2009年01月31日

ユーウツな定期検診

第一子妊娠中だった台北の夏は、記録的に暑かった。
案の定、9月に入っても空は知らん顔で、灼けるような夏を供給し続けていた。
珂産婦人科での定期検診は2週間から1週間に一度となり、依然リーが予約時間に合わせて車で送迎してくれた。
珂産婦人科へはバスで行ける。乗り換えなしで約20分ほどだろうか。その先の橋を渡れば台北市内に入る辺りで、周辺はにぎやかなところに位置していた。
しかし、私は公共交通機関を利用するのが怖かった。悪阻のため常につらかったし、台湾のいわゆる市バスは、日本のそれを思い描いていては面食らう。運転手によるのだが、ジェットコースターに乗り合わせたかと思わせるシロモノに当たる可能性があるのだ。バスには時刻表がなく、運転手は道路状況や客足如何でどうにでも走れた。道路が傷んでいて、ひどく揺れる場所もあったし、リーもバスには乗るなと釘を刺していた。
タクシーに不自由することはなかったが、タクシーで行くなら僕が行く、とリーは言うし、検診はとにかく「保護者同伴」だった。
これはありがたいことだったが、ユーウツの源でもあった。一緒に行きたい、ということは、リーも胎児の成長情況に至極関心があるということであり、検診結果を受けて、あれやこれやと「指導」やら「警告」が言い渡されるのだ。それらは医師の言葉より重く、厳しく、事細かであった。
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2009年01月30日

いろんな自分

安静に徹したことが功を奏したのか、しかるべき定位置から下りて来ていたお腹の子がまた上がって来て、早産の危機は8月末に去った。
羊水検査の試練をともにくぐり抜けて来た母子のつながりは、いっそう強くなったように感じられた。
私は気分が比較的良い時に、フエルトやタオルを用いてよだれかけや動物のマスコットなどを縫ったり、義母に教わって乳児用襟巻きなどを編んだ。よだれかけにはそれぞれちがうデザインの刺繍をしたりして楽しんだ。
思えば、子供を産んでもいいなという気になってきたのは30を過ぎてからで、仕事や世界のあちこちを旅するのに忙しかった20代には出産なんて考えられなかった。幼子を連れている女性が気の毒にさえ見え私に子供を育てる能力が備わっているとも、どうしても思えなかった。
だから、自分の変わり様が意外で、気恥ずかしさすらあったが、絶望の淵に立ち、毎日泣きに教会へ通った一時期を思うと、神様はこんな私を信じ、尊いいのちを預けてくれたことに感謝感激であった。
毎日何度もお腹の子に話しかけ、安眠を妨げられても、元気にお腹を蹴られると安心した。安定期を過ぎても流産の可能性は0ではないし
出産時も油断は禁物だ。
買物に出かけると、見るからに重そうな買物袋を提げていたり、大きなお腹で上の子らしい幼児を抱き上げる妊婦さんを見かけ、えっ?そんなことして大丈夫なの?とヒヤヒヤしたものだ。私は道を歩く時ものっそりのっそり転ばないよう注意していたが、妊娠中も登山やバスケットボールなどの趣味を続けていた友人がいたわよ、という話も聞いたので、どこまでが安全で何が危険なのか定かでない。
神経質に思い悩む自分と、万事なるようにしかならないのだと開き直る自分の二役を演じつつ、妊娠後期に突入した。
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2009年01月29日

結果はシロ、だが、、、、、

検査結果が出るまで、2週間待たなくてはならなかった。一日一日が憂鬱で、不安だった。それでなくても情緒が乱れやすくなっていたのに追い討ちをかけられた格好だった。
自問自答が終始続いた。もし、本当に異常がわかればどうする?
何度も問うた。そして、答えは常に「それでも産みたい」だった。いや、あきらめる気には到底ならなかった。それに、確かなことは、健康な子でなくても、この子への愛情は変わらぬどころか、さらに増すようにさえ感じられたことだった。
自分の本意、本心さえわかれば、腹は据わった。いざとなったら、それなりの手段で抵抗し、意志を貫く決意をした。

日本で言う夏が一年の半分ほどを占める台湾でも、やはり7〜8月の暑さは格別で、私は朦朧としながら毎日を送った。悪阻は休みなく身体にのしかかり、私の行動を制約する。
また、私は生まれつき骨細というか華奢(きゃしゃ)な体型で、太りにくい体質なのだが、妊娠中よく食べてるなあ、と思うものの、お腹の子が平均より小さいと定期検診のたびに指摘されるのもプレッシャーのひとつだった。小さめでも、元気に育っているならいいや、と私は思う。だが、リーが許さないのである。「君がもっと食べないからだ。」、「毎日いったい何食べてるんだ。」、「もっと00を食べろ。いいね。」などと厳しかった。
あまりにリーが、私がまったく努力していないように揶揄するのがたまらなくなり反論、そして衝突することがだんだん増えて行った。
緊張極まりなかった羊水検査結果はシロ、異常なしで一件落着となったが、リーとの諍い(いさかい)は減るどころか、恒常化の兆しを見せていた。
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2009年01月28日

針、刺さる。

日本で羊水検査が一般化していない要因の一つに、生命の選別につながるとの倫理的問題がある。それはそうだろう。私が羊水検査にひどい嫌悪感を抱くことは何ら特別でも、わがままでもないはずだ。
しかし、リーをはじめ、主治医や義母らの見解は、先天性疾患を持った子を順番から言えば早くこの世を去る両親が一生面倒を見てやることはできず、親にも子にとっても不幸を招く、というものだった。
私も、リー側も、己の主張こそ筋が通ったものとして引かなかった。

結局、私は羊水検査の同意書にサインし、強制的に受けされられることになる。
検査の模様は、超音波によって映し出されて見ていることができた。すでにはっきり頭、胴体、手足が出来上がった胎児に絶対針が刺さらないよう、医師は細心の注意を払う。画面から、入って来た針を胎児がじっと見つめているように見える。私はいたたまれなくなる。
お腹に刺さった針は痛いし、子供のことが心配だし、腹は立つしで、さんざんな一日だった。
羊水検査は妊娠15週目以降からしかできない。ということは、もう胎動が始まっている。女性なら、出産経験がない人でも想像しやすいのではないかと思うが、自分のお腹で元気に動き、名実ともに母子の結びつきができてから、一つの検査結果でクロと出たから産むな、なんて本当に残酷この上ない。
日本にいたら遭わずにすんだ災難に、私は意気消沈した。
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2009年01月27日

羊水検査の危機

妊娠すると、ホルモンバランスの変化でイライラしやすくなったり、憂鬱になったりすると聞いていたが、私も例に漏れず、情緒不安定だった。お腹の子がとても愛しく、大切この上ないのに、ふと生きるのが嫌になったりするのはしょっちゅうだったし、自分でもびっくりするほど些細なことでモーレツに腹が立ったりした。
そんな状態だったので、早産の危険を指摘されて以来、さらに神経質になった。胎児は平均値からすると小さく、それでなくともできるだけ長くお腹の中にとどまった方がよいとされていたので、早産なんてとんでもなかった。

話は少し前後するが、こんなことがあった。羊水検査騒動だ。
羊水検査とは、羊水中の物質や胎児細胞を調べるもので、胎児細胞の情報より遺伝性疾患の有無を判定することができる。だいたい妊娠15週頃から検査可能となる。
日本では一般にほとんど話題にものぼらず、受ける人も少ない。しかし、台湾では34歳以上の妊婦は受けることを強いられる。まず、自分の担当医が勧めるし、私の場合はリーもとても積極的だった。
身ごもっている女性自身の反応は様々だろう。受けて当然、と思う人、拒否したいと思う人、どちらもいるはずだ。実際、リーの友人の奥さんは29か30歳で妊娠した時に希望して羊水検査を受けたという。
私は、もちろん後者に属した。嫌だ。絶対嫌だった。
まず、羊水検査は1/200〜1/300の流産のリスクを伴う。注射針を刺し、羊水を吸引するからだろう。受けたくない検査で流産なんてハナシにならない。
それと、ではもし遺伝性疾患などの異常が確認されたらどうするのだ。医師やリーや社会一般の見解は、異常があるなら産むな、というものだ。そんなこと、受け入れられるはずなかった。
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2009年01月26日

専業妊婦と早産の兆候

夫婦が同じ職場で働くことは、台湾ではよくあることである。日本なら基本的に許可されなかったり、本人達が望まないのが普通に思うが、彼らはあまり気にしないようだ。
しかし、リーはあれこれあることないこと外野がうるさく言うのが疎ましく、予防線を張った。私の悪阻もしょっぱなからひどかったこともあり、家にいることを勧めた。

あとになって、そうしておいてよかったと何度も思った。嫌な予感は当たり、悪阻は6ヶ月になっても7ヶ月を過ぎても身体に居座った。
朝起き、活動できるようにはなったが、必ず昼寝が必要になった。以前、リーと同じ職場にいた時、妊娠中の同僚がお昼の休憩時間にデスクに突っ伏したりして休んでいたが、私は座っているだけではダメで、横になって1〜3時間は午睡しないとつらくて仕方なかった。
それ以外の時間も常に具合が悪く、仕事に行くなんて考えただけでゾッとした。

そうして安静な生活をしていたのに、7ヶ月目の8月、早産の兆候があると診断。お腹の調子がいつもとちがうなあと思いながら定期検診に行った時指摘され、その後2週間ほど、私はほとんど自宅にこもって不安な毎日を送った。
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2009年01月25日

産婦人科を決める

どの産婦人科で出産するかは、リーが決めた。同僚や同級生たちの評判、意見、自宅からの距離などを総合、分析した結果、珂産婦人科という車で10分程度の病院を彼は選んだ。台北市内には入らない、同じ台北縣の隣りの市にあった。私はそれほどこだわりはなかったが、行ってみるとそこがとても気に入り、今でも知人に薦めている。
まず、総合病院ではなく、産科婦人科専門なのがよかった。風邪や薬に関わるのが厄介になる妊娠期にあって、極力あれこれと疾患を持つ人との接触は持たない方が賢明である。
また、そこは、市立病院みたいに大規模でもなく、小さな個人の診所でもない中規模の病院で、医師が5名ほどおり、常時2人が診察に当たっていた。
建物は11階建て、清潔で、便利な場所にあった。
それから、初めて知ったが、台湾には産褥期をとても重視する風習があり、産後、専門の施設に入ってしばらく休養できるケアセンターのようなものがあるのだが、ちょうど珂産婦人科の上階にそれがあったのだ。
私はそこへ2週間に一度、定期検診に通った。尿、血圧、体重などを検査し、超音波も欠かさなかった。定期検診料は日本円で約520円。いわゆる健康保険証を提示し、受付の際支払った。
もし、薬を処方された場合でも、その520円でよかった。台湾の医療費はとても安い。そして、土曜日に終日診察するのはあたり前で、開院時間もほとんどが夜8時か9時頃まで。至極便利、安心なのである。
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2009年01月24日

新婚生活スタート

妊娠5ヶ月目にして台北に戻り、これで事実上ようやくリーとの新婚生活がスタートした感じである。
両家の親が認め、一緒に暮らすことは許され、そのうち入籍し、まず香港で一年ほどは2人だけの暮らしを満喫し、1〜2年後に妊娠出産、との計画は見事砕かれ、早々に台湾で妊婦道をひた走ることになった。
日本滞在時、私に午前中起きることを許さなかった悪阻は徐々に治まったが、胃をわし掴みにするような吐き気は頑固に終日続き、何かと動くのが億劫でたまらなかった。
相変わらず味覚はふだんと異なり、匂いにも敏感になり、本来大好きな毎晩のシャワーが苦痛で、誰か代わりに浴びてくれないものかと毎日考えたものだ。
匂いというのも、食べ物のそれに限らない。卑近なものを挙げれば、こともあろうにリーの汗や頭髪、煙草の匂いがテキメンにダメだった。近寄られるとウッと来るのである。
匂いのみならず、体調がすぐれない時は誰でもイライラしたり、短気になりがちなのだろうが、やはり「あなたの匂いがダメなの、近寄らないで」とは言えず、難儀した。息を止めて、ぐっと我慢。そんなことはしょっちゅうで、悪阻とは言え、あれほど愛しかったリーや彼が放つあらゆる匂いを嫌悪する自分に、私は大いに戸惑った。
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2009年01月23日

火中の台湾へ

不謹慎ながら、日本にいれば「対岸の火事」的なSARS騒ぎであったが、台湾に帰ることはまさに火中に飛び込んで行く格好であり、心中穏やかでなかった。しかし、慎重なリーが太鼓判を押す以上、従わないわけに行かず、重い腰を上げたのだ。
その頃でも、私は午前中べったり床に臥せて休んでいたので、早朝起床し、遠路空港まで行くことだけでもつらいことだった。
気分は悪いし、重い荷物は持てないので、リーが来日した時送ってくれた従兄に頼み、父も付き添って空港へ向った。
チェックインカウンターで私が妊娠していることを指摘され、いくつか質問されたがパスし、搭乗ゲートまでトコトコ歩いた。

機内はがらがら。数えるほどしか乗客はいない。航空会社に申し訳ない気分になる。
私はまばらな乗客の最後列の席を取り、マスクをして座った。客室乗務員がマスクをほぼ強制的に配り、着用させている。SARS流行のせいで、客室乗務員が感染したり、仕事を減らされたりしているニュースは知っていたので、同情もした。
また、誰かの咳払いに身を硬くし、近年に経験したことがない揺れにぞっとしながら、祈るような思いで2時間を耐えた。何が何でもお腹の子を守るのだ、との強い使命感は、妊娠中からもくもくと膨らみ、私を母親に作り上げて行った。

我が子が私のお腹の中で成長する過程もそばで過ごしたい、と望むリーは、私の帰りをとても喜んだ。
そして、職位が高く、会社は自宅に近く、勤務時間の融通もある程度利く彼は、その後定期健診のたびに自宅マンション下まで車で帰って来て、産婦人科までの送迎を担当するようになった。
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2009年01月22日

無常を知ること

往々にして、実家と言うのは居心地が良いものだ。それは、私がひとりっこで、何歳になっても実家に帰ればきょうだいやその連れ合いに気兼ねする必要なく、幼少時同様にしていられるからだとも心得ている。重責を強いられて不自由ではあるが、負の面ばかりではないことに気づき、感謝の念を忘れてはいけないと思う。

航空券は6月24日を予約した。無論、簡単に席は取れた。
いざ離れるとなると、実に名残惜しかった。悪阻に苦しんだ日々も、それなりに対策を練り、何とか過ごしてきた。運動不足になってはいけないと、愛犬ハナの散歩は私が買って出た日課で、春から初夏ののどかな田園を貫く細い道を毎日歩いた。つくし、たんぽぽやれんげ、うぐいすの声、はらはらと舞う蝶々、雨の匂い、アジサイ、夕焼け、お寺の鐘の音、、、、、、 時折お腹の子に話しかけ、温かな心地よい空気を深呼吸して歩いたものだ。
無常というものを悟ることは、考えているほど容易ではない。
それだけ呑み込み、納得するに難しいものでもある。
私は高校入学時以来、旅も含めて、頻繁に移動、転居、引越しなるものを繰り返してきた。身を置いたその地を離れるたびに、様々な想いが去来し、胸をざわめかした。
劇的でも、華やかでもないが、私はそういう場面から、無常の何たるかを少しずつ少しずつ学んできたように思う。いや、学ばねば、その時のまさに胸張り裂けそうなあふれる慕情に対処する術がなかった。
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2009年01月21日

帰れコール激化

従弟から無事、無犯罪証明が送られて来て、懸案は解決した。
私は考えて、郵便局の全国各地の特産物を産地直送してくれるギフトカタログから、100%みかんジュース詰め合わせセットをお礼に送ることにした。暑くなり始めたし、一人暮らしの彼にはいいのではないかと思ったのである。

さて、お腹の子はよく動き、順調に成長しているようだった。だが、依然として、朝食後お昼近くまでベッドに臥す毎日だった。SARSは相変わらずニュース番組の常連で、アジアを中心に暴れていた。
私は台湾に帰りたくなかった。悪阻がまだ重く、実家で静養しているのが理想に感じられたし、何よりお腹の我が子を守らねばならない。
ところが、リーの帰れコールは日毎熱を帯び、SARSは峠を越し、台湾はもう安全と言えるという。無犯罪証明を取得し、私にも強く滞在延長を主張し得る「武器」がなくなり、苦しいところだった。
航空各社はアジア便を減らしたり、運行そのものを見合わせたりしていたが、私が持つ一年オープンチケットの航空会社は、他社と共同運航の形で6月20日以降台湾線を再開させることになった。
台湾を離れ、すでに2ヶ月半。当初の一ヶ月ほど、という予定を大幅にオーバーしていたし、悲しいかな、いよいよ台北に戻らなくてはまずい情況になってきた。
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2009年01月20日

無犯罪証明交付申請

決死の覚悟で出向いた県警本部で申請するものは、犯罪経歴証明書だった。一般に、無犯罪証明とか警察証明と呼ばれ、国際結婚の際に要求されることがある。如何なる理由があろうとも本人が来て下さい、と言われた理由は、指紋を採る必要があるからだ。
お腹の膨らみが見て取れるようになっていた私は、歩く速度もよりスローになり、いささかペンギンの如き足取りで鑑識課へ上がった。
証明書の名称とは似つかぬ平和な空気が流れる鑑識課で、最新の機器に思しきものが指紋を読み取り、30分ほどで交付申請は完了、10日後以降取りに来るよう指示された。
この証明書の交付申請にもあれこれ書類が必要だったし、車ではるばる2時間かけてやってきたこともあり、私は大いに安堵したが、受け取りのことが気にかかった。郵送はしてくれないのだ。
困った。また、わざわざ受け取りだけに遠路やって来るのは考えただけでつらい。
元気なら、半日遊んで行きたい馴染みある街の様子を車中から見送りつつ、私は考えた。
そこで思いついたのは従弟だ。同郷で、その街在住の従弟がおり、彼なら取りに行ってくれそうに思えた。

帰宅後、私は彼に電話を入れ、手紙も書いて、代理人が携えるべき用紙を同封して郵送した。交付は平日しか行われず、申し訳なかったが、外回りの仕事がある日に行って来る、と快く、ありがたい返事をくれた。感謝感謝である。

そして、案の定、私は翌日長時間車に揺られた後遺症で、終日根が生えたように寝込んでしまった。
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2009年01月19日

県警本部出動

延ばし延ばしにしていたものに、犯罪経歴証明書の申請がある。
調べてみてわかったのだが、国際結婚には必須といえる書類の一つらしかった。これを居住している市で最大の警察署に行けば取得可能だろうと高をくくっていたのだが、絶対に各都道府県の検察本部に本人が出向かねばならなかった。
なぜ、この書類の申請が億劫だったのかと言うと、犯罪歴があるからではない。またしても、悪阻だ。
不思議なことに、私は妊娠中一貫して、乗り物に長時間乗ると悪阻が重くなり、その翌日はほぼ終日ダウンするのだった。もちろん当日車中でも具合が悪いし、万一の時に備えて近場に出かける時でもビニール袋を持参していた。
だが、いつまでも延期するわけにはいかない。当初、日本滞在は一ヶ月ほど、とリーと話しており、じわじわと彼の帰って来いコールが真剣味を帯びてきたのも気がかりだった。悪阻もSARSの猛威もおさまらず、そのおおよその予定を大幅に変更していたのだが。

思案の結果、電車ではなく、父の運転と母の付き添い、まさに家族総出の県警本部出動となった。胎動に気づいた、6月上旬のことである。
私は後部座席にうなだれるように座り、長旅の不安に沈んでいた。
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2009年01月18日

自宅待機10日間

さて、リーの方だが、5月1日台湾に帰り、台北本社に勤務することになっていた。なっていたのだが、、、、、、、
SARSの流行は依然おさまらず、香港より入国した者は10日間の自宅待機が命じられた。
「何百人もの人がそうして台湾に入国するんだから、何しようが監視しきれないんじゃないの?」
私は訊ねた。
しかし、本当に、厳格に、自宅待機は監視、管理されていたのだ。
リーは実際、10日間一歩も外出できなかった。いわゆる保健局みたいなところからいつ電話がかかるかわからず、居住地区の区長というか自治会長というのか、そういう人にも連絡が入っており、彼が時々在宅をチェックしに来ると言う。
「食事は?」
そうだ、それも気になる。
「お袋が作って届けてくれる。それに、昨日は弟が即席麺とかお菓子とか持って来てくれて、まったく不自由してないよ。外に出られないから、運動不足で太ってしまう方が難儀だなあ、、、」
とのことだった。

長い10日がようやく過ぎ、リーは徒歩でも通える本社へ車で通勤し始めた。
私も少しずつ成さねばならない手続きに、重い腰を上げねばならなかった。
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2009年01月17日

胎動はぐりぐりぐりっ

黄医師の安否を確認することはできなかったが、とにもかくにも台湾はもとより、どこにしろSARSで苦しむ人が一日も早くいなくなることを祈った。

6月になり、幾分楽になったような気もした悪阻と依然闘っていた私に陣中見舞いのような、うれしい贈り物があった。胎動である。
主治医によると、もう始まりそうなんだけどな、ということだったが、まだだなあ〜と思っていた矢先、あ、これかな?と感じる異変に気づいたのだ。初めての出産で、胎動がどんなものなのかもわからなかったというのか、イメージしていた胎動とちがい、見落としていたのだった。
胎動はぐりぐりぐりっという感じ。ころんころん、でもなく、くるくるっでもなかった。これかな、もしかして?と6月中旬に入る頃気がついた。
体験済みの友人に訊くと、やはりそのようだった。
それからは、胎動のヨロコビと可愛さに大きく支え、励まされたように思う。私のお腹には、本当に、赤ちゃんがいる。いのちが育っている。胎動が始まり、やっと来た実感は、日々の大きな原動力になった。

しかし、のんびりもしていられなかった。日本で取得せねばならない、いくつかの書類の申請の中には、県庁所在地にある県警本部まで行かなければならないものもあった。車にしろ、電車にしろ、片道2時間ほどはかかる大移動を思うと、気は重かった。
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2009年01月16日

悪阻止まず

ひとりっこの私の実家には両親しか住んでおらず、誰に気兼ねする必要もないのだが、終日居間のこたつに臥せっているのは申し訳ないような気がしてしようがなかった。せめてお米を研ぐことくらいして母を手伝おうと思い当たったが、大げさではなく、本当にそれすらままならなかった。
台北の和平病院で妊娠を確認はしたが、地元滞在中定期健診を受ける産婦人科を決めて受診するようにしていた。胎児は順調に育っており、予定日は11月9日。あまりに吐き気がひどく、つらいと言うと、漢方薬なら飲んでもよいからと処方されたが、無駄な抵抗だった。ビクともしない。
3月に妊娠がわかり、4月いっぱい寝込んだ。
5月に入って、早い朝食後、再びベッドに戻り11時台まで眠り、午後は起きられるようになった。
そのうち、「6月になったら、もう悪阻が治まる時期だから。」と慰められたが、イヤな予感は当たった。徐々に長く起きていられるようにはなったが、吐き気は猛烈で、就寝時洗面器を枕元に置いたり、お手洗いに近い部屋に布団を移して休んだりしないと不安だった。

リーには毎日メールした。SARSはアジアを中心に世界中に飛び火し、台湾でも感染者がついに出た。それもなんと、あの和平病院内で感染が広がり、一時封鎖されることになったのだ。私は黄医師の身を案じた。
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2009年01月15日

実家の床に臥す

まずは台北でも可能なものから着手することにした。健康診断書である。指定された公立の医療機関で診断を受け、診断書を提出しなければならない。
ズラリと列挙されたリストからまたもや和平病院を選び、こんなことなら産婦人科を受診した際、ついでにやっておけばよかったと悔やみつつ、「妊娠中ですので」とレントゲン等を省く検査を受けた。
診断書発行に一週間かかると言われ面食らったが、飛行機の予約を入れていた9日の前日には無事受け取ることができ、ホッとする。
リーはたまたま本社での仕事が多く、こういう家庭の事情もあることで、通常より長い台北滞在を許されたので助かった。9日私を空港まで送り、翌日の10日に彼は渦中の香港に舞い戻った。

リーは4月末日まで香港勤務、5月1日に台湾復帰と決定した。会社としてもSARSの流行は気に留めていたはずだが、業務運営を停滞させることはできないところだった。身重の私なら、悪阻の苦痛と感染の恐怖から気が狂いそうになったろうと思うが、リーはそれなりの対策を採り、淡々と暮らしている様子だった。
実家に帰り、気分的には落ち着いたが、相変わらず私は胃を刺すような吐き気に連日苦しんだ。朝起床すると、夜就寝するまで、母屋に敷かれたこたつに横になり、終日休んだ。いや、洗面や手洗いなど基本的な動作以外何もできず、起き上がれなかったのだ。
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2009年01月14日

婚姻手続、難航模様

さっそくリーの車で台北市内の和平医院へ行った。中国語で医院は日本で言う病院のことで、個人の医院は診所というのが普通だった。
どの産婦人科に通い、出産するか、その時点で決められず、とりあえず妊娠と胎児の状態を確認できればいいからと、リーが自宅から近い市立病院を選んだのだ。
悪阻で鉛が入ったように重い身体を動かすのが苦痛で仕方ないというのに、産婦人科は広い病院内の2階の奥の方に位置していた。診察してくれたのは黄という60歳前後の男性医師だった。祖母が日本人に嫁いだか何かで、非常に日本びいきの陽気な人だった。
「ここ、見える?心臓、動いてるでしょ。着床の位置もいいし、順調。」
黄医師の張りのある声に、超音波器の画面に食い入って見るリーと私は涙ぐむほど感激していた。よかった。本当にお腹の中でいのちが生きているのだ。

翌日からが大変だった。リーは役所に婚姻届を出し、私が台湾人の配偶者として認定されるよう諸々の手続を始めた。しかし、想像以上に厄介な現実を知らされた。日本の戸籍謄本のコピーを両親に郵送してもらって済むようなものではなく、私本人が帰国して集めねばならない書類が要求されたのだ。
リーは再び香港に戻り、執務にあたる。私は誰かがそばにいて世話をしてくれないと日常生活にも支障をきたす重症な悪阻、、、、、
そこで、私は何ヶ月間か日本に帰り、実家で養生することになった。
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2009年01月13日

台北帰還

そんな事態にあってもマスク着用が乗客の任意のうちにあることが私は解せなかった。航空機内にSARS患者がいたと後日判明し、同機に乗り合わせた人々が追跡調査を受け、隔離されたり、感染していたりする報道があとを絶たない最中であったのに、である。
私はお腹に子を宿した者として、過度に敏感になっていたのかもしれないが、それはいたし方ないだろう。周囲で咳込む声がするたび、身を硬くした。今なお、あの機内の様子を思い出すと、実に灰色のバックの暗い映像しか浮かばない。
機内で健康調査票みたいなものに記入し、台北の空港でも37度以上発熱していないか調べる装置が私たちをチェックしていた。靴底を擦りつけ、細菌を拭き取るマットも敷かれていた。

物々しい空気漂う一連の施設から我が家に帰ると、ひとまずホッとした。
まず、うれしかったのは、香港のマンションでどんどん気になってつらかった独特の匂いが台北のそこにはないことだった。それだけで幾分過ごしやすかった。私は実際に吐く悪阻ではなかったが、常に一触即発の状態で、ちょっとしたことでも影響は大きく感じられたのだ。
入籍はリーの仕事が少し落ち着く5月に、という当初の計画を変更し、翌28日に産婦人科を受診し、29日に役所に結婚届を提出する段取りをリーは整えた。
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2009年01月12日

空港から機内へ

台湾に帰ることが決まってからは、冷蔵庫にあるものをできるだけ工夫して食べるようにした。もったいないし、極力外出を避ける意味もあった。
3月上旬に香港入りした時は気管支炎で、台湾へ発つのが悪阻を伴っての同月27日。軽い身体と晴れやかな気分で香港に暮らすことがまったくできないままのサヨナラとなってしまった。

空港へ向かう朝、久しぶりに家の外へ出て驚いた。世の中は前の週と一変し、マスク姿の人がそこかしこに。約7割、老若男女問わず、マスク人口は目を見張るほど増加していた。
空港へは香港島とは反対方面の地下鉄一本、その駅でスーツケースを預けたり、チェックインも可能でとても便利だった。
しかし、想像以上の非常事態であり、空港到着後はさらに緊張した。マスクをしっかり着け、リーに続いた。
それにしても広い空港で、出発ゲートまでが遠い、遠い。ひどい吐き気とだるさで重い身体でなかなか颯爽とは歩けない私は、何度もリーから遅れた。空港中がSARSの驚異に支配されているようで恐ろしくもあった。
地元香港、キャセイ パシフィックの機内に進む。満員に近い乗客だ。意外に、マスク着用は義務付けられておらず、客室乗務員がマスクを携え、希望者に配っていた。
posted by マダム スン at 05:32| Comment(0) | リーと歩き始めて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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