今から思えば不謹慎と言うか、もったいない話だが、一日立ち仕事をし、先輩社員に気を遣い、またお客様相手のサービス業ゆえ、心身ともに疲れて授業にのぞむことになり、不覚にも眠気に必死に抵抗することに終始することが多かった。
先生は日本で生まれ育った2世で、日本語は日本人と見紛うほど堪能、でもって初老のやさしい紳士で、私は自分の中国語が上達しない懸念よりも、その先生に対し、申し訳ない思いに苛まれたものだった。
その後、電車で片道30分ほどの他支店の内勤に移り、半年ほど勤めたが、どうしても将来にしっかりと続く道として、その職場を見据えられなくなり、悩んだが、ついに退職して実家に帰った。もちろん、中国語教室には通えなくなってしまった。
田舎とは言え、学習塾や家庭教師の需要くらいはある町だったので、私は英語の講師や家庭教師をして働いた。中国語の独学を細々と続け、かねてから力を入れたかった執筆にも時間を割いた。
忙しくはあった。英語を教えるのは楽しかったし、講師や家庭教師という肩書きも嫌ではなかった。
だが、予想外の早さで不便な田舎に舞い戻り、自分を引っ張り、鼓舞するような壮大な夢や目標に欠け、おおげさに表現するなら、かなり失意の中にあった。