つと自宅での療養を繰り返していた。ガンとわかった時点で告げられた余命期間を大幅に更新していたが、治癒と長命を願う家族と本人の思いは強く、その数ヶ月前より新薬の服用を始めた。
が、賭けは裏目に出た。義父の病状は改善せず、身体がむくんだり、皮膚が赤らんだり、痒くなったりする上、湿疹が乾き、ボロボロと皮が剥け落ちるようになっていた。かねてからあった咳や倦怠感に加え
厄介な新薬の副作用が深刻な状況になっていたのだ。
心地良い日和を心の底から喜べない春だった。
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2009年02月27日

フローリングに新調、春も近し。

長い一週間がようやく過ぎ、また静寂が戻って来た。
床も白いタイル地のものから、リーが提案したフローリングに変わり、家全体の雰囲気もやわらかくなった。板の色は家具に合わせてこげ茶である。
一週間、昼間ランを預けた義母も完成後、新調した床を見に来た。義母宅とは徒歩10分くらいの距離なので、時々歩いての往来があった。
私たちのマンションは、リーの両親が彼に買い与えたものだった。とりわけ長男を重んじる台湾ではよくあることで、リーの弟にはない待遇でもあった。両親がある程度負担してくれて、あとはリーが毎月ローンを払っていた。
しかし、リーの弟が子供達が大きくなったため独立して家を購入する際には、リーとその独身の姉もかなり援助していた。家族の結束は固い。
義弟は建築士で建設会社勤務、義姉は流暢な英語を駆使して広告代理店でバリバリ働く高給キャリアウーマンだった。彼女は、義父が大陸から台湾に移り住んで最初に購入したアパートで一人暮らしていたが、私とリーが結婚してしばらくすると、上海に越して行った。
リーから義姉の月給を聞くたび羨んだものだが、
「そうでもないよ。姉はもしかしたら一生独身かもしれないから、老後の貯えや精神的な安心も必要でしょう。」
とそのたび彼は言った。
義弟一家の引越しは、義父の闘病中に行われた。義父はずっと入退院を繰り返していたし、義弟たちの新居も徒歩圏内だったので、義父にとってはそれほど寂しいものではなかったとは思う。そう願う。

床が修理された頃には義父はまた入院していたが、リーは季節もよくなったし、ランも連れてマイカーでハネムーンに行こう計画を立て始めた。
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2009年02月26日

ズズッ、ドドッ。土埃の中の一週間。

気が重かった。
私は昔から退屈に耐えにくい一方で、自分の基本的な生活リズムを不意に崩されるのが非常に苦手であった。それに今はランがいる。依然
ランの健康状態の管理にピリピリしがちだった私には、本当に大きい頭痛の種だった。
案の定、リーにこう言われる。
「赤ん坊は敏感だから、トンカントンカンうるさい場所には置いとけないよ。ランはお袋んちへ連れて行くからね。」
やっぱり、、、、、じゃあ、私も。ランが心配だから。
「ダメだよお、、、職人さんだけにすることはできないよ、物騒な。君は家にいないとダメ。」
まあ、言われてみればそうだった。

季節は春を感じる頃となり、気温も上がっていた。
職人さんが来てくれる日から、リー出勤時にランを義母宅へ預け、私はひとり家に残ることになった。
トンカントンカンどころではなかった。
ズズズズッ、ドドドドッもあり、ラジオやテレビの音がたびたびかき消される。その上、土埃が充満。避難していたランの部屋(夫婦の寝室でもあった)にまで入ってくるので、急いで新聞紙をあちこちにかけ、土埃から護らねばならなかった。
そういう期間に限って、恨めしいほど外はからりと晴れ、私を誘う。しかし、家を離れることは極力避けたい。ランはどうしているだろう、、、、、 トホホホホ、、、、、職人さんは2人。夕方やっと帰って行く。ご苦労様でした、と労をねぎらった後、彼らがつけていった靴の足跡などの清掃に追われた。
工事は一週間続いた。
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2009年02月25日

特撮?巨大モグラ? 床、隆起。 

嘘のような話でもあり、映画の特撮を見ているようでもある事態になっていた。リビングのソファセットやテーブル、テレビなどを置いていない部分、すなわち、キッチンの前辺りからずーっと玄関に続くところまで約4〜5m、タイル製の白い床が隆起している。大きなモグラでも走り抜けた感じだ。平素、私よりは冷静なリーでさえ、いったい何が起こったか解せぬ表情で驚いている。
「え? 何なの、これ?」
我に返ったリーは、驚きや嘆きをすでに通り越して笑って言う、
「めったに下がらない低温になって、かなり暖房焚いたでしょう、たぶん慣れない温度差の関係だと思うよ」
・・・・・・・・・・・・・・><

本当にそうらしかった。そういうことがあるらしかった。
台湾では当地でいう低温になった場合、凍死する人が出るし、あの年は一酸化炭素中毒で倒れる人が続出した。ふだん長時間にわたり暖房器具を使用したことがないためだろう。
バリバリバリッは、その後短いのが数回再来した。家の中に突然工事現場のセットが作られたようにも見える。
泣けてきた。
修理費用はかなりの額になるだろうし、何より職人さんが出入して、ドドドドッと工事が家の中で行われるのがイヤだった。

リーの仲の良い知人がその方面の会社をやっており、修理の段取りは早々に進んだが、案の定、最低一週間ほどはかかり、費用は台湾ドルで約10万元ということだった。当時のレートで言えば、約35万円である。
ランだけが、まったく別の平和な世界でまどろんでいるような、愛らしい表情で眠っていた。
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2009年02月24日

素足につっかけ!? そして、地響き、、、

台湾は北部半分が亜熱帯性気候、南部が熱帯性気候に属し、基本的には南部ほど暖かい。日本人の感覚で言うと、台北は沖縄に近い気候である。しかし、沖縄より湿度も不快指数も高いように感じる。
一般家庭では、冬季、暖房を常用せずに過ごす。たしかに寒さは感じるが、厚着すればなんとかなる範囲で済むことは多い。
一応台湾でも、冬になると、手袋、マフラー、コート、ジャンバー、カイロ、厚手のソックスやタイツなどが売られる。一応、寒い。
だが、南国人ゆえか、どうも日本人の感覚と異なる現象も見受けられる。
一番それを感じるのは、そのままスキーにでも行けそうな重装備をしているのに、足元に視線を落とすと素足なのである。素足に、いわゆるつっかけを履いているのだ。要するに、くるぶしまで雪国スタイルで、さきっちょだけ南国ビーチバカンス状態なのである。
その格好は異様に映る。見ているだけで身震いしそうなのでやめてほしいと毎年思う。老若男女、概してそういうイデタチの人がそこかしこに出現する。

厳冬だったその年、ランの部屋の暖房はしょっちゅうつけた。
そして、リビングのエアコンもONにすることが多かったが、ある日、バリバリバリッと地響きが聞こえた。
私はあわててランの部屋から、リーがいるリビングに向かった。
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2009年02月23日

厳冬の台北へ両親来る。

日本の両親が台北に来ると伝えてきた。
彼らにすれば、一人っ子の私が再婚して家庭を持ち、ようやく母親にもなり、ひとまず安堵しただろうし、ランは待望の初孫なのだから飛んで来たい気持ちも十分察せられた。
訪台の日程はと訊くと、12月11〜14日だという。
私は、たった三泊四日でいいの? せっかく来るのにもっとゆっくりすればいいのに、といぶかったが、社会活動(?)に多忙で、それが限界だし、ひと目ランを見て、抱っこできればいいと言う。
本人たちがそう言うのなら、私に異論はなかった。

台北の我が家は16階建てマンションの11階にある。
なんとか工夫すれば、両親が泊まれるくらいのスペースはあるが、彼ら自身、気兼ねなくゆったり休息したいので、どこか宿を取ってくれと言って来た。
私はリーと相談して、リーの会社近くにある、うちから車で5分とかからないホテルを予約した。予約や送迎はすべてリーがしてくれて、宿泊料を払うという両親を制した。
その年、台湾は記録的に寒い冬だった。両親がやって来た期間もちょうど寒気が襲来し、ランと両親のために、通常冷房しかほとんど使用したためしがないエアコンを常時つけ、暖めた。ランは一ヶ月半、マルコメちゃんスマイルで日本の祖父母を喜ばせた。
台湾で15度をきると相当寒く感じ、めったに10度を下回らない。
しかし、あの時は7度くらいまで下がり、雨がち、空もどんよりで寒々としていた。
父と母は、言葉も通じないし、買物も必要なく、ランを見ていればそれでうれしいと言ってくれた。外食したくても、こう寒いとランを連れ出す気も萎えた。
リーはビデオカメラを構え、父は時折カメラのシャッターを押し、極寒の三泊四日は静かに過ぎた。

その後ほどなくして、ある相変わらず寒い日、思いも寄らぬ厳冬の弊害が襲って来た。
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2009年02月22日

台湾流「満月」のお祝い

「満月」というと、日本人と台湾の人が思いつくものはまったく異なる。日本語読みは「まんげつ」、中国語では「マンユエ」と発音するのだが、これはお月様とは関係なく、子供が生後満一ヶ月を迎えることだ。
「マンユエ」と聞いて、前後の文脈から「満月」の文字がすぐ浮かんだが、想像以上に台湾ではこの生後一ヶ月を盛大に祝う。
ラン誕生後、数ヶ月のちにリーの従妹も出産した。そして、彼女の家族は結構高給なレストランを予約し、親戚を招待して昼食をご馳走した。これは少しも珍しいことではなかった。
ランの場合は、標準児より小さく、あまり環境を変えたくないなどの理由で催さなかったが、ケーキは親戚や同僚に配った。会席して祝ったり、日本で言うといただいた出産祝のお返しの品を贈ったりするのがしきたりである。
珂産婦人科や坐月子センターにいる頃から、どこから入って来るのかお菓子屋や満月贈答品を扱う業者がチラシを置いて行った。お返しの品はだいたい男の子なら油飯(もち米で炊くお赤飯みたいなもの)、女の子ならケーキやお菓子が一般的だ。
リーも私同様、あまり華やかな催し事を好まないが、満月の贈り物だけはしようと、数十箱のケーキを予約した。長方形タイプで、たしか栗を使ったものだった。
リーは会社での職位がすでに高く、親しい同僚から「リー、OOのケーキはやめてよ」などと冷やかされたらしく、お菓子チェーン店では高級な部類に入る店のものを選び、配っていた。

生後一ヶ月も過ぎると、私の体重は妊娠前に戻ったり、ランの諸々の予防接種にも気をつけねばならなくなる時期であった。
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2009年02月21日

反省。使命感にガンジガラメでした。

反省も込めて回想するが、ラン出産後の私は過度に神経質だったと思う。高齢出産に分類される年齢でようやく出産にこぎつけた第一子だったし、SARSの嵐の中を必死に守って来たという緊張感はすぐには弛緩しなかったし、まだ完全にSARSが下火になっていなかったことにも関係している。
季節もだんだん秋から冬の様相を呈し、気温が下がり始めたので、よっぽどのことがなければランを外に連れ出すことはなかったが、親戚の者やリーの同僚(私の元同僚でもあった)たちがお祝いに訪れるのを、私はひどく警戒した。
たとえば、ランのベッドを置く部屋のドアに「赤ちゃんがいます。マスクをしてお入りください。」と貼紙していた。イラストも描き、可愛らしいものだったが、リーには時々「これ、やめたら?」とたしなめられた。風邪とはっきりわかる症状が現れていなくても、大人の息には赤ちゃんには抗し難い雑菌が含まれていることがあることを恐れていたのだ。
それから、抱っこしている際、うっかりランの頭が壁にコツンとぶつかりでもしたら、「内出血したらどうしよう」としばらく不安で落ち着かなかった。
実に、いわゆる、ヤなママだったのである。
しかし、あの頃はどうしようもなかった。小さく生まれて、弱いだろうと言われたランを守ってやらねばという使命感にガンジガラメにされていた。赦してほしい。

それにしても、ランはある意味、世話のしやすい子だった。小さくてもよくミルクを飲み、体調を崩すことも稀だったし、何よりも「え?こんな時期にもう笑うものなの?」と驚くほど早いうちから、満面の笑みを向けてくれた。その愛らしい、昔懐かしマルコメちゃんとでも呼ぶべき表情に、私は何度も何度も癒された。
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2009年02月20日

退院。新米ママ始動!

11月も半ばに入る頃、ランは初めて「我が家」にやって来た。
坐月子センターから帰った初日は義母が来て、坐月子餐を一種類作ってくれたり、それに必要な米酒やごま油をどっさり置いて帰った。義父の看病を実妹としている関係で、頻繁には私の様子を見に来られないとのことだが、私にしたらそれくらいの方が気が楽でよかった。やはり義母には気を遣うし、たくさん食べさせようとして一回で煮込む量はハンパでない人だったので、それが怖くもあったのだ。いくら美味でもノルマを課せられるのはしんどいし、産後2週間くらいから、あの驚きの食欲は徐々に退いて行ったからだ。

さあ、新米ママの奮闘が始まった。珂産婦人科では、赤ちゃんのマッサージや入浴、離乳食などについてのミニ講座を開いており、私も受講したのでまだよかったが、小さく、やわらかく、首が据わらないランの世話は神経を使うものだった。大人には平気でも、赤ちゃんの入浴には室温にも気を配り、ベビーバスに張ったネットの上にランをのせ、いつも話しかけながら洗ってやった。ランは毎回お風呂に入れるたび、満足そうな表情をするので、それにも励まされ、私の扱いもだんだん板についていった。
ウンチしたおしめ替えも、聞いていたように嫌なものではなかった。我が子のウンチはかぐわしく、汚物ではないのだ。
私の生活はラン中心で、不自由といえば不自由にはなったが、運動不足解消のためリーが出勤する前、30分前後の散歩が習慣化した。歩くと気持ちよく、よい気分転換にもなった。
また助かったのは、夜10〜11時頃ミルクを飲ませると、ランは朝までぐっすり。孝行者であった。
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2009年02月19日

戸籍2つ、パスポート2冊。

なぜだかわからないが、私は産後不眠が続いた。充分な休養が必要な時だし、身体も相当疲れているはずなのに、夜になると眠れなかった。そこへリーのいびきである。
だが、リーは会社が引けてからバイクで病院に来ることが多かった。パジェロは大きく、また台北は恒常的な駐車スペース不足だったからだ。そして、洗濯物を持って帰ったり、着替えや私が欲しがる物を運んでくれたりもしたので、婉曲に苦情を訴えはできても「泊まらないで」とは言いにくく、我慢するしかなかった。
ランの風邪騒ぎは大事にならず、私の傷口や体調もまずまず落ち着き、10日間の坐月子センター生活は終わった。食事はおいしかったし、多くのスタッフと知り合い、世話になり、去るのが名残惜しくてたまらなかった。初めての子をこれから元気に自宅で自分が育てねばならないと思うと、不安がまとわりついて来た。

病院から指導を受け、退院祝の品々や身の回り品をたくさん車に積み、2週間ぶりに自宅へ戻った。ランの出生届は、病院や陳医師のサインをもらい、すでに台湾日本双方の市役所に提出済みだった。
日本の両親が市役所に事情を話し、その指示に従って郵送でやり取りし、必要書類を提出して受理された。
ランは現在5歳になったが、今なお台湾と日本の両方に戸籍を持っている。彼女が18歳になった時いずれかの国籍を選び取得するまでこの状態が続く。そして、なんと彼女は台湾で日本のパスポートを申請、取得することも可能だと知る。台湾で生まれ、父親が台湾の者ゆえ、台湾のパスポートももちろん難なく取得。2冊のパスポートも18歳まで所有できるということなのだ。
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2009年02月18日

やって来るのはランではなくリー、、、、

坐月子餐は私のツボにはまり、そこのスタッフや看護士たちとも打ち解け、滞在は快適だった。
ランは数日で保育器から出ることができた。珂産婦人科の数軒先にある小児科医が毎日巡回に来てくれるのだが、「小さいけどミルクもよく飲めるし、元気。大丈夫だ」と診断したのだ。
あらためて他の赤ちゃんたちと並べられると、小柄なランは際立った。私が8階の部屋にいると、毎日決まった時間に新生児室から坐月子センターに入っているママのところへ赤ちゃんが送られて来る。ママの部屋で授乳するためだ。
しかし、小さいランにはそれが許されなかった。抵抗力が弱いと思われ、環境を変えない方がよいということだった。
そして、誕生後一週間ほど経った時、ようやく「外出許可」が出て、ランは私の部屋にやって来た。そこで私は生まれて初めておしめを四苦八苦しながら替えたのを覚えている。やりにくくて途方に暮れたが、ランは本当に可愛かった。看護士たちにも人気者だった。

ところが翌日、ランは風邪の兆候を示す。新生児室以外の場所に行ったため、アレルギーが出たのかもしれないが、用心が必要だという。
私は青ざめた。こんなに小さくては薬も飲めない。ただでさえもろく、か弱く見えるランが病気になってしまったらどうしよう、、、、
結局ランは一回私の部屋に来ただけで退院することになる。
代わりと言ってはナンだが、リーが毎日のように夕方やって来て、そのツインルームに泊まって行った。相変わらずの大きないびき。私は連夜安眠できず、ツインルームを恨んだ。
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2009年02月17日

一日6食、坐月子餐は美味

洗髪の件は、私の激しい要求と抵抗の末、たしか産後4日目くらいで落着し、無事髪を洗い、さっぱりできた。本来ならシャワーもそれくらいで限界だったろうが、傷口が痛くて痛くて、ちょっとした動き、歩行、手洗いすべてが苦痛という状況下、幸か不幸かシャワーしたい気分にはなかなかならなかった。産後一週間ほどで初めて恐る恐る身体を洗った記憶がある。
縫合された傷口の治りが遅く、一度1階まで診察を受けに下りたほどだった。化膿などはしていなかったが、洗面器の中にたらし、お尻をつけたらよい液体薬などをもらった。あの10日近く続いた痛みと不便さは、本当につらかった。

そんな私を助けてくれたのが坐月子センターのサービスだ。ランはずっと新生児室におり、授乳時に私が下りて行く。夜9時以降は看護士が預けておいた母乳や粉ミルクで授乳を代行してくれるため、ママたちはゆっくり休める。
また、食事も充実していた。専門の栄養士が一日3食坐月子餐を作り、9時、15時、21時とおやつタイムまであった。
最初「一日6食」と聞いた時は、まさかそんなに食べられるはずないでしょ、といぶかったものだが、出産の疲労や授乳のせいか、あまり残さず平らげていた。おやつと言っても、鶏肉のスープとか、豚バラ肉の煮物みたいなメニューもあったが、空腹はすぐやって来て、おいしくいただいていた。おそるべき食欲であった。
坐月子餐の多くは、日本の料理酒のような米酒をたっぷり用い、漢方の生薬などと一緒に煮込むので、独特の味と香りがする。現地の女性でも苦手だとか食べられない人もいるらしいが、私はそれを芳香に感じ、病みつきになるほど気に入ってしまった。
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2009年02月16日

坐月子中心10日間滞在開始

私は「坐月子」に興味を持ち、のちにいろいろと調べてもみたが、長い歴史の中でかなり迷信じみた認識も生まれたことがわかった。「産後一ヶ月は歯磨き、洗髪、髪梳き禁止」などなど、厳しいオキテも結構聞いたが、それらはすべて医学的根拠のないものだった。
私がリーや義母に言われたことは、上記の基本令及び「せめて一週間洗髪、シャワー禁止」である。早くから私が反抗していたため「せめて一週間、、、」となったのがこれだ。
入院しているので私ひとりになる時間は長く、勝手に洗ってしまえば済むことだが、ドライヤーを持参していなかったため、どうにも髪が洗えず、産後まもなくリーと口論になった。彼らが言う程度のことはそれほど狂ってはいないが、日頃毎日シャンプー、シャワーしている私にはとてもつらかったのだ。

「坐月子」センターなるものは珂産婦人科のように病院内にあるものや、独立しているもの、また「坐月子餐」という産褥期特有の食べ物があり、それを自宅にデリバリーしてくれる会社もたくさんある。義母世代ならだいたい坐月子餐の知識があり、作れる人が多いが、退院しても面倒を見てくれる人がいなかったり、坐月子餐を作れる人がいないと、こういうサービスを利用するのが一般的だ。
義母は病気療養中の義父の世話で忙しかったので、坐月子センターに入ることをリーたちに勧められた。最初はなんのことだかよく理解できなかったが、後になり、入所を申し込める最短コースの10日間だけでも滞在できて本当によかったと思った。
リーは退社後やって来て自分も宿泊できるようにと、広いツインの部屋を予約していた。
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2009年02月15日

「坐月子」初体験。

台湾と日本では異なるだろうし、台湾内でも病院によって出産費用や待遇はまちまちだった。出産&入院費はだいたい台北市内、また大きな有名病院ほど高いのが一般的だ。
珂産婦人科の規定では、自然分娩3日、帝王切開一週間の入院費用は無料で、いずれもそれくらいの日数があれば退院可能ということだった。
3日目でリーは一旦清算に行き、私は8階へ移る準備をした。付設の「坐月子中心」を数ヶ月前に予約してあり、そこであと10日間休養することになっていた。
ここでまず、「坐月子」たるものを紹介した方がよいと思う。
これはいわゆる「産褥期を過ごす」ことだ。中国大陸の方でも似たようなことをするのだろうが、台湾では産褥期、特に産後一ヶ月を大変重視する。初潮、産褥、閉経期を女性の大切な身体の節目ととらえるのだ。
産後せめて一ヶ月はできるだけ横になる。温かくする。重いものを持たない。冷たい水に触れない。風に当たらない。十分な栄養を摂る。調子が悪いところがあるならこの時期に治す。これは基本中の基本である。
素直に守るか守らないかは別として、さらにいろいろある。
お風呂(シャワー)、洗髪、歯磨き、髪を梳くことも禁止、と言うのだ。授乳室のママ友に聞くと、期間は一週間から一ヶ月とばらつきがあるが、誰もそれぞれに母親や義母から様々な「禁止令」を言い渡されていた。「嘘でしょう?」というほど厳しく、涙もほろろの新米ママもいて、互いに慰め合うありさまであった。
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2009年02月14日

唯一の保育器っ子、一番小さいラン。

いつか「この日」が来るとは思っていたが、予想とはいささか異なる「予定日10日前に破水」して「超高速安産」になるとは、、、、、
いや、私本人は安産だなどと思っていなかった。痛いのだから。大げさな形容だと日頃感じる、死ぬほど痛い、というのを地で行く痛さなのだから、何が安産だ!と反論したくなったが、あれこそ安産らしかった。
誰が見てもおかしいであろう歩き方をして、私は新生児室のカーテンが開けられる面会時間目がけ、ランを見に行った。気になったし、恋しかったし、可愛かった。
新生児室には30人近くの赤ちゃんがいた。看護士が交替で24時間世話をしてくれる。保育器に入っているのはランだけで、ひときわ目立つ。集団の中でひとまわり小さいのも一目瞭然だ。
「あ、この子のママ、日本人みたいよ。」
保育器に掛けられた名札には、ランの出生日、身長、体重、頭囲、血液型、主治医名と母親の名前が書いてあるのだ。目立つ理由はそこにもあった。
ママたちはおっぱいの時間になると、新生児室横の授乳室に行き、看護士に我が子を連れて来てもらってミルクを与えた。少ないながら私もミルクが出たのでそうしていたが、まもなく、
「ランちゃんは小さいから他の子よりたくさんミルクを飲まないとダメなんだけど、吸う力も弱いからママのおっぱいを飲んでるうちに疲れて寝てしまうわねえ。お母さん、おっぱいを絞って哺乳瓶に入れたものを飲ませるようにしましょうか。」
と看護士に言われてしまった。
それから、アレルギー体質との検査結果が出て、それ様の粉ミルクを飲ませなければならなかった。
ラン、がんばって、、、、、、 小さい我が娘がいっそう愛しく思えた。
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2009年02月13日

誕生後の日記と、次なる試練。

朝陽差し込む部屋に引越し早々、私はリーにノートとペンを買って来てほしいと頼んだ。
「この子の日記を書きたいの。ノートはできるだけ可愛いのがいいな。」
日記用具一式は準備していなかった。だが、出産を終えて、「今」の気持ちを記しておきたくなったのだ。
朝食は麺線(いわゆる素麺)に豚レバーの薄切りと目玉焼きがのったものだった。私は半ベジタリアンで、朝から肉を食すことはほとんどないが、産後の栄養が計算されたメニューなのだろうし、かなりの空腹で、ぺろりと平らげてしまった。
そうこうしているうちに、リーが近所の文具店で希望の品を買ってきてくれた。
それから、出産費用やその手続、自然分娩ゆえ入院は三日間で、その後階上の産後ケアセンターに移動して療養する按配を病院側と進めてくれていた。
私はだるい身体をさきほど縫合した傷口の痛みに顔をゆがめつつ少しずつ動かし、なんとかひとりで事を足すことができる程度だった。ベッドに横になろうと腰掛けても、片足をベッドに入れようとしても、やっとお尻がのり、さあ横たわろうとしても、動きのたびに身体を突き刺す激痛が走り、まさに拷問の苦しみである。
トイレはどうなるのだろう、、、、、、 深刻な問題が浮かび上がる。この傷口で、用を足せるのだろうか。病室内にあるトイレへ行くのさえ億劫なのに、、、、、、、
困った。陣痛に劣らぬ難関がまだ潜んでいたのだ。
それでもランが気になる。4階新生児室にいるはずだ。
「極力横になって休んでください」との忠告を無視し、私は遅々とした歩行で4階に下り、保育器にいるランを何度も見に行った。中国語名はシュンランだが、日本名はランにする予定だった。
私に気づいた看護師がランの保育器を私が見やすい角度に変えてくれるのがありがたかった。
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2009年02月12日

夜中の「ポッ」は破水の音。

臍帯血バンクにへその緒から採取した血液を預けることは、リーが友人から聞き、決めたことだった。子供が二十歳になるまで保管してもらえる。彼はその会社に連絡して、数時間後にはまだ温かいそれを受け取りに出向いた担当者に手渡す段取りを組んでいた。
陳医師と一人の看護士と私だけが分娩室に残った。産後の処置が必要だった。
なかでも傷口の縫合は思い出してもコワい。麻酔は施されているものの、かなり痛かった。私は依然眼鏡などできず、辺りはぼんやりとしか見えないのだが、足元の陳医師が針と糸を持ち、縫っている様子がわかる。相当長い糸らしく、一回一回医師がびゅーんと右手を上の方に上げて引っ張っている。チクリッ。続いて引っ張られる衝撃が傷口にひびき、何とも気持ち悪い。痛い。
なのに、陳医師はニコニコと私の踏んばりを讃え、「えーっと、これ、日本語で何て言うんだっけ?」と訊いたりしながら、次々と私に話しかけてくる。私は、文字通り歯を食いしばって応えるしかなかった。
ようやく一連の処置が終わり、5階の病室に移されたのが7時過ぎ。
リーは会社に電話して、規定通り3日間の「産休」を許された。
10月30日。晴れ。前日夜のロングウォークが効いたのか、予定日より10日早く、シュンランは破水して誕生した。
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2009年02月11日

5:44am,長女誕生。

陳医師、2人の看護士、そして出入口扉側に座ったリーの励ましと、力み方指導を仰ぎつつ、私は無我夢中でがんばった。何が何だかわからなかったのは、眼鏡もコンタクトレンズも外して周囲の状況がはっきり見えないせいでもあっただろう。
だが、時折我に返ったように意識が覚醒する時がある。すると、右隣りにいるリーが眼鏡をかけ、その頭に義母の洗面所から借りでもしたのかと思しきヘアキャップを被る姿が悪い夢のように映り、吹き出しそうになった。

何分ほど経ったのだろう。永遠に思えた痛みだが、「もう少し、がんばれ!」という陳医師の声で再び意識がはっきりした時には、胎児が下腹部まで下りて来ているのがわかり、グワーッと力んだらスウーッと身体が軽くなった。
生まれた。
だが、泣かない。
看護士がお尻でも叩いているようだ。そして、ようやく「あ〜ん、、、」と泣いた。弱々しい声。本当にこの子は大丈夫なのだろうかとオロオロしていると、看護士が赤紫色をした赤ちゃんを抱いて、私の顔のところまで見せに来てくれた。予想通り、女の子だ。
「大丈夫。これから身体を洗ってあげて、保育器に入れますからね。」
誕生後、すぐ量った体重は2370g。保育器に入れるのは、陳医師の判断で決められた。
よかった。産めた。まだぼんやりとしか見えないリーもたいそうホッとし、感激している様子だった。そして、陳医師に採ってもらった臍帯血バンクに預ける血液を受け取り、退室した。
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2009年02月10日

限界!分娩室へ。

義母到着。
挨拶もまともにできず、私はのたうち回る。ドラマなどで陣痛に苦しむ様子を何度も見たが、自分はあれの上を行く気がする。情けないが仕方なかった。
「平気、平気。お産とはこういんもんよ。」
出産経験3回。さすがに義母は肝が太い。
「親父は?」
リーが義父を案じて訊いている。
「朝7時半頃にはいつも通りあの子が来てくれるから大丈夫よ。」
あの子とは義母の妹のことだ。義父が病を患って以来、家事手伝いのために義母が呼び、報酬を渡していた。善良で働き者のデキた女性だった。
依然、私は激痛にバタンバタンしていた。リーと義母がなだめるように押さえつける。そして、とうとう限界に思えてきた。
しばし、何と言おうか迷ったが、リーでも義母にでもなく、直接看護士に聞こえるようにと大声で、
「もう出ますーっ!」
と叫んでいた。
数人の看護士がすばやくやって来て、ホロつきのそのベッドを押し、私を隣りの分娩室に運び入れた。
出産には必ず立ち会うと話していたリーは看護士からヘアキャップを渡され、ともに入室した。
posted by マダム スン at 05:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾の家庭に嫁ぐ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

出産間近、激痛に暴れる

陣痛と言えば、10時間続いただの、それが始まって翌日ようやく生まれただのと聞いたことがあり、「長い」イメージがあった。
それで、私も痛みで朦朧とする頭で「今日中に生まれるのかな、明日かなあ」と考えていたところだったので、看護士の言葉にひどく驚いた。
リーがしばらく席を外した。戻って来ると、彼は、
「お袋に連絡しといた。今からこっちに来るって。」
と言う。
その頃、義父が進み行く病気のため、入退院をくり返しており、義母はその看病に忙しかったが、比較的義父が自宅で安定していたので出て来られるとのことだった。
看護士の子宮口チェックはしつこいほど続く。リーはそばで苦痛に暴れる私を押さえつけたり、看護士に入院手続きなど今後のことを訊ねたりしている。彼らの話し声は耳に入るが、内容に注意を注ぐ余裕など微塵もなく、私はかつて経験したことがない激痛に気が狂いそうになる。なんと表現すればよいのだろう、、、、、
陳医師が到着し、私のところへ激励に来てくれた。
そして、看護士が、我慢できなくなったら呼んでね、と言う。
「我慢できなくなるってどういうレベルを言うんですか?」
と私は力を振り絞って訊く。
「うーん、、、、、、 大便を我慢しきれなくなる感じね。」
看護士は真面目にそう答えた。
posted by マダム スン at 05:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾の家庭に嫁ぐ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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