2008年12月11日

驚喜来たる

私とリーが勤めていた会社は、東京、香港、ソウル、北京とバンクーバーに支社があり、尾牙のために毎年各支社から主だった社員がはるばる台湾に集結した。私にとって、初めての台湾の忘年会は、リーと会えるウキウキうれしい夜でもあった。
尾牙の会場は毎年変わるが、その年は台北市内のHard Rock Cafeを貸しきって開催された。広くてお洒落なフロアに300人ほどが集まり、それはにぎやかに盛り上がった。リーの姿を常に探し、彼が現れた時は舞い上がる気分だった。
リーなど職位の高い幹部たちは中央ステージに近い席にだいたい集まっていた。社長、本社幹部や各支社の支社長などを知らない社員はおらず、その存在感も大きく、社内では「有名人」の待遇だった。年齢は私より2歳上なだけだが、そんなリーに私は深い憧憬と誇りを感じていた。
時々会場を歩き回り、リーもやがて私に気づき、軽く挨拶を交わした。
あまりに盛大で、閉会の際には疲労感すら感じたが、思いがけないことが起こった。会場を出ようと出口に向かう途中、リーが私を認め、こう言ったのだ。日本語だった。
「酔っ払ってしまいました。」
本当に呂律がまわっていない。ニコニコ愉快に笑っている。そして、
「旧正月にまた台湾に帰って来るよ。その時、君を誘うから。」
思いがけないうれしい出来事を中国語で「驚喜」と言う。
外は結構冷える台湾の冬の夜に、驚喜が舞い降りて来たのだった。


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2008年12月10日

片思い

 こんな状態のこんな私に男性を慕う資格があるのか、という躊躇に行きつ戻りつしながらも、リーへの想いはどんどん膨らみ、その流れを止めることができなくなって行った。既存の痛みを直接治癒するより、他の前向きな事象の勢いに身を任せる方が、ひいては傷を癒すことになっている格好になった。
 私は毎日リーからの連絡を待った。出勤してすぐパソコンをONにし、メール以外にも、当時普及して便利だったICQの機能を使って、彼が連絡して来ることを祈った。また、自分から彼にそれを送るだけの話題ができることも期待して過ごすようになった。
 そのうち私は、エスカレートする自分の言動に思い至り、また、リーと自分の気持ちの温度差の違いにも気付いた。飽くまで彼はいち上司であり、私に個人的な好意を持っていると言われたことがない点を忘れてはならないとも言い聞かせた。
何度か経験したことのある「片思い」の切なさに再度苦しみながら、リーに主導権を奪われたような日々が始まった。
 
 旧正月が近づく頃になった。台湾にも忘年会をする習慣がある。中国語で「尾牙」と呼ばれるそれは、旧正月前の一ヶ月のうちに催されることが一般的で、私が勤めていた会社も業績が良かったこともあり、それは盛大な尾牙を計画した。
 その尾牙に出席するために、リーも香港から帰って来ることになった。
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2008年12月09日

その気になって行く

元大家さんで現東京支社長の意外な「勧告」は、私の生活に確かに新風を吹き込んだ。傷心の底にあり、恋愛などに思いが向かない時だったが、今から思えば、そういう時だからこそ、気持ちが動いたとも言えなくはなかった。
それに、考えてみれば、リーが私に特別な感情を抱いているような気もしてきた。同じフロアで仕事をしていた時は、私の直属の上司でもなく、めったに言葉を交わすことはなかったが、月に一度、彼が香港から会議のために本社に帰って来るたび、私の席にやって来て、「元気でやってる?」などと声をかけてくれた。部屋探しをしていることを社内のネット連絡網に載せた時は、「僕、今香港にいて、部屋は誰も使ってないから、貸してあげてもいいよ。」と言っていたことも思い出し、今さらながら、あれは至極意味深長な申し出ではなかったのかと、ひとり赤面しつつ、取り乱した。
そのうち、メールアドレスを交換し、リーは携帯番号や香港のマンションの電話番号も教えてくれた。そして、私は時々彼に学校や仕事のことを主に書いたメールを送り、彼も必ず返事をくれた。
何かが始まりつつあった。東京支社長だけでなく、リーのことを良く言う同僚たちがうまい具合に私の周囲にいて、私のリーへの想いをさらにかき立てて行った。
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2008年12月08日

リー、現る。

かつての大家さんは、東京支社の支社長になっていて、時々私がいる台北本社には出張で顔を出した。私たちはそのたび言葉を交わした。
彼はこれまでの私のだいたいの来し方を知っており、「お前を幸せにしてくれるいい男を紹介してやる」と何度か口にした。
それも話のネタくらいであろうと高をくくっていたのだが、ある出張でやって来た時、彼は具体的な人物を挙げて勧めた。その名前を聞いて驚いた。少し前まで同じフロアの同じ一画にいた上司その人だったからだ。
「は?彼は今、香港ですよ。」
「メールがあるでしょう。電話だってあるでしょう。」
東京支社長は余裕の様子で押して来る。
便宜上、その上司をリーと呼ぼう。リーは私より2歳年長で、会社では年かさな方だった。職位も高く、米国で修士号を取得し、英語ができることもあり、香港支社長に抜擢され台湾を離れた。
台湾の大学では日本語学科を卒業し、ある程度は日本語を話せたので、彼が台北にいた頃、時々立ち話程度はしたことがあった。
あとで知ったが、大家さんは私が入社する前から、今度日本から来た新入社員が入るから、よろしく頼むよ、とリーに声をかけていたらしい。
それにしても、、、、、 しかし、悪い気はしなかった。リーを思い出す時浮かぶのは、人なつっこいやさしい笑顔ばかりだったからだ。
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2008年12月07日

教会に帰りて想う

今の中国語に近いほど話せた英語力の低下にあらためてがっかりはしたが、もうひとつの居場所ができ、英会話学校は精神的にはある程度支えになった。割安な授業料一年分一括払いで、その期間中はどこの教室のどのレッスンにも参加可能で便利なのもうれしかった。
それから、高校卒業後疎遠になっていた教会へも、引き続き足繁く通った。何姐に勧められ、ミサや聖書講読の会にも時間が許す限り顔を出すようになった。おかげで、学校や会社ではなかなか知り合う機会が少ない、自分より年上の、教養や良識もある人たちと接する幸運にも恵まれた。
私は長く、教会を離れていたことを悔やんだ。その間、2度もカトリックの総本山であるヴァチカンを訪れ、サンピエトロ寺院やヴァチカン美術館の息を呑む天井画に感動したにもかかわらず、肝心な教義にもっと近づこうとはしなかったことに懺悔の念すら湧いた。
だが、それでも洗礼を受けようとは思わなかった。のちに仏教に関する書物を読み漁り、般若心経に心奪われたこともあったが、完全に仏教思想を芯に置き、生きて行こうとはまだ思えないのと似ていた。
なぜだろう。きっと頑固なのだ。いや、疑い深いのか。
おそらく、何かひとつ特定の思想や宗教に属すことを潔しとしないせいだ。それは書くことを愛するところからも来ている。書く者として、常に偏らず、自由かつ広い器に身を置きたいという、ひよっ子ながらのこだわりでもあった。
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2008年12月06日

英会話学校に通う

思ってもみなかった展開になった。2度目の留学を果たし、順調に仕事に恵まれ、中国語の日常会話ではほとんど不自由を感じなくなっていたというのに、早くも次なる試練、それも絶望の語の意味を初めて思い知ったような哀しみに文字通り打ちひしがれた。
時々起き上がれないほどに沈みながらも、私は休まず授業に出て、テストでは良い点を採り、働き、収入を得て、生計を立てた。
学校も会社も完全週休二日制だったが、そのうち私は休日が嫌いになった。どこへも行かなくてよい、という自由をかえって寂しく感じた。どこに身を置いても根本的な解決に至らず、容赦なく涙はこぼれたが、それなら勝手の知れた場所で、やるべきことが待っている方が気が紛れた。
そういう事情もあり、中国語の上達に比例するように落ちる英会話力を憂い、英会話学校へ通うことに決めた。台湾は日本に劣らぬ英語教育に熱心なところで、社会人が学べる場は豊富にあった。
私はしばらくいくつかの候補校の資料を吟味し、教室数が多く、どの教室でもレッスンが受けられる大手英会話学校に通うことにした。ひとクラスの生徒数が多く、先生と直接会話できるチャンスが少ないという難点はあったが、英語力が退歩して、しゃべるのが苦痛になっていた私にとっては、それくらいでも許容可能であった。
英会話学校へは週末を中心に通った。身体が許せば、平日の夜にレッスンを受けることもあった。
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2008年12月05日

赦さないのは自分

シスターは私に、この地を離れ、日本へ帰ることをも勧めたが、渡台してまだ日は浅く、志半ばもよいところだったし、何かを得るどころか深い喪失感だけを強いられたような時点で断念はできなかった。
そして、その後も私は長い間一時帰国しなかった。できなかった。一年ほど後、父が肺炎で入院した知らせを受け、ようやく10日間ほど日本に戻っただけだった。
故郷はやはり、愛すべき、愛しい場所だった。父と母もいた。あの山々や田畑の懐に抱かれたら、きっと癒され、傷の治りも速くなるように思えたが、愛しいところだからこそ、元気な、少しでも晴れやかな気持ちで帰りたかった。そんな状態になるまで待っていたのだった。
シスターは聖書のある箇所を引用しながら、私は赦されたと言ったが、その後も私は、自分が自分を赦せず、この半生で最も大きいといえる傷を心に負ったまま、なんとか生きてはいた。夜、ベッドに入るたび、明日目が覚めなければいいのに、、、と思った。泣かない日はなかった。
それでも自らこの世を去ることを踏みとどまらせたのは、私が逝くと悲しむであろう父と母の存在のみだった。
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2008年12月04日

2人に支えられて、、、、、

何姐とのつき合いはもう7年になる。50歳を過ぎているようには見えないが、このところ白髪がその短く切りそろえられた頭髪に混ざるようにはなった。
彼女の助力のおかげで、あの暑い夜から約2ヵ月後、八里という台北から電車で一時間ほどの風光明媚な町の修道院に暮らすシスターと会うことができた。シスターの主な出張先は中国だったが、台湾国内でも地方をまわるお務めもあり、なかなか面会はかなわなかったのだが、祝日である10月10日に時間がとれそうだと、シスターの方から電話をかけてくれた。
思いがけず、修道服を召さない、60半ばを過ぎたかと思しき、とても小柄なシスターの部屋で、私は一時間ほど話を聞いてもらった。私は、両親や長年の親友にも話せなかったつらいつらい出来事を、泣きながら打ち明けた。それは今でもごく近しい者でさえ知らないことである。
シスターにもいまだに気をかけてもらい、メール中心だが連絡を取り合っている。ありがたいことだ。
何姐は80歳を過ぎた母親の通院や世話に仕事に多忙だが、数ヶ月に一度は私が訪ね、話をする。何でも話せる知人の一人だが、あの事はやはり言えずに月日は流れた。
そして、なぜ何姐が23年もの間教会を離れ、また、なぜ戻ってきたのかを訊いていない。私たちは互いに「訊かないこと」で相手を尊重し、互いの痛みを共有している同志であるように思う。
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2008年12月03日

何姐との出会い

その日本人シスターの電話番号を教えてもらい、私はメガネの女性に何度も深く頭を下げ礼を述べ、辞した。彼女の名前と連絡先も訊いた。
翌日、私はシスターに電話をかけてみると、出張やら研修が立て込んでおり、当分は会えそうにない、申し訳ないがそれでもよいかということだった。
正直なところ、私はかなりがっかりしたが、依然そのシスターにしか打ち明けられそうになかったので、お暇ができたらぜひよろしくお願いします、と頼んで電話を切った。シスターが本当にその修道院にいて、その人の声を聴き、いつか会うことができると思えたことことは、やはり幾分私の心を楽にした。
シスターとどのような話ができたのかなど、私は後日メガネの女性に報告した。それが礼儀だったし、教会と聖母公園に隣接する、その教会が運営している施設に勤務している彼女とつながりを持ちたいと思った。
それから、私は彼女を何姐と呼ぶようになった。メガネの女性の姓は何と言った。姐は「お姉さん」という意味だ。
何姐は、私が持っていたより年配で、50歳になろうとしていた。独身。2人いる弟の一人がカトリックの神父をしていること、幼児洗礼を受けたが、その後教会を離れ、23年のブランクを経て再び聖書に寄り添うようになったと彼女は言った。
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2008年12月02日

日本人シスターを探して

私が教会を訪れたのは、日本人シスターを探すためだった。
知人や友人に話すには重過ぎる内容だったし、中国語より日本語で話し、日本語で言葉をかけてほしいと思ったからだ。
不安な気持ちで中へ進むと、電話が置かれたグレーの事務机の上には、帰り支度が済んだと見て取れるリュックがひとつのっていた。その持ち主であろう、見たところ40代半ばと思しき女性が、奥の部屋の戸締りをしているところだった。
私が立つ部屋に入って来ると、そのメガネの女性は「何かご用ですか?」と丁寧に声をかけた。私はひとまず安堵して、もうここを閉めねばならないのかと訊いた。それはそうだが、何か用があるならどうぞ、と有り難くも彼女は言ってくれた。
私は続けた。
「詳しいことは言えませんが、とてもつらいことがあり、もう、毎日どう時間を過ごしたらよいかもわからないほど苦しいので、日本人のシスターがどこかにいらっしゃらないか探していただきたいと思い、来ました。」
女性のメガネの奥の目と、小さく控えめな声も誠実そうだった。そして、その印象に違わず、それからかなりの時間をかけて名簿をめくり、何ヶ所かに電話で尋ね、日本人シスターが八里という街の修道院にいることをつきとめてくれた。
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2008年12月01日

灯りを求めて

背の重い荷を下ろし、自由を満喫したような時間は長く続かず、言うに言われぬ悲しい出来事に遭遇した。中国語修行や会社員としての日々は軌道に乗り、あたり前の日課に落ち着いたが、生と死の狭間でその取捨を真剣に思い悩むほど深刻な逆境に立たされた。
今なお、その詳細は書くに堪えないが、台湾に渡り、半年も過ぎぬ間に起こったつらい出来事の存在を記さずして次には行けず、これのみ打ち明ける。
かつて同居していたあの妹女史のマンションの傍らに、カトリック教会と聖母公園があった。引っ越した先もそこから数百メートル離れただけだったので、ずいぶん、いや毎日そこを訪れた。洗礼こそ受けていないが、カトリック系高校で学んだ私にとっては近しく、安らぎを得うる場所だった。
誰も多忙で、自分の生活に手一杯ということがわかる私は、友人や知人につらい心中を聞いてもらう勇気が起きず、出入り自由な教会に行き、思い切り泣いた。泣きに行っていたと言う方が正しいかもしれない。
しかし、それでも自分を支えることが困難になり始め、ある夏の夜、8時を過ぎてから思い立ち、教会横の事務所に急いだ。誰かいてほしい、鍵が開いていますように、、、、、、 駆けるように急いだ。
果たして、その門は網戸だけが閉められ、中からは灯りが漏れていた。
posted by マダム スン at 05:37| Comment(0) | 再び台湾へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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