2009年01月11日

SARSとイラク攻撃

急な話だった。
リーが次に定例会議出席のため台湾に帰るのが3月27日になっており、その際に私も同行することになった。
私はそのまま台北の自宅に留まり、リーは4月に再び香港に戻って月末まで支社長を務め、課せられた任務を果たし、懸案を処理しなければならなかった。
もう少し早く決定してくれていたら、と会社を恨む気持ちがなくもなかった。複雑な心境。香港でしばらく暮らすのだと、それなりに覚悟し、準備していたのもあるし、一方で身重ゆえいっそうSARSの蔓延が恐ろしくもあった。台湾に逃れるのも得策ではあった。
しかし、である。SARSは熱が37度以上ある患者からしか他人に感染しないと言うが、密室である飛行機内で広がる悪例がたびたび伝えられていた。香港ー台北間の飛行時間は一時間ほどであるが、それでも感染の危険性と、それ以前に重症の悪阻の苦しさを考えると、台湾までの移動自体が億劫で、不安が尽きなかった。

リーは外出時は必ずマスクを着けた。SARSが疑われた同僚は「白」でひと安心したが、バスでも地下鉄でもマスクをする人の数は日に日に増えているようで、毎日公共の場に出なければならない彼の身を案じた。ニュースではアジアにとどまらず欧米などにも患者が出たと報じている。米国ブッシュ政権がイラク攻撃を始めたのもその時期で、世界中が不穏な雲に覆われているような恐怖を感じた。
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2009年01月10日

台北本社復帰命令

リーは毎日だいいたい8〜9時帰宅した。私はできるだけ彼を待ち、一緒に夕飯の席に着いた。
ある夜、彼のオフイスでもSARSを疑われるような風邪をひいたスタッフが出たと言う。要検査で未確定だが、明日から彼もマスクをして出勤することになった。街中でもマスクをしている人がだんだん増えているらしかった。

そんな物騒な折、リーの携帯が鳴った。週末の午後だったと思う。聞いていると、どうやら台北本社の誰かからだ。同僚だった幹部たちの名前もちらほら出て来る。
それはなんと、リーに台北本社復帰を打診する電話だった。
台湾へ帰るの?
リーよりも私の方が混乱した。あと少なくとも1年は香港駐在だろうと言われていたにもかかわらず、4月いっぱいで香港から帰れという。
私は既に家財道具の5割近くを持ち込み、日本でミニ披露会をし、香港入りしてからまだわずか2週間ほどしか経っていなかった。はあ?
SARSの流行が深刻化してきたため、私たちに「避難勧告」でも出たのかと思ったが、あくまでも香港支社運営上の会社の戦略に過ぎなかった。
私の狼狽をよそに、リーは冷静で、むしろこの急な決定を好機ととらえているようだった。妊娠している私を言葉が通じ、健康保険が利き、他の家族もいる台湾に帰したいと考え始めていた矢先だったからだ。
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2009年01月09日

香港のテレビは、、、

調べてみると、悪阻というものは私のように妊娠直後から始まることもあれば、もともと生理不順気味で、体調にも変化がなく、数ヶ月してようやく気づく人もいるらしかった。そして、悪阻のタイプも千差万別と言って差し障りないようだった。
私は食欲は落ちなかった。ただ、食べたいものに極めて忠実になり、思いついたら何としてでもそれを食べたくなったし、逆に嫌なものは頼まれても喉を通らなかった。
そして、何より吐き気が尋常でなかった。胃に何か不純物を差し込まれたようで、その傷が四六時中痛む感じだ。
それから、最初は高級マンションゆえの香りに思えたその家独特の匂いが気になり始め、むかつきを助長されているようだし、立派なテレビながらNHKにチャンネルをあわせると画面が乱れ、我慢して見ているとよけい気分が悪くなってきた。きれいに映るのはやはり地元の香港局で、字幕は解せる中国語と同じだからと見ることがあった。そのせいか、今はほぼ問題ないが、出産後もしばらくは広東語を聞くと悪阻のムカムカが胃によみがえってきたものだ。

そのテレビだが、ニュース番組を見るたび、SARSに関する報道が日に日に増えて行った。馴染みのないその病気がどのような性質や威力を持つかの知識も比例して増した。中国大陸で原産されたようだが、よりによって香港を拠点に大流行の兆しを見せていた。
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2009年01月08日

キムチ漬け

日に日に気管支炎と悪阻(つわり)の勢力分布図は後者が占める範囲が広くなっていった。小児科ながら気管系も良いという評判を裏切らなかった医師に感謝した。悪阻は病気ではないのだし、食料品も底をついて来る。私は週末を待たず、リーとたびたび出かける電車で数駅の大型スーパーへ行ってみることにした。気分転換も必要だった。

外出時、私はリーから与えられたマスクを着用した。気管支炎は急激に完治するものではなかったし、SARSがだんだん蔓延していた時だったので、お腹の子を守る予防策を採ったのだ。
今後1~2年は生活の場となる香港を、私は改めて病抜けしてきた身体と頭で感知し始めた。リーの同伴なしでも動けるようになりたいと思い、あちこちあれこれを確認しつつ歩いた。
目指す大型スーパーも自宅マンション同様、地下鉄の駅に連結する一大ショッピングモールの中にあり、全行程屋内を通って行けた。その道中にせよ、店内にせよ、マスクをしている人はごくわずかだった。
広いスーパーを私はカートを押して回った。もうその頃から、妊娠のために味覚が変わり始めており、ふだんほとんど食さない物を購入したりもした。
リーは料理ができる男だったが、台所の主は基本的に私に移行していった。リーと食べる夕食には自然と力が入った。見た目も味にもこだわった。
彼の意向を聞きながら献立を考えたが、あの時期、私はとにかく辛い物が食べたくてしようがなかった。たいして興味がなかったキムチをとりつかれたようにバリバリ食べた。刺激物は胎児によくないと知りつつ、その衝動を抑えることができなかった。そうでもしないと、連日治まることを知らない吐き気との同居は成り立たないほどになっていた。
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2009年01月07日

気管支炎去って今度は悪阻

とにかく医師の診察を受けて、薬もしかともらって、私はリーと地下鉄構内で別れた。地下鉄で自宅へ帰るのも初めてで、彼の指示を心細げに聞いた。
地下鉄に連結した地下街は広く清潔で、たくさんお店もあり、華やいで見えた。体調が良ければゆっくり見て回れるのになあ、と恨めしかった。

無事マンションにたどりつき、私はすぐ日本の実家に電話をして、その日の報告をした。気管支炎が重症なだけに、おめでたを喜ぶ母の反応は自重気味だったが、しっかり用心するよう念を押された。
相変わらず窓外の風景は素敵だった。船がゆっくり往来し、香港島の高層ビル群はしゃれた痩躯を誇っているように見えた。
私はそれらを眺めながら、祈るように薬を飲んだ。一週間近く、10年に一度級の苦しみは続いていた。リーも時々会社から様子を伺う電話を寄こした。
その後、願いは通じて、徐々に気管支炎の症状は軽減して行った。身体がふわっと軽くなる感覚を覚え、重かった胸が楽になった。
それはありがたかったのだが、次なる試練が待ち構えていた。悪阻(つわり)が控えていたのだ。ようやく気管支炎の悪夢から逃れたと思いきや、胃がおかしく、深刻な吐き気は四六時中続いた。
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2009年01月06日

2人目の医師を訪ねて

それにしても香港は人が多い。海と山に押しやられた狭い土地に人間が生活しているのだから当然の結果なのだが、威圧感は免れなかった。それを窮屈だと感じる時もあれば、ほとんど気にならず独特の空気感が心地良い時もあるのも事実だった。
リーが傍らにいて、同僚から詳しくその医院の住所を聞いていたからよかったが、自分だけなら迷子になりそうだと思った。地下鉄の駅から地上に出て、数分歩いた後に行き着いた重厚なビルの階上にくだんの小児科はあった。
エレベーターで上がったフロアには他にも診療所が入っていて、小児科のそこを探しあて、ドアを押した。小児科医院らしく、待合室には色鮮やかなぬいぐるみや小さなおもちゃが並んでいた。
小児科医で本当に大丈夫なのだろうかと言う疑念と、可愛らしい雰囲気に和む心地良さが同居した。

医師は広東語訛りの聞きづらい中国語を話したが、リーはちゃんと理解し、次々と言葉を交わした。
SARSという病気が流行しかけているが、妻はどうなのか。
妊娠していることが今日わかったのだが、薬は大丈夫なのか。
私はリーの反応と言葉に神経を注いだ。
医師の診断は私たちをホッとさせるものだった。
SARSではなく重症の気管支炎で、薬は妊婦にも害のないものを処方する、これまで飲んだ分については影響ないであろう。
心なしか帰りは2人の足取りが軽くなった。また効かなかったらどうしようと私は気にかかったが、妊娠の喜びが私にパワーを与えてくれていた。
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2009年01月05日

妊娠検査薬、プラス反応。

重い身体を押すように私は出かけた。ひとりでバスに乗るのは初めてで緊張したが、リーと乗った時の記憶をたどりながら景色に気を配り降りるべき地点を見逃さないよう努めた。
リーが迎えに来てくれていた。母に妊娠の可能性を指摘され、気になっていると彼に伝えていたので、まず最寄りのドラッグストアで妊娠検査薬を購入してから会社へいったん行くことにした。医院の予約時間は午後だった。
相変わらず咳はひどく、熱っぽくだるく、その上おめでたではないかという緊張感まで加わり、私はふらふらしながら検査薬を持ってオフィスのトイレに向かった。ドキドキした。
まさかなあ、と思いつつトライ。、、、、、、、、、、出た、陽性!
嘘みたいだが、本当に私は妊娠していたのだった。

頭の中は整理不可能なほどごった返していたが、うれしくて急ぎ足でリーの瀟洒な個室に戻った。九龍島に向いた前面ガラス張りの絵に描いたような支社長室は、昔見たジョン・ローンの映画そのもの、もったいないくらい素敵だった。
「私、妊娠してる。」
興奮の報告をした。
だが、彼は思ったほど喜色を表さない。
「ほんとなのか?まずいんじゃないのかなあ、、、、、今、君はこんなに体調が悪く、薬も飲んでる。胎児に影響が出ないか心配だな。」
何事にも慎重な彼の率直な感想だった。
とにもかくにも診察を受けよう。
私たちは地下鉄に乗り、中環の小児科医を訪ねた。
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2009年01月04日

母のひと声

実に重症で、息も絶え絶えという感じだった。
それでも27階の窓外に広がる映像でも見慣れた香港の風景は、しゃれた映画のシーンのように美しかった。夜景も然りで、私は何度も窓辺により、それを眺めた。
23歳だったか、一度香港へは旅行で来たことがあったが、ほんの数日間のこと。街に出て探検したい気持ちは山々、動けぬ身体が恨めしかった。自分の体調が悪いだけでなく、当時はSARSが香港を中心に大流行し始めた頃。アメリカがイラクへ攻め入ったあの年だった。
まだSARSという病気の正体をはっきり知らなかったゆえ、案外のんびりしていたが、リーはいくらか心配していた。私の症状がその疾患に似ていたからだ。

そのマンションや光熱費に電話代も会社が負担してくれていたので、電話を日本の実家へかけやすいのには助かった。一軒目の医師が「ヤブ」だったことを嘆く近況報告をした時だった。母がこう言うのだ。
「あんたそれ、おめでたじゃない?」
は?
「いや、そのせいもあるんじゃないの?」
まさか。
「調べてみた方がいいわ、念のため。」
母にしては鋭い角度からの推察だった。まさかと思いつつも、そう言われれば気になってきた。それなら薬にも気をつけねばならないからだ。
リーが会社から「他の医院を教えてもらったよ。小児科専門だが、気管系もいいところらしい。同僚が予約を取ってくれたから、お昼前会社までおいで、一緒に行こう。」
と電話が入った。
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2009年01月03日

薬効かず、肋骨にひび

私はもともと身体が頑強な方ではなく、特に目、胃と気管系が弱かった。19歳の時、マイコプラズマ肺炎というのを患い、一年ほど医者通いと用心を強いられたことがあるし、そこまで行かずとも気管支炎になりやすく、たびたび苦しんだ。
日本から持ち帰った風邪も気管を荒らし、咳と熱を出した。読書したり、炊事したりは可能で、寝たっきりではなかったが、とてもつらかった。
不安な一夜をリーの隣りで過ごし、翌朝リーを見送った。同僚に病院のことを訊き、また私に連絡することになった。
彼のオフィスから徒歩数分のところに小さな内科医院があるとわかり、私はひとり彼の指示に従って出かけた。中国語も通じるという。
私は先にその医院に行き、中国語で症状を医師に説明した。お薬も出て、リーも迎えに来てくれて、ホッとして帰宅した。
これで楽になる、と喜び薬を飲んだが、当日も、翌日も変化が見られない。咳は相変わらずで、リーが眠れないのを恐れ、私は別室で就寝した。そのひと晩は特にひどく、5分と咳が止まず、咳のし過ぎで肋骨にひびが入ったらしかった。咳とひびに響く痛みは顔が歪むほどで、拷問に近かった。

結局、その医院の診察も薬も無駄になり、リーは再び同僚に他の医院を紹介してもらうことにしてくれた。
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2009年01月02日

香港、真夜中の救急外来

会社がリーのために借りた家は駅構内にあるような便利さで、清潔で、とても広い家だった。リーはそこから毎日例の゛2階建てバスに乗って通勤した。朝9時頃家を出て、帰宅するのは8時台だったので、私ひとりの時間は長かった。
ひとりでいるのは平気だった。いくらでもしたいことはあった。
ただ、咳き込んで眠れないほどになり、日本から帰って数日後の夜遅くなってから、これはまずい、肺炎になっているのではないかということになり、タクシーを呼んで最寄りの市民病院の救急外来へ急いだ。その夜を越すことが危うく感じられたのだ。

もう日付が変わる頃だった。
なのに、着いてみると救急外来の受付や待合室は明々と灯りがついていて、座りきれないほどの人でごった返していた。
リーが中国語と、時に英語を混ぜながら受付の男性職員に事情を説明する。香港は広東語圏なので、それができない私たちは何かと往生した。
聞くと、早急な手当てが必要な重症患者で待ち時間30分、それと認められない患者は3時間待ち、おまけに居留証を持たない私は実費で、基本料だけで1万円ほどかかることがわかり、あえなく診察をあきらめて帰ることにした。3時間もあんな殺気立った所で待つことを考えると、よけい悪化しそうだった。
再びタクシーに乗り、マンションに戻る。翌日リーの同僚にいい個人医院を教えてもらうことで手を打つことにするしかなかった。
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2009年01月01日

香港生活始まる

リーと香港へ帰る日は、従兄がその三女と車で空港まで送ってくれた。かなり遠いので断わったが、ドライブがてらどうぞどうぞと言われ、甘えることにした。
私の風邪は顕著に悪化し、車内の沈黙を恐れるあまりずっとしゃべり続け、とても疲れた。
空港に着いて、チェックインを済ませ、私は従兄たちを喫茶店に誘い、お茶をごちそうした。
そして、重々礼を述べ、2人に見送られて搭乗ゲートへ向かった。

機内は思ったよりよく詰まっていた。
私はリーの右隣に座り、ささやかなお披露目会の情景を思い出したり、私の幸せを最優先に考え、この結婚を許してくれた両親のまさに深い、無償の愛をあらためて感じ、おいおい泣いた。ああいうのを号泣と言うのだろう。

日本に比べ、10度は気温が高い3月の香港での暮らしが始まった。
土地が狭く、地震のない香港は高層建築物が林立しており、私たちのマンションも然りで、27階にいても違和感はなかった。香港島と間の海の景色が本当に一幅の絵のように広がった。
変な話だが、しばらく私はホームシックに陥った。国際結婚などして、親不孝の最たるものではないかと自責の念にも駆られる始末であった。
そして、日本でひいた風邪がひどい咳を伴い、市販の薬ではびくともしなくなった。
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