2008年11月30日

台北での暮らしが落ち着いて、、、

旧家のひとりっことして責任を感じ、迷いながらも見合い結婚を決意。しかし、努力の甲斐なくその結婚生活は3年あまりで終息した。
部屋を片付け、整理しては車にどっさり積み込み実家へ運ぶ作業は、当時していた珈琲店でのアルバイトと平行して行ったため、数週間もの時間を要した。時は2月。たびたび雪が舞う、一年で最も寒さの厳しい頃だった。
離婚が決まると、義母は手のひらを返したように態度が冷たくなり、最後の日、挨拶に行った時、義父は呼んでも中から出て来なかった。
健康を害しながら悩みに悩んだ結婚生活の幕を閉じることは、ある意味救いにも感じたが、つらく、重苦しく、傷つきもしたことは言うまでもなかった。
そんな中、再び台湾で勉強する願いが叶ったことは、私の細胞のレベルから生きる活力を与えてくれた。それを許してくれた両親にも心から感謝した。
暖かな台北の春の日差しを浴びていると、実際には依然変わらぬ跡取りとしての重責が消えてなくなったかのような解放感を味わった。そんな夢のような状態が長く続くわけがないことは重々承知していても、しばらくだけでも忘れさせてほしいと思ったし、そうしても赦されるような気がした。 
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2008年11月29日

二足のわらじ

午後からのみの出勤でいいの?と思われるかもしれないが、本当にそれでよかった。やはり、外国人ということで特別待遇を許された形だった。
そんな大きな会社ではあっても、外国人は私を含め3人だけだった。あとの2人は韓国人女性で、オンラインゲーム先進国*韓国との通信や交渉等に活躍していた。彼女たちが所属する課に私も配属され、日本関係の事務を担当することになった。
韓国出身の2人は高校時代の同級生で、いずれも台北で午前中中国語学校で勉強してから出勤して来ていた。彼女たちは、バイクに乗れたり、授業が少し早く終わるため、毎日私よりは先に会社に着いていた。
年齢は私より6歳年下だったが、台湾に来てもう長く、中国語も流暢に話せた。私たちはすぐに打ち解け、そのうち週末には彼女たちのマンションにおじゃまするようにもなった。
台湾に到着した約一ヶ月後には仕事を始められたし、最初は貯金を切り崩して生活するのを覚悟していたが、いわば半日だけの出勤でも、その給料だけで家賃、学費、生活費諸々すべてをまかなえるようになった。
学生とOL、二足のわらじ生活はこうして回っていった。
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2008年11月28日

勤労学生、パソコンに出会う

中国語の学校は、かつて通ったことがあるいわば母校で、勝手がよくわかり、また、再び戻って来た感慨も深いものがあった。相変わらず学生層は厚く、何十カ国から、様々な身分、年齢の人が集っていた。
私は10時から正午の授業を取り、その後出勤した。朝電車で登校し、お昼はバスや電車で会社に向かった。会社まで最短のアクセス方法を探し当てるまでしばらく時間を要したが、安く、乗り換え無しで行けるバス通勤に落ち着いた。正午前後はバスも空いていて快適だった。
前大家さんの紹介で面接を受け、採用されたのは台湾のオンラインゲームの製作や配給を担う若くて急成長中の企業だった。この業界では珍しくはないが、例に漏れず、社員の平均年齢が20代という、とんでもない会社だった。いや、何もとんでもないわけではないのだが、当時私はその年齢を優に過ぎていたため、なんとも複雑な思いだった。
社長でさえ私より3歳ほど年少だった。
ゲームのことなど素人中の素人だったので、入社後は戸惑いとプレッシャーと緊張に苛まれた。まず、パソコンのいろはから教わらねばならなかったし、翻訳の作業もあり、より高度な中国語能力を要求された。
当時で300名ほど社員がいたが、全員のデスクに会社から支給されたパソコンが座っていた。メカ音痴の私も、ネット化される時代の流れに否応なく呑まれることになった。
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2008年11月27日

純ひとり暮らし始まる

あと味の悪さを残したものの引越しは無事終了し、新居での生活がスタートした。
考えてみれば、まったくのひとり暮らしというのは、生まれてこのかた初めてだった。OL時代、ワンルームマンションに住んだが、大家一家が階下に住み、階上の8部屋すべてを会社が買い取り、独身寮の形にしていたので、いわば住人全員が同僚で親しく、ひとり暮らしとは言えなかった。
住み心地は上々だった。バス、電車ともに駅に近く、衣食住に必要な物を買える商店などもだいたい徒歩圏内にあった。
ただ、お湯も沸かせないのは困るので、湯沸しポットは最寄りの家電スーパーで購入した。
それから、冬は案の定寒く、湯船に浸かりたくなり、はて、どうしたおのかと頭をひねった。思いついたのは、盥(たらい)だった。盥なら、何とか狭い洗面所にも納まりそうだし、使用しない時は壁に立てかけておけばスペースをとられない。
これはイケると、さっそくこれも最寄りの雑貨屋へ行った。ちなみに中国語で雑貨屋は「五金行」という。
顔馴染みになったその店で、いちばん大きい盥を購入した。オレンジ色のプラスチック製のそれは、うまい具合に洗面所に納まり、その夜から私は外観子供のにわかプールのような格好で、湯船気分を味わった。
部屋に暖房はなく、湯船を出ると慌ててパジャマを着込まねばならなかった。
生活全般にわたって、わびしさを感じないでもなかったが、ひとり生きる充実感は大きかった。
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2008年11月26日

やっぱりそういう仲、、、、、

ここにカバンを置いておいて大丈夫かな、と不安がよぎったさきほどの情景を思い出し、その不安が心のどこかで描いていた結末に、見事に合致したと、冷静な自分は冷めた頭で考えてもいた。それまでの、謎の男性の言動から、私は無意識のうちに彼を分析し、起こり得るだいたいの事柄を予測していたように思った。
彼の手にそろった1000元札3枚は、まるで絵に描いたようだった。なんと形容したらよいのだろう、映画のワンシーンの如く、緻密に計算された演出のもと、必然的にそうなったとでもいうような周到さで私の前に現われた。
私はとにかく3千元が返って来たことに安堵し、「謝謝」とだけ答えた。
台湾で自力で部屋を探し、賃貸契約を結び、小さいながらも初めて「自分だけの城」を持てた喜びに高揚する一方で、その時々の過程では、思うように行かない焦りやひとりの孤独、不安は常にあった。その中で出くわした心無い人の卑劣な行為は、その後しばらく私をとらえて離さなかった。心は寒々としていた。
それからどれくらい経っただろう。気のいい大家さんと何度か顔を合わせ、冗談さえ交えて話せるようになった頃、私はあの男性のことを話題にした。すると、大家さんは言った。
「ああ、あの男はあの支店長と付き合ってるの、家庭があるのにね。」
おおよそ予想はついていたが、ある意味「わかりやすい」種類の人間だと、ヘンに納得がいった。
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2008年11月25日

彼は泥棒?!

ひとり暮らしと言っても、いざ引っ越すとなると思いのほか荷物はあれこれいっぱいで、何度も車と4階の部屋を往復せねばならなかった。
そのうち、じゃまになって、肩から提げていたカバンを部屋の机の上に置いて搬入作業をした。貴重品が入っているし、危険かな、とも頭の隅で考えたが、大丈夫だろうと高をくくった。
謎の男性と、「これで最後だろう」と再度前の住居に荷を取りに帰った時だった。彼は例によって、先に駐車できる場所を探しに行き、後から入って来る寸法になっていた。
部屋に入ろうと、カバンから鍵を出そうとした時、ふと胸騒ぎがして、ついでに財布の中を見てみた。その日は家賃を大家さんに渡すことになっていたため、1000元札を何枚入れていたか、はっきりした記憶があった。
ない!1000元札が3枚減っている。
私は玄関ドアを開け放ったまま、中に入ったところで、「ない、ない、足りない!」とパニックになった。勤労留学生としてやっと手に入れた貴重な生活費だ。3000元というと、日本円で約1万円余りだ。いずれにせよ、なくなるのはいくらでも悲しい。
駐車して、あとからあの男性が上がって来る気配がした。
室内に入って来た彼は、背後から言った。
「ねえ、これ!そこに3000元落ちてたよ!」
振り向くと、彼の手には札3枚がきれいに握られていた。
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2008年11月24日

新居はこんな部屋

家具搬入に際し、大家さんもアパートに顔を見せた。鍵を受け取ることになっていたし、アパートや部屋、室内の各備品などについて説明や注意事項を聞いておかねばならなかった。
8畳ほどのスペースに、机、小型冷蔵庫、セミダブルベッド、洗面所兼トイレが納まっており、やはりバスタブはなかった。あった方がいいのだが、暖かい台湾でバスタブがないのはごく普通のことだった。
冷蔵庫の上にはテレビもあった。いずれも中古で、テレビはケーブルを引いていないため、見ても見なくてもいいような番組が多い5局くらいしか見られなかったが、ありがたかった。
セミダブルベッドとエアコンは新品で、洗濯機はワンフロアに一台、共用だった。
キッチンはなし。ガスコンロもなく、まったく多忙な単身者用住居という体裁だった。
窓外に見えるのは、隣りに建つアパートの壁だったが、日当たりは良好だった。
もらった鍵は2種類あった。1〜3階は、家族で住める一般的な造りになっており、4〜5階だけがリフォームされた単身者用として仕切られていたので、1階と4階の2ヶ所に出入口がある格好になっていた。
テレビ局に勤めるという謎の男性はアパート前に車を停め、私たち関係者3人で車上の荷を4階に運び入れる作業を繰り返した。ひんやりと気温が下がった、晴れた土曜日だった。
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2008年11月23日

引越しの助っ人は謎の男性

約束の時間通り、その男性は現われた。若き支店長は彼のことを「友達」と称していた。しかし、私は引越し当日になっても、どうして社員でもない支店長の「友達」が無償で引越しの手伝いをしてくれるのか解せずにいた。
支店長は美人の類に入り、小気味よい調子で話すハツラツとした女性だったし、その不動産屋はチェーン展開しており信用を持てたので、私はとにかく引越しと言う小さくはない行事遂行に徹することにした。
謎の男性は、車に私と家財道具を載せ、短い距離ながら3往復してくれた。年は支店長より少し上くらいに見えた。
小さい車だった。彼は、助手席に座る私に「今日の髪型、似合うね。」と褒めた。私は素直に礼を言った。ほどなくして、バッグから取り出していたタオルハンカチに目をやり、「あ、スヌーピーのだ。可愛いね。」と評した。
誰でも褒められると悪い気はしないものだが、その時私は彼に対し警戒心を抱いた。微妙ではあるが、何かいやらしさのようなものを感じたからだ。
私は話題を変え、どこに勤めているのかと訊いてみた。「テレビ局だよ。」。運転席の彼はそう答えた。
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2008年11月22日

引越しを前に

さすがに半袖では肌寒くなってきた。台北には日本に比べ短く、時に過ぎてからそうだったのかと気づくほどの春と秋が訪れた。
しかし、春よりは秋の方が実感しやすかった。まず、ここが台湾かと思うくらい湿度が下がり、さわやかな空気に包まれる日に恵まれる。意識して闘わねばならない酷暑の後にやって来る、そんな神様からのプレゼントのような快適な陽気には手を合わせたくなるほどだ。
そして、空が高くなる。街を歩いていて、何かちがう、どこかちがう、と違和感を抱いていると、気づくのだ、あら、空が高くなったと。その空を見上げながら、長い長い夏の疲れを自ら癒やすかのように深呼吸する時の気持ちよさは格別だ。
引越しは、そんな秋の週末に決行された。晴れてよかった。
無料で引越を請け負ってくれたのは若い女性支店長だったが、実際車を運転し、荷物を新居まで運んでくれるのは謎の男性だった。
謎と言っても、何度か顔は合わせていた。というのも、その不動産屋へ行くたび、だいたい彼はそこにいたのだった。言葉を交わしたこともあった。でも、身分がわからなかった。40歳になるかならないかと思しき若き支店長と親しげに話すのだが、彼は他の社員のように仕事をしていない。グレーのホロ付き事務椅子に、小学生が座るように背もたれを抱き込むよう座って、くるくる回して遊んでいたりする。いかにも油を売っている、遊びに寄っているという印象しか持てなかった。
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2008年11月20日

祝!賃貸契約成立

東京で過ごした学生時代4年間は、大学から徒歩で通える一般家庭に間借りしていた。入学手続きのため大学を訪れた際、学生課で紹介していた物件の中から選んだ。「一人暮らしは許さん」との父の命令が下されたし、高校3年間寮生活をした疲れもあり、自分ひとりの部屋があるだけで、まったくの一人暮らしでなくてもかまわなかった。
社会人になったら、会社が用意してくれたワンルームマンション。あとは実家、台湾では誰かが借りている家にシェアして置いてもらっていたので、私にとって初めての借家賃貸契約はあの時だった。
約束の時間になると、気のいい大家さんが日に焼けた黒い顔に白い歯を見せて現われた。
幹線道路沿いの不動産屋で、記念すべき賃貸契約式は抜かりなく執り行われ、あとは引越しの日を待つだけになった。
一回目の留学時代を懐かしく思い出した。そして、今や自分で、中国語で部屋を借りられるようになったことがとても感慨深かった。
会社ではパソコンを教わり、中国語で仕事をした。ローマ字ピンインを入力し変換すると、ずらりとその音にあたる漢字が出て来る。その中から目当ての一字を選びenter。中国語学校で入門、基礎の基礎を学んでいた頃からすると、考えられないほどの上達と言えた。
生まれて初めて部屋を借りた。それも、この愛しい台湾で。
妹女史たちとの別れはつらかったが、私は台北で生きて行くたしかな手ごたえを感じていた。
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2008年11月19日

新居探し

不動産屋との商談は、ハイスピードでまとまった。私が希望する地域で、ちょうど単身者用物件があったのだ。
大家さんと連絡をとってもらい、そのアパートを見せてもらいに行くと、なぜその時期、そんな物件があったのか理解できた。大家さんの父親が所有し、人に貸していた家の管理を息子である新大家さんが譲り受け、左官業をしている彼が自らリフォームしたばかりだったのだ。
5階建てアパートの4〜5階部分で、ワンフロアに各4部屋ずつ造られていた。大小様々で広さに応じて家賃が高かった。
8部屋中、すでにひと部屋には若い女性が越して来て住んでいた。そして、あとひと部屋、借り手が決まっている状態で、私は6部屋の中から選べることになった。
私は迷わず、4階入口から2番目のいちばん小さい部屋にしたいと答えた。家賃は水道費込みの6000元で、妹女史に払っていた家賃と同額、すなわち許容範囲だったし、昔から自室は狭い方が好きだった。
妹女史たちと住んでいたところから徒歩5分もかからない距離、家具付き、リフォームしたばかりで新築みたいにピカピカ。大家さんも笑顔がやさしい、働き者といった印象。新居が決まって安堵し、うれしかった。
その数日後、私は不動産屋へ赴き、賃貸契約を交わすことになった。
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2008年11月18日

新居探し

バスで40分かかることもあった前回の留学時の登校から、地下鉄で10分、駅から徒歩10分弱に変わった。
妹女史たちが引っ越すことになり、思ったより早く、数ヶ月で一人暮らしをすることになった。彼女たちと住んでいた地域に慣れ、その辺りが気に入っていたため、私は学校と会社勤務の傍ら、帰宅後部屋探しもした。
ふだん歩いていると、アパートにせよ、マンションにせよ、外からよく見える窓のところに「売り」とか「貸し」物件を表す看板が貼ってあるのを時々見かけたので、私はまず自宅周辺を歩いてみることにした。
たしか、9〜10月頃だった。ないのである。看板が見当たらないのだ。
それでも、と思い、一週間ほどうろうろしたが、近所では空き部屋に会えなかった。
しょうがないので、自宅から近い不動産屋を訪ねることにした。聞くと、9月に新学年が始めるため、今はちょうど品薄の時期だと言われた。そうだ。台湾の学校はアメリカ同様、9月に新年度が始まるのだった。見つけにくいのは当然だった。
仲介料は4000元もとられるが、そこに依頼することにした。留学生一人分の引越というので、支店長が無料で車を出してやると申し出てくれたことは有難かった。
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2008年11月17日

同居人はかつてのルームメイトの妹

縁というものはおもしろく有り難いもので、2度目の留学で私が住処としたのは、かつて共に暮らした高雄出身の中学校教師をしていた子の妹が借りているアパートだった。高雄に転勤希望を出し、故郷に帰った姉と入れ替わるように台北にやって来た彼女は小学校の先生で、同僚でフィアンセの彼と同居していた。彼らはほぼ挙式の日取りが決まり、初々しさと安定感いずれをも感じさせるカップルだった。
妹女史は、私が台湾に戻って来ると知り、「一緒に住まない?」と声をかけてくれた。あとで聞いたが、同僚に、「彼がいるのに、女の人と一緒に暮らすの、心配じゃない?」と訊かれ、彼女は「ぜ〜んぜん!だって、姉の友人だし、私より6歳も年上だから、もう一人の姉同然よ。」と答えたらしい。うれしかった。
私も、彼女たちの出会いや結婚を心から祝福し、じゃまにならないよう、心して暮らした。いい潤滑油にでもなれたら本望だった。
前回の留学時と変わったものは、他にもあった。地下鉄が開通したのだ。バス、タクシーに地下鉄が加わると、さらに街は活性化し、便利になった。ホームや車内での飲食を一切禁止するという、台湾らしからぬ厳しい規制がしかれたおかげで、きれいで快適に利用できた。
バス路線があるところへはバスを使ったが、私の登校、出勤も地下鉄の恩恵に与ることとなった。
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2008年11月16日

再び台湾へ

胃潰瘍や重症の自律神経失調症を患いながら打開策を探り続けた結婚生活は、その甲斐もなく、とうとう4周年を待たずして幕を閉じた。
ひとりに戻った私は、再び台湾へ飛んだ。台湾でまた中国語を学ぶ、これを果たさずには、何も前に進まないと思った。
最初の留学から7年の月日が流れていた。私は母校に舞い戻り、中国現代小説や新聞購読などのクラスを専攻した。言葉の面では不自由することは減り、馴染んだ台北では暮らしやすく、大気汚染や水道水の汚れは改善し、停電もなくなっていたが、「留学生」に徹していればよかった前回の留学とは心持ちが大きく異なった。ひとりで食べて行かなくては、真に自立せねば、との思いが強く芽生えていた。
しかし、とても幸運なことに、元大家さんだった夫婦が東京に移り住んでおり、ご主人の方が自分が勤める会社の台北本社に就職面接のセッティングをしてくれたのだった。
その会社の業種から言うと、私は明らかにキャリア不足だったが、どういうわけか採用され、渡台後約一ヶ月で、私は留学生兼OLとなり、収入を得られるようになった。そして、ありがたいことに、その給料で学費、家賃、生活費すべてをまかなうことができ、日本にある貯金をまったく遣わず暮らせるようになった。
こうして、午前中は学校で中国語を勉強し、正午過ぎ会社に到着し、6〜7時頃まで仕事をする生活が始まった。
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2008年11月15日

見合い結婚

泣き笑いの通訳生活は春夏秋冬を2回ほどめぐり、研修生が中国へ帰るまで続いた。拙かった私の中国語もかなり板につき、ある程度の自信まで生まれた。
社長をはじめ、上司や研修生みんなが気長に私の成長を待ってくれたおかげだと思うし、彼ら全員に育ててもらったと今でも感謝の念に耐えない。
その工場での職務が終わる頃、私は見合い結婚をすることが決まった。田舎の旧家のひとりっことして、跡取りという重責を負っていた私は、結局、条件が揃った相手としか結婚に至らなかった。
一旦は嫁ぐ形で家を出た私は、新天地でも中国語や英語の仕事に恵まれた。その町には小さな大学があり、中国からおおぜい留学生を受け入れていたため、日中友好協会主催のイベント等でその学生達と知り合い、日本語を教えてほしいと頼まれた。
口コミでどんどん広がり、多い時は10人を超える留学生が毎日のように自宅を訪れ、日本語を熱心に学んだ。学習塾では英語を教え、実家へは英語の家庭教師をするために週に一度車をとばし帰った。
また、一年に一回のペースで台湾を訪れた。知人に会いたかったし、体調不良だったにもかかわらず、離れて時が経てば経つほど、台湾が恋しくてたまらなかったのだ。
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2008年11月14日

通訳に手応えを感じる

まさに無我夢中で走った。そして、3ヶ月ほど経った頃だったろうか、中国語が少し楽に口から出るようになったことに気づいた。日常的に各部署で使用する専門用語も覚えた。「上手になったねえ」と研修生から言われた時は、飛び上がって喜びたい心境だった。そして、彼らに感謝した。私のまずい中国語に何も言わず我慢し、質問に答え、教えてくれた。ほとんどが私より年上で、妹のように守ってくれたように思う。
たまにだったが、本社から会長がやって来た。この時は、ふだんに輪をかけてビクビク、ガチガチの緊張状態で、寿命がたしかに縮まった気がする。幸い、会長も温和で寛大な人だったおかげで、彼のおしゃべりの相手を務めたりもして、何とかそのたび乗り切った。
台湾留学時代よりも速いペースで中国語は上達して行ったと言っても過言ではなかったろう。必要に迫られ、報酬を得ている身としてやらねばならない、役に立たねばならないとの責任と使命感はどっしり重かった。待たなくてよかった。チャンスを見送らずよかった、と思った。やらねばならぬ状況に身を置いて、仕事をしながら鍛えられるものだと体得した。
お酒屋さんと通訳で、ほとんど休日なし。それでも楽しかった。楽しいから休みたいとも思わなかった。
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2008年11月13日

泣き笑いの通訳修行

社長には、3時まで出勤してくれたらよいと言われていたが、20人もがあちこちの部署に分かれて作業するため、3時に帰ろうと思っても、「ちょっとこっち来てくれ!」と呼ばれたり、放送で所在を探されたりてんてこ舞いだった。そして、だんだん正社員たちと同じ5時半まで働くことが定着した。自然な成り行きだった。
毎日ハードだった。予想はできたが、私の中国語力を超えた仕事だったため、うまく通じず、日本人上司にイライラされたり、大丈夫なのかと咎められたし、中国人研修生からも、いつ不満をぶつけられるかびくびくしなければならなかった。
しかし、辞めるわけにも、負けるわけにもいかなかった。帰宅後、晩くまでその日の復習と予習をした。専門用語が多く、時には研修生に書いてもらい、それを暗記した。工場は広かったが、数冊の辞書や、自分で作成した虎の巻、筆記用具等々を抱え、走り回った。
朝礼や会議、社長が現場を見回り、直接研修生を指導する際の通訳は緊張とプレッシャー、そして自分の未熟さに涙も出んばかりだったが、私は踏ん張り続けた。社長も私の努力を認め、がんばれと、温かく見守ってくれた。
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2008年11月12日

チャンス!

その一本の電話は、私の日常を根こそぎ揺らした。何をどこから整理し、収拾し、結論付ければよいのか、頭の中は真っ白なのか、ごちゃごちゃなのかもわからないほどだった。
英語講師の仕事はどうしよう。お酒屋さんは?だいいち、私に中国語通訳なんて務まるのか、、、、、 留学で基礎力はついたが、報酬を得られる力があるとは思えなかった。
できるだけ早く返事がほしいということだったのが、かえってよかったのかもしれない。迷った。大いに迷ったが、では、どれくらいになれば、中国語を仕事として用いてもよいと思えるのだろう、と思うと、今でもいい、このチャンスはつかまねばならないと考えられるようになった。
先生にお礼を述べ、その工場の社長のもとへ面接に行った。この辺りに中国語を話せる人はいない、よろしく頼む、とすんなり採用され、後に引けなくなった。本当に思いも寄らぬ速さで中国語を使う仕事に就けることになった。
お酒のスーパーは繁盛しており、土日だけの出勤でも続けたいという私の希望を呑んでくれた。英語講師の方は、恨まれながらも辞めさせてもらった。中国語を優先したい気持ちは抑えられなかった。
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2008年11月11日

帰国後早速職探しと一本の電話

帰国後、私はハローワークや新聞の折り込みなどで職探しをし、お酒のスーパーの店員と、学習塾の英語講師に採用された。中国語に関係した仕事がしたかったが、田舎ではなかなか叶う願いではなく、とにかくその次にでも興味あることから始めるしかなかった。
お酒には弱い。たぶん、味りんで酔う父の血を引いたのだろう、彼ほど重症ではないが、少量で十分効果が出る。
だが、お酒が好きだった。少し嗜むだけでよかったし、お酒の世界が好きだった。日本酒、ワイン、ウイスキー、焼酎、カクテル、、、、
それぞれに歴史、産地の特色、作られた謂れがあり、そういう背景や文化との関連を知ることがおもしろかった。
店員と講師とのバランスもとれ、多忙な毎日を謳歌できるくらいになっていた秋のことだった。地元で唯一ともいえる、中国語が上手な私よりいくつか年上の女性に時々中国語を習いに行っていたのだが、その先生から電話があった。
「、、、、、あそこに工場があるでしょう? そこに中国から20人くらい研修生を受け入れるらしくて、私、通訳を頼まれたんだけど、うち、商売やってるでしょ、行けないのよ。あなた、やってみない?」
台湾から帰って、5ヶ月ほど過ぎた11月のことだった。
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2008年11月10日

帰国決意

体調は芳しくなかったが、学校は楽しかったし、学校内外で知人、友人ができ、世界は徐々に広がって行った。自宅アパートの同居していた大家さんはまだ新婚の夫婦で、余った部屋を私と台湾第二の都市、高雄から来た中学校教諭になったばかりの女の子とひと部屋ずつ使っていた。この4人の年齢の開きは大きくなかったし、善良な人たちで、まるで兄弟姉妹のように暮らした。
旧正月には、高雄出身の彼女が実家に招いてくれて、高雄で台湾初の年越となった。
ケータイやパソコンがまだまだ普及していなかった時代で、私はマメに両親や友人にエアメールを書いた。時々電話もかけたが、当時は今よりも国際電話料金は高かったように思う。今から思えば、心細く、悲しくつらいことにぶつかった時にはなかなか立ち直りにくい環境に置かれていた。
生きた中国語を学べる理想的な生活に満足しつつも、心身ともに弱りがちだった私は、3学期(9ヶ月)間で自主卒業し、日本に帰る決意をした。
posted by マダム スン at 13:19| Comment(0) | 台湾へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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